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インターネットに文章載せるの未だにちょっとハズい

俺は匿名掲示板で責任もなく他愛のない会話をするのが好きである。何も先入観やバイアス掛かることなくふと思いついた事を若干の自称批評性を伴いながら投げかけたり、交流していくあの一期一会な感覚がお好みとなる。それと同時に学生時代から飽きながらもある程度個人性を保ちながら文章を書くという行為もしているが、こちらはどうしても自意識が中心にあるというか若干の気恥ずかしさが同居している。

近年は酒を飲みながらドライブ感溢れる恥捨てモードの時に勢いで書き連ねるという対処法でなんとか記述意欲と恐怖を相殺しているが、やっぱり翌日とかにふと見返すとなんとなくちょっと恥ずかしい。かと言ってそれをデリートする行為はなんか勿体無いし、「こいつ消しよった!」と漫然と監視されているような気分にも陥ってしまう。

なんかの記事で読んだが、未来永劫デジタルタトゥーとなるはずのインターネットに何かの痕跡を残すという行為は実は半分ぐらいは10年経てば実際失われているらしい。確かに過去のコンテンツを思い出巡りする機会に数年ぶりに訪れようとすると完全に消滅しているという機会も多い。そして後追いで古のコンテンツについて調査しているときも、伝聞形態で残っているものはあってもその一次的なソースは無かったりする事が多々ある。

自分はこういうシチュエーションに於いて、「残ってる」という存在を非常に郷愁と慈愛を感じる。そして文章を残すという行為も未来の何処かでこういう存在になれたらという気持ち良さのために個人というタグ付けをして取り組んでいるのだ。まあ若干の気恥ずかしさ故にそんなロジックを組んでいるという点は否めなくもない。しかし、たまに自分の古の文章を年に一回見返したりする行為はセルフでこういう感覚を追体験できるので非常に心地よさもある。(何か時代的なトピックがあった時に5chの過去ログを巡る旅も中々愉快である。その中で過去の自分が居たりするとプチ同窓会の気分にもなれる)

X(旧ツイッター)なんて毎回何か書き込むとき少しドキドキしている。ネットの魚群のひとパーツに過ぎないのだが、この書き込みによってなんかとんでもない誤解や軋轢が生まれたらどうしようみたいな謎の配慮感覚を毎回覚えてしまう。結局それによって実生活が好転したり悪転することなど人生で1ミリもないのだが、なんか毎回勝手に要らぬ心配をしてドキドキしてしまうのだ。

「あの時のアイツ!」となるのが何故か怖いというのがこの恥ずかしさの正体だろう。匿名であるとそういった思想の連続性を考慮せずにその時ふと思った事を書けるのがやっぱ楽しい。というかインターネットって本来そんぐらいのフランクな無責任感覚の寄り合いぐらいが丁度いい。自らのアイデンティティを確立して、継続的な言論を繰り返す人々はなんか色んな意味で凄い遊びをしているなと思ってしまう。不思議のダンジョンのように毎回迷宮から脱出したらステータスリセットされるような感覚がやっぱりオツである。

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