征韓論という病理・佐賀の乱の司法崩壊
イシ: さて、岩倉使節団が出発する直前、政府内では朝鮮との国交をどうするかで議論が持ち上がっていた。いわゆる「征韓論」論争だね。
当時の朝鮮は興宣大院君(フンソンテウォングン)という李氏朝鮮末期の王族が支配していたんだけれど、大院君は宗主国である清を尊重した儒教の復興と攘夷を国是としていた。そこに、日本が「うちはすっかり新政府になったんでよろしく」みたいな国書を携えて挨拶に行ったところ、その国書の中に「皇」と「勅」という、宗主国である清でしか使えない文字が使われていたといって憤慨し、国交断絶状態になってしまった。
日本政府としては、江戸時代は清の皇帝と日本の天皇というトップ同士がいて、その下に幕府があったのが、今や天皇親政の新体制になったんだから、自分たちの政府は清国と同じ立場であり、実際に日清修好条約も締結している。清の下にいる朝鮮に生意気な態度をとらせてはならんという認識で、武闘派の板垣退助などはすぐさま「派兵して思い知らせてやる」と息巻いた。これがそもそもの征韓論だね。
凡太: また板垣さんですか。この人、戊辰戦争でも、土佐藩は基本的に協調路線だったのに、兵を出せ、幕府を武力で倒せと息巻いて、実際にそうしてしまった人ですよね。
イシ: そう。板垣というと自由民権運動という風に刷り込まれているけれど、私は全然評価していない。彼にとっての自由民権運動というのは、自分の強硬論が通じなかったことへの不満爆発という、ただの反政府運動に近いと思うよ。
……と、それはさておき、この議論は決着着かないまま、岩倉使節団が出発してしまった。出発前には、こうした重要事項は使節団が帰国するまでは絶対に手をつけないこと、という約束をしていたんだが、留守組の中には征韓論派が多かった。
征韓論派は、西郷隆盛(参議・陸軍大将)、江藤新平 (参議・司法卿)、板垣退助 (参議)、後藤象二郎 (参議・左院議長)、副島種臣 (参議・外務卿)といった面々だ。
一方、足元がしっかりしていない状況でそんな危険なことをしている場合じゃない、まずは日本国の国力向上が先だと反対するのが岩倉具視 (右大臣)、木戸孝允 (参議)、大久保利通 (参議・大蔵卿)、大隈重信 (参議)、大木喬任 (参議・文部卿)といった面々。
岩倉らが留守の間も論争は続いていて、西郷は、いきなり兵を送るのではなく、まずは自分が特使として出向く。そうすれば必ず自分を暗殺しようと試みるだろうから、それを理由に兵を送り込めばいい、などと主張した。
凡太: 自分が死ぬことで戦争の口実を作るというんですか? 自殺願望??
イシ: この頃の西郷は、もはや完全に精神が壊れていたと思うよ。
私は西郷の名前が出ると、何とも言えない、暗くていや~な気持ちに襲われるんだ。なんでそこまでしていつも戦争を起こしたがるのか。彼の頭の中には、一般庶民の平和な暮らしなんてないんだよね。自分が信じる、視野の狭い義だの報国だの……そのためには命は簡単に捨てられるという信念。その闇の深さを思うと、ゾッとすると同時に、やりきれなくなる。
凡太: でも、「維新三傑」の一人で、カリスマ性のある太っ腹で実直な人物、というのが世間一般のイメージなんじゃないですか?
イシ: 冗談じゃないよ。……でもまあ、ここはグッと抑えて先に進もう。
とにかく征韓論……というよりは、死にに行くという西郷を朝鮮に行かせるべきかどうかで大激論が交わされて、一旦は西郷派遣で決まりかけたんだけれど、最後は岩倉の粘りで、天皇決済という形で打ち消された。
その結果、朝鮮討つべし論の政府首脳陣や西郷派の士官や官吏がごっそり辞表を叩きつけて辞めてしまった、と。これが「明治6年の政変」だ。
そこに至るまでの主に軍事面での出来事を抜き出しておこう。
■明治5(1872)年
1月4日 軍人勅諭が下る
2月28日 兵部省を廃し、陸軍省・海軍省を設置
3月5日 最初の陸軍中将に山県有朋
5月10日 勝海舟、海軍大輔に
12月1日 国民皆兵に関する詔勅下る
■明治6(1873)年
1月10日 徴兵令発布
4月30日 特命全権大使・副島種臣、天津において、明治4(1871)年に結ばれた日清修好条規を改めて批准・発効
5月10日 西郷隆盛が最初の陸軍大将に
5月26日 特命全権副使大久保利通、征韓論問題紛糾を聞き、一足早く帰国
8月17日 朝議の結果、西郷隆盛を朝鮮派遣に内定
9月3日 木戸孝允、朝鮮及び台湾征討に反対する
9月13日 特命全権大使岩倉具視の一行、欧州より帰国
10月14日 岩倉具視、西郷隆盛らと征韓論意見で衝突
10月22日 西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、桐野利秋ら、岩倉具視邸にて征韓論を巡り衝突
10月23日 岩倉具視が参内して、三条実美、西郷隆盛らの「征韓論」を奏陳しつつも別解の意見書を提出
10月24日 明治天皇、岩倉の意見に従い、征韓論を退ける。これを受け、西郷隆盛、参議・近衛都督を辞職
10月25日 西郷派遣案が退けられ、副島種臣、板垣退助、江藤新平らが参議を辞職(後を追って辞職する者100余名)
10月28日 西郷隆盛、官を辞し鹿児島に帰郷
佐賀の乱の真相と司法崩壊
凡太: 辞表を出して政府を辞めちゃった人たちはその後どうなったんですか?
イシ: 当然、鬱憤を晴らす行動に出るんだね。明治7(1874)年前半の出来事を、主にテロや軍事面で拾ってみると……、
1月14日 岩倉具視が襲われ負傷(喰違坂の変)
1月17日 副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、由利公正ら政府下野組が「民撰議員設立建白書」を提出
2月4日 佐賀の乱起こる
2月6日 大久保利通、大隈重信らが台湾出兵を決定
2月18日 佐賀軍、佐賀県庁(佐賀城)を占領
3月1日 政府軍、佐賀県庁を奪回
3月29日 佐賀の乱の主謀者として江藤新平を捕縛
4月4日 陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し、兵3600を率いて侵攻することを決定
4月10日 板垣退助ら、高知で立志社を創立
4月13日 江藤新平、裁判判決後即日処刑
凡太: 佐賀の乱と台湾出兵の決定が同時進行してますね。
イシ: うん。まず、佐賀の乱は江藤新平が率いる不平士族の反乱ということで片づけられているけれど、詳しく見ていくと、江藤は首謀者というよりは巻き込まれたような印象を受けるね。それと、乱収束後の司法崩壊ぶりがひどい。
詳しく見ていこう。
明治6(1873)年10月24日、西郷の朝鮮行きを否定されたことで、西郷、江藤、板垣、副島種臣の四参議が辞表を提出して政府を去った。
で、その時期、江藤と副島の郷里である佐賀では、征韓論に賛成する征韓党と、とにかく新政府はけしからん、つぶしてしまえという憂国党という2大派閥ができていた。
そのうちの征韓党の中島鼎蔵と山田平蔵という者が明治6年12月に上京してきて、下野したばかりの江藤と副島に接近し、ぜひ帰郷して自分たちの指導者になってほしいと頼み込む。副島がその要求には従わず東京に残ったのに対して、年明けの明治7(1874)年1月、江藤は佐賀に向かった。しかし、郷里での不平士族の怒りが激しすぎて手がつけられないと、一旦は諦めて長崎郊外で義弟らと合流して静養している。
凡太: 江藤さん、ここまでは反乱を主導したというよりは担ぎ上げられた感じですね。
イシ: そうなんだよ。
で、江藤が東京を離れた直後の1月14日夜、岩倉具視が公務から帰宅途中、高知県の士族9名に襲撃され、あやうく命を落としかけるという事件が起きた(喰違坂の変)。
岩倉は皇居の四ッ谷濠へ転落して逃れたために軽症で済んだんだが、襲撃者は全員捕らえられ、7月に斬首処刑された。
凡太: またですか。岩倉さんは危なかったですね。幕末の頃と何も変わらないですね。すぐに首を斬られて処刑というのも同じだし。
イシ: で、そんなこともあって政府が大久保を中心として地方の不平士族の動きを恐れ、佐賀県下の士族反乱対策として熊本鎮台に出兵を命じた。そのタイミングで、江藤は長崎で、本来考え方が違う憂国党の島義勇と面会し、郷里から政府軍の兵を追い出すために兵を挙げることを決意してしまう。
2月16日夜、まずは憂国党が武装蜂起して佐賀の乱が勃発。佐賀軍は、県庁として使用されていた佐賀城に駐留していた県令率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃して敗走させた。
しかし、この乱は結局鎮圧される。
乱の鎮圧から事後処理を見ていくと、
2月27日 江藤ら鹿児島に入るも、頼りにした西郷に決起の意志はなく、諦めて土佐へ向かう
2月28日 政府軍が佐賀城下に迫ると観念し、使者を立てて降伏と謝罪を申し出たが、官軍は内容が無礼として受理せず、使者は捕縛される
3月7日 憂国党軍を率いた島義勇が島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが捕縛される
3月29日 土佐で江藤も捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固め、応じなかった
4月13日 江藤と島は他の11名と共に裁判にかけられ、即日、晒し首の刑に処せられる
凡太: 晒し首?!
イシ: 首を斬られるだけでなく、斬られた首は千人塚で晒された。
凡太: 明治になってもそんな処刑があったんですか?
イシ: 晒し首の写真が残っていて、ネット上で見ることもできる。トラウマになりかねないから、お勧めしないけれどね。
処刑の方法もさることながら、つい先日まで初代司法卿だった人物に対して、まともな裁判がされていないんだよね。
江藤は東京での裁判を望んでいたんだが受け入れられず、佐賀に急ごしらえされた裁判所で、司法卿時代の部下・河野敏鎌によって、弁論や釈明の機会を与えられないまま裁かれた。その際、江藤は元部下に対して「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝したという。そしてその日のうちに、捕縛からわずか2週間ほどで首をはねられて晒されているわけだよ。
この裁判は、最初から大久保利通によって極刑が決まっていたらしい。この頃の明治政府には司法の独立なんてものはなかったんだ。
直前まで政府首脳部にいた人間が、権力者によってまともな裁判も受けられず、私刑同然に首をはねられる。これでは諸外国から「日本の司法は信頼できないから治外法権の撤廃には応じられない」と言われても仕方がないね。
私は、佐賀の乱は、地方の不平士族による反乱とまとめられるよりも、時のにわか権力者による司法介入・崩壊という面でもっと注視されるべきだと思うよ。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。