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馬鹿が作った明治(09) 自由民権運動とは何だったのか?

凡太: 明治政府が未熟で横暴な政府だということは大体分かりました。それで、そうした政府に対して民衆が抗議の声を上げたのが自由民権運動ですよね?

イシ: ああ~、う~ん。なんと言ったらいいのかな。日本における自由民権運動というのは、そう簡単には説明できないところがあるんだよね。
 教科書には「板垣退助、後藤象二郎らが、大久保が牛耳る政府の専制を批判して、明治7(1874)年1月に民撰議院設立の建白書を突きつけたことに始まる民衆運動」みたいに説明されていると思う。
 それだけを読めば、薩長藩閥政治の横暴さと腐敗ぶりに、民衆が異議を唱えた運動、みたいにとれるよね。日本における民主主義の芽生えは民衆の側から生まれた、みたいな印象かな。
 でも、この運動を始めた板垣は、生粋の尊皇派で、いわゆる自由主義や民主主義からはほど遠い考えの人だった。

凡太: 幕末でも、武力を使わない政権移行を目指していた土佐藩の中で、バリバリの武力倒幕派でしたよね。戊辰戦争でも会津に攻め入った先頭に立っていたし。

イシ: そう。藩主に無断で薩土倒幕の密約を結び、土佐藩邸に相楽総三や元天狗党浪士を匿った末に、薩摩藩へ引き渡したのも板垣。その連中が西郷の指示で江戸とその周辺で放火、強奪、無差別殺人などのテロ活動をやり続けた。あれがなければ戊辰戦争の状況は大きく変わっていたはずだ。
 板垣がいなければ、土佐藩は最後まで穏健な公武合体路線を捨てることはなかったかもしれない。戊辰戦争の戦犯の一人、日本を壊したとも言える人物だよ。
 その板垣が起こした自由民権運動というのは、征韓論が通らず、明治政府内の権力闘争に敗れて下野したため、今度は民衆を味方につけて政府に向かって吠えた権力闘争……という見方もできる。自由とか民の権利とか、そんなきれいな言葉で飾られるようなものではなかったんじゃないかな。

板垣は藩閥政治が産み落とした鬼っ子

凡太: でも、板垣さんも、歳を取って改心したとか、ようやく正しい方向を見るようになったということじゃないんですか?

イシ: 私はそうは思わないけれどね。まあ、こればかりは分からないね。ただ、ざっくり言えば、藩閥政治が産み落とした鬼っ子みたいな面もあると思うよ。

凡太: 鬼っ子? どういうことですか?

イシ: ああ、ちょっと意味が通じなかったかな。薩長の藩閥政治からはじき出されてしまったけれど、簡単には消えない暴れん坊みたいな……。
 いわゆる「薩長土肥」の中で、明治新政府で権力の座を固めていったのは薩長だけで、土肥(土佐と佐賀)は徐々に排除されていったわけだよ。
 肥前藩(佐賀藩)の代表格である江藤新平は、司法の独立を死守しようとした真面目で有能な人物だったけれど、政府からはじき出され、最後はまともな裁判もされずに斬首され、晒し首にされた。
 同じ佐賀の大隈重信も、当初は薩摩の大久保利通について順風満帆に出世していくかに思えたが、「開拓使官有物払下げ事件」に端を発する明治十四年の政変で下野してしまった。

 しかし、開拓使官有物払下げ事件と明治十四年の政変については別の回で詳しく検証することにして、ここでは自由民権運動と呼ばれているものがどんな変遷を辿ったかをもう少し詳しく見ていこう。
 板垣退助の行動を中心にまとめてみると、

  • 明治6(1873)年、地租改正による重税で小規模農家が没落。失業した者たちを安い労働力として取り入れたことで、三井、三菱らの政商が成長し、明治政府の資金源として癒着。不満を爆発させた民衆が各地で一揆を起こす

  • 同年、征韓論に破れた西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが一斉に辞職し、政界から下野(明治6年の政変

  • 明治7(1874)年1月、板垣は一緒に下野した後藤象二郎や江藤新平らと共に、大久保が仕切る政府への対抗策として愛国公党を結成し、政府に「衆によってばれた者たちによる議院設立すべき」という「民撰議院設立の建白書」を提出。その内容は新聞などでも紹介され、当時、福沢諭吉中村正直らが西洋での考え方として紹介した「天賦人権論」が民衆の間でブームになりつつあったこともあって、自由民権運動として各地で火がついていく

  • しかし、メンバーの江藤新平が担ぎ上げられた佐賀の乱に破れ、斬首晒し首になったことで愛国公党はすぐに自然消滅。同年、土佐出身の片岡健吉を社長に立てて立志社を設立

  • 明治8(1875)年1月、台湾出兵をめぐる意見対立から長州閥のトップである木戸孝允まで辞職してしまった政府を建て直すべく、独裁体制を敷いていた大久保利通が、井上馨、伊藤博文、五代友厚らの仲介で、木戸孝允、板垣退助と会合を持つ(大阪会議

  • 同年2月、板垣は全国の自由民権運動を束ねるために、大阪で愛国社を結成

  • 大阪会議で、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立などが大久保に受け入れられ、同年4月、天皇から「漸次立憲政体樹立の詔」が発布される。これによって態度を軟化させた板垣は、木戸と共に参議として政府内に復帰。元老院(立法)、大審院(司法)、地方官会議の3機関が新設された

  • しかしこれは大久保としては、板垣を野に放ったままでは反政府運動が激化するばかりだと読んだための「囲い込み」懐柔策だった

  • 「漸次立憲政体樹立の詔」は天皇の言葉として出されたもので、「元老院(立法)、大審院(司法)を設置し、地方官の召集(民意を通した公益拡充)を図り、ゆっくりと立憲政体を立てていきたいので、私(天皇)を補佐しなさい」といった内容。曖昧模糊としていて、「漸次(だんだん、ゆっくりと)」などと書かれていて期限も定めていないので、愛国社としては突っ込みたいところだったが、トップの板垣が政府内に囲い込まれてしまったためにグズグズに

  • 同年6月、政府は讒謗律、新聞紙条例を制定し、自由民権運動を報じる新聞社、出版社を弾圧

  • 板垣は政府内復帰後すぐに、地方官会議の権限をめぐって木戸と対立。さらには江華島事件の処理をめぐっても意見が対立し、10月に参議を辞任

  • 明治10(1877)年、愛国社は政府から圧力をかけられて解散

  • 同年6月9日、西南戦争の最中に高知の立志社が国会開設の建白書を京都行在所に提出したが不受理。8月には立志社から西南戦争に加担した者がいたとされ、社長の片岡健吉が逮捕され、禁錮100日の刑に

片岡健吉(1844-1903 満59歳没)
土佐藩士の子として生まれる。戊辰戦争では板垣(乾)退助と共に会津を攻略。明治新政府に出仕後、ロンドン留学を経て海軍中佐。明治六年の政変で板垣らと共に辞職して高知へ。翌年、板垣らが創設した立志社の初代社長に。 明治12(1879)年、高知県議会の初代議長に就任したが、県会議員選挙の制限選挙制に反対して1か月で辞職。明治16(1883)年、プロテスタントの洗礼を受ける。明治20(1887)年、保安条例違反で禁固2年半の刑に処される。出獄後、第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後8回連続当選。明治31(1898)年以降、死去まで衆議院議長。

凡太: なんだか板垣さんの周辺って、ずーっとグズグズですね。政府とやりあってはくっついたりしていて。

イシ: そういう脇の甘さも計画性のなさも、自己顕示欲から来ていると思うよ。板垣の性格や弱点を見抜いている大久保らにうまくあしらわれている感じだね。

 で、自由民権運動はそのまま萎んでいくのかと思われたが、西南戦争で明治政府を倒すのを旧士族に頼っても無理だと思い知らされた民衆が、思想と言論で戦うしかないと切り替えたのか、ますます活発化した。
 西南戦争後の動きを見ていこう。

  • 明治11(1878)年、愛国社が復活。それまでの自由民権運動は西日本の士族が中心だったのが、農民を含めて全国から人が集まってきた

  • 明治13(1880)年、愛国社は国会期成同盟と名称変更し、約13万人の署名を集めて政府へ国会の早期開催を要求するが、政府は無視し、集会条例を制定して運動を規制

  • 明治14(1881)年、北海道開拓使官有物払い下げ事件が勃発し、自由民権運動がさらに激化。政府内では伊藤博文派と大隈重信派の対立が深まり、大隈は政界から追放される

  • 同年10月、政府は天皇から国会開設の勅諭を出す形で運動激化の沈静化を図る。明治23(1890)年に国会を開設するという内容。板垣はそれに合わせてフランス流の国会開設(国のトップは国会が選出する)を目指して自由党を結成

  • 明治15(1882)年、下野した大隈重信も、イギリス風の国会開設(天皇をトップとするが、政治の実権は国会が選出した首相が持つ)を目指して立憲改進党を設立

  • 同年11月、福島県令・三島通庸の圧政に福島県議会議長・河野広中らが抗議し、それを三島が弾圧して福島事件として大量の逮捕者が出た

福島事件の実相

凡太: 河野広中さんも、自由民権運動のリーダーとして有名ですよね。ここでようやく名前が出てきました。

イシ: そうだね。「西の板垣、東の広中」と呼ばれていたとか。
 では、河野広中についても細かく振り返ってみよう。

河野広中(1849-1923 満74歳没)
商売も手広く営む三春藩郷士の家に生まれる。青年時代は尊皇攘夷に傾倒。戊辰戦争では三春藩の奥羽越列藩同盟離反、西軍への帰順を指導。その後、土佐藩迅衝隊に合流して二本松藩への攻撃、会津戦争に参加。 明治6(1873)年、中村正直が訳した『自由乃理』(ジョン・スチュアート・ミル著)を読んで自由民権運動に参加。明治8(1875)年、福島県石川町で石陽社を創設。東北地方での自由民権運動を主導。 明治13(1880)年4月、片岡健吉と共に全国から集めた8万7000名の書名を添えて太政官と元老院に国会開設の請願を提出するも却下される。明治14(1881)10月、自由党結成に参加。明治15(1882)年、福島県令・三島通庸の圧政に抗議して福島事件が起き、内乱陰謀の容疑で検挙され、翌年、軽禁獄7年の刑を宣告される。明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦で出獄。後藤象二郎の大同団結運動に参加。明治23(1890)第1回衆議院議員総選挙で当選。以後、大正9(1920)の第14回衆議院議員総選挙まで連続当選。

凡太: 河野さんも板垣さんに負けず、大変な人生ですね。

イシ: 幕末に尊皇攘夷にかぶれていて、戊辰戦争では、東北人でありながら、板垣と一緒に会津に攻め入っている。その後の転身ぶりも似ているよね。
 私としては、三春藩が東北諸藩を裏切って薩長軍についたときの主導者という点がどうしても引っかかっていてね。三春藩の離反で、隣の二本松藩は一方的に攻め込まれ、少年兵も含めて大量の戦死者を出した。会津藩でも有名な白虎隊の自決という悲劇があったけれど、二本松藩の少年たちの最後はさらに凄惨を極めた。以後、二本松では三春の人間との結婚を許さなかったとか、そのへんの話はすでにしたね。

凡太: でも、福島事件では民衆の側に立って戦ったのに投獄されてしまうんですよね。

イシ: いや、それもちょっと違うんだ。ある意味、河野は福島事件そのものを引き起こしてはいないんだよ。
 では、福島事件とはどんなものだったのか振り返ってみよう。

 福島事件は、一言でいえば福島県令・三島通庸みちつねが一方的に起こした公権力乱用による自由民権運動弾圧事件だ。

三島通庸(1835-1888 満53歳没)
薩摩藩士の長男として生まれる。精忠組の一員として寺田屋騒動に関与したが、説得に応じて離脱したために命拾いし、自宅謹慎に。戊辰戦争では西軍で越後路~会津と進軍。大久保利通の計らいで明治新政府に出仕。 明治7(1874)年12月、酒田県令(旧庄内藩)に着任。わっぱ騒動と呼ばれる農民の反乱を弾圧。道路・橋梁整備に力を入れ「土木県令」と呼ばれる。 明治13(1880)年、栃木県の那須野ヶ原の土地を借り受けて開墾(後の三島農場)。 明治15(1882)年1月、福島県令兼任となり、その強硬な姿勢と自由民権派の弾圧で福島事件を引き起こす。 明治18(1885)年12月、第5代警視総監に就任。翌年2月に保安条例が公布されると、「危険人物」とされた尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨者たちの排除を積極的に進めた。 明治21(1888)、警視総監在任中に脳溢血で倒れ、死去。満53歳没。

 三島は福島県令に着任すると、「それがしが職にあらん限りは、火付け強盗と自由党とは頭をもたげさせず」と公言し、自由党、自由民権運動との対決姿勢を鮮明にした。
 そしてすぐに、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事に着手した。
 まずは会津地方の六つの郡の郡長を集めた会議を開き、国の補助金が全体予算の半分にあたる26万円あるが、残り分を埋めるために、会津地方の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月1日人夫として働かせるか、労働できない住民からは代夫金を徴収する、といった説明をした。
 山に囲まれた会津地方にとって道路の開通は悲願でもあったので、郡長たちはこの工事を受け入れることを決定した。
 ところが、郡長会議での同意を得ると、三島は説明した内容を反古にして、全体予算は48万円で、国の補助金は9万8千円しかない。残りの38万2千円は全部住民の負担だとした。そして、工事が始まる前から代夫金の取り立てを始めて、従わない者の財産を没収して競売に出すと言い出した。
 これに農民たちが猛反発。会津自由党のリーダー・宇田成一や、会津を地盤に自由民権運動を展開していた佐治幸平らが反対運動を率い、演説会を開催したり、意見書を提出したり、地元の代表者による会議の開催を要求したりした。

佐治幸平(1861-1917 満55歳没)
陸奥国大沼郡高田村(現福島県大沼郡会津美里町)出身。福島師範学校で教員免許を取得し小学校教員に。自由民権運動に目覚めて演説会などを開く。三方道路建設反対運動の中心人物として逮捕され、軽懲役6年の判決が下るが、大審院に上告し、明治22(1889)年に無罪確定。福島県会議員を歴任し、若松・高田間の道路開設、阿賀川の高田橋架橋、岩越鉄道会社設立など、多くの公共事業を指導。明治27(1894)年、第4回衆議院議員総選挙で当選し、衆議院議員に当選。明治36(1903)年11月、若松市長に当選(平民出身初)。

 佐治幸平らは、六郡連合会議の再開催を求めて運動したんだが、郡長が拒否。さらに、三島が旧会津藩士・町野主水らを集めて「恩貸授産金」という報酬で抱き込み、三島のための御用政党・会津帝政党を作らせ、自由党党員や自由民権運動勢力への弾圧を強めた。旅館に泊まっていた宇田らを帝政党のメンバーが襲う流血事件も起きた。 

凡太: 会津士族だった人たちが、薩摩閥の県令に従って、同じ会津の人を襲ったりしたんですか?

イシ: そういうことだね。戊辰戦争勃発の引き金として薩摩がテロリストを雇って江戸で暴れさせたことを思い起こすよ。明治になってもそういうやり方は少しも変わっていない。

 県会議長河野広中ら福島県議会も、三島が提出した前年度2.5倍の地方税増税を廃案に追い込むなどして対抗した。
 宇田や佐治ら反対運動のリーダーは、力では対抗できないと知り、法令に則って、県令や郡長を相手に訴訟を起こすことにした。
 そのために、農民の代表約70人による「権利回復同盟」を結成。そして、六郡連合会議を再開催して道路工事計画を民意に添った形で作り直すという方針を打ち出す。これに賛同する者は7000人以上に膨れあがった。
 この訴訟は原告4000人の署名で提出され、農民たちは裁判が確定するまでは労働にも代夫賃支払いにも応じないと届け出た。
 これを見て、県令・三島は徹底的な弾圧を決意。警察官約400名と帝政党員を会津に派遣して、郡長に代夫賃を納めない者の財産を公売にかけると宣言させるなどした。郡長の中には農民の財産没収を自ら指揮する者もいた。
 こうして、戊辰戦争でひどい目に合った同郷人同士がいがみ合う分断が引き起こされた。

 事の起こりは、財産の保護保全を求める訴えを起こした2名が官吏侮辱罪として逮捕され、若松署に移送されると知った農民約2000名が集結して抗議したことに始まる。それを見て警察は移送を断念したが、代わりに反対運動同盟の指導者である宇田や佐治を逮捕した。
 この逮捕に抗議するために、今度は約3000名の農民が弾正ヶ原に集結。代表者が警察署に行って逮捕の理由を糺し、釈放を求めることを決定した。
 集会解散後、代表者が喜多方警察署に向かったんだが、そこに300名以上の農民も同行し、代表が交渉している間も警察署を取り囲んで抗議の声を上げた。中の一人が激高して石を投げたのをきっかけに、警官たちが抜刀して農民たちを襲って蹴散らした。
 これが喜多方事件と呼ばれるもので、福島事件の発端だ。
 この翌日、警察は権利回復同盟の本部に踏みこんで40人以上の同盟員を逮捕した。三島はこのとき東京にいたんだが、「関係者を全員逮捕せよ」と電報で指示した。これを受けた警察が、福島市内にある福島自由党の拠点となっている無名館を、巡査隊と福島監獄看守らで包囲して突入。喜多方事件に関与していない河野広中ら自由党員25名を逮捕。その後、喜多方事件にはまったく関係していない県会議員や有力者が、河野らと交友があったとか自由党を支援していたといった理由で次々に逮捕され、逮捕人数は約2000人になったといわれている。逮捕者の中には拷問が加えられたり、北海道の刑務所に送られる者もいて、獄死者も出た。

凡太: なんでそんなひどいことに? そもそも、宇田さん、佐治さんたちが作った権利回復同盟は、道路建設工事そのものに反対していたわけではないんですよね?

イシ: そう。道路を作ることには賛成だけれど、そのやり方がおかしいから、郡長会議をやり直してきちんと話し合いをし、住民たちが納得できる方法を考えましょう、という、極めてまっとうな主張をしたにすぎない。

凡太: それで、宇田さん、佐治さん、河野さんたちはその後どうなったんですか?

イシ: 河野、宇田、佐田を含む約60名が内乱を策謀した国事犯とされて東京へ移送されたが、宇田と佐治は証拠不十分として無罪になった。そもそも二人は、弾正ヶ原の集会が行われているときはすでに逮捕されていて、現場にはいなかったんだからね。
 河野ら6名のみが有罪とされ、河野は軽禁獄7年の刑を宣告されて収監され、明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄するまで6年間、獄中生活を余儀なくされた。

凡太: だけど、きっかけとなった喜多方事件に河野さんは直接関係してはいないんですよね? 完全な国策逮捕じゃないですか?

イシ: 国策というかなんというか……三島が薩摩閥の人間でなければ、ここまで一方的な警察権力の乱用はできなかっただろうね。

 河野らが国事犯とされたのは、警察が福島自由党の拠点である無名館に踏み入った際、「無名館血誓書」なる決意文書のようなものを押収したからだ。その第一条には「我が党は自由の公敵たる専制政府を転覆し、公議政体を建立するを以て任となす」と書かれていた。「政府を転覆する」ことが目的だと公然と書いてしまっているんだね。さらには第五条では「我が党の密事を漏らし、及誓詞に背戻はいれいする(そむく)者ある時には、直ちに自刃せしむべし」とも書かれていた。
 こういうところが脇が甘いというか、熱情に浮かれて動いていて危ういというか、彼らの弱点でもあるといえるだろうね。
 この文書がなければ、河野も宇田や佐治同様に無罪放免になっていたかもしれない。

 一方、無罪が確定した宇田や佐治は、その後も公正な道路工事実施のために新たな訴訟を起こそうと動いたんだが、三島が「官吏侮辱罪」で逮捕させるという弾圧を執拗に続けたために、権利回復同盟による訴訟運動は断念するしかなくなってしまった。

 ここで注意したいのは、宇田や佐治らは、あくまでも話し合いや裁判という手段で三島の横暴に対抗しようとしたという点だ。それを暴力と公権力で抑え込んだのは官権側。それも三島という一個人が中心となって権力を乱用した組織暴力といってもいい。

凡太: ここまでの話が事実なら、農民側はせいぜい警察署に石を投げた程度ですよね。

イシ: そう。一方の公権力側は、会津藩の士族の生き残りを利用して運動を率いるリーダーがいた宿を急襲したり、事件に無関係な者まで逮捕して拷問したりしている。
 福島事件は、同時期に起きた秋田事件(明治14年)、高田事件(明治16年)、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件(以上、明治17年)、静岡事件(明治19年)などと一緒に「自由民権運動激化事件」などとひとまとめにされることもあるけれど、そのくくり方には大きな問題がある。
 自由民権運動激化事件と呼ばれている一連の事件は、それぞれ性格や背景が異なっている。
 加波山事件は河野広中の甥・河野広躰らが計画した三島や政府大臣らの爆殺未遂事件だけれど、高田事件などは自由民権運動家を弾圧するためのほとんどでっちあげ事件ともいえるものだった。
 特に、福島事件は、自由民権運動の運動家が農民を指導して起こした「激化事件」ではない。横暴な政治に民衆が民主的な方法で抗議しようとしたことを利用して、三島ら公権力側が自由民権運動を一気に弾圧し、根絶やしにしようとしたというのが実状だろうね。

 福島事件以後、福島での自由民権運動は一気に萎んでいく。
 長くなったので、この後、自由民権運動や政府内の権力争いがどのように推移していったかは、次の回でまとめよう。


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