見出し画像

宗像大社を巡る(day.1)

ものすごく強い波に揺られて、揺られてというかぐわんぐわんと揺さぶられて水飛沫にバシバシ当たられて、福岡の小さな島に船で行った。
一人で行くつもりでいた場所にいつのまにか友人たちと行っていた。もし一人だったら道も分からないし運転出来ないし船酔いするしで心が折れて絶対に来れていなかったと確信する場所に、いつのまにか何もせずスルスルスル〜と立っていることがとても不思議だったし、私はここにいていいのかなとか思わないことも不思議だったし、自分がどう振る舞えばいいのか先の展開や場の空気を毎秒考えたりせずぼーっとして、楽しければ笑ったり、黙りたければ黙ったりしていることが、本当に本当に不思議だった。
人といるとなんだかすごく頑張って疲れてしまうから一人でいいやと思って生きてきたけど、心を開けて、自分が普通に居ることを許してくれる人といることはこんなに楽しくて、自分では予想もできない場所(あらゆる意味においての)に行けるのだということが嬉しくて、とても新鮮な発見だった。こんなことは生きてきて多分初めてのことだった。
まだまだ世界も自分も全然未知で、未来なんて本当に何があるか分からないんだということを体験したら、変に老生した(するしかなかった)シニカルな自分が影を潜めて、私はほぼほぼ小学3年生に戻っていた。




(以下神社紹介。その場で感じた私の超個人的な体感100%の感想です。ここはこういうところだよ!ということでは全くないので、生暖かく見守っていただければ幸いです。)

【宗像大社辺津宮】
とても優しい神社だった。孫子まごこの代からずっと宗像大社に来ています、というような郷土愛を感じさせる雰囲気で、地元の博多っ子たちが代々「宗像さん」もしくは「むなかっつぁん」とでも呼んできたんじゃないだろうかと思わせるほどの地元密接感と懐の深さがあった。
けれどただ優しいだけじゃなく、慕ってくる博多っ子たちにひとたびなにかあれば俺が黙っちゃぁいねえぞ?いつでも言ってきな!というような江戸っ子気質(福岡だけど)というかわりとガチめな親分気質を感じるようなところもあり、いずれにせよこの侘び寂び感、一緒に飯を食ったらもう仲間だし家族やけんね、というような親しみと暖かみのある空気感はきっとそのまま博多の人の気質と宗像大社に対する熱い信頼ゆえなんじゃないだろうか、という気がした。
とにもかくにも地元民を愛し、地元民に愛されている神社、そんなふうに感じた。
奥にある【高宮斎場】は空気がガラッと変わって、太古から変わらない宇宙とのポータルという感じ。まっすぐ上に繋がっていて、場の整い方が聖域。そこだけ明らかに「場」が違う、スッと通る神聖な場所。
(写真撮り忘れた)

【宗像大社中津宮】
とにかくきれい。
石段に生えている苔の水滴すらキラキラと輝いて生きている、美しい。
神社への階段を上る前から感じる境内の澄んだ空気感。
抜け感が素晴らしい。
とにかく整えられて、清められている空気が気持ちよくて仕方ない。
鳥の声、風の音、水の音全てが清らかで濁りや滞りなく、流れている。
ここに来ればみんな同じ空気に自然と整えられるのでは。
逆にいうと大きな濁りや穢れがあると、もしかしたらここに来るのは難しいのかもしれないけど、でも深く優しいからきっと分け隔てなくおおらかに受け入れて自然に整えてくれるはず、そんなふうに感じる神社。

中津宮。とにかくきれい。隣に流れるは天の川(らしい)。


【宗像大社沖津宮遥拝所】
すごい場所。静かに広く力強くそこにある神社。
守りの場所。鎮守。鎮魂でもある。
遠くに沖ノ島が見えるが、そりゃあもう普通の人は行けないですよね、入れないですよね、という波、海、結界。
沖ノ島には神様がおられるというのも、それはそうですねと言うしかないような、ここと向こうでは明らかに境界の違いがある、その最たる際の守り。
沖ノ島の対岸で、誇り高く真っ直ぐに鎮座している、凛とした佇まいの神社。
ぽっかりと開いた、黄色い花の咲く原っぱで、海の向こうに手を合わせる私たちを暖かく見守っていて下さる、そんな感じがする。静かだけど力強い。

沖津宮遥拝所。凛とした佇まい。向こうは海。
遥拝所のぽっかりとした原っぱ。
うっすら沖ノ島。静かな迫力と威厳。海の波は荒い。


(day.2に続く)



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

より良い表現ができるように励みます。ありがとうございます🌷