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【フィールドノート】ふたつの神社とはじまりの話|2023.10.6|阿部健一

阿部健一です。uniという団体で演劇をつくったり、ドラマトゥルクをしたり、まちづくりを研究したりしています。uniメンバーの齋藤優衣さんといっしょに2023年からクロニクルプロジェクトに参画しているTAPビギナーの阿部が、いろんなことがまだよくわからないまま、取手を訪ねた日のことを書き綴ります。
この日は9月12日に、そのはじまりからTAPを支え続ける市民・えつさんから伺った2つの神社を見に行ったり、芸大に眠る資料を読み漁ったり、えつさんの家で先日のお話の続きをお聞きしたりしました。
取手アートプロジェクト(TAP)クロニクルについてはこちら↓

10:00 西口・愛宕神社

10時にコーディネーターの大内さんと取手駅で集合。西口で落ち合うのにも慣れてきた。ごく初歩的なことだけど西と東を間違うことはなくなってきた。
性格の違う2つの神社というのは西口の愛宕神社と旧街道沿いの八坂神社のこと。それぞれの地域の氏神で、火の神と水の神なんだということも伺った。これまでは1999年以降のTAPにゆかりのあるところを訪ねてきたけれど、もっと昔から取手に重なる時間や風土にも触れていきたいと思って足を向けた。

愛宕神社は西口を出て6号線を超えた先の崖の上に立っていた。このルートで移動をすると取手が坂のまち、それも河岸段丘の坂のまちということが実感できる。川が削って生まれた、流れるような谷の地形。取手には坂道を愛する人々のグループがありTAPとも関わりが深いと聞いたいるけれど、たしかに坂を通して数万年の土地の来歴に触れているような感覚は立ち上がる。
行くときは坂を登って横から訪問したけれど、6号線からまっすぐ坂を登って入るのが正しい参道だったみたいだ。石碑を読むと、元々は下にあったそうだが6号線を今の場所に通すときに移転をしたらしい。土地を提供した地主がいかに偉大かということも書かれていた。

足元は土と雑草。でも定期的に刈り揃えられているというか、人の手がきちんと入っているかんじがした。大内さんは「お祭りは盛大だけど神社まで来たことはなかった」と話してくれた。坂の下から6号線を通る車の音は聞こえるものの、静かで、いい日差しの入る場所だ。
神社の隣には地続きで、昔に建てられた平家の分譲住宅?が数軒建っていた。たぶんどれも空き家なんだと思う。神社の敷地から入るような不思議な位置だったので、境内を分譲したのだろうか。

愛宕神社を後にし、大内さんの車に乗り込んで駅の東側へ。八坂神社を訪ねる前に、駅前の長禅寺も見に行ってみることにした。

11:00 東口・長禅寺、八坂神社

長禅寺もまた駅前の崖の上に建っている。旧街道と駅前をつなぐ大師通りの端に登っていくための参道がある。40、50段の階段を登るとそこは木々に囲まれた静かな境内で、立派なお堂が建っていた。正面に建っているのがさざえ堂。中には一方通行の螺旋状の階段があり、巡りながら祈祷をすることでご利益があるという構造になっている。珍しい建造物で全国でも何箇所かにしかないらしい。ご開帳日は年に一回の4月18日。

その足で八坂神社へ向かう。旧街道を歩くなかで奈良漬屋さんや造酒屋のこと、本陣でTAPのイベントをしたことがあることなどをお聞きした。政治家のポスターがずいぶんたくさん貼ってあるなあと思いながら歩いた。

愛宕神社と比べると八坂神社は大勢の参拝客を迎える準備の整っている神社というかんじがした。足元は玉砂利で、真新しい七五三の幟が立てられていた。8月の1〜3日がずっとお祭りだったけれど、つい最近土日に合わせて日程を動かすようになったということも教えてもらった。

11:30 芸大へ

車に戻って芸大の取手校地へ。まちなかを車でいくときにはついアートリングに目がいく。歩行者よりも、車から見やすい高さに設置しているんじゃないか。展示の済んだ作品をバラしてひとつのリングに融合するという、アートのフランケンシュタイン。由来を知らない人にとっては銀色のリングでしかないかもしれないけれど、作品をバラして、文脈を削ぎ落としてひとつにまとめる、それが「アートのまちづくり」を目指す活動ということはやっぱり気になる。

11:30 資料を読み漁る

5月の訪問時に確認した芸大にあるさまざまな資料。今回はそれらに目を通ることを目的に芸大まで連れてきてもらった。食堂の入り口では事務局の美冴さんが、1月の高須での凧揚げに向けて市民の方々と一緒に桑の葉を磨いていた。

しばらく作業時間ということで大内さんと別れて、まずは食堂2階のTAP事務所周辺にあるものに取り掛かる。芸大の立つ小文間に関するものや行政発行のリーフレットなど。行政区分としての取手ではなく、少なくとも小文間には小文間に対するアイデンティティがある、探究と記述に力が注がれてきたということがわかった。歴史的には1955年に当時の取手町と合併して、今の取手市の一部となっている。少し前まで利根川を鮭が遡上していて漁が行われていたこと、あと芝居の興行で演者が来ないトラブルがあり代わりに村人が舞台に立って乗り越えたという話が印象的だった。
また行政資料やミニコミ誌を見ると、時の行政が何をTAPに期待していたのか、どういう文脈で登場するのかということも感じられて面白かった。
「アートが息づくまち、取手」ーーー。

12:30 昼食、からのアーカイブルーム

ひと段落したところで、食堂に降りて大内さんとお昼。公演に向けてあれこれどうする?どうなる?と話しながら。
お昼を終えたら2人で先端芸術表現課のアーカイブルームへ。5月にも訪ねた場所で、特に初期、1999〜2002頃のTAPの資料が多く眠っていた。前回はいろいろあることを確認した程度だったので多少なりとも中身を見たいと思ってゆく。

印象的だったのは1999年の第1回が終わったあとに催されたシンポジウムの記録。なんのためにアートプロジェクトをやるのか・・・市民との関係は・・・まちづくりとアート・・・など今も有効な問いかけが詰まっていた。このときから25年続いている事実のうえで読んでいるからなんというか説得力がある。
大内さんと、ここに登場するひとたちの当時の年齢と今の自分たちの年齢が重なるという話をした。レパートリー作品を持っている新劇の劇団だと、年配の俳優がやっていた役を、初演時は若手だった俳優が年配になって任されるということがあるのを思い出した。息の長いコミュニティにおいては、個別の作品のなかでの役割とコミュニティのなかでの役割推移が連動する。そのあたりに、社会とアートの関わりを見るひとつの視点が埋まっているような気もする。

また、改めて2010年の企画百本ノックのことが気になってきた。立ち上げから10年間、TAPの中心にいた渡辺好明先生が2009年に急逝し、これからのTAPどうしていく?ということを模索するなか、立ち止まるのではなくとにかくたくさん出す、やってみるという年だったと聞いた。そこで立ち止まらなかったこと、あがいたことは並大抵のことではないと思う。詳しいことはまだ全然聞けていないけれど、なんとなく2010年に、それ以前それ以降とつながるTAPの風土?ミーム?のようなものがある気がする。2010年の経験は一体、どういうかたちでいまにつながっているんだろう。

ヤギにも挨拶した

16:00 改めて、はじまりの話

15時30分頃に芸大を出て、小林えつさんのお家へ向かう。9月12日の「TAPとわたしを話す会」でいろいろと伺ったものの、まだまだ伝えきれていないことがあるということでお呼ばれした。えつさん家に着いたのは16時くらいだった。途中から事務局の羽原さんも合流された。
TAPが始まる前のことや始まった年のこと、どうしてTAPが始まったのかというストーリー、あるいはヒストリー、あるいは見解をたっぷりお聞きする。なぜTAPは始まったのか・・・誰が始めたのか・・・
おぼろげにイメージしたのは20世紀末の当時、芸大・市民・市のそれぞれがそれぞれにまちに開かれたアートに関心を高めていて、高まった表面張力が決壊するようにしてTAPが始まったという捉え方。市民サイドには1999年の10年も20年も前から「取手には競輪と川しかない」というモヤモヤがあり、それがまちに展開するアートとしてのTAPの推進力になったということ。もちろん市民は一枚岩ではなく、いろんな考え方を持った大人がいる、でもそれぞれが何かしたい、どうにかしたいという熱を持っていたんだなあということを思い浮かべた。その熱の熱源は、郊外という環境そのものだったような気がする。

自分は本当の意味ではまだ郊外というものを知らず、また1980年代や90年代といった時代のリアリティも知らず、当時の市民が抱いたモヤモヤからは二重に距離がある(定期的に「知らない」ことに立ち戻らないと思わぬところでつまづく)。だけど語り手を通して伝わる質感やビジョンはあって、聞きながら自然に浮かんだ例え話や、この話を聞いたことを私はずっと忘れないだろうなと思ったエピソードは、今後の手がかりになるような気がした。

20:00 取手駅へ

えつさん家を後にし、駅まで送っていただく。解散し、なんとなくひとりでアトレ4Fのたいけん美じゅつ場VIVAに入った。なんとなく入っちゃう磁場?雰囲気?がVIVAにはあるかもしれない。駅ビルに入ってすぐのエスカレーターで登りやすいのもある。取手駅自体けっこうヒューマンスケールで、車サイズのまちなかを歩くよりもホッとするかんじもある。

VIVAには今日も中高生がたくさんいた。以前来た時は、取手のまちにはここ以外の中高生の居場所はないのだろうかと思ったけれど、この日は「そりゃここに来るよね」と共感する気持ちになった。アートセンター以前に、まちの居場所をつくるのは誰なのか、どうしたら居場所が生まれていくのか。場所においてアートは目的なのか、接着剤なのか。
こうやって人が集まる場所になっているという事実、それがどうして起きているのかに細かく目を向けていくことで見えてくるものもあると思った。ウィリアム・ホワイトやヤン・ゲールといった都市デザインの大家が心地よいまちなみや、そこでの人の活動を分析したときの手つきも参考になるのかもしれない。自治の生まれ方、という視点もある。

改札前の立ち食いそばで天ぷらうどんを食べて、東京に戻る常磐線に乗った。

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