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廃仏毀釈という悪夢

イシ: 西南戦争の話に進む前に、どうしても強調しておきたい事柄がある。それは明治初期に起きた廃仏毀釈という、常軌を逸した民衆暴動だ。なぜあんなことが起きたのか。
 これはある意味、日本人の宗教観、世界観、生活規範を政府によって塗り替えられてしまったという怖ろしい出来事なんだけれど、その怖さを多くの人は深く意識していない。
 その結果、今もおかしな習慣や誤解がはびこっていたりする。
 例えば、神社を参拝するときに「常識」とされる二礼二拍手一礼とかね。あれは昔からあったものではなく、ごくごく新しい「刷り込み」にすぎない。
 神前結婚や正月の初詣も江戸時代からあったわけじゃない。ましてや神社の祭神なんて、ほとんどは明治以降に割り当ててしまったようなもので、日本人が古来から馴染んできた信仰の世界とは関係がない。
 道端に今も残っている古い石仏を見てごらん。ほとんどは江戸時代後期のもので、明治一桁の年号が刻まれているものはほとんどない。狛犬もそう。明治前半の年号が刻まれたものは少ないし、あっても大作、名作と呼べるようなものはほとんどない。
 明治になってから、それまでの民衆の素朴な信仰心、土着の神様や自然信仰に近いようなものが精神的に破壊されてしまった結果だと思うよ。

凡太: え~、そんなこと考えたこともありませんでした。道端の古い石仏なんて近所にはないし。田舎に行けばあるんですか。

イシ: 地域にもよるね。田舎でもそういうものがない地域というのはある。廃仏毀釈で徹底的に破壊されたままだったりしてね。
 その話をこれから少ししてみたいんだ。

凡太: お願いします。

神祇官再興と祭政一致

イシ: まず、廃仏毀釈が起きたきっかけには、明治政府が押し出した祭政一致という政策がある。
 祭は祭祀、宗教的な分野だね。政は「まつりごと」ともいうけれど政治のこと。つまり宗教的な権威に基づいて、司祭者が政治権力を握って行使するという形態だ。「神政政治」とでもいうのかな。
 エジプトのファラオ王権時代とか、古代に多く見られた形態だけれど、日本の場合は祭祀の頂点は天皇だから、天皇親政ということになる。明治政府はこれを復活させようとした。
 その動きは明治政府の最初の官制から現れている。
 慶応4(1868)年1月の第一次官制では太政官のもとに七科を置いて、その筆頭に神祇じんぎ事務科を置いたんだが、当初は神祇科のない六科だったのを、急遽神祇事務科を筆頭に加えた形だった。

第一次官制=三職制(慶応4年1月17日)

 このときの神祇科の事務総督、係の6人のうち5人は、議定でも参与でもなく、急遽登用された復古神道系の国学者や神道家などだった。このとき「事務懸」の一人になったのが樹下茂国じゅげしげくにという比叡山山麓の日吉ひえ山王社の社司しゃし(神職)だったんだが、後に神仏分離令によって改名した直後の日吉大社の廃仏毀釈強行の主導者になっている。
 その後、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の第二次官制(太政官制)では、神祇科は神祇官になり、翌年7月の官制改革ではついに太政官の下から離れてトップに立つ独立した存在になった。

慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)

明治2年7月8日

 こうして当初から祭政一致の号令のもとに天皇親政という形を強調したのは、薩長と下級公家が幼い天皇を利用して徳川政権を武力クーデターで倒したという後ろめたさを隠すためだね。天皇のもとに国家を再統一したんですよ、という主張だ。大久保、岩倉、木戸らは、どうしてもこの論理を作り上げる必要があった。
 そのため、一時は力を失っていた旧水戸学派や国学系の学者・神職らが勢いづいた。

 神仏分離政策というのはこの路線から出てきたものだ。神仏分離というと、単純に神道と仏教の習合状態を解消させて切り離すことととらえられがちだけれど、江戸時代までの神仏にはありとあらゆる神様が含まれていて、これは神、これは仏と分けられるようなものではなかった。特に民俗信仰的なものはそうだね。
 女人講が道端に置いた素朴な如意輪観音像などはその典型で、形は仏かもしれないけれど、込められた思いは神道だの仏教だのという区別を必要としていない、根源的な祈りだ。そうしたものを、明治政府は「国家によって権威付けられない、認められない神」として切り離そうとしたわけだ。

道端の小さな如意輪観音像。享保20(1735)年に女人講が建立したもの

 慶応4(1868)年3月には、全国の神社に別当、社僧と称して勤務している僧職身分の者に還俗が命じられ、従わない者は追放された。
 さらには権現とか牛頭天王といった名称を神号にしている神社に、祭神の名称や由緒を改めるよう指示。仏像をご神体とすることも禁止。鰐口、梵鐘、仏具などは取り除くように命令……と、立て続けに布告が出された。
 薩摩では、1066あった寺社すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられた。

凡太: 仏像や梵鐘のある神社というものがあったんですか?

イシ: いっぱいあったよ。それがまさに神仏習合ということだね。庶民にとっては、ありがたいものであればなんでもよかった。崇拝できるもの、すがれるものであれば、産土神でも先祖神でもよかった。神でも仏でもなんでもいいのよ。そういう緩さを、新政府が作った神祇官は許そうとしなかった。

神祇官の役人が主導した最初の廃仏毀釈

 さっき名前を出した樹下茂国が率いた日吉山王社での廃仏毀釈を見てみよう。

 日吉山王社は比叡山延暦寺の鎮守神として山麓に建てられていて、そこで働く神職たちは延暦寺の僧たちの指示に従って動いていた。
 慶応4(1868)年3月28日に神仏分離の布告が出ると、その4日後に、日吉社や京都の吉田神社、その他、全国から集まった神職や神官出身の者たちからなる「神威隊」数十名と人足50名からなる集団で押しかけ、引き渡しを拒否する延暦寺を無視して、実力行使で仏像、仏具、経典の類をことごとく焼き払った。
 焼却された仏像、仏具、経巻は124点。他に金具の類48点が奪われたと記録されている。これを主導した一人が、当時、岩倉具視と親しく、神祇事務局権判事になっていた樹下茂国で、樹下は仏像の顔面を弓で射貫いて快哉を叫んだと伝えられている。

   樹下茂国(1822-1884) 
文政5年、近江(滋賀県)日吉ひえ社のはふりの家に生まれ、日吉社の神職に。尊攘派として岩倉具視の命をうけて活動し、慶応4年、神祇事務掛に就任。神仏分離を受け、やはり日吉社の神職である生源寺義胤と共に、日吉社の仏像、仏具などの焼却を先導し、後に生源寺と共に職をとかれる。晩年は「皇親系図」の編修にかかわった。明治17年10月4日、満62歳で没。

凡太: 政府の役人がそういうことをまっ先にやったんですね。門徒たちの抵抗はなかったんですか?


イシ: もちろんあったよ。日吉社の場合も、本殿の鍵を渡せと迫る一行を押しとどめて門徒会議を開き、拒否している。しかし、押しかけた一行は実力行使に出たわけだね。
 ここから廃仏毀釈の嵐が全国に広がっていくんだけれど、意外なことに大寺院ほどあっさりと行われたようだね。
 興福寺なんかは、僧侶が全員還俗して、一部は春日社に移動。伽藍や仏具などもすべて処分された。
 今では国宝となっている五重塔は25円で売られ、買主は金具を取るために燃やそうとしたのを、近隣住民が延焼の恐れありとして反対し、なんとか免れた、という話もある。
 境内地以外はすべて上知あげち(没収)で、寺は所領を失い、宗名や寺号も名のれず、築地塀、堂宇、庫蔵等は解体撤去。諸坊も消えて、最終的には堂塔の敷地のみが残されるという廃寺同然の状態になった。
 同じようなことは石清水八幡宮や北野神社などの有名な神社でも起きた。

廃仏毀釈が壊したもの

 もちろん全国すべての寺社がこんな風に大破壊されたわけではなく、中にはうまく言い逃れというか、体裁だけ「分離しました」と繕って、なるべくそれまでの形態を残そうとした寺社もある。

↑秩父・観音院の仁王像。大きさは台座を入れると4m。足から頭までは3.08m、1体が約2.6㌧あり、石造としては日本一大きいといわれる。信州の旅石工「乞食の吉弥」こと藤森吉弥の作。完成と同時に神仏分離令と廃仏毀釈の嵐に直面した。観音院は古くから修験道修業の霊山で、明治政府からは最も「異端」とされる存在だったが、寺では廃寺を免れるために、曹洞宗に改宗届けを出して、なんとか廃寺や破壊を回避したという。もっとも、この仁王像に関しては、大きすぎて破壊できなかった、ということもあるだろう

 地域によっても破壊の程度は様々だったけれど、激しいところは激しかった。
 それまで僧侶に抑え込まれていた神職らが鬱憤を晴らすように暴れたり、生臭坊主が生き残りのために政府からの通達にあっさり従ったという場合よりも、門徒を含めた一般住民が集団で寺を襲って破壊行為を繰り広げるという事例のほうがやりきれないね。
 自分たちの先祖がなけなしの金を出し合って村の鎮守様に納めた仏像や宝塔などを破壊する。どういう心理だったのか……。
 よく言われているのは、徳川政権が寺請制度によって領民を管理してきたために、特権階級化した仏教関係者が精神的に腐敗してやりたい放題をしてきたことへの反発が爆発した、といった説明だね。文字通り、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と。しかし、はたしてそれだけなんだろうか。
 尊皇攘夷を叫んで、テロリストたちが気に入らない人物を斬り殺していったような、無自覚な暴力的高揚感と似たものを感じてしまう。幕末のそうした殺伐とした空気感が、民衆の心にも影響していったんじゃないかな。

↑↓ 小さな薬師堂にある薬師如来像を守る十二神将像。
全部、腕を切られ、顔をえぐり取るように破壊されている

凡太: 仏像を相手にしたテロですか?

イシ: ああ、うまいこと言うね。そうだね。人は斬り殺せないけれど、仏像や仏具、経典といったものにはあたれる。負のエネルギーが爆発する祭りみたいなものかもしれないね。

 とにかく、これはとんでもない勢いで全国に広まった。
 しかし、政府としてもそこまでのことは想定していなかったから慌てた。日吉社を襲った樹下も、後になって、もう一人の主導者・生源寺義胤と共に職を解かれている。解職だけで終わらせているんだから、実に軽い処分だけれどね。
 明治4(1871)年には「古器旧物保存方」を布告して古器旧物の目録および所蔵人のリストを作成させ、その後、明治30(1897)年にようやく「古社寺保存法」が制定されて、国宝に認定されるものも出てくるんだけれど、遅すぎるよね。
 全国でどれだけの仏教芸術品が失われたことか。

 失われたのは仏像や仏具などの「もの」だけじゃない。人々の心の中からも大切なものが失われていった。
 素朴な信仰心というものだけでなく、自由な審美眼といったものも奪われた。
 芸術は国が認定したものに限る、権威ある美術家・芸術家の作品はすべて素晴らしい。民間から生まれたもの、特に素朴なものや、伝統・定型を守らない異端のものには価値がない……そうした風潮だね。
 江戸時代に花開いた庶民の自由な文化は明治前半にはすっかり追いやられて、古くて権威のある美術品のコピーみたいなものがもてはやされた。
 政府は神仏分離策を進めると同時に、「神社制限図」などを定めて、神社の様式や装飾品、備品を細かく規定していった。
 明治神宮は大正9(1920)年に創建された新しい神社だが、創建時に出版された「明治神宮御写真帖:附・御造営記録」には「神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する」とある。
 美術や芸術の価値をも国家が管理し、決めるのだという姿勢が強く窺える。
 美術や芸術の世界に再び庶民パワーが少しずつ甦ってくるのは明治後期から大正期で、定型や形式にとらわれない自由闊達な造形物がいろいろ現れてくる。それが昭和に入ると戦争の影響で、厳めしく、威圧的なものが目立つようになったり……興味深いよ。

凡太: なんだかむずかしいです。そんなこと、考えたことも感じたこともなかったです。

イシ: 例えば庶民が奉納する狛犬を見続けていると、そうした変化が見えてくる。その時代の空気みたいなものが感じ取れるんだよ。息苦しい時代、自由な伊吹が湧き出ている時代、上から締めつけられた時代……そうした時代の空気が作品に反映されているんだ。……難しいかな……まあ、いいや。
 とにかく、神仏分離令と廃仏毀釈が庶民の信仰心、世界観、文化というものに及ぼした悪影響は大変なものだったといいたいんだ。
 明治は文明開化の時代とか言われて、何年に銀座にガス灯がついただの、横浜ー品川間に鉄道が開通しただの、スキヤキが人気になっただの、そういうことばかり強調されるけれど、庶民の心が本当に開放されたのかというと、逆だったんじゃないかとも思うよ。
 政治家の退廃ぶりを見ながら、せいぜい牛肉でも食って気晴らしするか……みたいな空気だったんじゃないのかなあ。もちろん、その時代に生きていないから、実際のところは分からないけれどね。

凡太: そんなもんですか。明治になってみんな心も解放されて明るく元気になって……という感じではない、と?

イシ: そんなんじゃないと思うよ。
 神仏分離は廃仏毀釈という負の連鎖を生んだけれど、人々の心にも大きな変化を与えた。国家神道のもとに「お国のために命を捨てよ」みたいな方向に持って行かれる出発点だったかもしれない。
 明治以降、太平洋戦争敗戦までの間、日本は戦争を繰り返した。外からうまく操られたという面も大きいけれど、内なる変化というのも大きかったんじゃないかな。それを考えるとき、廃仏毀釈という全国的な事件が持っている意味は、簡単ではないと思うんだ。


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