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宮島、厳島神社、広島、ライブ(day.3)


(day.2からの続き。)
人の役に立たなくても自分がここにいていいし、与えられる物事を受け取っていいのだと認めること。
それがなんでそんなに怖いのだろう。私には存在する価値がないと信じることで守っているものはなんなのだろう。
(思考中)
『自分には存在価値がないと信じることで、これ以上自分の存在価値を失わないようにしている。価値をゼロに設定することで、マイナスに行かないように、これ以上傷付いたり失ったりしないようにしている。決してゼロからプラスには行かないようにしている。なぜならプラスになればマイナスになる可能性が出てくるから。もうこれ以上「やっぱり自分には価値がないのだ」と自覚するようなことは避けたいし傷付きたくない。』

でもここで私が握りしめている自己価値は他人に与えられたもので、あなたには価値がないという設定の根源は、自覚する限りでは私の母親から与えられたものだ。そしてそれを採用した私のその後の人生では「やっぱり私には価値がないのだ」と確かめるような出来事が、相手とシチェーションを変えて延々と繰り返されてきた。まるで自らその事を自覚し続けるためみたいに。
つまり、
『「やっぱり自分には価値がないのだと自覚するようなことは避けたいし傷付きたくない」のであらかじめ自分の存在価値を0ゼロ設定にしていたら、その通りの出来事が繰り返し起こって(というか起こして)結局傷付いてきた。』
ということになる。
書いてる私が言うのもなんだけど、なんてややこしいんだ!なんだろうこの自作自演は!
驚くべきというか、当たり前のことだけど、私は私の望み、信じる世界をちゃんと叶えてきたらしい。
だったらとりあえず自分で「私には価値がある設定」を装備すればいいのではないだろうか?
他人付与の「自分には価値なし設定」の私を、いえ!私には価値があります!あるとも!あるんですってば!と無理矢理思い込んだりひっくり返そうとしても、基本が他人付与の価値なし設定だと結局そこに帰結してしまうし、そのループにハマるととても苦しい上に、そんな私が駄目なんだ、やっぱり(以下同文)…という罪悪感までくっつけて貝のように頑なになってしまうので、もうとりあえず何も考えず、他人付与の価値なし設定は一旦放置して(つまり過去の認識を変える色んなやり方はこの際置いておいて)、新しく自分で「価値あり設定」にしてしまえばいいのではないか。
例えば私なら
『他人にとっては分かりませんが、私は私にとって絶対的な価値があります。根拠も理由もありませんがあえて言語化するならば「私と生まれてから死ぬまで一緒に生きてくれる私マジ最高ありがとう!」です』。これは真実だ。
それなのに、でもでもだってな私はまた思う。
でも、だって、人は一人で生きているわけではないじゃないか。今回の旅で、私には人に与えられること、人の役に立てることが事実として何もなかった。
運転して誰かを道案内すること、旅の日程や手配、時間配分、お金の計算、スケジュール管理。
旅のことだけじゃない、普段生きてても社会的な仕事もレジ打ちも計算も企業も経営もボディワークもヒーリングもリーディングもカウンセリングも星読みも手の込んだ料理も立派な子育ても勉強を教えることもPTAもこども会も円満な恋愛も結婚生活も家計簿をつけることも貯蓄も老後の人生設計も、何一つ出来ない。これは事実だから「そういう設定」とかではない。
事実として何も出来ない、つまり人の役にたって対価、お金を得る術がない自分の価値がどこにあるというのだろう。ていうか価値以前に今後の日々の生活どうするのほんと。
この間エイリさんのTELL ME YOUR STORYを受けたとき「私、10年後には確実に無収入になるので今から資格を取らなければいけないと思ってて…」と話したら即答で「資格とかいりませんいりませんいりません!書きましょう!」って言ってもらったけれど、やっぱり何か資格を…ていうか資格があれば仕事に就けるわけじゃないのかな…とここまで新幹線で一人禅問答してきて、一気にフリダシに戻った。
なんてことだ。そこでもう一度この言葉。
ことわりから外れなければ豊かさは尽きることなく溢れて流れ続ける
うーん。うーん。うーん。

そんな感じであっという間に広島に到着。
そこからさらに宮島へ。


宮島へ向かう船から見る山と海。日本昔ばなし感ある。



もともと好きなバンドのライブがあるためこの日に広島には来る予定だったのだけど、宗像大社も巡ったしそのご報告ということで、厳島神社に行くことにした。
久々の宮島は信じられないくらい混雑していて、そのほとんどが外国から来た観光客の方だった。
人混みが無理なので、とにかく立ち止まらず脇目も振らずに神社を目指す。
海に浮かぶ大鳥居が近くに見えてくると、厳島神社に来たんだなあという実感が湧いた。
初めて来た時は大阪の帰り、乗っていた新幹線が事故で広島で停車してしまったので急遽ホテルに宿泊したら、そのホテルの裏から宮島行きの船が出ていたので翌朝それに乗って訪れた。
その時は季節柄か時間帯のせいかほとんど人もいなくて、単純にすごく良いところで好きだなと思ったし、なぜか親近感を覚えた。
2回目訪れた時もやっぱりそんなに人はいなかったのだけどちょうど神前式を行なっており、新郎新婦を前にそっとお賽銭を入れて拝んだりして、やっぱりすごく良いところだし好きだなと思った。
そして今回、たくさんの外国の参拝客の中で私の柏手だけが大きく響く境内を縫うように歩いて、宗像大社にお参り出来たことのご報告とお礼を伝えられてホッとした。
神社の横にある大願寺にもお参りをして、今年の初めにこの世を去った大好きな鍼の先生が真言宗の弘法大師さまを慕っていたので、ご真言を唱えて先生にご挨拶をしてお線香をあげた。
あと私の地元のお不動さまにもお線香をあげて南無阿弥陀と唱える。お寺のある街で生まれ育ったので、懐かしくて落ち着く。
11月なのにその日はとても暑くて、外国の方はTシャツにサングラスだし鹿もウロウロしてるしで、なんだかいつだかどこだか分からなくて面白いなあと思いながらフェリー乗り場に戻り広島駅へ向かう。


広島について感じることを少しだけ書くと、とにかく澄んでいる。街や空気の動線がなんだかスッキリしている。あとセンスがいい。そして変な言い方かもしれないけど、街の人当たりがいい。
これは前に来た時も思ったので気のせいとか季節とかではない私の感覚的なものなのだと思うけど、もし理由があるとすれば思い当たるのはここが広島の地ということで、祈りがずっと注がれてきた場所、祈りが染み込んでいる人たち、ということなんじゃないだろうかと思っている。
沖縄もそうだけど、悲しい歴史があった場所の人たちは優しい。
もちろん個々にはいろんな人がいて良い人も嫌な人もいるに決まっているのだけど、なんていうか、困っている人がいたら普通に助けるというような、人間の持つ良い部分や優しさを当たり前に持っているような思いやりの空気をそこはかとなく感じる。思い込みと言われたらそれまでだけど、それでも広島を去る翌朝、駅に向かうガードレールの階段を降りてくる人はきちっと左を歩いていて、どんなに登りが空いていてもそれが乱れることがなかったことに私はとても驚いた。ちょっと割り込んでさっさと下に降りちゃおうとか、自分くらいはいいだろうとか、そういう人がいなかった。たまたまタイミングだったのかも知れないけれど、でも私がこれまで住んできた地域では見たことがない光景だったのでとても印象的だった。


そんな広島で、betcover!!のライブを見た。
自分の子供でもおかしくない人たちに混ざり、自分の子供でもおかしくない人の歌や演奏に聴き入りながら、80分ノンストップで歌われる歌を集中して聴いた帰り道、あの舞台上の若い人たちはきっと今日私がnoteに書いたような自己価値がどうのこうのなんて全く意に介さずにすっ飛ばして自分の道をひたすら突き進んでいるのだろうなと思い、眩しさと一抹の虚しさを同時に覚えた。
もっと若い頃に今のあれこれをクリアしていたかったし、もしくはすでにクリアした状態で現代に生まれて同年代としてライブを見たかったけど、仕方ない。
これが現状。これが私。これ以上でも以下でもない。


閉店間際のスタバでほうじ茶ラテを買って帰る。
時間ギリギリにも関わらず少しも嫌な顔をしていない女の子の店員さんに、ほうじ茶ラテ美味しいですよねとニコッとしながら言われて、ニコッと返した。
本当はほうじ茶ラテはほとんど飲んだことが無かったのだけど、結構美味しかった。
そして夜の広島の空気はやっぱり澄んでいた。
明日は京都に寄り道をしてから帰る。




(以下神社お寺紹介。その場で感じた私の超個人的な体感100%の感想です。ここはこういうところだよ!ということでは全くないので、生暖かく見守っていただければ幸いです。)


厳島神社
水の上にあるためか、三人の神様が女性だからか、初めて訪れた時からとても親しみがあるというかご縁を感じる。
私自身とても水の気が強いと言われるのでそのあたりが親近感の湧く所以なのかもしれない。
柔軟性、包容力、浄化力。
せっかく行くなら宮島に泊まって早朝参拝がおすすめかも。


出たー!これこれ!好きー!とみんな思う(はずの)大鳥居


大願寺
ホッとする場所。やっぱりお寺は人間に近いというか、神社よりグッと身内感がある。
私がお寺のある街で生まれ育ったせいかもしれない。毎日鐘が聞こえるし、電車まで時間あるからお護摩に寄っていこうかな、暇だからお護摩行こうかな、みたいな感じで通いまくっていたせいもあるのかもしれない。毎日お寺を通り抜けて駅に行っていたし震災きっかけで引っ越すまでは働いてもいたので、仏像やお不動さんが側にいるのが当たり前すぎて客観的な感想にはならないのだけど、それを差し引いても穏やかでとても良い場所だった。
(写真を撮り忘れたので大願寺HP)



betcover!!
1999年生まれの柳瀬二郎のソロプロジェクト。
現在は5人のバンド形態。
最高にかっこいい。
同年代で見たかったと上に書いたけど同年代だったらその才能に打ちのめされて泣いていたかもしれない。多分泣いてた。(音楽やってないのに。)

 




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