裏金問題と四知 篇
1.裏金問題の本質
自民党が、いわゆる「裏金問題」(本義的には政治資金問題と言うべきか)で揺れているんですけれども、個人的には、あのぉ、何というんでしょう、そのぉ、大したことないんじゃないのかなぁ、と感じているわけです。
いや、全体的に見ると大したことなんですね。でも、なんか「裏金」というワードが先行して、本質を見失っているような気がしてなりません。だって、そもそも、政治資金規正法に基づく収支報告書に記載しなかっただけじゃないですか。
そもそも政治資金パーティーなどによってマネタイズしたお金は、収支報告書に記載してさえいれば非課税なんですよね。そもそも非課税で可処分所得として丸々残るお金を、なぜ、記載しなかったのかというと、そんなの収支報告せずに済む自由なお金を使いたいからに決まってるじゃないですか。
じゃあ、その自由なお金の自由な使い方っていうのは、どういうものかというと、高級料亭で接待したり、だとみんなが思ってるので、
「政治家が高級料亭に行く必要があるのか?」
みたいな批判にすり替わっているわけです。
でもですね。そもそも、高級料亭に行けば領収書が出るわけで、そんなもんは収支報告書に記載すれば良いわけですよ。高級料亭で密談すること自体は、慣習的に認められているわけですから収支報告書に記載しなかった裏金で行く必要はありません。
じゃあ、何に使ったんじゃ!ということを問わねばならないわけですが、そんなものは口が裂けても言えませんから、自民党は適当に議員を処分して終わるわけです。
この問題、福岡ローカルですがコメンテーターを務めている「めんたいワイド」という番組でコメントを求められて、基本的には足早に説明したのですが、本質的には以下の2点を挙げさせていただきました。
一つ目は、民主主義のコストを誰がどうやって支払うのか、という議論をしないと、この問題は解決しないということです。
2.結局、民主主義は金がかかるんじゃ
例えば、アメリカの大統領選挙なんかね、もう想像を絶するほどに無茶苦茶、金がかかっとるわけですよ。
これはもはや2月の記事なので、ヘイリーも撤退してしまって共和党候補はトランプ氏に絞られていますが、それでも共和党は総額で約680億円、民主党のバイデン大統領も約180億円を集めています。
一方で、今回のいわゆる「裏金問題」で収支報告しなかったとされる議員の内訳を見てみましょう。
トップの二階氏でも3,526万円、というのを筆頭に、1,000万円以上が16人。最小では4万円という人もいます。正直、4万円はマジで記載漏れじゃないのか?と疑いたくなります。
ショボイ。ショボすぎる。
いや、そりゃあ大金ではありますよ。3,526万円。
もうね。野菜が高い。100円だった野菜が今や300円するのよ、みたいな爪に火を灯して生活している市民からすれば大金すぎる。
だけどね、問題は我々が信奉する、かつ金のかかる民主主義ってものをどう維持していくか、という本質的な議論なくしては、この問題は語れないわけです。
で、議員に「なんでこんなに金がかかるんですか?」ってインタビューするじゃないですか。そしたら
「全然、足りないんです」
ってみんな言うんですよ。そりゃそうだよな、と思うんです。最近、選挙が近いと言うこともあってか、ぼくのところにも政治資金パーティーへのお誘いがよく来ます。
林田の交友関係の問題もあるのですが、今は自民党は表立って政治資金パーティーできませんから、ほとんどが野党の皆さんです。そこで、ぼくは思うんですよね。
「何で会費が2万円なんだよ!」
と。これはね、自民党も、野党も何党というに関わらず、政治資金パーティーの会費は2万円なんです。ホテルで立食形式でアルコールが付いていても、なんか集会所でカレーを食べるだけでも2万円なんです。
何人かは付き合いでお出ししていますがね、そうそう出せないんですよ、ぼくみたいな零細企業経営権個人事業主には。だからね、どうなってると思います?
結局、与党も野党も支持している企業や団体(領収書を切ってこれる)の人ばかりになってしまうわけですよ。
これで、どうやって国民の方を向いて政治ができるのか?
「政治に興味がある、議員であるあなたに興味がある小学生が500円玉を握りしめて政治資金パーティーに来ることはできないのかッ!?」
と、ぼくは思うわけですね。ちなみに、件のアメリカ大統領選挙では、小学生たちがお小遣いの中から1ドル寄付したりしているわけです。もちろん、アメリカの政治が100パーセント正しくて真似をするべきだ、とは全く思わないんですが、総額としての民主主義のコストと、それをどうマネタイズしマネジメントしていくのか、という議論をしない限り、こういうせせこましい話が続いていくのでしょう。
3.与党内の政局争いだった
もう一つの本質は、この「裏金問題」が与党内の主導権争いであった、とぼくは、完全に、まごうかたなく、圧倒的に個人的考えとして感じているんですね。
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