見出し画像

自分スペック 後編

専門学校~社会人

前編←←幼少期~高校時代

■専門学校時代
高校卒業後の進路は色々悩んだ。
美容師、ファッション系に進むのか。。。
結局、建築デザインの学校へ進学した(全然違うじゃん)
東京のお茶の水と水道橋に校舎がある学校だったため田舎から毎日片道2時間かけて通学。
専門学校だったので年齢層も同世代もいれば年上も居て色んな人達がいるクラスだった。
建築デザインのクラスは結構、宿題も多くやること満載で大変だった。
2年間で建築士3級を受講できる資格を得られると言うだけあって詰め詰めの授業で宿題に追われることが多々あったがバイトもしたしインディーズパンクバンドのライブも行きまくった時期。
バイト代は洋服、CD、チケット代に消えていた頃w
あと、バスケサークルを作ったりもしてみた。
色々な学科の人達が集まってなかなかそれは面白かったけど、なんせ建築学科はやることが多く卒業制作も泊まり込みで作業なんてこともあり最終的に私はあまり行けなくなってしまったけどサークル自体は受け継がれて卒業後もしばらく残っていた様子。
ここが私の建築好きの原点だ。
今でも建築を見るのが大好き!
日本建築にもすごく興味を持ったのもこの頃で宮大工に憧れを抱いて古民家再生などにも強く惹かれていた。
卒業制作は、当時スケボーをやっていたこともあり上野によく遊びに行っていたので(上野にスケボーショップが結構あったので)もしアメ横にスケボーリンク併設のクラブができたらを仮定して外観は思いっきり日本建築風の雰囲気で設計デザインをした。
この頃は、スケボーを背中に担いで肩には建築図面などを入れる筒をかけて通学していた。
当時は、秋葉原にバスケットコートとスケボースペースがあった時代。
秋葉原らしく壊れた冷蔵庫をスケボーで飛び越えるのが流行っていてスケボーする人も結構いた。
スケボーと言えば、公園で一人で練習していたら派手にすっころんで着ていたTシャツが破けて手足流血するほどの傷を負いその状態で帰宅したらレ〇プでもされたんじゃないかと思われ家族に怒られたことがあったw
女の子なんだから止めなさい!と言われた。
この「女の子なんだから」って叱られ方はよくされていた記憶がある。
ただ、スケボーにしろインディーズのパンク音楽にしても学校には同じ趣味の人がまたしてもいなかった。

■BBSで友達探し
この頃、インターネットと言うものが世に出てきてまだ高価だったがありがたいことに両親がパソコンを購入してくれた!
パソコンを持っていない同世代は大体学校にあるパソコンを使ってアクセスしていたし、まだダイアルアップの時代w
ダイアルアップだから使いすぎて親に電話代が高い!とよく怒られたもんだww
このインターネットのお陰で同じ趣味を持つ友達が作れると言う事を知った!!
私が使っていたのはその名も「PUNK BBS」www
BBSって聞いて笑った人は私より年上か、同世代w
今の若者は知らないだろ~。
BBSは何かと言うと掲示板です。
イメージつきやすいのは2ちゃんねるだろう。
この掲示板にどんなアーティストが好きとか趣味嗜好を書いて友達を募集したり、何月何日の何々のライブに一緒に行く人いませんか?とかチケット譲りますなどの内容を書き込むとそれを見て気になった人にコンタクトが取れるって仕組み。
今ほどインターネットが普及していなかったので割とお行儀がいい人たちが多くて荒れたり変な事件になるってことはなかった時代。
メールでやり取りしてその後は携帯のメールでやり取りするみたいな流れが多かったかな?
インディーズパンクバンド好きってニッチな世界と言えばニッチだったからこのBBSはかなり盛り上がっていた。
たぶんこの経験があったからネット上で相手を見極める能力「大丈夫な人」「やばい人」の判断が自然とできるようになった気がする。
※私、割と男女ともに出会い系みたいなサイトで出会った人が結構いる。(これについてのネタはいつか書くとしよう)
BBSで出会って一緒にライブへ行ったり遊んだりするようになった友達が何人かいるけどこの時からうん十年経った今でも繋がっている人達もいる。
ファッションに関してはこの頃は、裏原ブームで並ばないと買えないようなブランドがあり、発売日に並んで買ったこともよくある。
私は、メンズブランドが好きで上はダボダボ、下はタイトなパンツスタイル、足元はスニーカーが多くレアTシャツなどを買っていたので後々着なくなってからヤフオクで売ったらいいお小遣いになったw

■専門学校卒業後について
私は、宮大工や古民家再生に興味がありネットを使って京都で寺院の修復を行う宮大工の棟梁にコンタクトを取って弟子入りを志願してみた。
しかし、宮大工の世界は女性は難しいとハッキリとお断りされてしまった。
まぁ、仕方がない。(今の人手不足の状況なら女性でも入れたかも?)
そして、世の中は就職氷河期になっていた。。。
思い返せば高校生の頃に銀行が倒産することを知り、リストラって言葉を知った。
会社って就職すればずっと働けるものだと子供の頃思っていたがそうではなかった。
父親も漏れなくリストラにあい家に居た時期もあり、会社からクビにされるとかあるんだ~と世の中の厳しさを知ることになったがこの時、自分の就職時期にまでしわ寄せがくるとは思ってもいなかった。
だって、みんな普通に就職して普通に結婚してみたいな生活を送っていたからそれが当たり前にできるのもだと思っていたから。
しかし、当たり前なんてものはこの時代に終わってしまったのだ。
私の世代ってホント最悪だった。
この後も長きに渡り仕事に関しては不遇の日々を送ることになった。。。
この時点が序章だったんだなと改めて思った。
希望の方向に進めないし就職難で厳しい・・・
そこでアパレルも興味があったので卒業後は、フランスのアウトドアブランドのAIGLEの店員のアルバイトをして過ごした。
接客の仕事は楽しかったしアウトドアの商品のため商品知識も必要だったからただ売るだけではなくやりがいもあった。
お客さんとも仲良くなって退職してもううん十年経つけど未だに年賀状のやり取りをしている方がいる。
数年アルバイトで過ごしていたが親からはいつまでもアルバイトなんてしていないで正社員になりなさいと言われるようになり就職を考えた。
※母親が公務員だったのでその辺りは厳しかった。
建築の勉強もしていたので建築業界で考えてみたが、、、
これまた姉歯問題(構造計算偽造)で建築業界は最悪の状態になっていた。
またしても働くのキビシー!(涙)
しかし、そうも言っていられないので建築とは少し違うが不動産会社に入社することになった。

■社会人デビュー(不動産会社)
最初に働いた会社は、中小零細企業の不動産会社。
自社物件は無く、販売委託を請け負う会社で個人に対してマンションの営業をするのが仕事。
まずはモデルルームに来場してもらうための営業をかける。
会社自体は初台にあったが扱う物件が都心からちょっと離れた場所が多くて基本的にモデルハウス勤務だったから通勤がかなり大変だった。
この頃、都内で一人暮らしをしていたが都心から離れた物件だったため朝が早かったし、夜も残業が当たり前で終電近くまで毎日働いていた。
※当然、残業代なんてない
営業手法が、テレアポ、飛び込み、ポスティング営業だったのでまず朝10時からテレアポをしまくる。(当時はテレアポに対する規制が無かったのでやりたい放題)
リストは無くてその地域の市外局番から下桁を0~9で変えながらひたすらかけ続けるのでどこに繋がるのかは不明と言う無謀なやり方w
時には大手企業のカスタマー番号が連番で番号を持っていてずーっと同じところに繋がってしまうこともあり電話越しにお姉さまにお叱りを受けたこともあったw
はたまた、ヒステリーなおばさん宅にかけてしまい長いお説教をされたので途中でシレーっと切ったら調べてモデルルームにクレームが入ったりw
テレアポ以外には、ポスティングも自力で行った。
エレベーターを使わずに古いマンション一棟を一軒、一軒ひたすらポストにチラシを入れたり、飛び込みなんかもやらされた。
在宅時間19時~21時などを狙って一人暮らしであろうアパートなどにピンポンして営業をすると言う今考えると恐ろしい営業だ。
1人暮らしの男性宅とかに営業するので今の正常な精神なら怖くて無理!無理!w
当時は、他社の比較材料もない社会人デビューだったのでそれが当たり前だと思って疑うこともなくひたすらこなした。(私、すげーなw)
しかも、会社には女性社員が居なくて私だけ。。。(本当は女性社員も居たけど日に日に消えていくw)
だから心休まることも無く早朝から深夜まで残業と言う概念もなく働き続けたので健康面で異変がでてきた。
そう!この会社は今でこそ言える「ブラック企業」だ!!w
これフィクションではなく本当の話だから。
今だったら訴えれば勝てるだろうな(爆)
不動産と言う人生最大のデカイ買い物を個人に対して薦める仕事は成約まで漕ぎつくのも大変でモチベーションも下がり始め転職を決意!

■法人営業(噂のあの会社)
個人営業のきつさを知り法人営業へ移る。
噂は色々聞いていたけど法人営業と言えば光〇信。
当時は、求人がいっぱいあった。
法人営業を手っ取り早く学ぶには良いかも知れない。
そんな思いで思い切って入社。
入ってみて、噂は本当だった!www
まず、正式に入社する前に篩にかけられる。
携帯の電波が届かない山奥で合宿させられるのだ。
合宿には、全国に配属されるメンバーが集まるので凄い人数の合宿。
その中でチーム分けをして数日チームで行動をする。
40キロくらいを徒歩で山道などを歩いてチーム全員でゴールすることを試されたり、社歌、社訓を大声で言わされその声の大きさなどを競わせられたりと、、、洗脳するための合宿ですw(そう言うな)
合宿後は東京に戻って1週間ほど研修と言う名の洗脳儀式w
広い部屋に詰め込まれるが、この時点で合宿に居たはずの顔が居なくなっている。。。
東京でもさらに篩にかける。
ミッション:朝から街に出て飛び込みをして名刺交換をし夕方までに10枚の名刺を集めオフィスに戻って来い。(無茶苦茶だな)
要領のいい人達はうまいことやる訳ですよw
私も上手いことやった側の人間www
これね、まともにやっちゃダメなやつ(爆)
そんなことに気づけたのもいい勉強。
夕方にオフィスに戻ると壁で仕切られて入口が2つあるフロアへ向かう。
左の部屋が10枚集めてこれた人達の部屋、右の部屋が10枚集められなかった人達の部屋。
右の部屋に既に数人座っていた。
要領よくこなした私は、左側の部屋に入る。
壁が薄いので隣の部屋で何を話されているかも分かる(詰められている)
いっぽう左の部屋は「達成おめでとう」バンバンバン(机を叩く音)
※この机を叩く儀式は光〇信の伝統だw
こうして正式入社。
勿論、入社式でもいなくなっている人達もいる。
この日から「達成」、「未達」に猛烈に追われる日々が始まった。

■配属(大手法人事業部)
大手法人事業部に配属となった。
当時、光〇信本体はシャープのコピー機をめっちゃ売っていた。
売りはコピー1枚単価が安いってだけw
中小零細企業をメインとしている部署は、1日中テレアポをしまくる部隊。
大手法人事業部は、提案書を作成し大手企業をメインに支店等を含めて根こそぎリプレースさせる部隊。
仕事内容は、ひたすらコピー機を売ると言うシンプルなもので手法は何でもOK。
朝はまず光〇信の伝統として各自の目標と一言を言っていき腕立て伏せをして社歌、社訓を言って円陣を組んで大声を出すのが毎朝の日課(洗脳の儀式)コラッw
「お疲れ様です」の代わりに「押忍」または「ゾス」と言うw
毎月月初めに何台契約をするかの目標数を垂れ幕として作成するのが文化。
自分のデスクの上に垂れ幕を下げて誰が何台やるのかが目に見えて分かるようになっている。
目標が達成しているのか、達成していないのかによっての扱われ方が明らかに違うw
この時代、コンプライアンスなんて言葉が存在しなかったので毎日パワハラ祭りwww
まだ分煙なんて習慣もないのでデスクで煙草を吸う人もいたし朝からゴットファザーの曲が流れていたりヤ〇ザを連想するかのような強面の人達がウジャウジャ居た。
「未達」だと灰皿が飛んできたり酷いときにはPCが空を舞っているのを見たこともあるw(ファンタスティック)
未達者に対してはメールTOで明朝体の赤色文字の最大フォント数で「殺レ(やれ)」「焼き払え(シェアを広げろって意味)」とだけ送られてきたりwww(ウケル)
今、こんなことしたら速攻訴えられるwww
※色々あっても光〇信さん上場企業ですからもうやっていないみたいですがw
上長の言う事は絶対みたいな環境だったけど、私は耐えられなくなって2回程ブチ切れた記憶がある(爆)
一つは、お昼ご飯を食べる時間がないくらに毎日理不尽な理由で仕事を振ってこられたので「私にはお昼ご飯を食べる時間すら与えてくれないんですか?」と言ってしまったw
そしたら「すみません」と上司に謝罪されたw
もう一つは、部署のトップである統括に対して言ってしまったことが。
社内会議がいつも夜21時以降から始まって長時間のお説教、もとい、ありがたいお話をされたので終電を逃すことが多々あったためお話を遮って「すみません!終電が無くなるんで帰ります!」と言って退席したwww(私、よくやった)
この行動がちょっとした騒ぎになって2ちゃんねるに「〇〇さん※私の名字強ぇ~!」と書き込まれたのを覚えているw
ちなみに会社からは2ちゃんえるの閲覧ができないよう制限がかけられていた。
光〇信でぶち切れたのはたぶんこの2回。
私は、いつもどっか客観的にみる人間だったので光〇信の会社員だけど会社を客観的に観て楽しんでいる部分もあった。
だって、こんなハチャメチャな会社面白いじゃんw
精神的に病む人も多くて毎日泣いている人もいたし、会社の近くまで来るけど近くのスタバで足が止まってそれ以上は動けないと言う人もいた。
なかなかこんな酷い会社ないでしょwww
ブラック企業の極み!!(爆)
でも、ここでコピー機の営業だけでなく合弁会社の立ち上げにも参加させてもらったりで勉強になったことは多かったし強いメンタルを身に着けられることができたのはここ光〇信のお陰だと思っているwww
ここの会社は長く居ては頭がおかしくなる、もとい、最初から長く居るつもりはなかったので転職活動を開始!

■ベンチャー企業へ
この頃、「ベンチャー企業」なんて言葉が盛んになっていた頃。
履歴書に光〇信の文字があるだけで「メンタル強い」と言う印象を与えることができて行先不安定なベンチャー企業からしたら「メンタル強い」人材はニーズがあった。
自社でソフトウェアを開発している企業へ転職が決まった。
そのソフトウェアはテレビ局などで使われていた。
ブラック不動産会社、ブラックの極みの光〇信を経験した私からしたら初めて“ちゃんとした会社”の環境だったw
ここは、割と長いこと居たけどまたも仕事不遇の波がやってくる。
そう、リーマンショックだ!!
このリーマンショックの煽りを受けて保守切りにことごとく合う羽目になり会社はリストラをする方向へ。
その流れに乗って私も退職。
ここで人生初めての職安と言うところへ行った。
失業保険なんてものが貰えるが、後々色んなことにお金がかかるってことを知ってヒーヒーだった。
健康保険料とか税金とかすげー高額じゃん!!(涙)
あ~ぁ、会社員って守られていたんだなーと実感。
こんな経験でもしないと知らないことが沢山あった。
転職活動もしてみるが世の中はリーマンショックでまたも就職難になっていた。(人生3回目の就職難)
この就職難の期間は割と長くて大手のエージェントもお手上げ状態で「あなたにご紹介できる企業がありません」とハッキリお断りされる。(そんなでお前らどーやって売上立ててるんじゃー!)
生活費も稼がないといけないので辞めた会社の上司の行きつけの銀座のお店を紹介してもらってバイトもしてみたが、、、
私には夜の世界は向いていなかったw(面白くないことに笑えなかったから)
ママさんにも「あなたには向いていない」と言われた。(ですよね~知ってる~w)
そうこうしているうちに無職の私には東京の家賃を支払うのがキツクなり千葉県の実家へ戻ることになった。
この頃、一人暮らしで好き勝手過ごしていたのでほぼ毎日飲みに歩いていてまさにリア充そのものだった。
だから、友達からは千葉県はネオンが無いけど大丈夫?ってからかわれた(いじめではない)
毎日飲み歩いてはいたけど昔から年上の方々から可愛がってもらえる傾向が強くて仕事で出会ったおじさま達と飲み仲間になることが多くご馳走していただくことが多かったお陰で飲み代には困らなかったと言うちゃっかり者w
おじさま達との飲みのエピソードで「どこ行きたい?」って聞かれたけど既に勝手に寿司屋を予約してしまっているなんてこともあったw
その辺りは上手いことやっていた。
夜の世界は向いていなかったが、ある層の年上の方からは受けが良かった。早くから自分は万人受けするタイプではないと自覚済だったw
「万人受け」日本ってどこへ行ってもこれが重要視される社会だなと思わされることが多々あった。(生きづらさはずっと子供の頃から感じていた)

■実家へ戻る
東京で好き勝手8年くらい一人暮らしをしてきたので久々の田舎生活。
まずは、職を探さなくては。。。
と言ってもまだまだ世間は就職難で厳しい。
仕方無くアルバイトをして過ごす日々。
お金を稼ぐって本当に大変だと痛感させられた時期だ。
思うように職にありつけず、再就職にたどり着くまでかなりの歳月がかかったがなんとか再就職が決まった!
都内に一人暮らしをして高い家賃を払うのはバカバカしくなり都内まで片道2時間以上かけての長距離通勤が始まった。

■パチ屋の広告代理店
再就職が決まった先は中小零細企業の広告代理店。
主にパチンコ屋のチラシ、店内装飾、交通広告などを扱っていた。
何と同じ年の裕福なご家庭の女性が社長で家族経営みたいな会社。(この時点でヤバい匂いがw)
最初は、渋谷のマークシティーにあるシェアオフィスに入っていた。
そして入社して早々に東日本大震災!!!
マークシティー22階だったのでめっちゃ揺れた。。。
普通さ、この時点で早めに帰宅指示だすとか普通の会社はするでしょう?
社長が判断できないのか結局いつも通りの時間まで会社に残る羽目になり、、、
余震も続く中仕事を続けていたら完全に帰宅難民。
入社して早々に同じ会社の女性のご自宅にお世話になると言う。。。
次の日の早朝にとりあえず途中まで帰れたがなんせ田舎なもんで片道2時間以上かかるので途中にある姉の家でとりあえず待機をさせてもらい、たまたま地元の知り合いが車で姉の家の近くまで来ているとのことで車で送ってもらって帰宅できたと言う。
この一件から、この会社は、やべーなって感じが色濃くなったw
しかし、就職難で何とかありつけた職だったのでヤバイ、ヤバイと思いつつ続けた。
お客さんがパチンコ屋だったのでパチンコ店の営業が終わってから新台の入れ替えをしつつ店内装飾の作業をするのでここも長時間労働当たり前の勿論、残業代なんて出ません状態。
はい、そう、ここも真っ黒なブラック企業でしたwww
労働基準なんてもんはなく残業時間100時間以上余裕で越える勢いでクタクタになるまで毎日働いて3年続けた。
3年やればもういいよね??ww
次!次!転職だーーーー!!!!

■1番良かった会社
この時点で私の履歴書はあまり綺麗ではない。
日本は特に履歴書が綺麗か綺麗じゃないかを重要視する。
こうして書いてみて思うに消して私は仕事をしないタイプではないしきちんと責任を持ってこなしている。
世の中にはブラック企業と言うものが多いがゆえにミスマッチをおこして転職回数が増えてしまうと言うのもお分かりいただきたい。
書類を見る限り転職回数が多い=すぐに辞めてしまうと思われがちで書類審査で落とされることが多かった。
まぁ、書類だけで判断する会社もちろん私とは合わないと思うからいいけど。
転職が決まったのはオウンドメディアを支援する会社。
ここでSNS運用なども経験。
この会社は今まで仕事してきた中で1番社内の雰囲気がいい会社だった!
退職した今でもコンタクトを取っている人も多い。
多分、社長の人柄が良かったからだろう。
ただ、問題は業績だった。
ベンチャー企業は、上場の圧がかかると社内の雰囲気が壊れていく。
ベンチャー企業だから仕方がないし、こう言うフェーズは必ず訪れる。
残念ながら今までの雰囲気が崩壊し1番の要である古株メンバーがごっそり退職してしまった。
業務も一気にやりにくい方向に進みもっと積極的に提案していきたいこともストップとなりモチベーションが下がり転職へ。

■Web動画,ライブ配信
次の転職は、親友がベンチャーキャピタルに勤務していたので面白い会社と言うことで紹介してもらった会社。
この頃、LINEが生配信サービスLINE LIVEをリリースした。
最初は主にこの、LINE LIVEで流すコンテンツの制作や今でこそYouTuberとかいるが当時はまだ無かった頃なのでYoutubeに載せるコンテンツなどを制作していた。
他にもWebやSNSに特化した動画制作やコンテンツ制作をしていた。
これからはネットの生配信だー!そんな勢いで新しい事にチャレンジできてとても面白かった。


動画制作は初だったので、全く要領が分からず動画を制作する上で発生する問題事項とかも全然知らなかった(教えて貰える訳では無い)最初に手掛けた案件ではクライアントに出来上がりのイメージが違うとめっちゃお叱りを受けた。
今となっては『そりゃ、そうだ』と理由が分かる。
最初のクライアント様ごめんなさい。。。
お叱りを受けた後は、これを教訓に2度と同じ過ちを起こさないようにした。
ここでは、本当に沢山の現場を経験させて貰ったので色々と勉強になった。
この動画を活かしてこんなことが出来る、こんなことがやってみたいと思うようになったのはここでの経験があるからだ。

現在は、まだこの会社には在籍はしているがもう退職することを決めた。
退職する意志を会社に伝えたは、本当に数日前のことw
消してネガな内容ではなく今後やってみたいことが見つかったからだ。
余談だが、転職活動も実は少しやってはみたが、ぶっちゃけ魅力的な企業とは会えず。
今後は、中国と仕事をするための準備をすることにした。

こうして今までの自分を振り返って見ると、、、
確かに転職回数が多すぎwww
しかし、今までの会社の上司に言われたのは仕事を淡々とこなすタイプだから見た目からは困っているとか辛いと見えないからなんでも安心して任せられたと言われた。
まぁ、いい評価なのかな?
しかし、淡々とこなす姿勢が逆に仕事上”やっています”アピールに見えないから評価で損するよとも言われたことも。(アピールは苦手だw)

転職回数は多かったが、お陰で沢山の会社や人に出会って色々なことを経験させてもらって経験値やコミュニケーション能力は確実に上がった。(相性が合う合わないは置いておいて)

私ってものをまとめると下記の通り。
1.メンタルが強い
2.ちょっとやそっとのことでは動じない
3.万人受けはしない(個性が強よめ)
4.万人受けしないので日本人からの受けが悪い(逆に海外の人からは受け入れてもらいやすい)
5.固定概念など何かに縛られることが好きではない
6.プライベートでは去る者は追わないが来るものは厳選する(仕事は別)
7.やると決めたらとことんストイックにやる

また、気づいたことがあれば書き加えていこう。

次回は中国にハマってことについて書くとしよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?