ヘーゲルとアーレントをめぐる勉強ノート①    

ヘーゲルとアーレントをめぐる勉強ノート①
——コジェーヴの衝撃から20世紀の行為論の布置へ

 私はヘーゲルのへの字も知らないことをまずは断っておきたい。『精神現象学』を読むある講読に出席して数回でギブアップしてしまい、また『法哲学』の読書会は何度も出席して、その面白さを掴みかけたところで諸事情により読書会そのものがストップしてしまった。
 それでも、ヘーゲルの哲学がアーレントの哲学や政治哲学にとって極めて重要な位置づけにあるということは、アーレントのテクストから様々に読み取ることができる。自分のヘーゲル理解の乏しさゆえにアーレントの政治哲学を核心的なところで掴めていないのではないかと、アーレントのテクストを読んでいつも残念に思うほどである。
  いつまでも残念に思っていてもしょうがないし、かといって素手でヘーゲルを掴みにいくのもハードルが高い。なので、書きやすいところ、面白そうなところから書き始めて、書きながら順番に勉強していこう、というのがこの勉強ノートの趣旨である。「勉強ノート」らしく、順番に書き足していくことになると思う。

1.   コジェーヴの衝撃の只中で

 2022年末に、小原拓磨による編集・翻訳でアレクサンドル・コイレ『イェーナのヘーゲル』(月曜社)が公刊された。この訳書を読んで〈ヘーゲルとアーレント〉という主題の重要さに改めて直面することになった。
 直面することになった第一の理由は、「訳者あとがき」にもあるように、アーレントが『精神の生』の意志論でコイレのヘーゲル論に大幅に依拠してヘーゲル論を展開している、ということである(このことは私も何年か前にツイッターで指摘したが、その意義をあまり深く考えていなかった)。『精神の生』以外にも、アーレントのテクストにヘーゲルの名前は何度も登場しているが、文面上はどれも断片的であると言わざるをえない。そして、アーレントのヘーゲル論として最もまとまっているのが『精神の生』の意志論であり、アーレントはその最もまとまったヘーゲル論をコイレのヘーゲル論に依拠して書いている。
 第二の理由は、晩年のアーレントがコイレを参照しているという事実が、アーレントも亡命していた1930年代の思想的な布置からするとやや奇妙に見える、ということである。コイレ(1982-1964)とアーレント(1906-1975)は、1930年初頭に亡命先のフランスで出会い、その後も友人であり続けたようである。
 ただし、両者のすぐ横には、アレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968)がいた。コイレのヘーゲル解釈はコジェーヴのそれに決定的な衝撃を与えたようだが、当時のフランスに決定的な衝撃を与えたのはむしろ1933年から1939年に行われたコジェーヴのゼミ(およびこのゼミの講義ノートとして1947年に公刊された『ヘーゲル読解入門』)であったと言われている。コイレとアーレントが知り合ったのも、このコジェーヴのゼミでのことだった。そのほかにも、G. バタイユ、J. ラカン、R. カイヨワ、M. メルロ=ポンティなど、名だたるメンバーがこのゼミに参加していたと言われている。ジェローム・コーンもEssays in Understanding(1930-1954までのアーレントの論文集)の序文で次のように述べている。「しかし、アーレントはパリの知的生活から自らを完全には引き離さなかった。アーレントはアレクサンドル・コジェーヴの有名なヘーゲル・ゼミに何度か参加した〔中略〕(そしてアーレントはコジェーヴよりもコイレのほうがずっと巧みなヘーゲルの解釈者だと考えた)」。
 晩年のアーレントはコジェーヴではなくコイレのヘーゲルを参照した。しかし、当時のフランス思想界に落とされたコジェーヴのヘーゲルという衝撃の只中に、アーレントも居合わせたのである。

2.     アーレントのサルトル批判

 コジェーヴのヘーゲル解釈は当時のフランス思想界にどのような衝撃を与えたのか。またアーレントはそこでどのような衝撃を受けたのだろうか。
 コジェーヴのヘーゲル解釈が(サルトルを含む)当時のフランス思想界にどのような衝撃を与えたのかということについては哲学者や思想家ごとに詳しく調査する必要があるが、さしあたり敷衍して眺めてみるならば、西山雄二は「欲望と不安の系譜学——現代フランスにおける『精神現象学』の受容と展開」(滝口清栄・合澤清編『ヘーゲル 現代思想の起点』社会評論社、2008年)において次のように書いている。

三○年代の時代背景に後押しされて、コジェーヴの『精神現象学』解釈はフランスの若き哲学徒に熱狂的に受け入れられる。第一次世界大戦後の社会の繁栄を謳歌した若い世代は、ナチス政権の誕生以来、ファシズムの存在感が日増しに強くなるなかで、激動の時代を生きるための新しい思想を求めていた。彼らは第三共和制期に支配的だった新カント哲学の普遍的な形式主義に不満を感じ、人間の行動と歴史の運動を解明するヘーゲル哲学に強く惹かれ、そこに「時代が哲学のなかに再び見い出そうとする具体的なものの探求」をみたのだった。(『ヘーゲル:現代思想の起点』85頁)

 

宇波彰によれば(cf.『ヘーゲル:現代思想の起点』41頁)、サルトルは先のコジェーヴのゼミに参加していなかった(*E. ヤング=ブルーエルによる有名なアーレントの伝記には、サルトルがこのゼミに出席していたとある)。ただし、次に引用する箇所からもわかるように、サルトルはゼミには参加しなかったとしてもコジェーヴの衝撃を受けたであろうし、アーレントも、サルトルがその衝撃の中にいたことに自覚的であったと思われる。
 コジェーヴのゼミから10年ほど——その間には、第二次世界大戦の開始(1939年)、ドイツ軍によるパリ占領(1940年)、ドイツおよび日本の降伏(1945年)がある——が経った1946年の論考「フランス実存主義」において、アーレントはサルトルを次のように評している(なお、1946年とはサルトルが有名な講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(1945)を行った翌年であるが、この論文の時点でアーレントは未だこの講演の詳細を手に入れていないようである。ボーフレの書簡に答えたハイデガーのいわゆる『ヒューマニズム書簡』は1947年の公刊である。また、少し遡って、1941年には「実存哲学とは何か」という、カントからキェルケゴールやハイデガーを介して、ヤスパースを頂点とする「実存哲学」の系譜を描いた論文を書いている)。

サルトルにとって、不条理(absurdity)は事物の本質であり、人間の本質でもある。いかなる存在者も、存在するというだけで不条理である。この世の事物と人間との決定的な違いは、事物がそれ自身と明白に同一であるのに対し、人間は——自分が見ていることを知り、自分が信じていることを知り、自分が見ていることを見るがゆえに——その意識の中に否定を秘めていることである。この否定ゆえに人間は決して自身と同一であることができない。ただこの点で——すなわち、否定という萌芽を内に秘めた意識という点で——、人間は創造者なのである。というのも、これは、世界と自らの実存が所与であるように、人間が自ら創り出したものであり、単なる所与ではないからである。もし人間が自分自身の意識とその途方もない創造的可能性に気づき、事物がそうであるように自らと同一でありたいという切望を捨て去れば、人間は自ら以外の何者にも依存せず、自由になれること、自分自身の運命の支配者になれることに気づく。(Essays in Understanding, 192f.)


この時点(1946年)でアーレントはサルトルの『存在と無』(1943)を読んでいたのであろう(「フランス実存主義」という論考に『存在と無』という書名は見当たらない)。いずれにせよ、ここでアーレントは「対自」や「即自」というヘーゲル由来の議論に言及するのみならず、行為(行動)やアンガジュマンにおいて自己や歴史(運命)を創造することとしてサルトルにおける「自由」を強調する。このようなサルトル解釈——その妥当性について本稿で検討することはできないが——を展開するアーレントは、10年以上前にフランスで受けたコジェーヴのヘーゲル講義を脳裏に浮かべていたに違いない。コジェーヴのヘーゲル解釈についての西山雄二による論述が再び参考になる。

コジェーヴのヘーゲル解釈の独自性は、ヘーゲルの哲学体系の人間主義化とマルクス主義的な歴史決定論である。第一に、コジェーヴはヘーゲルの精神を人間の営みとして解釈し、歴史における自由とその実現を前景化した。ヘーゲルの歴史哲学において、人間こそが神なき歴史の主体であり、歴史の自己意識として人間は欲望し、自然に働きかけることで生産を行なう。コジェーヴはこうした欲望の現象学を、とりわけ「主人と奴隷の弁証法」の過程を引き合いに出すことによって基礎づけた。第二に、ヘーゲルの描く体系におけるこのような人間の営みは「大文字の歴史」とみなされ、この歴史には帰着するべき終焉があるとされた。コジェーヴは独創的にヘーゲル哲学を目的論的に解釈し直し、歴史の弁証法的な運動が向かう先は目的であり、終局であるとした。(『ヘーゲル 現代思想の起点』84頁)

——コジェーヴのヘーゲル解釈にアーレント自身は全く惹かれなかったと言えば嘘になるだろう。アーレントはコジェーヴのヘーゲル解釈に肯定的な評価を示すこともあるし、何より、『人間の条件』(1958)や『活動的生』(1960)では公共空間における「行為(action, Handeln)」を強調した。「政治への関心」論文(1954)や『過去と未来の間』(1962/68)では「歴史」について並々ならぬ関心を示している。
 しかしながら、1946年の論考「フランス実存主義」の時点で、サルトル(ひいてはコジェーヴのヘーゲル解釈)に対するアーレントの視線には冷めたものがある。この論考は次のように意味深なかたちで締め括られている。

しかし、もしこうした作家たち〔サルトルやカミュ〕の革命的な跳躍(revolutionary élan)が成功によって壊れてしまうわけではないとしたら、もし、象徴的に言って、彼らがホテルの部屋やカフェに閉じこもっているとしたら、彼らが未だ古い諸概念に危険なほど与しているということを示す彼らの哲学の諸相を「くそまじめに」指摘せざるをえなくなるときが来るであろう。そのニヒリスティックな諸要素は、それに反するあらゆる抗議にもかかわらず明白であるが、それは新しい洞察の結果ではなく、非常に古い考え方の結果なのである。(Essays in Understanding, 193)

この論考はここで終わっており、サルトルが未だ離れられないままでいるという「古い諸概念」がどんなものであるのかは明示されておらず、この論文からはうまく読み取れない。また、細かな資料調査なしに、アーレントがいつから批判的な視線をコジェーヴやサルトルに向けていたのか、日付を確定することは難しい。ただし、『人間の条件』(1958)の行為論や『過去と未来の間』(1962/68)の歴史論と比較するならば、「古い諸概念」の一つは「制作(work, Herstellen)」概念であったと考えられる。『人間の条件』でアーレントは伝統的な行為概念に反して〈行為は制作ではない〉という根本命題を徹底しつつ、行為において露わになる行為者の「誰(who, Wer)」(人格)すら、行為者が制作したり創造したりできるものではないことを強調する。また、『過去と未来の間』では、歴史が制作の産物である(歴史が行為によって作られる)とする歴史観が強く批判され、注意深くも、このような歴史観はヘーゲルには帰されていない(ヘーゲルの歴史観は別の理由で批判される)。アーレントにとっては、行為も政治も制作ではなく、共同体もその歴史も人間の制作物ではありえない。
(*しばしば指摘されるように、コジェーヴのヘーゲル解釈はコイレのそれとともにハイデガーの哲学の影響を受けており、当時ハイデガーと絶縁状態にあったアーレントにとってコジェーヴのヘーゲル解釈がどう映ったのかは推しはかりにくいものがある。また、30年代初頭からフランスの人々をも包みつつあった暗雲を考慮に入れるならば、1930年代初頭にコジェーヴのヘーゲル講義から当時のフランス思想界が受けた衝撃と、1940年代以降の諸論考に垣間見えるアーレントの応答とを安易に並べてしまうことには慎重でなければならない)。
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 アーレントは、1930年代初頭のフランス思想界に落とされたコジェーヴのヘーゲルという衝撃の只中に居合わせ、そこから行為や具体的なもの、ひいては歴史をめぐる思索を引き受けつつも、内容としてはおそらくコジェーヴのヘーゲルから離れていった。
 以上の点についてより詳細な調査が必要であることは言うまでもなく、またコジェーヴのヘーゲルから離れていくアーレントにおいて、ヘーゲルやコイレとの対話がどのように継続されたのかということについても改めてテクストを検証してみなければならない(これらの課題についてはこの「勉強ノート」の②以降で論じていく)。
 一方で、アーレントの政治哲学をコジェーヴのヘーゲルという衝撃に置き直してみること、またそのなかでヘーゲルやコイレとの連関を考えることは、20世紀の行為論という文脈にとって有意義な視座を提供することができるように思われる。

3.   ヘーゲルとアーレント、20世紀の行為論の布置

 昨年7月4日に亡くなったリチャード・バーンスタイン(1932-2022)は、『哲学のプラグマティズム的展開』(2010)で、1972年にハンナ・アーレントと初めて出会ったときのことをこのように振り返っていた(cf. リチャード・J. バーンスタイン『哲学のプラグマティズム的転回』廣瀬覚・佐藤駿訳、岩波書店、2017年)。「われわれは最初の出会いでいきなり、ヘーゲルとマルクスについて何時間も議論を戦わせた」(41頁)。
 この最初の出会いについて同書ではあまり詳しく語られていないが、他のインタヴュー(YouTubeで視聴できる)でバーンスタインが語っていることと組み合わせると、それは、アーレントがバーンスタインの『実践と行為』(1971)を読んだことがきっかけで実現したらしい(cf. Richard Bernstein, Praxis and action: contemporary philosophies of human activity, University of Pennsylvania Press, 1971.)。この事実は、アーレントが晩年になっても行為論やプラグマティズムに関心を抱いていたことの証左の一つとしても興味深い。一方で、この最初の出会いまでバーンスタインはアーレントの仕事にほとんど関心を抱いていなかった、あるいは敵意さえもっていたようである(『実践と行為』でもほんの数行で一度だけ『人間の条件』に触れられているのみである)。その後、両者は友人として食事をしたり何度も議論したりした。アーレントは1975年末に亡くなっており、両者が顔を突き合わせて言葉を交わせたのはそれほど長い時間ではなかったかもしれないが、アーレントの死後もバーンスタインはその著作で幾度もアーレントに言及し、対話を続けた。
 『実践と行為』という著作は、アーレントの行為論をコジェーヴのヘーゲルという衝撃とそれへの批判という観点から照らし直すことにとって有意義であると思われる(もっとも、それはバーンスタイン自身の意図には反するかもしれないが)。なぜなら、同書は、マルクス主義、実存主義(キェルケゴールとサルトル)、プラグマティズム(パースとデューイ)、そして分析哲学という4つの領野がそれぞれの仕方で行為論やプラクシス論をヘーゲルから、そしてヘーゲルに反して導き出していることを描いたものだからである。アーレントにとってコジェーヴのヘーゲルという衝撃がそれへの批判を含め大きなものであったとすれば、アーレントの行為論を、これら4つのうちのどれか、あるいは5つ目として並べることができるかもしれない。
 無論、「マルクス主義、実存主義、プラグマティズム、分析哲学」という4つの偉大な行為論/プラクシス論とアーレントの行為論を並べられたらアーレントやっぱり偉いってことになる!!などと言いたいわけではない。バーンスタインの議論を参照するならば、

マルクス主義と実存主義には、その違いはあっても、少なくとも共通する議論の宇宙(a common universe of discourse)があり、その中でこれらの立場を比較対照することができる。そしてプラグマティズムについては、その19世紀のルーツと決別しようとする試みのすべてにおいて、その出発点をこの伝統に求めることができる。これらの運動で活動する哲学者たちは、ヘーゲル主義の不備を感じ、それぞれが独自の方法で、ヘーゲルを「超える」ための手段として人間の活動に焦点を当てた。しかし、分析哲学の運動においては、これら3つの運動の知的源泉となった哲学のタイプに対する無知と反発の両方が存在する。〔分析哲学にとって〕ヘーゲルは、真摯に受け止められなければならない哲学者でも、応答されなければならない哲学者でもない。ヘーゲルは、伝統的な哲学の中で最も無責任で最悪なものの代表なのである。(Bernstein: 1971, 230f.)

コジェーヴのヘーゲルという衝撃からアーレントの行為論を照らし直すことが有意義であるのは、そうすることで「共通する議論の宇宙」をアーレントと他4つの領野の間、20世紀の行為論の間に開くことができるかもしれないからである。マルクス主義や実存主義との間で「共通する議論の宇宙」を開くことはそれほど困難な仕事にはならないだろう。プラグマティズムとアーレントも決して遠い宇宙ではない。アーレントも度々プラグマティズムに言及しているし、そこにはハイデガーもハーバーマスも、誰よりもまずバーンスタインがいる。分析哲学の行為論とアーレントの行為論は遠く思えるが、プラグマティズムがうまく仲介してくれるかもしれない。アーレント行為論を薄めて他と馴染みやすくするのではなく、むしろ徹底的なテクスト解釈に基づきつつも、「共通する議論の宇宙」において他の宇宙とのずれと重なりを明らかにすることによって、アーレントの行為論の内実と意義は十全に理解されるだろう。(*今から考えると、デイナ・ヴィラが『アーレントとハイデガー:政治的なものの運命』(1996)で、アリストテレスやカント、ニーチェやハイデガーなどの発掘現場を再調査しつつアーレントによる伝統的行為論の解体(脱構築)を追跡したことには、他の行為論と対比させることでアーレントの行為論の輪郭を際立たせたという意味があったと思われる。研究がうまくいくなら、ヴィラが着目しなかったコジェーヴのヘーゲルを考慮に入れることは有意義だろう)。

 最後に、バーンスタインという人物や『実践と行為』(1971)という著作について少し整理しておきたい。同書は、バーンスタインの作品のなかでも、そしてバーンスタインがプラグマティストであるにも拘らず、あまり注目されることのない作品である。まず、バーンスタインの作品はその抜群に整理整頓された議論のゆえに、その多くが邦訳されているが、『実践と行為』は邦訳がない。また、バーンスタインはこれ以上ないほどに過去や同時代の思想の布置を整理整頓して論じることに長けていたが、「プラグマティズム」という運動のなかで本書やバーンスタインがどのような位置づけにいたのかはあまり言及されることがない(『哲学のプラグマティズム的転回』を読む限り、深い親交を育んでいたリチャード・ローティ(1931-2007)やユルゲン・ハーバーマス(1929-2xxx)らと遠くない立ち位置にいたことは窺える)。『実践と行為』(1971)は、ただ年代的に整理すれば、1950年代の新プラグマティズムの登場、1968年の「アメリカヘーゲル学会」の設立、1970年代後半の「ヘーゲル・リヴァイヴァル」という文脈に位置づけられる。いずれにせよ、ヘーゲルを軸にして4つの行為論やプラクシス論の伝統の間に「共通する議論の宇宙」を開いていこうとする姿勢そのものがプラグマティストらしい態度であったと言えよう(私も、こうしたバーンスタインの態度にあやかりたい笑)。

4.   次回予告?

 今回は、コジェーヴのヘーゲルという衝撃からアーレントの行為論や政治哲学を少し照らし直してみるという試みだったが、この試みにとってアーレントの実存思想を無視することはできない。ドイツにはハイデガーとヤスパースという二人の師がいて、フランスでは(コイレを除けば)ほぼ同年代の知識人サークルに囲まれていた。いずれにも実存思想と浅からぬ関係がある。「フランス実存主義」論文からも窺えるように、アーレントはこうした布置のなかで自らの行為論を紡いでいった。そこで次回は、アーレントとコイレの交流をたどるか、アーレントの1941年の論文「実存哲学とは何か」に登場する次の一節を解釈しようと思う。

ヘーゲル以降の人々は、ヘーゲルの足跡をたどるか、ヘーゲルに反抗するかのどちらかであり、そのような人々が反抗し、絶望したのは哲学そのものであり、思考と存在(thought and Being)の仮定された同一性であった。
 こうした亜流の性格は、いわゆる近代哲学のすべての学派に共通している。物質の優位性(唯物論)や精神の優位性(観念論)を主張することによってその調和を達成しようとするのか、あるいはスピノザの刻印を背負った全体を創造するために様々なパースペクティヴを遊ぼうとするのかにかかわらず、そのような人々は皆、思考と存在の統一性を再構築しようと試みている。〔中略〕
 プラグマティズムと現象学は、ここ100年の亜流の哲学学派のなかで最も新しく、興味深いものである。(Essays in Understanding, 164)

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