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【フィールドノート】「500坪」に行った日のこと|2023.5.22|阿部健一

はじめまして。阿部健一です。uniという団体で演劇をつくったり、ドラマトゥルクをしたり、まちづくりを研究したりしています。
TAPビギナーの阿部(uniメンバーの齋藤優衣さんといっしょに2023年からクロニクルプロジェクトに参画)が、いろんなことがまだよくわからないまま、取手を訪ねた日のことを書き綴ります。事実誤認もあると思います、お気づきのことはぜひ教えてください。

いまは2024年の1月ですが、関わり始めは去年の春先で、そのときから粛々と書き溜めていたフィールドノート。広くなにかをお知らせするためではなく、自分の証拠を残すための作業なのだと思います。
以下、5月の自分が書いた文章です。この日は取手のあちこちに連れて行ってもらいました。

取手アートプロジェクト(TAP)クロニクルについてはこちら。
https://toride-ap.gr.jp/location/chronicle

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10:00 移動、利根川

取手駅で大内さんと合流。無意識に西口に出ていたが行くべきは東口だった。東西の移動方法もわからず、階段の下まで大内さんに迎えにきてもらう。ガラスのギャラリーが設置されたトンネルみたいな貫通路を通って東へ。ギャラリーは市民の作品などを設置するためのもので、過去のTAPでもインフォメーションスペース的に使ったことがあるらしい。「インフォメーションスペースは作品設置ではない」という点でひともんちゃくあった(?)。

東口。かつて自転車の作品が設置されていた場所を見る。リ・サイクリング、TAPの始まり。いまは壁画?になっていた。自転車作品は劣化したから撤去されたとのこと。
交差点を渡ったところにある、取手に戻ってきた羽原さんがアートコンシェルジュをやっていたビル。いまは和菓子屋さんが入っている。そのときの羽原さんはTAPとは別のかたちで取手と関わろうとしていたと。コンシェルジュでは「おめでと一年生」企画をやったり。その後TAPに戻ることになったため、1〜2年で活動は休止。
その向かいに建つマンションはかつてデパートで、そのなかにTAPが事務所を構えていた時期もあった。取手市内を転々とした場所のひとつ。回転寿司やマクドナルドも入っていてちょっと賑やかだったらしい。いまはマンションなのでそういった賑わいはない。

駅前の車に乗って芸大方面へ。街道筋の造り酒屋(田中酒造)や漬物屋さん(新六本店)を車内から見る。
「芸大が川の近くだということ、地図を見てやっとわかった」と話したら川にも寄ってもらうことに。市民会館に車を停める。市民会館にはけっこうな存在感の壁画が描かれている。花火?の図柄。市民会館の隣の福祉会館は、TAP2006で一日音楽のイベントをやったことがあると教えてもらった。
「壁画の"専攻"(正しくは「絵画科油画専攻壁画分野」)って不思議なかんじがします」という話をしながら土手を上がる。油絵や彫刻と違って作品を移動させられないし、壁の提供者ありきだから、製作機会が限られるような気がしたから(まちなか演劇もまったくひとのことを言えない)。壁画の世界には壁画の現場がたくさんあるんだろうか。アートと一口にいっても知らないことが山ほどある。
壁画を専門にやるということ、日本ではいつ、どこからの流れなんだろう。壁画が気になるまち、取手。

取手市民会館

市民会館の壁画は「おうちびじゅつかん」という夫婦と3人のこどものアートユニットによるものだった。まちなかに作品を設置してアートのまちにしよう、という活動があり、それはまたTAPとは異なる流れから生まれた活動らしい。
まちづくりや景観計画の友人と話すとき、アートを景観にとってプラスに捉える場合とマイナスに捉える場合があるなあ、ということも思い出す。

利根川。小堀(おおほり)の渡し。レンタサイクルは週末しかやっていないけど舟は毎日動いている。日比野克彦氏デザインの舟がちょうど出ていったが、乗っているのは船主だけだった。日比野克彦デザインということは全然PRされないらしい。乗り場近くではYoutuberが渡しの紹介を撮影していた。
土手のかなたにはサイクルステーションも見えた。2005のツアーで自転車を貸りにいったりした場所とのこと。

利根川

芸大に向かう車内、道から見えるあれこれを説明してもらう。
リング状になったシルバーの作品?はアート作品のキメラ。取手市で展示した作品をバラして市?がひとつに溶接しているらしい。そんなことあるんだ。
2007年にM1を重ねて展望台をつくったら本当に展望台を設置することになった土手。
元ヤマザキショップで花屋の、新市長の事務所。
「道路沿いにいろいろあるからつい説明しちゃう」。

芸大に到着する。斜面では地域のひとたちによって野焼きが行われていた。いまは草むらのような斜面だけど最初は鬱蒼とした森で、ここまでキャンパス校地だと思われてなかったそう。地域のひとたちに関わってもらって一緒に開墾を進めてここまで来た。デジタルデトックスなのか、平日働いているひともけっこう野良仕事に参加しているらしい。丘の上には畑もつくられている。何が育っているのかまでは見なかった。

11:00 藝大食堂(2F)

事務局長の羽原さんと合流し、TAP事務所前の踊り場で打ち合わせ。本棚がすこし整理され(?)、TAPの資料と小文間の資料が並んでいた。小文間の資料はジョンくんによるもの。ジョンくんが何者なのかは聞いたと思うけれど忘れてしまった。

踊り場で打ち合わせ、というか、そもそも羊屋さん→優衣さん→阿部という順番で声をかけてもらった経緯のなかでまだよくわかっていないあれこれを声に出してみる時間。
以下、話し合いの記録ではなくてそのとき考えたことのメモ。

<ディティールと想起>
たとえば災害の記憶の語り。
ドキュメンタリーと呼ばれるものたち。
直接その物事の当事者でなくても、だれかの体験の端々は誰かの記憶のトリガーになりうる。
よそ者の自分が読んだ、これまでのヒアリングの記録でもなんとなくグッと来る言葉なんかいろいろあった。
触媒としてのTAPの25年。
カロク・リサイクルの活動のことも思い浮かべた。図よりも地が見える瞬間に、ひとの生活を感じる。記憶する→思い出す→記録するという営みの繊細さと破天荒さ。
TAPの25年の向こうにはたくさんのひとがいて、TAPのある日々がある。またTAPの25年は日本のアートプロジェクトの25年でもあるかもしれない。
また、TAP25年の向こうにはAさんの取手40年があるかもしれないし、Bさんの生まれてからの70年があるかもしれない。郊外の25年もあるし、戦後史があるのかもしれない。広がって、飛躍して、元に戻って。そんな舞台装置としてのTAP25年。
だから、そもそもこの企画自体も、TAPの25周年クロニクルのふりをしたなにか別のもの・・・かもしれない。

<事業規模の確認>
2024の本番と2023の準備期間。そのバランス。

<立場の確認>
優衣さんと阿部はいまどういう立場でいるのかの確認。
→ドラマトゥルクとしてのuni。公演に必要なことはやる、という立場でヒアリングにも携わる。
※このあたりで優衣さんもオンライン参加

<TAPの意思決定?>
クロニクルにまつわる資料を見ていくなかで、TAPは誰が意思決定をしているのか、誰の欲望で動いているのか不思議だった。(それはTAP25も含めて)
TAP塾のあたりから進行において「自治」が重視されたらしい。誰かひとりが決めるのではなく、話し合って、当事者として熟議して決める。「だってそのほうが面白いでしょ?(熊倉先生)」
その精神がいまも受け継がれている側面があるのかも。
逆に、このひとがいないとTAPが終わる、というものもない。TAPの精神性は携わったひとに播種されていき、ひとりでもTAP。事実、TAP塾から巣立って各地でやられてるアートプロジェクトはTAPの弟子筋であるともいえるかも。組織というよりも、村やコミュニティに近いなにかがあるのかもしれない。
そうなると、「これをしていないとTAPじゃない」ってものはないってことになる。
「次の25年は『なにもしない』をやりますか?」

<羽原さんの話を聞きたい>
事務局メンバーこそ、TAPに人生を注いでいる割合が大きい。TAPとともに取手で生活を送ってきた話、TAPの生活史を知りたい。
「今回、事務局も素材として料理してもらえるように、ぼくが入った(大内さん)」

12:15 昼食

1Fに降りて藝大食堂でお昼。コロッケ的なものと、ひじきと豆腐の和物だった気がする。素材の味がちゃんとしておいしかった。
3月と違って大学がやっているので学生もけっこういた。製作中というかんじの格好のひとも多かった。女性率が高かった気がする。
食堂、おいしいけれど少し高いから「なんでうちの食堂はこうなの?」と知らない学生も多いらしい。お昼にラジオをやろうかと画策中だと羽原さんは教えてくれた。

食べながら、「泊まれるところってあるんですか?」と尋ねる。これだけ自然にふれられるなら、一日で帰るのはもったいないと思ったから(TAP関係なく都市の人間のニーズとして)。芸大にはゲストハウスがあるが、今のところ外部のひとは泊まれない。駅前だと東横インあたりになるらしい。
「次は、取手に泊まってもらえるといいかもしれないね」と大内さんは話していた。

13:00 先端芸術専攻のアーカイブルーム

先端芸術専攻のアーカイブルームに古いTAPの資料が眠っているという情報があり、全員で見に行った。事務所で作業していた倉持美冴さんも一緒に。倉持さんもTAP塾生で、黄金町バザールの仕事もしたのちに取手に帰ってきた。
食堂を出たところで、地域の方(名前を忘れた)と立ち話をする。取手校地のキーパーソンらしい。「大人の遊び場ですね」と思って、口にした。

先端では助手のオモテさんが案内してくれた。アーカイブ専用、だけどあれこれ機材がころがった部屋の奥には高く積まれた書類棚があり、そのなかに1999や2000頃の資料がたくさん詰まっていた。芸大先端一期生の大石さんがかなりまとめていったらしい。羽原さんたちも初めて見るものだった。
1999年の写真だと、まだデジカメじゃない。写っているひとたちの髪型もいまと少し違う。これが平成前半か。まちなかの作品をおさめた記録写真は、自然とまちとひとをも画角におさめている。25年間の写真を集めてくるだけでもいろいろなことが浮かんできそうなかんじもした。

写真やパンフだけでなく、シンポジウムの発言録や実行委員会のメールのやり取りを印刷したものも残っていた。
シンポジウムは、TAPをはじめた面々の証言録。メールは詳しく中まで見ていないけど「メールを紙で残す」という発想がいまはないので、その感覚の違いが面白い。ご丁寧に表紙までついていた。なんとなく2004以降のTAPは現在につながっているかんじがするけど、2003以前は一つ前の時代の終わりというかんじがする。
ここにある資料を読み解くだけでプロジェクトになりそうだ。ちゃんとやっていくなら多分別のチームがいる。

新発見のさまざまな資料を前に、羽原さんと倉持さんのテンションが上がっていたのも印象的だった。ぼくは、そこに写っているひとを知らないけど、お二人にとっては知っているひとの知らない姿だったのだろうか。過去を見るまなざしはひとの数だけある。

14:00 先端の5F

アーカイブルームをあとにして、校舎の最上階・5階の外階段へ。ここからは利根川が見える。川が近いからここに校地を設けたという話も?
川まで歩いて降りれる道を開拓したこともあるらしい。
外階段の手すりは少し外に突き出していて、高所が苦手なひとには厳しい空間だった。
足元にある、高床式倉庫のような木製の建物は一見芸大学生の作品のようだが、ご近所さんのものらしい。境界線に塀があるわけでもないのでけっこう紛らわしいし、あれが私物だとしたらけっこうトリッキーなご近所さんだ。

取手校地に音環が設置されていたときもあり、大内さんはそのとき芸大の助手をやっていた。この校舎のどこかで働いていたのだけど、どの部屋だったかギリギリ思い出せないようなかんじだった。

14:20 高須へ

倉持さんと分かれて、3人で車で高須へ。3月の訪問時に高須だけ行けなかったので、まずはそこを見させてもらうことにした。これがなにか具体的なアウトプットにつながるということではなく、自分なりに取手を身体化する下ごしらえの行程という感覚。
向かう車内で「拠点を除き、TAPにとって大事な場所ってありますか?お店とか」と尋ねると、「えつさんの家」ということだった。えつさんは自宅と別でもうひとつ家を持っていて、TAPで来取するひとの多くが泊まるらしい。TAP宿。えつさんはTAP宿の女将。えつさんは、二子玉川か取手かで迷って取手に越してきた。共通点は川の近くということくらいしかない気がする。

高須に向かうと徐々に景色が田園風景に変わっていく。合併前の旧藤代町だと教えてもらった。半農半芸と団地って、藤代と取手に対応している?と思った。旧取手市にも農地はそれなりにあるとのことだけど、TAKASU HAUSEが高須にあることを思うと、やっぱりプロジェクトの組み立てとまちのあり方はつながってるんだなと感じた。
大内さんのおすすめたんぼビューを抜けながらTAKASU HOUSEへ。

15:00 TAKASU HOUSE

2013年頃、拠点を探していたTAPの半農半芸が、元々農協の建物だったものに「入る?」と当時の市の職員さんから持ちかけられ、TAPが拠点として整備をしたもの。レジデンス施設になっていて短期間イベント的にレジデンスをするのではなく、1年とかの単位で滞在製作をしている。なので農業も手伝うし、地域との関係づくりにもレジデンスアーティストが関わる。

ちょうどディレクターの岩間さんがいらっしゃり、用があって出ていくところだった。軽くご挨拶だけする。一階には陶芸の窯があったり、もともと農協の金庫だったところが素焼きの焼き物を乾かすスペースになっていたり。

自分の理解だと、この拠点はなにかイベントをやるための場所というより、高須に腰をすえてアーティストが製作をするための生活・製作拠点だ。「開く」ことをもってして受益者還元とする立場から見ると、よくわからないという見方もあると思う。だけど、イベントや作品⇔準備期間という構図ではなくて、365日、取手の各地で流れる時間がTAPなんだというコンセプトを2011年以降のTAPは選んだのだと思う。アートと生活、それが郊外で重なり合うということのテーマとしての面白さと同時に、しかし、その現場で発酵されるおもしろいなにかに触れる機会や方法はなかなか大変だと思った。せっかくなら遠方にいる自分のような人間も、そこで起きていることを知りたいと思うが、重要なのは場と身体なんだろうなというかんじもする。

TAKASU HOUSEを見ているなかで、そもそも半農半芸を掲げた当初は別の農地を借りて、放射線量の測定や除染などの作業をしていたと伺った。その束の間の農地、通称「500坪」に行ってみることに。

移動の途中、桜が丘エリアを通過する。
桜が丘は、地図で見ると人目でわかる、田園地域にぽこっと作られた住宅地だ。ハワードの田園都市さながら、人間的かつ整然としている。小学校もある。田園地域のひとびととは生活の諸々が異なり、旧住民・新住民という区別もあるらしい(小学校は両者が通っていたりする)。それでTAPの幅谷さんは、新住民と旧住民の交流を意図した「ふるさとの味」の取り組みをしてきた。だけどコロナ禍で、桜が丘地域との実践はこの数年止まっている。

その途中の車内で、高須を見学した感想を話す。「イベントや作品のような成果がTAPなのではなくて、展覧会以降は365日がTAPというかたちになっているかんじがする。もはや生活がTAP。でも365日はどうしても見えてきにくい。」ということと、ひとの数だけTAPがあるということ。それは解釈という次元じゃなくて、実際にTAPの違う面、というか幹から新しい枝がのびるように新しいTAPの一面がそこここで別の当事者によって生み出されているようなかんじ、ということ。「樹形図のよう」という話があったが、一本の木の枝分かれというよりもはや森で、遠くから見るとひとつのかたまりだけど近づくと別の木々が生えている、ひとつの生き物ではないかんじがしますね、なんて話をした。
ひとの数だけ現場が散らばっている。TAPのひとがなにかやれば、それもTAPの一部になる。

15:30 500坪

20分くらい車を走らせてもらって、駅も越えて、ここであってたっけ?と道を確認しつつ「500坪」と呼ばれていた畑に到着する。高須のような見渡す限りの田んぼではなく、丘の谷間に広がる(相対的には)小さめな畑だった。Canonの工場の裏手にある。
羽原さん、大内さんにとっても2012年頃ぶりに来る場所だったそうで、「うわー、懐かしい」「変わってしまったね」「あんな家建ってたっけ?」などとお話していた。500坪はえつさんのお知り合いの方が持っている畑で、「なにかやるなら貸してもいいよ」くらいの温度感で借り始めたらしい。震災と原発事故を経た上ではじまった活動でもあって、できることが限られた。活動が具現化していかない様子を見てか、はたまた本当の理由は不明だそうだが、返してほしいという話になったらしい。
ここでの活動はいまはもうないけど、いまでも半農半芸のWEBページの背景画像は500坪の写真になっている。

500坪という空間以上に、10年ぶりに場所を訪ねたときの、羽原さん大内さんのいろいろな記憶が蘇る様子を見ているのが面白かった。井野団地や戸頭、芸大といったTAPの表ツアーでは500坪に来ることはない。やっぱり現地に来ることは記憶を刺激する。きっと別のメンバーだったら、また別の記憶が現在の500坪から引き出されるのだと思う。

500坪を見ながら、これまでの所感とこのあとの動きの話をする。阿部が行きたいと話したのはTAPハウス(大内さんらTAP塾生が住んでたシェアハウス)、hako cafe。
2002年は利根川で、2005年はTAPヒルズで、2006年は終末処理場で、とそもそもの移り変わりも話しながら整理していたら、白山商店街も行ってみましょうか、と大内さんが提案。白山商店街は2004のTAPのメイン会場だった商店街。2005でもちょこっと使ったらしい。

そこから、一度関わったけどそれでさよならになってしまう地域の話をする。こちらとしてはその場所でやりきった、と思っても地域のほうは「もうやってくれないの?」と思っていたりする。そのあたりの難しさについて。365日をどう見せていくかという話にもつながる気がするし、TAPが製作主体でもあり運営事務局でもあることとも関係している気がする。風のひとと土のひとの間の存在なのかもしれない。
一回や二回大掛かりなことをやって、関わりとしてはそれっきりになっても納得感のある人もいる。15年ぶりになっても気後れせずに「どうもどうも」と入っていけるひと。この違いはなんなんだろう。

500坪を出てhako cafeに向かう。途中、「タップスイミング取手」という水泳教室があった。TAPとは関係ないけどたまに間違えて聞き返すひともいるらしい。

16:00 hako cafe

戸頭団地の近くにあるhako cafeに到着する。3月の訪問時に車内で紹介された気がして、あとヒアリング記録のなかに会場として使った記述があったので、ゆかりのある場所なのだと思っていた。

hako cafeのオーナー・ペヤングさんは2007のTAPに関わった音楽家で、その翌年2008年にこの場所でカフェを開かれた。部屋のなかには2008のときに出店された作品が壁面に設置されていたりする。音楽家としてアーティストを呼んでライブをやったりもしている。ユザーンさんとの交流があるそう、何度かライブをやったそう。
現在は古物取扱を始めていて、カフェよりそちらのほうが店内の面積をしめている。いわゆるリサイクルショップ的な古物ではなく弥生土器とか、拾ってきた古い木材とか、本気で古いものが並んでいる。見る人が見たらゴミにも見えるだろうが、器や木材はある審美眼で選ばれてここにいるんだなというかんじがする。
「これに10000円とか20000円という値段をつけて、その価値を共有できるひとが買っていく。価値の共有がうれしくて、楽しい。アートも同じじゃないですか」というようなことをペヤングさんは話していた。

hako cafeを訪ねるのは大内さんにとっては7年ぶりくらいだったそう。「ご無沙汰しています」というようなやりとりがあった。クロニクル企画の説明などをして(白玉さんの企画で、と話して通じていることも印象的だった。認知されている)、そこからペヤングさんの話を少し聞く。2008年に出店しようとして、渡辺先生に「戸頭でやる意味がある、と言ってもらう予定だった」という話。そう思っているさなかに渡辺先生の訃報が届いた。TAP開催中で、先生がガイドするツアーもあったが急遽代理を立ててやった、など。羽原さんたちも初めて聞く話だったみたいで、「こういうことは書き留めておかないとね」などと話した。

500坪で感じたことにも似てるが、記憶を尋ねること、ひとを訪ねること。ひとの場合、再会を機に関係が編み直されるんだなと思ってペヤングさんとのやり取りを見ていた。まちのあちこちには、記憶のトリガーが眠っている。365日つづく関係者の生活もある。生活は終わらないし、全部どこかの場所で起きている。
400年前の器でチャイを飲む。2000年前の器を使う(法律が変わる前に出土したものなら博物館に入れないで売買していいらしい)。
場所場所に眠っているものを掘り起こし、しまわないで使っていくかんじが、なんとなく今回始めた作業に重なるような気もした。

アイスのゆず茶をいただいた。
2階にしまわれているふすまなんかも見せてもらった。そのとき、伊豆七島を震源とする地震が起きた。

17:00 減量住宅

車内で、「取手アート不動産って何なんでしたっけ?」という質問をしたことから、その関係の減量住宅を案内してもらう。取手アート不動産は、羽原さんにいろいろと説明していただいたのだけどこのあたりからけっこう疲れてきていて、理解もぼやぼやしている。
郊外のまちにある住宅の再活用の提案を公募したことがあって、そのなかに「減量住宅」という提案をしたひとがいた。大きな家の部屋数をセルフリノベで減らしながら住む提案で、いまはアトリエとして使われている。
建物以上にそこに至る道の細さが印象的だった。

車に乗ったまま、白山商店街へ。
競輪場の横を通過する。前は、呑んだくれたおじさんたちの飲み屋があったそうだが最近はそういうお店も少なくなった。


17:30 白山商店街

車を回す関係や、お子さんのお迎えなどがあり、羽原さんと阿部だけ車を降りて白山商店街を歩いていくことにする。起点はおにぎりやさん。名前は忘れてしまった。(→モック。大内さんより)
商店街はゆるやかなカーブで、古い道なんだろうなというかんじ。けど商店街というには開いている商店が少ない。2004年には生鮮品のお店などもっとたくさんのお店があったみたいで、変貌に羽原さんもショックを受けていた。現在の様子だと商店街というより住宅地に近いかんじすらする。商店街沿いの小学校も建て直されて、巨大な鉄筋の建物になっていた。
沿道には過去のTAPでお世話になったりコラボした方もたくさんいて、いろいろと紹介していただいた。

「取手美術作家展」という表札を掲げているおうちがあった。この協会はいわゆる郷土の美術家でつくっている協会で、かつては「取手ピラミッド」という名前だった。商店街沿いのこのおたくは協会員なのだと思う。エッジの効いたデザインのチラシが張り出されていた。
協会とTAPの関係もいろいろ話を伺った気がするが記憶があいまいになってきている・・・。

駅前のガストで大内さんと合流し、お二人はお子さんのお迎えなどで一度離脱。今後のスケジュール関係だけ話しましょうということで40分後くらいにvivaで再合流することに。ひとりになって駅前をすこしブラブラ歩く。というほどの時間はないのと、歩く元気がなくなってきていたので、TAPハウスも見送り早めにVIVAに行った。

18:20 たいけん美じゅつ場VIVA

藝大食堂で買ったパンを食べながら仕事をして待つ。月曜夕方のVIVAは高校のラウンジみたいだった。大量の中高生が、ここは私達の場所だというかんじで天真爛漫に過ごしている。同じ学校の別グループというかんじで、グループのあいだを行ったり来たりしている子もいた。調子に乗っている男子グループを女子が少し遠くから寒い目で見ているこのかんじ、懐かしい。取手には中高生が安全に過ごせる場所がここのほかにはないのかもしれない。
VIVAの看板には「アトレにはアートセンターがあるんです!」と書かれていた。アートセンター。TAPにとってアートセンターは実現したのだろうか。それとも近づくほどに遠ざかる逃げ水のようなものなんだろうか。

大内さんたちが到着して打ち合わせ、打ち合わせ。
午前中、芸大では自分にとっての面白がりポイントを声に出してみたけれど、それを具体的に実行するときのやり方は頭を悩ませる。誰が聞き手になるか、誰に聞いていくか、どういう位置づけで話を外部にも公開していくか。どのくらい見せられるものとして編集を入れるか、記録性を重視するか。

このログを書きながら、やっぱりどんな問題設定(大元の)やセッティングで話すかということが大事な気がしてきた。2024の上演以前に、クロニクル運動自体が面白いほうがいい。関係者の心を動かし、その成果が集まることにワクワクできるようなものだといい。

「TAPクロニクルという運動」というのは面白いことばだなと思った。運動だったら誰か個人が担わなくてもいい。現実的な手数としても、やや柔軟なコレクティブ的にやっていけるといいのかもしれない。uniもクロニクル運動の一員になっているみたいな。

19:30 解散

諸々タイムアップで解散。19:50くらいの常磐線に乗った。
21時くらいに江古田につく。

(阿部)

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