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史記② 紀伝体というイノベーション

前回のポストで、

「史記」の特徴は、「編年体」ではなく「紀伝体」というスタイルにある

と書きました。ということで今回は、史記を史記たらしめる「紀伝体」について触れてみます。

一般に、歴史書と言われる書物のスタイルは大きく以下の2つがあります。

【編年体(へんねんたい)】

過去から未来へと、時系列に沿って起きた出来事を記録していくスタイル。歴史の教科書に出てくる「歴史年表」をイメージするとわかりやすいかも。
「xxx年、○○○が▲▲▲した。その結果、●●●が□□□となった」みたいな。
洋の東西を問わず、多くの歴史書がこの編年体で書かれています。
過去から未来への出来事の順序関係や流れがわかりやすい記法ですね。
言ってみれば、時間にフォーカスした歴史の記録法です。

【紀伝体(きでんたい)】

”特定の人物”に着目してその歴史を記録するスタイル。特定の人物とは、例えば「ある国の王様」とか「ある国の大臣」といった感じです。着目した人物が「どのようにその時代を生き、何を成し、何を残したか」が独立したエピソードとして描かれます。
言ってみれば、人にフォーカスした歴史の記録法です。ただ、同じ春秋戦国の時代を舞台としているので、同一人物が複数のエピソードに登場することがザラにあります。例えば、あるエピソードでは主役として描かれている人物が、あるエピソードでは脇役として登場します。そのため、エピソード間の前後関係が分かりづらいです。

このように編年体と紀伝体では全くスタイルが異なります。どちらが良いとか優れているとか比較できるものではありません。どちらのスタイルにもメリット・デメリットがあり、どちらも歴史書としての使命を果たすものだからです。ただ、史記を読んでいく上でとても重要なことは、紀伝体という記法で書かれた最初の歴史書は「史記」であるということです。つまり、紀伝体の発祥は「史記」なのです。

史記の作者は、司馬遷(しばせん)という学者です。(紀元前145~)

彼は、皇帝の命により歴史書を作り始めたわけですが、もちろん皇帝から「紀伝体で書くように!」と指示されたわけではありません。なぜなら、その時点では歴史は編年体のように時系列で書くことが常識であり、当たり前であり、編年体以外のスタイルでの歴史を記録することなど、誰も想像すらしなかったと思います(実際、史記以前に書かれた中国の歴史書である「春秋」は編年体です)。それにも関わらず、彼は従来のスタンダードである編年体ではなく、新たに紀伝体というスタイルを確立し、今までにないやり方で自国の歴史をまとめあげたわけです。

歴史書の編纂なんて、国家の一大事業です。そんな大役を任されるだけでもチビりそうなのに、従来のやり方を踏襲せず、自分の意思に従って新しいやり方にチャレンジし、最後までそれを貫き通すなんてフツーできますか?
新しいスタイルを採ったばかりに皇帝の不興を買ったりすれば、ヘタすれば即死です。横槍も当然あったでしょう。それでも司馬遷はやり遂げ、2000年経った今でもこうして我々の手元に残っています。これはもう、立派な「イノベーション」といえるのではないでしょうか。この史記で司馬遷が採った「紀伝体」というスタイルが歴史書の記法として優れていることは、中国が史記以後、今でも正史(国家の正式な歴史)を紀伝体で残す伝統になっていることからも伺えます。

歴史というジャンルで、紀元前にイノベーションを起こした司馬遷、「コイツ何者だよ!?」って思いませんか?それは、司馬遷という人の生き様を知ると、ちょっとだけ分かります。

「なぜ彼は歴史を紀伝体という全く新しいスタイルで歴史を残そうとしたのか?」

次回は司馬遷について書いてみます。

ちなみに日本では、江戸時代に水戸光圀が編纂した「大日本史」という歴史書が紀伝体で書かれていますが、それ以外は編年体が多いです。
(といっても完全な編年体というわけでもなく、紀伝体のような個別のエピソードの記述が混在するものが多いようですが)

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