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自分スペック 前編

幼少期~高校時代

まず最初に読んでいる人からすれば「お前どこぞの誰なんだよ」って思われると思ったので自己紹介も含め、、、
そして自分自身を見つめ直す意味も含め(これ今の私には必要な作業)
最初は自分について書こうと思う。

■基本情報
名前:「momoco」桃子(本名)
生まれは千葉県。海の近くの田舎
年齢については非公開
でも、今後の内容で察しがつくかと思われる昭和生まれ。
職業:WEB動画、テレビCM、ネット生配信(LINE LIVE/ニコ生/Twitter/ Youtube/Facebookなど)番組制制作プロデューサー&営業。
SNS特化型のコンテンツ制作を主に行っている。(2019年12月までの話)
その他:中国語の勉強を始めてから中国にどっぷりハマってしまった。
元々好きでしたがもっとマニアックな中国カルチャー、アンダーグラウンドな情報を求めて探っています。(音楽、アート、ストリートカルチャー、ファッションなどなど)
現地で面白いことをしている人達とも繋がりこれをさらに広げている日々です。
中国語は、まだまだ全然話せませんがなぜが友達を作れてしまう特技?があります。
(上海、北京、広州、香港、台湾、韓国、シンガポール、マレーシアに友達あり)
微博フォロワー2万人突破!!
LINEよりもWechatやWechat Payを使う頻度のほうが高いです。
中国ネタには強めですが現時点ではこれを活かせていないので今後はこの部分を活かしていきたいです。
中国ネタ系ならお気軽にご連絡ください!
あと、実家は田んぼ、畑を持っているため新玉ねぎの季節になると農家の娘になります。
GWは新玉ねぎを販売します。
色々やるなんでも屋です。
趣味:ヨガ、ジム、旅行、読書、音楽鑑賞、アート鑑賞、映画鑑賞、その他・・・

■幼少期
会社員の父親と公務員の母親のごくごく一般的な家庭に生まれ、祖父母、姉1人の6人家族のもとに育った。
現在は、祖父母は他界し姉は結婚し出ていったので両親と3人である。
ちなみに父親は婿なのでサザエさんパターン。
両親は、割とおとなしいタイプだったので物凄くおとなしく、典型的な人見知りで育った。(今の私を知る人からすれば嘘だろと思われると思うがこれホント)
小さいころは、まぁ、知らない人の前だと声がちっちゃ!!って感じで人の影に隠れているような子供。
友達や知っている人であれば普通に接することができるけど、知らない人には、THE人見知りって感じの子供だった。
亡き祖母がよく言っていたのは『1人でよく遊ぶ子で手間がかからなかった』とのこと。
と言うか、本人としては一人で遊んでいる感覚がなかったと言うのが正しい。
実は、この頃から見えないものを感じる力があったからだ。
但し、子供ながらにこのことは大人や友達には言ってはいけないと思っており隠しながら生きてきた。
この頃から面白いことへの追求心はとても強く子供にしては大人びた内容(性について)ついてにも興味津々だった。
そんな訳で側から見たら1人でも黙々と遊べる子供に見えていたのだろう。
外側からは分からないが、内側では妄想癖?と言うか不思議な体験をよくしていたのでどこか浮世離れしているタイプだったのかもしれない。

■小学生時代
運動能力が高い子供だったのは確か。
運動能力賞を3回ほどもらった記憶がある。
あと、校内マラソン大会では1年生では2位だったものの2年生~6年生までは1位だった。
部活はミニバスケットボール。(最優秀選手賞も貰った)
陸上の時期は長距離の選手代表だった。
(当時は今で言う中距離800mが長距離だったので後々考えるとこの距離は私には中途半端でとてもキツかったなw)
4年生から参加できる駅伝大会では4年生~6年生まで学校代表として選抜され出場。
と、運動能力は高かったものの他のお勉強は・・・
算数は嫌いだったw
これは大人になってから気づいたけど、教科も食わず嫌いと一緒で最初の出会い方が悪いとイメージ悪いままみたいなww
算数がある曜日に仮病を使ったことは何度もある(爆)
図工、音楽(ハーモニカは苦手だったけど)、国語、社会、家庭科とかは好きだったし理科は実験は好きだった。
1年生までは人見知り進行中で国語の時間に朗読を指名されると緊張で声出ねー!ちっちゃ!って感じでしよーもない子供だった。
しかし、そんな私に転機が訪れたのは2年生になったときの担任の先生との出会いだろう。
このしよーもない人見知りにビシッと教育してくれたお陰で『自分』と言うものを出す大切さを知った。
そこから段々と『自分』『個性』みたいのが出てくるようになりそれ以降からは全然違う人格へと変貌を遂げた。
小学生の頃ってくだらないことで無視したりいじめたりみたいのがあるが、ハッキリ物事を言う能力を身につけた私は無視のターゲットにされても悪口を言う中心人物に対面で『文句があるならハッキリ言えば』と言い放つまで成長していた。
気づいたら目立ちたくないけど目につくような存在になっていた。
(今でも目立ちたいとかそんな気持ちは持っていないがなんだか目につく様子)

■中学年時代
バスケ部に入る。
しかし、陸上の時期は陸上部の人数が足りないため参加していた。
中学生の頃は部活ばかりやっていたような気がする。
この頃、NBA人気でジョーダン、マジックジョンソンなんかもまだ活躍していた頃でもあり漫画のスラムダンクやDEAR BOYSも流行っていたし雑誌の月刊バスケも売れている時代だったので部室にはそんな本や雑誌たちもあった。(年齢の察しがつくかとw)
バスケ部の思い出はたくさんあるけど印象的だったのは、バスケ人気と共にNIKEのAIR JORDANも人気が出て特に男子はシューズを何足も持っていたい。
※私も1年の頃からNIKEのシューズ愛用者
私のスニーカー好きの原点はここからだと思う。
3年生の頃にはAIR JORADNⅧを使っていた。
ちなみにAir Flight Huaracheが発売されたときは父親が海外旅行で買ってきてくれたので女子にしては珍しく履いていた。
バスケをやらない人にもジョーダンのバッシュの人気は高くそのバッシュを狙った部室荒らしが入ったのは驚きだった!
もちろん警察も来て田舎の中学校がちょっとざわつく騒ぎとなったくらいだ。
たまたま私はバッシュを持ち帰っていたので被害にはあわなかったが男子はかなり高価なバッシュを盗まれてしまった。
結局、犯人は捕まらなかったが・・・大体の察しはついていた。
田舎の質の悪いヤンキー達の仕業ね。
中学生の頃は、部活以外にもそれなりに恋愛もしてと充実はしていたかな。
部活終わりに好きな人と一緒に帰るのが嬉しいと思うような可愛い娘だったw
そんな青春満載の中学時代の最後は、最後のバスケの試合で右膝の前十字靭帯断裂と半月板を損傷すると言う大ケガで幕を閉じると言うオチ付きの中学時代だった。。。

■中学時代(その他)
音楽は、J POPを中心に聴いていることが多かったけど中学生3年になる頃に父親の昔のレコードを自宅で発見しビートルズにハマった。
レコードでビートルズを聴いて過ごすようになりわざわざ中古のレコード屋へ行って初めてLET IT BEが収録されたレコードを購入したのを覚えている。


両親ともに音楽は好きだったらしく自宅を探したら昔のレコードが結構あったのでカーペンターズやサイモン&ガーファンクルなんかもレコードで聴いた。
それからTVで放送していた「ワーズワースの庭で」と言う番組が好きで(子供のくせに渋い番組が好きだった)その影響で古いものに興味を持つようになった。
骨董品のような高価なものではないが昔の物や建物に妙に魅力を感じるようになり自宅の蔵に入って昔使っていた皿とかお椀とか色々部屋に飾るようになり自分の部屋は物でごちゃごちゃしているような部屋だった。
そして、なぜか半紙に筆を使って墨で「上海」と書いたものまで飾っていたw(この時から中国好きは既に始まっていた)


骨董市があると情報を知ると足を運び購入できる範囲のブリキの玩具なども買っていたし父親が昔使っていたフィルムカメラにもハマってモノクロ写真を撮影することも趣味となっていた。
今でもこの古いものに魅力を感じる感覚は持っている。

■高校時代(病院通い)
私が高校生の頃は、1年生がルーズソックス、2年生がスーパールーズ、3年生後半で紺のハイソックスと高校生ブーム全盛期時代、雑誌のCawaiiやeggが売れていた頃(これで完全に年齢がお分かりいただけただろうw)
ポケベルのために休み時間になると公衆電話の前に行列ができるような時代。
この頃、右膝の前十字靭帯断裂と半月板の損傷をしていたので今後もスポーツをするのであれば手術が必要と言われた。
靭帯が切れているので右膝は不安定で生活にもかなり支障がでていたため膝を固定する器具みたいのを着けて生活するようになったが、これまた当時オウム真〇教が頭に変な器具を着けている映像がTVでチラホラ流れている時代だったので友達には「オウム」とからかわれたw(いじめではない)
成長がまだ止まっていなかったので高校1年生の夏休みを使って手術をしようと言う話になりそれまで結構過酷なリハビリをさせられた。
手術をした後しばらく動けなくなると筋肉が落ちてしまうので筋力をつけるためだとかでケガをしている割に本当に過酷なリハビリをやらされた。
あれはリハビリではなくトレーニングだな。
しかし、私が通っていた病院は、この前十字靭帯の治療に関しては日本一と言われている名医がいたので当時、スポーツ選手なども治療に来ていた。
私がいたときは、全日本女子バスケの選手がいたこと!!これはバスケ好きの人間にとっては最高w
一緒にトレーニングできるなんて~♪と喜んだもんだ。
あとは、有名なプロゴルファーもいた。
しかし、当時は高校生でゴルフに全く興味が無かったので今思うと失礼ながら「なんだこのオッサン」としか思っていなかったw
同じケガでリハビリと言う名のトレーニングを受けている人がかなり多くて毎週金曜日の夜はエアロビみたいなのをみんなでやる時間があった。
毎週それに通うようになり患者同士で仲良くなってサークル的ノリだった。
指導者が女医さんなんだけどものすごいファンキーで医者とは思えない人物だったw
あの先生は今何しているんだろう?聞いた話だとプロのチーム専属ドクターになって海外へ行っちゃったとか聞いたけど。
スポーツでケガをした人が多かったのと患者が割と若い人たちが多かったので病院とは思えない楽しさがあった。
あと、大学病院と言うこともあり医者の先生たちも若かったのも影響しているかもしれない。
イケメン先生を見つけては女子患者同士でわーきゃー言ったもんだw
夏に手術をしたが、その後もリハビリやらで病院へはかなり通った。
年齢的にも高校1年生の私は年下のほうで大学生や社会人の人も多かったので自分より大人の人達と過ごす時間は学校へ行くよりも面白かったw
だから、学校で過ごすより病院のほうが楽しかったかな。
そのお陰で高校の先生からは出席日数が足らなくなるからちゃんと学校に来なさいと注意も受けたw

■高校時代(その他)
しかし、病院だけでなく元々好きだったファッションや音楽も楽しんでした。
中学生の頃に目覚めた昔の古いものへの興味やモノクロ写真撮影が趣味だったりとこの頃、周りに沢山いた女子高生とは明らかにちょっと違う感覚の持ち主だったためギャルにはなれなかったw
ヘアスタイルも茶髪にロング、ヘアアイロンでくるくる巻くのが主流だったけど私はスパイラルパーマだったり。
田舎だったのでスパイラルパーマをやっている人がいなかったがどうしてもスパイラルパーマをやりたいと言って田舎の美容師さんを困らせたのは事実w
そんな頭で学校へ行ったら「もじゃ」とか「ボンバー」とかまさにm.c.A.Tじゃねーかととからかわれた(いじめではない)
散々からかわれた後、そのヘアにも飽きてストレートに戻したころPUFFYのブレイクと共にスパイラルパーマの認知が高まり人気になって散々からかってきた友達もスパイラルパーマっぽくなるヘアアイロンを買ってやりだすようになった。
私はその時には、漫画のご近所物語にハマっていたので厚底ラバーソールを履いて通学するような高校生になっていた。
周りは、ルーズソックスにローファーが女子高生の定番だったので全然違う方向に行っている娘である意味浮いていたのは確かである。
パンクファッション、ロリータファッションに興味がありロリータのような服装は田舎だったので映画下妻物語の深キョンのような存在だった(ただし深キョンのようにクオリティ高くない)
音楽は、ハイスタやSOBUT、ブラフマンなどインディーズにハマり始めていた。
この頃からあまり周りの流行に流されず、自分の好きなものは好きと言うスタンス強めで生きていたと思う。
学校では、いかにも女子高生って感じのギャル達ばかりだったので正直、話が合う人はいなかったので「つまんねぇ」と思いながら過ごしていることも多々あった高校時代だった。
その他、高校生の頃に祖父が他界。
かなり厳しいおじーだったけど優しさも持っている人だったので好きだった。
そんな祖父の遺言は『自衛隊に入れ!』自衛隊に入れば食うものには困らないからと言う理由。。。
おじいちゃんごめん、今の私は自衛隊に入隊していませんw

長いので一旦ここでブレイク。

後編へつづく


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