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GLAYの構成要素

暇過ぎると自分が通ってなかったドメジャーカルチャーを改めて学び直すという行為に耽ることがある。J-POP絶頂期というのは実は全く通っておらず、最初に見聞きしたものが親だと思えるように、ハイスタから始まるAIR JAM系と形容されるようなバンドこそが正義だと思っていた自分はヴィジュアル系の要素を感じ取れるバンドは完全にスルーしていた。

そこら辺の近所の兄ちゃん的ルックスこそ正解だと思っており、ちょっとでも見た目に歌舞いた要素があると何となく嫌悪していたし、彼らに影響を受けたであろう同級生の髪型の浮きっぷりも観測していたので、完全に食わず嫌いで青年期を過ごしてしまっていた。

GLAYをYouTubeで再履修的に触れてみると、当時の社会現象的な側面も相まって凄まじい能力者であることがわかった。しかもオッサン同士で未だにヘラヘラし続ける牧歌的な関係性も全てを手に入れた人間の姿として羨望しかない。ニューヨークジャックでTAKUROがゲストに来ている回が再履修コンテンツとして優秀過ぎるので是非ともオススメしたい。

howeverを聴いているとオアシス的な国歌的アンセムのニュアンスを含んでいるのがわかるし、GLAYに関しては普遍的な強度のポップミュージックがヴィジュアル要素で擬態化していることがなんとなく見えてくる。そしてDTMが前提となった現代では、後に「ギター時代」と形容されるような文化の中に居たんだなと分かる。

特にその観点で観測しているとV系的な歌い方というのは尾崎豊が源流にあり進化を果たしているんだろうなと理解できる。陳腐化された大喜利ワードである「GLAYのTERU」的意味合いでしか理解していなかった自分にとっては、日本のポップシーンの連続性に気付くことができた。

とにかくTAKUROのコンポーザーとしての異常な能力の高さとTERUの声はそりゃ激強だよなと実感すると共に、HISASHIのサブカル的な要素とJIROのディレクション的な視点の側面を知れるとマジで攻守最強な存在であると思える。そしてなんと言ってもライブバンドである事はかなり強い。

自分に無かった要素を改めて知るという行為は楽しいし、食わず嫌いしていた自己を恥じるという意味でもオススメである。特にメジャーコンテンツの歴史的意味合いも絡めて咀嚼できると、意外なリンクや流派の枝分かれを感じ取れる。

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