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日清戦争と日本の戦争依存症

イシ: さて、日清戦争への助走は、常に朝鮮を舞台に行われていたことが分かったね。この助走の最終踏み切り板ともいうべき事件が、甲午農民戦争だ。東学党の乱とも呼ばれる農民の反乱だね。

凡太: 東学党というのは政治結社のようなものですか?

イシ: いや、最初はそこまで組織化されたものではなかった。ザックリ言えば、貧困農民の間で爆発的に広まっていった新興宗教のようなものだね。キリスト教に代表される西洋の宗教や文化が西学、それに対抗する東洋の宗教ということで東学。難しい教理とか戒律とかはなくて、不正や邪悪なものを打ち倒し、苦境からの救済を願う、みたいなものかな。その東学という教えの下に集まった集団が東学党、ということだね。
 当時の朝鮮の農民は貧困に苦しみ、餓死する者も多かった。原因はすでに説明したように、役人の汚職・腐敗と、関税権のない不平等条約のために日本や諸外国が米などを安く買い占めて国外に持ち出したから。自分たちが苦しんでいるのは諸外国のせいだ、ということで、キリスト教や西洋文明を排斥する一面もあった。ある部分では、宗教というよりも攘夷思想に近いものだったかもしれない。
 で、農民たちの我慢はついに限界を超え、反乱を起こした。その反乱を、全琫準チョン ポンジュンら、東学党の指導者層が指揮して、どんどん大きなものにしていった。
 この全琫準に目をつけたのが大院君で、全琫準と通じて閔氏政権を打ち破り、長男の李載冕イ ジェミョン(完興君)や孫の李埈鎔イ ジュンヨン(後の永宣君)と共に再び朝鮮王宮を支配しようと目論んで、様々な裏工作をしていた。一方、それを察知した閔氏一派から命を狙われて、何度か爆殺未遂事件みたいなものも起きたので、ナーバスになるあまりに、どんどん精神を病んでいったとも言われている。

全琫準(1854-1895)
塾の教師をしていたが、東学教徒をまとめる「接主」と呼ばれる幹部になり、背が低かったので「緑豆将軍」という愛称で呼ばれ、農民たちの信頼を集めた。1894年2月、貧窮する農民を率いて古阜郡庁を襲撃。これが契機となり、甲午農民戦争が勃発した。
しかし、日本軍が介入してきたことで、一旦、朝鮮政府軍と講和し、政府に農民側の改革要求を呑ませた後、農民軍を解散させた。その後、一旦は全羅道各地に農民の自治機関「執綱所」が設置されたが、朝鮮政府が親日的な政策をとって日本の傀儡のようになったことに反発し、再び農民軍を組織して抵抗。しかし、二度目の抗争に敗れ、日本軍に捕らえられ、1895年、漢城で同士らとともに処刑された。

 東学党の反乱集団は首都の漢城に迫ると、閔氏政権だけでなく、日本人や西洋人も襲った。閔氏政権はこの反乱を抑えることができず、清に助けを求めた。この頃の朝鮮政府は、事大主義といって、何かあるとすぐに、より強い者を頼るという、主体性のない政体になっていたからね。
 清はすぐに軍を派遣することを決めるんだが、その情報を得た日本は、このままでは朝鮮が完全に清の占領下におかれると判断して、1894年6月、清国との戦争を決意し、「在留日本人の保護」を名目に軍を送り込んだ。
 このとき、朝鮮政府内で事後収拾を任されたのは、穏健中道改革派とも呼ぶべき金弘集キム ホンジプで、清国軍だけでなく日本軍まで入ってきたことで朝鮮が戦争の舞台になって潰されることをおそれ、すぐに農民軍の要求を呑むことで和解し、争乱を収めた。争乱が収まれば清も日本も軍を派遣する理由がなくなるからだね。
 東学党側も日本が介入することは最も警戒すべきことだったので、和解して解散。朝鮮政府は清国、日本双方に速やかな撤兵を求めた。
 しかし、日本はこれを拒否。朝鮮国内で日清両軍がにらみ合う状態になった。

凡太: 日本はなぜ撤兵を拒否したんですか?

イシ: 簡単にいえば、清と戦争をしたかったからだ。与野党が一致団結して戦争に突き進むことで円滑に進まない国会運営を乗りきろうとした。政府内だけでなく、国民世論が「清をやっつけろ」と熱くなっていた。これは新聞が開戦論を煽ったことが大きいかな。

凡太: 甲申政変のとき、日本公使館がクーデターに関与したことは伏せて、清国軍が一方的に日本の民間人も含めて殺害したと報じたんでしたね。

イシ: そう。戦争は、民衆がそれを支持しないと起こすことは難しい。民衆を扇動するのは、当時でいえば新聞に代表される活字メディア。現在ではそれにテレビという最大のマスメディアが加わり、さらには広告企業や軍の広報部署、情報機関などが担当している。今も昔も、戦争とメディアコントロールは切っても切り離せない関係だということはしっかり覚えておかないといけない。
 世論が打倒清国という方向に燃え上がっていただけでなく、できたばかりの国会では、藩閥政治を引きずる政府、政党を軽視する軍部、衆議院過半数を占めた野党側が衝突を繰り返していて、少しもまとまらない。
 国会内第一党である立憲自由党では、自由党東北派閥のトップである河野広中が力を得て、第2次伊藤博文内閣と対立していたんだけれど、朝鮮での清国との一触即発状況が生まれると伊藤内閣側に歩み寄るようになった。伊藤内閣としては、清と戦争をすることで挙国一致体制が作れれば国会運営もうまく運ぶという考えがあった。
 つまり、このときの日本は、政府も、野党も、国民もみんな、清を武力でねじ伏せるという、戦争依存症に陥り始めていたといえるんじゃないかな。
 このときあまり戦争をしたがらなかったのは、憲法で国権の最上位にいるとされている明治天皇だったというんだから、なんとも皮肉だね。しかし、伊藤博文から説得されて、最後は「朕の戦争にあらず。大臣の戦争なり」と言いながら認めたといわれている。

 で、この時期、日本は清との戦争を有利に進めるために、朝鮮政府を親日政権にしようと策動した。
 まずは幽閉状態だった大院君を担ぎ出した。大院君を形の上でトップに据えることで、正当な政権であることを印象づけようとしたわけだ。その下に、高宗、閔妃、金弘集ら改革派が連携した政権を作ろうとした。

凡太: それはうまくいったんですか?

イシ: いやいや。そもそも宿敵同士で暗殺合戦をしていた大院君と閔氏グループを連携させるなんてことが無理だからね。日本の思い通りに進むわけがない。
 大院君はこのときすでに74歳の高齢だったんだが、まだまだ権力への執着が衰えず、日本に対しては面従腹背で、孫の李埈鎔イ ジュンヨンを皇位につけようと裏工作しつつ、密かに清とつながり、日本を宮中から排除しようとしていた。
 そんな中で、金弘集は相当苦労しながら朝鮮の近代化を目指して奮闘した。金は科挙廃止など、政治経済の全面的な改革を実行していった(甲午改革)。
 日本は清との戦争に突き進む。
 この年(1894年)の7月16日には、イギリスと日英通商航海条約を結び、日本が清国と戦争をしてもイギリスは中立を守って介入しないと確約させ、翌日の17日には清国との開戦を閣議決定してしまった。
 そこからはあっという間に戦争に突入していった。

  • 1894年7月23日 日本軍が朝鮮王宮を襲撃、占拠。高宗を捕らえ、父親の大院君を新政府首班とすることを認めさせ、大院君が清国兵追放を日本に要請する形にした

  • 7月25日~28日 日本軍は清国駐留部隊を駆逐し、ソウル周辺を勢力下に置く

  • 8月1日 日本が清国に対して改めて宣戦布告し、朝鮮半島を北上しながら進撃

  • 9月 日本軍は朝鮮半島をほぼ制圧。さらに鴨緑江を越えて遼東半島に進軍

  • 11月 日本陸軍が遼東半島の旅順港を占領


 この戦争の最中である1894年9月、大院君は日本と協力して改革を進めようとしている金弘集ら開化派の官僚たちを暗殺する計画を立て、実行した。数人を殺害したところで日本側が動いた。
 大院君の孫の李埈鎔を東学党と結託して日本軍の排除を謀ったという嫌疑で逮捕させ、大院君に引退を勧告したが、大院君はこれを拒否。
 翌1895年、李埈鎔に死刑が宣告されると、大院君はほとんど錯乱状態になり、井上馨に泣きついて、なんとか流刑に減刑させることができた。しかし、井上馨は大院君を利用することを完全に諦め、漢城から離れた別邸に日本の監視付きで蟄居させた。

 さらには、1894年10月には東学党が親日政権打倒を掲げて再決起し、全琫準の指導で日本軍をゲリラ的に攻撃するなど抵抗した。
 しかしこれは日本軍と朝鮮政府軍によって退けられ、5か月ほどで殲滅された。

 大国・清を相手に日本が緒戦連戦を続けるという予想外の展開に驚いたか、1894年10月8日イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を申し出て、11月22日には清も講和交渉を申し入れてきたんだが、日本は講和の条約を有利に進めるためにはさらなる勝利が必要と考えて拒否。そのまま冬になり、日本軍は凍傷などで傷病兵が増えてかなりの痛手を被った。
 それでもなんとか勝ち戦を続けて、翌年1895年2月にはついに清国が最後の拠り所としていた海軍を壊滅させた。もはやこれまでと観念した清国は、3月に再び講和を申し出て、日本もそれに応じた。
 3月19日、すでに73歳になっていた中国全権の李鴻章が下関に来て、日本側は伊藤博文総理と陸奥宗光外相が交渉にあたった。

  • 1895年2月 日本軍が黄海と渤海の制海権を掌握

  • 3月20日 日清両国間で講和交渉が始まる

  • 4月17日 日清講和条約(下関条約)が成立

凡太: 李鴻章さんと伊藤博文さんは、1885年、甲申事変の事後処理で天津条約を結んだときも交渉していますよね。

イシ: そうだね。だからまあ、旧知の仲というか、お互いに相手のことは分かっている。
 李は交渉を始めるにあたって、交渉相手の伊藤博文が日本の近代化を成功させたことを誉め、「今回の戦争によって我が清国を長い夢から醒めさせてくれたことに感謝したい。今後は清と日本が協力して西洋列強の圧力に対抗していく必要がある」などと切りだし、和やかな雰囲気で交渉が始まったそうだ。
 その上で、李は、講和条件を煮詰める前にまずは休戦状態にしてくれと要求したんだが、日本側は、休戦にするなら、講和条約締結までの間、日本が大沽、天津、山海関などと清国内の鉄道の一部を占領することを認め、清国軍は完全に武装解除し、休戦中の日本軍の費用を負担しろ、と条件を出した。
 李は、さすがにそれはひどすぎるじゃないかと拒否したものの、日本軍が清国内に残った状態のまま交渉を進めれば、交渉はそのまま日本の要求通りに進みそうだった。
 ところが、ここで小山豊太郎という暴徒が、宿舎に戻る途中の李鴻章をピストルで銃撃し、左目の下に重傷を負わせた。

凡太: 顔に当たったんですか? あとちょっと弾がずれていたら、李さんは死んじゃっていたじゃないですか。

イシ: まったく馬鹿げたテロだよね。
 小山は群馬県の県会議員も務めた裕福な名士の息子として生まれたんだが、素行が悪くて十代で勘当されている。その後は自由党の河野広中や星亨の選挙活動なども手伝っていたんだが、この馬鹿者のおかげで、講和交渉は一気に日本側のピンチに陥った。
 講和を求めてやって来た敗戦国の全権大使を殺そうとするとは、日本は未だにそんなに野蛮な国だったのか、と諸外国から批判されてしまう。欧米列強がこれを口実に講和条約に干渉してきたら、日本はどんどん不利な条件に追い込まれかねない。

凡太: 幕末のときと同じですね。外国人を襲うテロが続いたために、せっかく幕府がいい条件で結んだ通商条約をどんどん改悪されてしまった。

イシ: その通りだね。このテロリストが自由党系の運動員みたいなことをしていたというのも、なんとも情けないよね。

 とにかく、この事件で一気に緊張が高まる中、伊藤と陸奥は、急遽戦略を変更して、李の要求通り、即時休戦に応じてなんとか講和条約を進め、最終的にはほぼ日本の思い通りの内容で調印した。

李鴻章(1823-1901)
安徽省の名家に次男として生まれ、兄も官僚。地方長官兼任で北洋通商大臣に就任し、西太后の信任を得て順調に出世を重ねる。日本に対しては、提携して西洋列強に対抗する政策と、日本が西洋列強に倣って植民地政策を進め、清の敵になる可能性の両面を視野に入れ、外交にあたった。
1781年、伊達宗城、柳原前光ら日本の使節団と日清修好条規を締結。
日本の台湾出兵時には日本との対立を避けて日本に「見舞金」を支払い、大久保利通には東洋の団結を提言した。
1876年の江華島事件でも、日朝修好条規締結に干渉せず静観。1882年の壬午事変では馬建忠を朝鮮へ派遣して大院君を拉致。1884年の甲申政変では、袁世凱率いる軍を派遣して朝鮮に親清政権を復活させた後、伊藤博文と交渉して天津条約を締結。日清戦争後も、講和条約のために来日し(これが李にとっては初めての国外行き)、下関条約を締結。
その後は、1896年、ロシアの招きでロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席後、ロシアと密約(露清密約)を結んで、事実上ロシアの満州占領を認める形に。
1900年に起きた義和団事変の収拾にも尽力し、1901年9月に辛丑条約を締結。その2か月後に78歳で病没。

日清戦争が残した日本の戦争依存症

凡太: 1年もかからずに日本が大国・清に完全勝利したんですね。なぜですか?

イシ: 清の政体が乱れきっていたことが第一の原因だろうね。このとき清の政権を実質的に握っていたのは西太后。自分の権勢を維持することしか頭にない人物で、1875年から5年続いた丁戌奇荒と呼ばれる大飢饉のときは何の救済策も採らず、1000万人以上の餓死者が出た。
 日清戦争のときも、自分の還暦祝いのために、歴代皇帝が整備してきた頤和園という庭園の再建と拡張に海軍予算の10年分、日清戦争の総費用の約3倍という莫大な費用をかけ、そのせいで清国軍が誇る北洋艦隊への予算が足らなくなってしまった。兵力としては清国軍は日本軍の何倍もあったんだが、兵士の多くが戦闘意欲に乏しい傭兵だったり、しっかり訓練されていなかったりして、質の悪い軍隊だったようだね。

西太后(1835-1908)
満州族の一族・葉赫那拉イェヘナラ氏の出身といわれているが、異説もある。后妃選定面接試験「選秀女」に合格して時の皇帝・咸豊帝の後宮に入り、長男・載淳を生む。咸豊帝の死後、クーデターを起こし、咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となっていた8人の大臣のうち3人を処刑、5人を免職にして政治の実権を握る(辛酉しんゆう政変)。
息子の載淳(同治帝)の死去後も甥を皇帝につかせ(光緒帝)、1908年に72歳で死ぬまで清国の政権中枢に君臨した。敵対する者を次々に処刑し、民政には興味がなく、瀟洒な生活に溺れ、国を弱体化させた。前漢時代の呂雉りょち、唐時代の武則天と並んで中国三大悪女の一人と数えられている。

 統制がとれていない清国軍に対して、日本は軍だけでなく、国全体が「清を倒せ」と一丸になって盛りあがっている。戦費も、国家予算の2倍以上、およそ2億円も注ぎ込んだ。気合いで乗りきった面もあったんじゃないかな。
 ただ、日本軍にも、大きな犠牲が出た。台湾上陸を狙って澎湖列島を制圧したときは、上陸前から船内でコレラが発生し、陸軍の部隊6194人のうち、1945人が発病して1257人が病死した。
 他にも軍靴不足による凍死や脚気などの病死者が全死者1万数千人のうち9割を占めた。

凡太: 太平洋戦争のときもそうですよね。実際の戦闘で死んだ兵士より、兵站が足りずに病死、餓死、凍死が多かったと聞いてます。

イシ: その通りだね。根性と気合いでなんとかしろ、みたいな馬鹿な思考が、この頃からずっと改善されずに続いていたわけだ。
 凍傷による死者が多かったことで、日清戦争後は防寒具などの研究も行われたんだが、冬季の行軍訓練で大量の遭難死者を出した八甲田雪中行軍遭難事件(1902年)なんていうのも起きたしね。

 で、ともあれ、日本はこの戦争に勝利した。
 高みの見物を決め込んでいた欧米列強諸国は、大国・清があっさり負けてしまったことに相当驚いただろうね。
 1895(明治28)年4月、日本は清の全権大使として派遣された李鴻章との間で日清講和条約(下関条約)が調印された。
 内容は、

  • 清国は朝鮮の独立を認める(宗主・藩属関係の解消)

  • 清国は日本に台湾、遼東半島、澎湖諸島を割譲する

  • 2億両(約3億1000万円)の賠償金を7年年賦で支払う

  • 日本に最恵国待遇を与える

  • 新たに4ヶ所の港を日本に対して開く


 ……などだった。

凡太: えっと、日本は日清戦争に国家予算の2倍以上にあたるおよそ2億円を注ぎ込んだんですよね? その結果、戦争に勝って、清から3億1000万円の賠償金をもらうということは、足し引きはプラスになりますか?

イシ: その通り。3億1000万円というのは、当時の日本の国家予算のおよそ3.3倍だ。日清戦争の戦費2億円を差し引いても1億円儲かったことになる。戦争で大変な犠牲者が出ているんだから、金勘定で儲かったとかいうのは極めて不謹慎なんだけれど、実際に、日本政府には「儲かった」という感覚が強かっただろうね。これ以降、戦争は勝てば儲かるという意識が植えつけられ、軍部がどんどん増長していった。
 国民世論も戦勝気分一色で、日本のあちこちに凱旋門が立てられてお祭り騒ぎが続いた。

三国干渉

 しかし、下関条約の内容にロシアが猛反発した。
 清の首都・北京に近く、朝鮮にも隣接し、良港を持つ遼東半島は東アジアにおいては重要な戦略拠点だったので、何がなんでもこれだけは日本に渡してはいけないと、フランス、ドイツを誘って圧力をかけてきた。
 戦争後で疲弊していた日本は、ここで大国・ロシアを相手に戦う余力は残っていないので、渋々これを受け入れて、遼東半島は断念した。これが「三国干渉」といって、試験にもよく出される事件だね。

凡太: 学校でも、日清戦争、下関条約、三国干渉は3点セットで覚えておけと教えられました。

イシ: うん。だから受験生はみんなこの3つのキーワードは覚えるんだけれど、日清戦争に至るまでの日本、朝鮮、清の関係や状況は知らないままだったりするんだよね。そっちのほうがずっと大切な知識だと思うんだけどね。

 で、この三国干渉によって、日本の国論は、今度はロシア憎し、今に見てろよ思い知らせてやるからな、という方向に燃え上がっていく。臥薪嘗胆がしんしょうたんなんていうスローガンが国中に浸透した。

閔妃殺害と露館播遷

 一方、戦争の舞台となった朝鮮では、日本の後ろ盾で3次にわたって内閣を組閣し、内政改革を進めていた金弘集が、日本公使館が強引に内政干渉をしてくることを嫌い、第3次金弘集内閣では、親米派、親露派閣僚も入れた連立内閣にした。
 さらには、金弘集内閣による甲午改革によって政権中枢から外されていた閔妃と閔氏グループは、ロシア公使と結んでクーデターを行い、1895年7月6日、政権を奪還した。
 このままでは朝鮮をロシアに取られると危機感を抱いた日本は、1895年10月8日、日本公使・三浦梧楼や軍事顧問・岡本柳之助らが先導してクーデターを実行。日本公使館の守備隊や警察官、朝鮮親衛隊、日本が軍事指導していた朝鮮訓練隊らを王宮に乱入させ、閔妃を斬殺し、その場で焼却した(乙未事変/閔妃暗殺事件)。

凡太: 日本人が閔妃殺害を計画し、実行したんですか?

イシ: いや、それは諸説あって、未だに詳細はよく分からないんだよね。日本が関与していたことは間違いないけれど、大院君の関与があったことも分かっているし、閔妃殺害の現場に居合わせたと伝えられている高宗とその息子の純宗は、直接の実行犯は朝鮮の反閔妃派の武官らだったと証言している。
 いずれにせよ、日本側が再び大院君を利用して閔氏政権を倒そうとした、ということは概ね間違っていないだろうね。
 これによって大院君と、次男の高宗との対立は決定的になった。

 この翌月の11月28日、今度は朝鮮親露派の元官僚・李範晋らとロシア軍、アメリカ軍水兵らが総理大臣・金弘集らを殺害しようとしたカウンタークーデター(春生門事件)が起きた。
 これは失敗して、実行者たちはロシアとアメリカの公使館に逃げた。
 ほぼ同時期、金弘集内閣が「断髪令」を発布したことがきっかけで、朝鮮各地で金弘集内閣に反対する義兵闘争が起きた。
 翌1896年2月には、高宗とその息子・純宗がロシア公使館に逃げ込み、高宗がそこで執務を取るようになった(1896年2月11日 - 1897年2月20日、露館播遷ろかんばんせん)。
 こうしてロシアに保護された高宗による親露政権ができ、金弘集内閣は潰された。
 金弘集内閣のメンバー十数人は日本に亡命したが、金弘集は「朝鮮人のために殺されるのも天命である」として亡命を拒否し、他の閣僚らと共に処刑された。光化門前で群衆の石つぶてを受けながら斬殺され、遺体はボロボロになるまで市中引き回しされたそうだ。

金弘集(1842-1896)
慶尚道慶州の出身。1880年、朝鮮修信使として訪日。1882年8月、壬午軍乱後に花房義質と交渉し、済物浦条約を締結。同年10月には清国と中朝商民水陸貿易章程を締結。閔氏政権下で清国主導による朝鮮の近代化を目指し、1894年からは科挙制度の廃止、両班リャンパン(王族以外の身分階級の最上位、官僚機構の主体)の解体、断髪令など、様々な改革を実行した(甲午改革)。
しかし、1896年、親露派の官僚らが主導したクーデターが起き、民衆によって撲殺された。53歳没。

凡太: 金弘集さんは壬午軍乱後の済物浦条約(1882年)や漢城条約(1885年1月)でも、朝鮮側の全権として日本と交渉した人ですよね。

イシ: そう。彼は混乱の極みにあった朝鮮政府の中で、相当頑張っていたと思うよ。金弘集にとっては、朝鮮がうまく生き残り、近代化していけるかどうかが問題なんであって、親日とか反日とか親露とかは、その時時の状況で対応するべきことで、本質ではなかった。クーデターに巻き込まれて斬殺されたのは残念だね。
 全琫準も金玉均も、立場は違っていたけれど、本来なら力を合わせて朝鮮のために働いていけた人たちだったと思うよ。でも、この二人は複雑な政治的駆け引きができず、最後は武力クーデターで問題を解決しようとして、最後は同じように暴力によって殺されてしまった。
 幕末にテロリストたちによって有能な人材がどんどん殺されていった日本の状況にも通じるけれど、朝鮮のほうが悲惨さや残虐さ、民衆の激高ぶりが極端な感じはするね。

凡太: 大院君グループと閔妃・高宗グループの抗争は本当に凄まじいですね。しかも、どちらも清、日本、ロシアに利用され続けて、あっちについたり、こっちについたりを繰り返して、権力欲と保身しかないような……。

イシ: その結果、一般民衆がその被害者になっている。被害者となった民衆が暴動を起こしたときの凄惨さがまたものすごい。
 日本の幕末でも同じようなことが起きたけれど、朝鮮の場合は、大院君にしても閔妃にしても高宗にしても、自分や身内のことばかりで、国をなんとかしようという気概が感じられない。

 大院君を徳川斉昭に、高宗を徳川慶喜に喩える人もいるね。
 確かに斉昭は徹底した攘夷思想の持ち主で、自分の息子を将軍にしようとした点では大院君に通じるところがあるし、国が大変な危機を迎えているときに逃げ出した慶喜の無責任さは高宗に通じるところがある。
 でも、斉昭は日本を破滅に導いた一人とはいえ、それが国の将来にとって正しいと信じ込んでいただろうし、慶喜は世界情勢を正確に把握していて、内戦なしでうまく日本を近代化させようとしていた知恵者ではあったと思うんだよ。
 大院君が朝鮮の政治を仕切っていた期間、日本という先例から、失敗例も成功例も学ばず、ただただ攘夷政策を押し通して孤立し、近代化を遅らせた。
 閔妃は権力欲の権化のような人物で、国の安定や繁栄よりも自分の欲望を満たし、地位を死守することにしか興味がなかった。
 高宗は国王でありながら政治の場面では具体的なポリシーも持たず、閔妃に牛耳られ、閔妃が殺された後はロシアに保護を求めて逃げ込んだ。
 国のトップがこれでは、どう転んだところでいい方向に行くわけがない。

 金弘集のような政治を真剣に考えて動こうとする人材も、世襲の権力構造が強固な国では能力を存分に発揮できない
 今の日本は、形の上では民主主義ということになっているけれど、政治家のほとんどが世襲になってしまい、李氏朝鮮末期のような状態に近い。これはとても怖いことだね。

 歴史を学ぶことの最大の意義は、過去に人間が犯してきた様々な罪や失敗を知り、それを踏まえて今の社会を見通す力を得るということだ。
 見通せても、個人ができることは限りがある。しかし、見通す力を持った人間が増えれば、為政者が勝手なことをできる範囲が狭まっていくと思うんだよ。

 ……あ、こういうことを言い始めると止まらなくなりそうだから、今回はこのへんにしておこう。

凡太: はい。


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