石原莞爾と二人のヨシ子 篇
1.昭和最大の問題児
そこでは、観察力・洞察力を伸ばすために、写生図画の授業が特に重視されていたという。「週に二枚の写生」の宿題が、当初は題材に困らなかった生徒達をも、やがて窮地へと追い詰めていった。
学友達の困窮をみて、一人の生徒が立ち上がった。
彼は、画用紙一杯に男性のシンボルを描き「注)」として、
「写生の題材に窮し、便所にて我が宝を写す、十月一日」
と添えた。
この行為に対し、教師側は、
「品性下劣だッ」
として、この生徒の退校を主張する意見が強まった。このような事態を引き起こしても、その生徒は泰然自若としていた。
「オレは退校になっても別に構わない。要は図画の授業が過酷なのがいけないのだ」
と反論さえした。
さて、釘を刺しておくと、この「ある生徒」というのは、まるでぼくのことの様にも思えるが、残念ながらそうではない。彼は、戦前の日本陸軍において、「不世出の名将」とまで謳われた、石原 莞爾(イシハラ カンジ)中将のことであり、上の逸話は、彼の陸軍士官学校時代のものである。
注)ちなみに、チノアソビ本編にて「石原莞爾」回はすでに放送済み。ぜひ、こちらもどうぞ。
▼「チノアソビ」本編#21 石原莞爾回
ぼくも、大抵の悪事を働いてきた問題児であったのだが、石原はぼくのような小物と比肩すること能わず、問題発言を繰り返し、その一生の半分近くを謹慎の中に過ごした。
ぼくは
「尊敬する人物は?」
と聞かれるとき、必ず石原の名前を挙げている。彼は、ともすれば旧日本帝国ファッショの親玉のように言われ、確かにそういった面の責任があることは否めないのだが、ぼくが敬って止まないのは、彼のその悪戯好きとも言える素行とそのユーモアにある。
2.石原の素行不良
石原の素行不良、その問題児ぶりが、ぼくを癒してきてくれたことは、これはもう同じ問題児として生きてきた者として間違いない。
まず、彼の「問題児・異端児」であることの第一は、上下関係の厳しい軍隊にあって、上官が嫌いであるということにあった。
石原が、陸軍大学校に籍を置いていたある日、梨本宮元帥が検閲使として来校したとき、彼は将校でありながら、一人粗末な木綿の軍服を着ていた。検閲は軍服を新調するのが慣わしであったため、梨本宮は石原の前で立ち止まり、
「その服は君の最も良い服か?」
と訊ねた。石原は、
「はいッ、第一装用であります」
と胸を張って答えたという。
また、学内で上官を見つけた際、敬礼もせずに、馬を駆って疾走した。後で上官が問いただすと、これには平然と、
「会いたくなかったので逃げました」
と応えた。
このような調子で、いつも人を喰ってばかりいたため、検閲と名の付いた演習の際には、休暇を取らされていた。だが、あるとき、実戦同様に演習をやるというので、石原も演習に駆り出されるハメになった。当時、石原は連隊長を務めていたが、演習が始まった瞬間、彼は、
「連隊長、戦死~ッ!」
と叫んで、帰ろうとした。呼び止める部下に対して、彼は、
「実戦であれば、十分有り得る」
とだけ言い残し、そのまま演習場を去ったという。
昭和16年、東条英機との折り合いが悪くなって、退役を命じられると、石原は立命館大学の教授となって、国防学を論じた。
この立命館大学時代に、太平洋戦争の開戦があったことを聞くと、
「この戦争は負けますナ。自分の財布に千円しかないのに一万円の買い物をしようとする日本と、百万円持っていて一万円の買い物をしようとするアメリカの競争じゃないですか」
と、日本の敗戦を喝破した。
こうした直言が尾を引いて、憲兵が大学側に圧迫をかけると、石原は立命館大学をも追われた。こうした中、昭和17年になると、石原は元・憲兵大尉の甘粕正彦の仲介で、東条首相と会見した。
東条はまず、唯一の政治団体である「大政翼賛会」について、石原に意見を求めたが、彼は、
「チミが作ったのだから、チミが始末したまえ」
とそっけなかった。次に、東条が今後の戦争指導についてアドバイスを求めると、
「チミには戦争の指導はできない。退陣したらどうかね」
と即答し、終に両者は決裂した。
3.壮大な構想力
もう一つ、ぼくが彼を愛して止まない理由の一つが、その構想力の大きさである。
大正11年、石原がドイツに留学した頃から、彼の頭の中には、一つの戦争理論が体系付けられつつあった。彼は、ドイツにおいてナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)とフリードリッヒ大王(フリードリッヒ2世)の研究に没頭してきた。
石原によれば、戦争とは、「武力+政治」と、「政治+武力」の二つに類型される。戦争は、「武力」の要素が強くなるほど、激しく短くなり短期間で解決するが、「政治」の要素が強くなればなるほど、陰湿に細く長くなるというのである。
石原は、前者を「決戦戦争」と名付け、その代表的作戦家としてナポレオン1世を挙げ、また後者を「持久戦争」と名付け、その代表をフリードリッヒ大王であると考えた。彼は、ナポレオン時代の戦争が決戦戦争であったのに対し、第一次世界大戦が持久戦争であったことを鑑みて、戦争には「決戦戦争と持久戦争のサイクル」が存在すると論じ、
「次に来たる大戦は、一瞬で勝負が付く決戦兵器の登場によってその幕を閉じる」
と預言した。1945年に、二つの原子爆弾が世界大戦の幕引きを行ったことを思うと、石原のこの預言は慧眼に値する。
また、
「石原莞爾と呼べば、満州事変と、こだまがかえってくる」
と言われるように、石原こそが満州国樹立の立役者であった。
彼の満州国構想は、決して、後に関東軍が行ったような日本の傀儡政権を創るためでは無かった。石原流に言えば、
「日本人、満州人、さらにはシナ人も含めて利己的権益は放棄し、各民族協和の独立国をつくって、東亜の理想国とする」
というものであり、それ故、満州国は当初、ロシア、満州、中国、朝鮮、そして日本を含めた5つの民族で公平に統治するという、「五族共和」がスローガンとして掲げられた。要するに、石原は満州に東洋のアメリカを創ろうとしたのであり、この構想力、着想力の大きさこそが、ぼくが彼を敬して止まない理由の一つなのである。
4.女流明星、李香蘭と藤原作弥
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