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馬鹿が作った明治(08)渋沢栄一成功物語の裏にある藩閥政治

イシ: ではここで、渋沢栄一という人物について、改めて振り返ってみようか。
 明治になる前のことからざっとおさらいしてみよう。

渋沢栄一(1840-1931)
天保11年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれる。一橋家家臣に推挙されて、慶喜に仕える幕臣に。1867年のパリ万博に慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として加わる。帰国後、明治政府に出仕。その後、辞職し、第一国立銀行の総監役に就任。以後、多くの企業、経済団体、文化団体などの設立、運営に関わる。 伊藤博文と並んで無類の女好きとしても有名で、妾の類は数知れず、子供の数も正確には分からないとされている。

 文久3(1863)年、20代前半だった渋沢は、従兄弟らと共に高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すというテロ計画を立てた。しかし別の従兄から説得されて諦め、親から金をもらって京都に逃げた。
 京都で何もできないでいるところを慶喜に仕えていた平岡円四郎の口利きで、倒すはずだった徳川の一橋家に仕官。侍の身分を得た。
 その後、将軍の名代としてパリ万博に出席する徳川昭武の随員となってヨーロッパへ渡り、欧州諸国の近代文明を目の当たりにする。その時点で日本国内では大政奉還となり、昭武と共に帰国。
 しばらくは慶喜が謹慎していた駿府にいて、静岡藩に出仕したが、その後、大隈重信に説得されて明治政府の民部省に出仕。度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
 民部省が大蔵省に統合された後も東京大火からの復興計画などに携わっていたが、予算編成で大久保や大隈とぶつかって、退官。
 民間に下ってからは、あれよあれよという間に成功を重ねていくわけだね。

 簡単にたどれば、商売上手な農民の息子~尊皇攘夷にかぶれたテロリスト志願~一転して開国派の一橋慶喜に仕える~さらに幕府を倒した明治政府に出仕~民間に下って経済界で大成功……と、コロコロと立ち位置を変えている。節操がないというか、世渡りがうまいというか、ものすごく運がいいというか……。

渋沢は日本初の銀行の「創設者」ではない

凡太: でも、あの時代の青年がいろいろ揺れ動いたのは仕方ないんじゃないですか。その後の功績をちゃんと評価してあげないといけないと思います。

イシ: はいはい。じゃあ、渋沢の功績と言われているものには、どんなものがあるかな。

凡太: たくさんありすぎて困ります。代表的なのは日本初の銀行を創設した、とかですか。

イシ: 明治6(1873)年に設立された第一国立銀行のことだね。ただ、渋沢が「創設した」というのとはちょっと違うかな。
 明治政府も近代的な銀行の必要性を分かっていて、明治5(1872)年に太政官布告として国立銀行条例というのを制定した。アメリカで銀行制度を見てきた伊藤博文が指導し、渋沢と同僚の芳川顕正が具体的な内容を考案する作業をしている。
 ただ、渋沢は政府首脳部と度々衝突していて、最初の国立銀行条例が制定された直後に上司だった井上馨と一緒に大蔵省を退官し、民間に下っている。
 この条例に従って設立された最初の銀行が第一国立銀行なんだけれど、資本金250万円のうち、江戸時代からの豪商である小野組と三井組がそれぞれ100万円を出した。
 国立銀行というと、国が設立、運営しているように聞こえるけれど、国が認めた民間の銀行ということで、実体は普通の民間会社だった。
 第一国立銀行の運営は、2大出資者である三井組、小野組それぞれから頭取を出して、その上に最高経営責任者として総監役を置くということになったんだけれど、ちょうど大蔵省を退官して無職になっていた渋沢にその役職への就任要請がされたんだ。
 渋沢をトップに据えれば、三井と小野は喧嘩しないで済むし、無職になっていた渋沢にとっても実にありがたい話だったわけだね。
 設立後すぐに、明治政府のお雇い外国人のアレキサンダー・アラン・シャンドというイギリス人が招かれ、銀行簿記や会計の技術を教えている。渋沢もシャンドから銀行経営の実務の多くを学んでいる。

凡太: そうなんですか。渋沢栄一が創設した銀行、というのとは、かなり違う感じですね。

イシ: そうだろう? で、ここまではうまくいったんだけれど、第一国立銀行はスタートした直後の明治7(1874)年に、早くも大ピンチを迎えてしまう。小野組が放蕩経営が原因で経営不振に陥ってしまったんだ。
 それを知った政府は、為替事業に関する担保義務の割合を一気に引き上げた。それが決定打となって小野組は破綻してしまった。

凡太: 明治政府が小野組を潰したということですか?

イシ: うん、ちょっと分かりづらいんだけどね。小野組と明治政府の関係は結構ドロドロしていてね。すこし細かい話になってしまうんだけれど、当時も今も、政界と経済界の癒着や暗闘は常にあるという一例として説明しておこうかな。

 小野一族は江戸時代1600年代後半あたりから急成長した豪商で、幕府の「金銀御為替御用達」にもなっていた。
 明治になると、新政府は三井三郎助の三井家、島田八郎左衛門の島田家とともに、小野善助の小野家を「出納所御為替御用達」として指名して、為替の取り扱いを許可した。
 ここまではいわゆる「政商」ということで、明治新政府とべったりの関係だったんだけれど、明治3(1870)年に小野組転籍事件というのが起きる。
 まず、明治3(1870)年に、京都の小野屋(当時)が本社機能を東京へ移そうとしたところ、京都府権大参事・槇村正直によって為替業務の届け出1件ごとに認可が必要で、申請には必ず小野屋主人の戸籍謄本の提出を求める、といった、嫌がらせのような制限をかけられた。
 それによって業務に支障をきたした小野屋は、分家3社と合併して小野組としたんだが、問題は改善されず、明治6(1873)年には神戸と東京への転出を再度京都府庁に届け出た。
 京都としては、小野組に京都から出て行かれると、租税収入が減り、献納金もなくなるということで、これを拒否。それはおかしいだろうということで、小野組は裁判に打って出た。ところが、京都裁判所は訴状を受け取りながら、京都府庁に忖度して裁判をしなかった。

凡太: 行政と司法が癒着してしまっていますね。

イシ: そういうことだね。これに対して、当時の司法卿・江藤新平が怒って、担当裁判官を更迭。代わりに派遣された裁判官によって小野組の戸籍送付を命令したんだけれど、それでも京都府知事と大参事は命令に従わず「政府にお伺いを立てる」と、ごねて応じなかった。
 京都府は長州閥で固められていたので、長州閥が強い政府がなんとかしてくれるだろうという読みがあったんだろう。
 そうこうするうちに、江藤新平が下野してしまい、問題は解決しないままになってしまった。
 しかし、司法の命令を行政が公然と無視するのはさすがにまずいと、今度は政府内から同じ長州出身の文部卿・木戸孝允が動き、ようやく小野組の京都からの転籍が認められた。
 この時点で、小野組は明治政府内に多くの敵を作ってしまったとも考えられるね。

凡太: 小野組だけでなく、江藤新平さんもそうかもしれませんね。司法卿でありながら、最後はまともな裁判にもかけられず、斬首され、晒し首になっています。

イシ: よく気がついたね。この頃の明治政府では、藩閥の力によって平気でそうしたでたらめが行われていたんだね。
 同じ長州閥の山縣有朋も、同郷で奇兵隊時代の部下だった御用商人・山城屋和助に無担保で多額の陸軍省公金を貸し付けた末に返済不能になるという山城屋事件を起こしている。
 長州閥だけじゃなく、薩摩閥もかなりひどかった。黒田清隆は開拓使官有物払下げ事件を起こしているし、妻殺し疑惑では、同じ薩摩閥の大久保や初代大警視・川路利良に助けられている。

凡太: 酒に酔って帰宅し、嫌みを言った奥さんを斬り殺したという噂の件ですね。

イシ: そう。今となっては真相は分からないけれど、限りなく黒だといわれている。他にも、北海道で意味もなく船から大砲をぶっ放して、直撃された漁師の家が潰れて娘が死んでしまった事件などは隠しようもない事実だし、そういうことをやりながら政府の重職を担い続けていたんだからね。

渋沢のピンチを救った二人の救世主

 ただ、小野組の破綻は、小野組内部にも大いに原因があった。
 小野組は三井、島田と共に公金の収支ができる「為替方」だったため、多額の国庫金を無利子無担保で運用して、生糸貿易や鉱山経営など、事業拡大を図った。しかし、そのやり方がかなり強引かつ放漫だった。各地の豪商らを次々に傘下に入れていき、明治6(1873)年には支店数が40を超えていたんだが、支店間の連携もきちんととれていなかった。
 小野組の経営が危ういことを悟った政府は、小野組に預けてある国庫金が戻って来ないことを恐れ、矢継ぎ早に為替の担保を引き上げていった。
 当初は事実上無担保だったものを、明治5年5月には、為替方の府県送納の租税金は一県につき1万円の証拠金の上納を義務づけ、翌明治6年からは預け金に対しての担保をつけることを課した。担保金額はどんどん引き上げられ、明治7年10月にはついに預け金額と同額にされてしまった。
 小野組はこれに耐えられず、破綻を表明し、政府に御用御免を願い出て、持ち資金のすべてを大蔵省に提出した。
 で、倒産した小野組には第一国立銀行からも多額の融資をしていた。

凡太: わぁ、渋沢さん、大ピンチですね。

イシ: そう。このとき、第一国立銀行が小野組と一緒に破綻していたら、その後の渋沢の活躍もどうなっていたか分からないね。
 実は、第一国立銀行が小野組に対して行った貸し付けもまた、放漫と言うしかないようなものだったんだ。
 貸し付け金は小野組に対して90万円あまり、他に小野組の実力者・古河市兵衛個人に対して67万円あまり。第一国立銀行の資本金は250万円だから、資本金の半分を軽く超える巨額を実質無担保で小野組に貸し付けていたことになる。

凡太: それじゃあ、小野組と一緒に潰れるしかないですね。

イシ: うん。しかし、渋沢はとてつもなく運がよかった。助け舟が現れたんだ。
 渋沢にとっての救世主は二人いた。
 まずは渋沢が大蔵省にいたときの上司でもある井上馨。小野組がいよいよ危ないという情報も、渋沢は井上から聞かされている。その際、日本の経済界のために、設立したばかりの国立銀行を潰すわけにはいかない。何がなんでも小野組から資金を回収する覚悟を決めろ、というように念を押されている。
 井上は小野組が潰れても第一国立銀行が連鎖倒産しないよう、政府内に対しても工作に奔走している。

井上馨(1835-1915)
長州萩藩士の家に生まれる。青年期は尊皇攘夷に燃え、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らと共に英国公使館焼き討ちにも加わるなどテロ活動も行うが、伊藤らと共に英国へ密留学し(長州ファイブ)、開国攘夷論に転じる。 幕末には断固たる武力倒幕を主張。明治政府では参与となり、木戸孝允の引き立てで大蔵省入りし、大蔵卿・大久保利通が外遊中は事実上大蔵省のトップとして三井などの政商保護政策をごり押しするなどしたため、「いま清盛」「三井の番頭」などと呼ばれた。結果、司法卿・江藤新平らと対立。明治6(1873)年に江藤らに予算問題や汚職事件を追及されて渋沢栄一と共に下野。 その後、三井組と組んで先収会社(三井物産の前身)を設立。しかし、伊藤に説得されてすぐに政界復帰。木戸の病没、大久保の暗殺の後は、伊藤と共に長州閥の長老格として政財界に君臨した。

 もう一人の救世主は、盛岡小野組で生糸貿易で大成功を収めていた実力者の古河市兵衛だ。

凡太: あれ? 古河さんって、第一国立銀行から67万円も借金していた人ですよね?

イシ: そう。当時の小野組を代表する人物と言ってもいいやり手だ。
 古河は自ら渋沢のもとを訪ね、第一国立銀行の連鎖倒産を防ぐため、自身が管理している全財産、生糸でも米でもすべてを、改めて抵当として差し出すと申し出てきた。

古河市兵衛(1832-1903)
京都岡崎の庄屋の息子として生まれたが、家は没落し、幼少期から豆腐を売り歩く貧乏暮らしをした。盛岡南部藩で高利貸しをしていた親戚のもとで修業を積み、後に京都小野組の番頭・古河太郎左衛門の養子となる。小野組では東北地方の生糸を横浜に送って売りさばく商法で成功し、小野組の指導者的立場にまで登りつめた。 小野組破綻後は足尾銅山を買収して成功を収め、古河財閥を築いた。

 この二人の協力があって、小野組は潰れたけれど、第一国立銀行は生き残った。
 倒産を辛うじて免れた第一国立銀行には政府からの会計監査が入り、再びアレキサンダー・アラン・シャンドが派遣された。
 ちなみに、小野組が潰れた後、古河市兵衛は独立して、廃坑同然だった足尾銅山を買い取って近代化して大成功を収めた

三菱の岩崎弥太郎との違いと共通点

凡太: 足尾銅山といえば、鉱毒問題も起きましたね。

イシ: そうだね。足尾銅山には渋沢栄一も出資している。第一国立銀行倒産の危機を救ってもらったときからの縁ということもあるだろうね。
 小野組と三井組は第一国立銀行の共同出資者ではあっても、ライバル関係。小野組の破綻にも三井は裏で暗躍していたなんて話もあるけれど、政財界におけるそういうドロドロした話はいつの世にもあった。
 岩崎弥太郎の三菱も、同じ土佐出身の後藤象二郎が、政府の紙幣貨幣全国統一政策で各藩の藩札を買い上げるという情報を弥太郎に流したことで巨利を得ている。品川からの情報で、弥太郎は事前に各藩の藩札を大量に買い集めて政府に買い取らせ、利ざやを稼いだんだ。いわゆるインサイダー取引だね。
 その後も、事実上国有企業だった日本国郵便汽船株式会社の放漫経営に危機感を覚えた政府が、当時じわじわと頭角を現してきた三菱に目をつけ、大隈重信らがしっかり後ろ盾となって政府が手厚く保護したことで急成長していった。
 ところが大隈が失脚すると、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎が三菱批判を始めた。このときは渋沢栄一や三井財閥、大蔵財閥が出資して、三菱に対抗する共同運輸会社を設立している。

岩崎弥太郎(1835-1885)
土佐藩出身。安政5(1858)年、吉田東洋の少林塾に入塾し、東洋の甥・後藤象二郎らと知り合う。幕末には土佐藩の開成館長崎商会主任としてグラバーら外国商人との取り引き窓口を担当。解散した海援隊の残務整理も行う。 明治以降、三菱商会を立ち上げ、海運業を中心に政商として成功を収める。明治18(1885)年、満50歳で没。

凡太: 三井と三菱はこの頃からライバル関係にあったんですね。

イシ: どちらも政商として巨利を得たという意味では同じ穴のむじなだけれどね。

凡太: むじな??

イシ: 似たようなものだ、ってことさ。三井には長州閥の井上馨や品川弥二郎、さらには井上の部下だった渋沢栄一がついていて、三菱には大隈重信や福沢諭吉がついていた。
 人付き合いがうまく、時勢を読みながら協力関係を広げていった渋沢栄一と、ワンマン経営で敵も多かった岩崎弥太郎は何かにつけ考え方が対立したと言われているけれど、共通しているのは、いくさや政府の対外進出戦略に乗って成長したという点かな。
 三菱は、台湾出兵の際に、日本国郵便蒸汽船会社が軍事輸送を躊躇ったためにそれを一手に引き受けることになり、特別助成金も得て成長した。明治10(1877)年の西南戦争でも、三菱は7万の政府軍と、武器・弾薬、食糧の輸送を引き受けた
 渋沢や三井が出仕して三菱の追い落としをはかって設立した共同運輸会社とは、しばらくは熾烈なダンピング合戦を繰り広げていたけれど、それでは共倒れになってしまうということで、合併して日本郵船となった。

 渋沢栄一は朝鮮・中国への進出を積極的に進めた。政府が反対しても朝鮮に第一国立銀行の支店を設置し、朝鮮の砂金買い付けや朝鮮政府への融資を始めた。これも明治政府内の長州閥との結びつきなしではうまくいかなかっただろう。
 明治27(1894)年に日清戦争が勃発すると、戦争特需で巨利を得て、朝鮮における経済活動を仕切った

 こんな風に、いつの時代でも政界と経済界は密接につながっている。その絡み合い方も単純ではないから、一般市民には立ち入れない世界になっている。
 巨額の金が動くことで経済も技術も発展するわけだけれど、その裏では多くの騙し合いや裏切り、命のやりとりや犠牲者が生まれるということを忘れてはいけない。単に、○○を創設した偉人、とか、○○の生みの親とか言って持ち上げられるだけの人物像ではないんだ。

凡太: はい。よく分かります。でも、やっぱり、そういう人たちの下の下、末端でひたすら働かされる人間よりは、悪事を呑み込みながらでも人やお金をいっぱい使える立場の人間のほうが羨ましいです。

イシ: う~ん、まあ、それはそれで……ここではツッコまないでおくよ。


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