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僕が写真を撮るときになんとなく考えていること。

ふと、カメラを持ち始めて、そろそろ1年経つことに気づいた。

旅が好きで、あちこち行くときに、カメラを持っていくだけで、その旅が華やかになった気がした。そんな些細な気づきがきっかけで、1年前から旅には必ずカメラを持っていっている。

そんな、カメラ歴も大したことないだけれど、1年間、いろんな場所で、いろんな写真を撮ってきて、いろいろ思うことがある。

ここでは、いつも僕が写真を撮るときに考えていることを文字に起こしてみようと思う。

こんな立派なタイトルの記事は、玄人のフォトグラファーが書いてこその重みがあると思うけど、自分でも文字に起こしてみないとわからないことだってあるじゃない、という思いつきから書いてみることにした。



こんな写真が好き

世の中には無数のジャンルの写真がある。

その中でも、僕は街や景色の写真が好きだ。いわゆる、スナップショットというやつ。人の写真も好きだけれど、撮るのは少し苦手といったところ。

instagramの写真垢を振り返って、少しずつ、自分の写真の趣向が変わっていっていることに気づく。

最初は、いかにも「カメラ始めたて」っていう感じの写真で、どの写真にも初心者マークがついているように見える。自分で見返しても、「今ならもっとこうするな」みたいな指摘ができちゃう。

もともと、スマホのカメラでも満足はしていたけど、スマホで撮った写真は、やけに世界を鮮やかに写し過ぎているように見えた。「素朴でありのままの写真を」を追求した先に、一眼があった感じ。

つまり、要約すると、僕が好きなのは「街の素朴でありのままの瞬間を仕留めた写真」だ。

別に街でなくてもいいけれど、その写真に人間の営みが感じられると、なお良い。再現不可能な、もう2度と来ない、今日というその日の、今というその瞬間の尊さを感じさせる1枚を見れば、なんてことない日常も素晴らしく感じられる気がする。



そんな写真を僕は撮りたい。この想いが1番大事かもしれない。


美しい写真に正解はない

世の中には美しい写真など五万とある。

「この写真いいね」と言われる写真は、大抵、被写体の表情が最高だったり、構図の視線誘導が心地よかったりするが、それは見る人の価値基準で多いに左右されるから、あまり気にしていない。

それよりも、自分が、「この写真いいな」って思った写真を「美しい写真」と言えばいいのであって、こればかりは人それぞれだと思う。好きな人のタイプが十人十色であるのと同じように。



この前提は割と大切で、この固定観念を取り払わないと、いつまでたっても自分の好きな写真は何なのかという結論に至らなくなる。

要するに、写真なんて自分が好きだと思う写真を撮ればいいのであって、撮った写真の伝え方次第で、見る人に響く響かないが決定されるようなものであるとも感じてしまう。


写真を撮るときの5つのこだわり

先日、長野県の小諸という街で、たまたま1時間の乗り換え時間があって、暇なので街を歩いていたら、小諸が北国街道の宿場町だということを知り、街道マニアの僕の血が騒いだ。

その街で撮ってみた写真を見返していて、自分の写真から「自分らしさ」を自分で感じたので、1枚1枚、その写真を収めた瞬間の魂胆を実況していきたい。

実況していく中で、僕が写真を撮るときのこだわりが見えてくると思う。


1  .  たくさん動く

大きな木のある神社。

旧街道を歩いていたら、「この先100m健速たけはや神社」と看板があり、「なんだそのカッコいい名前は!?」と思って、思わず行ってみたくなったので、行ってみた神社で撮った1枚だ。

路地裏を入ったところにある、ひっそりとした階段を登った先の鳥居をくぐると、誰もいない境内に大きなケヤキが聳え立ち、霊験あらたかな空気感であった。

この雰囲気をうまく1枚に収めるために、とにかく境内を動き回ってシャッターを切りまくった。その中の1枚がこの写真。鳥居をとったり、山々を背景にケヤキを撮ったり、陽の差し込む階段を逆光で撮ったりしていく中で、ケヤキの葉が幹に映し出す影に惹かれて、この写真に辿り着いた。

とにかくあれこれ動く。多動症だと疑われるレベルに動き回って写真を撮るのだ。「あれでもない、これでもない」と自問自答しているうちに、心地よい写真が見つかるはずだと思う。


2  .  視点場を醸す

山に囲まれた暮らし。

眺めは、眺めている場所「視点場」から眺められる対象「視対象」を眺めることで成立する。写真において、奥深さを表現するためには、1枚の写真の中に、視点場と視対象が喧嘩しない程度に登場させると効果的である。

そんな視点場・構図を見つけるためには、やはり、たくさん動いて、あれこれ角度や方向を変える必要がある。そうすれば自動的にいい感じな写真が撮れるだろう。

上の写真は、宿場町の入り口の近くにあった屋根付きのベンチから撮ったもので、上から垂れる植物のシルエットで、奥に広がる雄大な信濃の山々が際立って見える1枚だ。

視点場を醸し出す。まだまだ工夫のしがいがありそうだ。


3  .  影を見つける

発車まで、もうまもなく。

「影を撮る」と書いて「撮影」と読む。スマホの写真が好きではない理由に、この影の表現を疎かにしてしまうからというのがある。

スマホで撮る写真は、本来、暗さを暗さのままで写せばいいところも、否応なく明るく写してしまう。一方で、一眼で撮る場合は、このシルエットを際立たせ、1枚の写真にメリハリをつけてくれる。

写真は、小諸駅の改札を行き交うお客さんの様子を捉えた1コマ。駅ナカでは農産物直売所的なのもやっており、地元の人同士の会話が弾んでいた。また、発車時間が近づいている旨をアナウンスする機械的な駅員のアナウンスも響いている。そんな、すこし忙しそうな駅の雰囲気を、改札に駆け込む乗客のシルエットで表現したかった。


4  .  今感を待つ

路地裏を通り過ぎる風。

これは1番難しいかもしれない。全然、僕もできていない。

「今感」という言葉は、「臨場感」とも言い換えることができる。そのシャッターを切る瞬間でしか切り取れない世界があるってことを、探し続けないと辿り着けない1枚だから、難易度は高い気がする。

風や音、匂いなど、その場にいた撮影者にしか感じられない五感をどう写真に出すかなんて、難しいに決まっている。

これを表現するために必要なのは、待つことだと思う。臨場感は待ってれば来る。待てば必ずその時が来ると思って待つことが大事。


5  .  見せたいものを魅せる

そろそろ乾く頃。


これは無意識的な領域に入っている技かもしれない。

撮りたいものを撮る。撮らせていただく。その気持ちを忘れないでカメラを握る。

濁すところは濁し、はっきりさせるところは残酷なほどまでにはっきりとさせる。伝わるものを伝えるために、見せたいものを魅せれるように、上記の技を重ね合わせてやるだけでいい。







干される洗濯物。元気な人力車。信濃らしい稜線。素朴な大手門。賑わうマルシェ。誰かのイタズラ。なんでもいい。

視界に入ったものなんでもいい。他の何にも変えられない、その一瞬を、ありのままに写し続けたいのだ。

以上、これらが「自分らしい写真」の自分なりの説明である。




世の中には、写真と言葉を掛け合わせて表現することを極め続けている人だっていることは知っている。そのような写真家さんには頭が上がらない。本当にすごい、難しいことだと思う。

つらつら書いたけれど、これを真似たところで僕流の写真に近づくだけであって、人には人の好きな写真があるから、結局のところ、自分で動いて追求するのみである。

写真なんて撮りたい人が撮ればいいのだ。

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