福岡県民「ヤー!」の起源篇
残暑という名の酷暑が続いています。
連日、30℃を超えているにも関わらず、「なんだか涼しくなった」と感じるのは、すでに体感がバグっているからなのでしょうか。
異常気象や、止む気配のない戦争や、台湾海峡を巡る不穏な極東情勢や、海洋に放出される処理水と世界の課題は山積みなままではあるのですが、それでも否応なく9月はやってくるのであります。
ドゥーユーリメンバー。
トゥエンティファーストナイトオブセプテンバー。
と見事に韻を踏んで始まるこの名曲を思い起こすに、二人が愛を誓った9月21日まで残り2週間半と相成りました。
宇宙の大いなる意志に包まれて、フォースと愛に満たされつつも、未だにその意味が解明されていない謎の掛け声、「バディヤ」。
「バディヤー、バディヤー」と歌い叫んでいたら、これまた同じく福岡県民の誰もが、その幼少期に唱えたであろう謎の、これまた意味が解明されていないと言われている「ヤー」について考えてみたくなったので、ここに記しておきたいと思います。
これは今を遡ること半年前。
Podcastチノアソビの75回目で江川 太郎左衛門を扱ったとき、フと気付いたんですね。
詳しくは本編をお聞きいただければと思うのですが、軽くおさらいをしておきますと、ここで取り上げているのは第36代の江川 太郎左衛門である英龍(ひでたつ)さんです(襲名は続き、現在は第42代の江川 太郎左衛門さんがいらっしゃいます)。
江川 英龍は、1853年のペリー来航を待つまでもなく、日本近海に欧米列強の船舶がしきりに出没するようになると、洋学に興味を持ち、後に蛮社の獄で命を奪われる渡辺 崋山等と交流を持ち、その知識を取り入れていきます。
とりわけ近代的な海防の手法に強い関心を持ち、佐賀・鍋島藩と技術交流を成功させ伊豆韮山に反射炉(製鉄のための溶鉱炉)を築くと同時に、長崎でオランダ人から西洋流砲術を学び、高島流砲術という一家を為した高島 秋帆(しゅうはん)の弟子になります。
江川 英龍も高島 秋帆も、この二人なくして幕末、そして明治維新はなかったと断言できる重要人物ですが、今回、「ヤー」の起源となるキーパーソンは高島 秋帆その人です。
海を隔てた隣国、中国では当時、女真族が打ち立てた清という王朝でしたが、ちょうどこの頃、日本人はアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ります。現代の日本がアメリカを崇敬して見ていたのと同様に、江戸期までの日本はずっと中国王朝を尊敬してきました。しかし、超大国、当時のスーパーパワーであった清が、地図で見ると日本とさして変わらないような大きさの島国、イギリスに敗戦したという事実は、当時の常識を根底から覆す大事件だったのです。
西洋式軍隊の必要性を痛感した幕府は、当時、長崎奉行の一役人に過ぎなかった高島 秋帆を江戸に招聘。天保12年5月9日(1841年6月27日)、高島 秋帆は、徳丸ヶ原というところで高島流砲術の一大デモンストレーションを行います。このとき、時の老中、阿部 正弘はもちろんのこと将軍も見学に来た、ということですから、その注目度の高さが伺えます。
秋帆のデモンストレーションは大成功を収め、この様子を見物に来た庶民も度肝を抜かれたらしく、徳丸ヶ原は一夜にして高島 秋帆の名を取って高島平と呼ばれるようになりました。
ところで高島 秋帆は長崎でスチューデルというオランダの軍人から西洋流砲術を学ぶのですが、スチューデルが高島 秋帆に砲術を教えるときの条件が、全てをオランダ式、オランダ語で訓練すること、でした。例えば、この徳丸ヶ原での演習も
というように、全てオランダ語で行われていたのです。ちなみに、流石に徳川幕府の軍隊を創設するときに、オランダ語で調練するのは具合が悪い、ということで、オランダ語で号令していたものを、「前にならえ」「気をつけ」「回れ右」など、現在の体育の授業でも使われる語彙に翻訳したのは高島流砲術免許皆伝を得た江川 太郎左衛門です。
そして高島流砲術では、指揮官が
「ゲーフトアクトっ!(気をつけ)」
と号令をかけたとき、当然、調練を受けていた兵士たちもオランダ語で返事をしたはずです。ゲーフトアクトと言われて「はい!」と答えるわけがない。
オランダ語で「はいっ!」のことを何というのでしょうか。
もう想像が付きましたよね。
オランダ語で「はいっ!」は「ヤー!」というのです。
福岡県民が、体育の授業において
先生:「立て!」
生徒:「ヤー!」
先生:「座れ!」
生徒:「ヤー!」
と受け答えしているのも、意味が「はい!」だとすると、途端に腑に落ちます。
まぁ、なんということでしょう。
我々、福岡人の「ヤー!」はオランダ語だったのです。
そして、なんと高島流砲術の名残だったのです。
関東では、江川 太郎左衛門がオランダ式号令を全て日本語に翻訳してしまったことを思うと、ヤーの文化がそもそも根付かなかったのも納得ができます。
そう考えると「ヤー」の分布は、福岡だけでなく長崎から佐賀と長崎街道沿いの土地には残っている気もします。
全ては林田の仮説ですが、どなたか研究者の方、調べてみてはいかがでしょう。多分、これで合っている気がします。
というわけで、今日は福岡県民「ヤー」の起源についてお届けしました。日に日に長くなってくる秋の夜のお酒のお供になれば幸いです。
それではまた!
バディヤ!
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