戊申戦争の裏で欧米列強はどう動いたか
イシ: 江戸城が引き渡された後も、各地で戦闘は続いた。
教科書や歴史書では「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦いとして表記しているけれど、薩長によるクーデターはまだ「政府」の体をなしていないし、東北諸藩は幕府に従うというよりは、理不尽なイジメにあっている会津藩をなんとか救いたい、このまま薩長の横暴を放っておいたら自分たちも会津のようになってしまうという恐れからの自衛のための連合という性格が強いと思うから、単に西軍、東軍と呼ぶことにするよ。
アメリカの南北戦争みたいに、国を二つに分けた戦いになってしまったわけだけれど、アメリカの南北戦争は終結して、大量に余った武器が国際的な商人たちの手で日本に売りさばかれ、日本の「東西戦争」を激化させた。なんとも皮肉だな。
慶応4(1868)年4月12日(1868/5/4) 榎本武揚が旧幕府艦隊の引渡要求を拒否し、軍艦8隻を率いて江戸を出たが、5日後に説得され、半分の4隻を新政府に引き渡す。
4月12日(5/4) 伝習隊(旧幕府の西洋式軍隊)隊長・大鳥圭介が、伝習隊のほか、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。途中で二手に分かれ、一方は下野鎮撫・香川敬三(総督府大軍監)率いる西軍が占拠した宇都宮城の襲撃に向かう。
4月19日(5/11) 宇都宮で旧幕府軍と西軍が戦闘。翌20日、旧幕府軍が宇都宮城を占領したが、大山巌や伊地知正治が統率する西軍に奪還され、聖地日光での決戦に備えるべく退却、合流。
閏4月1日(5/22) パークス、大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出(外国による最初の明治政府正式承認)
閏4月3日(5/24) 旧幕臣の一部、約2000人が千葉の船橋大神宮に陣をはり、市川、鎌ケ谷、船橋周辺で西軍約800人と戦闘状態に(市川・船橋戦争)。西軍の勝利。
閏4月3日(5/24) 請西藩主・林忠崇が「脱藩」し、旧幕府軍遊撃隊に合流。
閏4月6日(5/27) 市川・船橋戦争から敗走した旧幕臣らによる徳川義軍と西軍が養老川で対峙。房総方面最終決戦(五井戦争)。西軍の勝利。生き延びた徳川義軍の一部は榎本武揚の艦隊が収容し合流。
閏4月6日(5/27) 西軍が旧幕臣・小栗忠順を無実の罪で斬首。
閏4月11日(6/1) 徳川慶喜から江戸城登城を禁止され本国で謹慎になっていた大多喜藩主の松平正質(鳥羽・伏見の戦いの旧幕府軍総督)が大多喜城を無血開城。
閏4月15日(6/5) 請西藩主・林忠崇が藩兵や遊撃隊から成る約300名の部隊を率いて江戸湾を横断し真鶴に上陸。小田原藩や韮山代官に協力を働きかけた。しかし、5月18日(7/7)、新政府から小田原藩に対して林らの鎮圧命令が下り、林の部隊は小田原藩兵に追いやられて館山方面へと海路で退却。
凡太: 局地的に西軍への反撃が起きても、大きな影響はないみたいですね。
イシ: 慶喜が完全に降参しているからねえ。命令系統がバラバラなわけで、一体何を守るために戦うのかも分からなくなっている。もはやどうしようもない。
上野戦争
こうした局地戦の中でも、西軍勝利を日本中に印象づけたのが上野戦争だった。
5月14日(1868年7月3日)、東征大総督府(参謀・西郷隆盛)は、本拠地を本願寺から上野の寛永寺に移した旧幕府軍抗戦派による彰義隊を壊滅させることを決定。
寛永寺には徳川家の位牌や宝物があることから、幕臣の服部常純、大久保一翁、山岡鉄舟らはそれらを避難させるまで待ってほしいと願い出ると同時に、和宮を通して朝廷との折衝に当たっていた田安徳川家当主・田安慶頼も彰義隊の解散説得などを試みたが間に合わず、翌15日、西軍側が総攻撃を開始した。
指揮を執ったのは長州の大村益次郎。この人がまた超武闘派で、うまく恭順・解散させられないかとする薩摩の海江田信義と激しく対立し、西郷が仲裁に入る場面もあった。
結局、大村の武力殲滅が通り、上野に立て籠もっていた彰義隊は、西軍のアームストロング砲などの最新兵器で徹底的に砲撃され、1日で壊滅。上野一帯は焼け野原となってしまった(上野戦争)。
彰義隊側の戦死者は、徳川家の菩提寺である増上寺などが遺体の引き取りと供養を申し出ても認められず、しばらく野ざらしのままだったそうだ。そうしたことからも、大村ら長州の私怨による皆殺し作戦であったことを窺わせるね。
この砲撃のために、江戸城内の宝物を売り払って巨額の兵器購入費用に充てたり、幕府がアメリカから購入契約をしていたもののアメリカが引き渡しを保留していた軍艦ストーンウォール号の購入費用分をそっくり武器弾薬購入費に充てたりして、とてつもない戦闘費用がかかった。
そのことに対しても、薩摩の海江田は激しく大村と対立した。
凡太: 大村益二郎という人は、やることが極端なんですね。
イシ: 明治になってからも国民皆兵制や軍学校の創設などを主張して、「帝国陸軍の祖」なんて呼ばれている。陸軍の祖と呼ばれる人物としては、同じ長州の山縣有朋のほうが知られているけれど、明治以降、長州閥の陸軍と薩摩閥の海軍がことごとく対立して、効率の悪い運営を続けたことの予兆が、すでにこのときにあったと見ることができるね。
シュネル兄弟と東北諸藩
いずれにしても、大村のような武力一辺倒の人間のおかげで武器がバンバン売れて、海外の武器商人たちは笑いが止まらなかっただろう。
凡太: 武器商人というと、グラバーですか?
イシ: グラバーは儲けた筆頭だけれど、グラバーだけじゃなかった。
例えば、プロイセン(後のドイツ)出身のシュネル兄弟は長岡藩や庄内藩と深い関係を持って、武器を売っている。
凡太: シュネル兄弟? 初めて聞きました。どんな人たちですか?
イシ: 兄がハインリッヒ(英語読みでヘンリーとも)・シュネル(スネル)、弟がエドワルト・シュネルというんだけど、当初は横浜の外国人居留地の外れに小さな牧場を作って、牛乳や牛肉を売っていたらしい。
その後、兄のハインリッヒが初代プロイセン駐日領事のマックス・フォン・ブラントに、弟はスイス使節団の書記官としてそれぞれ雇われた。
新潟の開港が決まると、兄弟は新潟に移住。弟は越後長岡藩家老・河井継之助の仲介で会津藩家老・梶原平馬にライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を売り、河井もミニエー銃などの元込め式の銃を数百挺購入した。
河井はそれとは別に、横浜で商売をしていたスイスのファーブル・ブラント商会から、ガトリング砲を2門購入している。
このガトリング砲というのはアメリカで開発された最新式の連射機銃で、毎分200発撃てる。当時の日本に3門しかなかったうちの2門が長岡藩に渡ったといわれている。
ハインリッヒは慶応4(1868)年に会津を訪問。藩主の松平容保はハインリッヒに平松武兵衛の名を与え、屋敷も提供した。列藩同盟の軍事顧問にもなっている。
凡太: イギリスが薩長を応援して、フランスが徳川を応援して、プロイセンは東北諸藩を応援した、というわけですか?
イシ: まあ、そこまで単純ではないけれど、この時代、すでに世界は国単位での覇権とは別に、商売人たちが牛耳る国際資本社会に変わってきていたということかな。
ノーベル兄弟とロスチャイルド家のことはすでに学んだよね。ノーベル兄弟の父親イマヌエル・ノーベル(1801-72)は爆発物や兵器製造でクリミア戦争(1853–1856)で大儲けしている。その子供たちとロスチャイルド家が組んで、石油と武器製造で巨額の富を築いていくというのが19世紀欧米の歴史だ。
ちなみに、上野戦争で彰義隊をたった1日で壊滅させたアームストロング砲の開発者はイギリスのウィリアム・アームストロング(初代アームストロング男爵)という人物で、彼もまたクリミア戦争がきっかけで軍事産業に関わるようになった。
彼が設立したW.G.アームストロング社は、その後、合併・吸収などを繰り返し、最終的にはロスチャイルド家の傘下に入っている。
「ジャパン・パンチ」に見るプロイセン、イタリアの動き
それと、シュネル兄弟が東北諸藩に武器を売っていた背景にはプロイセンの駐日領事マックス・フォン・ブラントがいる。
当時のプロイセンはヨーロッパの新興国で、首相は「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」の異名を持つプロイセン王国首相のオットー・フォン・ビスマルク。ビスマルクは自国をイギリス、フランスと肩を並べるような地位に引き上げようとしていた。そのためにはすでに大方食い尽くされている東南アジアよりも、日本のようなまだ手のつけられていない国での利権がほしい。
その意を汲んで、ブラントは蝦夷地(北海道)に目をつけた。蝦夷地は徳川の直轄領で、会津や庄内などの東北諸藩が分割して管理していた。これから起きる東北戦争で東北諸藩に恩を売っておけば、西軍を撤退させた後に蝦夷地の権益を手に入れられるのではないか、と。そこで、ガトリング砲などの高価な武器を、代金の一部を信用貸しのような形で売りつける作戦を展開したんだ。シュネル兄弟はそのために動いた。
凡太: 西軍にはグラバー、東軍にはシュネル兄弟がついていたんですね。
イシ: そういうことだね。
イギリスのチャールズ・ワーグマンという画家が幕末の日本を描いた「ジャパン・パンチ」という風刺画本があるんだけれど、そこにも当時の日本を巡る諸外国の思惑がいろいろ描かれている。
この絵では、綱渡りをしている二人が、MIKADO(朝廷軍)とREBEL(反乱軍)のどちらにつけばいいか迷っているアメリカとオランダだろう。そのそばで、我関せずを装いながらしっかり朝廷軍(薩長)についているのがイギリス。菊の紋章の錦の御旗が見えるね。
頭に火がついている三つ葵の紋をつけた蝋燭みたいなのは会津藩だね。絵蝋燭は会津の名産品で、風刺画では会津の象徴としてよく描かれている。それを援助しようと手を差し伸べるのがプロイセンとイタリアだろう。(画像は青羽古書店 より、以下同)
↑これは、イギリス(左)、イタリア(中央)、プロイセン(右)が、それぞれに手回しオルガン(大型のオルゴールのようなもの)を下げてプロパガンダ合戦している図だ。
イギリスのオルガンには菊の御紋があって、イギリスが朝廷側であることを表している。
それに対して、プロイセンとイタリアのオルガンには葵の御紋が入っている。
イギリスの吹き出しにはローマ字で「あれは朝敵、征伐せよと、錦の御旗は知らないが、トコトンやれ、トンヤレと」と書いてある。薩長軍が偽官軍であることを知っているイギリスが戦を煽っている、ということだろう。
右のドイツ語の吹き出しは「Wir wollen ihn nicht haben den jungen Mikado. Sie sollen ihn lieber begraben in sein Kleinen Kioto.(私たちは若い天皇を望んでいない。むしろ彼をちっぽけな京都に埋葬すべきだ)」とある。
イタリア語の吹き出しは「Sul campo della gloria noi pugnerem insieme Si si la morte a lu Niigata(栄光の場で我々は共に戦うぞ。ええ、ええ、新潟で死にましょうぞ)」とある。
オルガンには当時横浜で販売合戦を繰り広げていた欧文新聞3紙の名前も入っている。
イギリスのオルガンには「JAPAN HERALD」の文字。
ジャパン・ヘラルドは文久元(1861)年にイギリス人貿易商ハンサードが創刊した英字新聞で、先駈け的存在。
プロイセンのオルガンには「JAPAN TIMES」、その後ろをついて歩くイタリアのオルガンには「JAPAN GAZETTE」の文字が見える。
ジャパンタイムズ(The Japan Times)は、西インド中央銀行の横浜支店支配人・リッカービィ(C.D. Rickerby)が不偏不党を謳って慶応元(1865)年9月に創刊。アーネスト・サトウの無記名論文を掲載したことでも有名だ。
ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette)は、当初はヘラルドの編集責任者だったスコットランド出身のJ.R.ブラックが慶応3(1867)年10月、オランダ商人の協力の下でヘラルドに対抗して創刊した夕刊紙。
これらの新聞は翻訳された日本語版もあり、日本人読者も獲得していたそうだ。
この風刺画は各国の朝廷(実質は薩長)、幕府への対応と、横浜での欧文新聞の競争を絡めたのだろう。新聞に関してはヘラルドが先発で、タイムズが2番手、ガゼットが最後発というだけで、特にどの新聞が朝廷寄り、幕府寄りということではないんじゃないかな。
(参考:「幕末・明治期の欧字新聞と外国人ジャーナリト」 鈴木雄雅 『コミュニケーション研究』第21号、1991年掲載)
凡太: イギリスが薩長のクーデターを後押しして、フランスはぎりぎりまで幕府を応援していたんですよね。イタリアというのは今まで出てきていなかったと思いますけど……。
イシ: うん。完全に出遅れている。
他の欧米列強と異なり、イタリア王国は1861年に、今のイタリアとフランスにまたがって存在していたサルデーニャ王国を中心に統一された新興国だ。
当時のヨーロッパでは、蚕が「微粒子病」という伝染病にかかり、絹産業が壊滅的な被害を受けていた。その救世主となったのが、日本からもたらされた蚕卵紙(無数の蚕種が産み付けられた厚紙)で、イタリアとしても、何がなんでも蚕卵紙の輸入を促進させたかったんだけど、日本では政情が不安定でなかなか条約が結べない。密輸に頼るしかなかった。
出遅れたイタリアも、ようやく慶応2(1866)年にイタリア海軍の軍艦で使節団を送り込み、幕府と「日伊修好通商条約」を結んだ。これにはフランスも仲介役として労を執った。
凡太: 慶応2年というと、第二次長州征討とかやっていたときですよね。
イシ: そうそう。これから徳川政権が一気に崩れていくというタイミングだね。
幕府としては新しい国との条約締結どころじゃなかった。だから、プロイセンと結んでいた内容とほぼ同じで締結したんだけれど、それだと神奈川、長崎、函館の3港でしか貿易できない。イタリアとしては大坂の開市と兵庫・新潟の開港をぜひとも含ませたいところだったんだが、日本国内のゴタゴタを見て、とりあえずそれは断念した。
幕末のイタリアの動向については未だによく分かっていないことが多いんだけれど、この風刺画ではプロイセンに追従して薩長側と対立する立場のように読めるね。
東北列藩同盟が西軍を食い止めて新潟を開港すれば、一刻も早い自由貿易を望んでいたイタリアにとっても都合がよかったことは想像できる。実際そうだったのかどうかは分からないけれど、とにかく欧米諸国がそれぞれに日本における利権を巡って動いていたことは確かだ。
ロシアの動きと北越戦争を引き起こしたサトウ
北からはロシアが蝦夷を狙っていた。
蝦夷地を狙うプロイセンやロシアをなんとしても止めたかったのがイギリスで、アーネスト・サトウは、西郷らに新潟港に軍艦を派遣して海上封鎖せよと要求した。
新潟から東北諸藩に武器が流れ込んでくると東北戦争が長引き、プロイセンやロシアがつけいるチャンスが増えるからだ。
当初、西郷らは新潟開港を求める諸外国を刺激することを恐れ、新潟港封鎖には消極的だったんだけれど、サトウは「安全を守るための海上封鎖は国際法上も認められている」と説得し、西軍の新潟進軍を主張した。
それに従って、西軍は新潟港を開城封鎖した上で、電撃上陸作戦を決行した。
東北戦争では最後まで中立を保とうとしていた長岡藩だったが、ここでついに決戦となる。長岡藩は河井継之助が購入したガトリング砲、アームストロング砲、エンフィールド銃などで応戦したけれど力尽き、河井も負傷した傷がもとで死んでしまった。
凡太: ここでも惜しい人が死んでしまったんですね。
イシ: ほんとにね。財政や農政にも力を発揮できた人だけに、本当に惜しいね。ここでもイギリスが裏で勝利したということだろうねえ。
東北戦争については、また回を改めて見ていくことにしよう。
★このシリーズはあと数回で終了し、その後は一冊の本にまとめる作業に入ります。とりあえずオンデマンド出版する予定ですが、出版社のかたで、刊行を考えていただけるかたがいらっしゃいましたらぜひご連絡ください。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。