馬鹿が作った日本史(32)小栗忠順、栗本鋤雲、赤松小三郎らの無念
イシコフ: さて、今回はいよいよ戊申クーデター勃発まで行けるかな。
最初に私がいちばん言いたいことをまとめると、西郷隆盛と大久保利通(当時は一蔵)らが、薩摩藩を公武合体から倒幕に方向転換させたことの大罪。そして、そこから起きた戊申クーデターで多大な犠牲が出たのは、西郷隆盛と徳川慶喜に大きな責任がある、ということ。
いわゆる「明治政府史観」では、徳川を悪者に仕立て上げるために慶喜の無責任さや弱腰ぶりはある程度描かれるけれど、西郷や大久保の極悪非道な行動は隠されてきた。
最終的には西郷は明治政府を出て、西南戦争で政府軍によって死に追いやられるわけだけれど、その一連の流れは明治政府にとっては癒しがたい傷というか、絶対に表に出したくない恥部なんだよね。だから西郷の暗部は隠し、悲劇のヒーローみたいに脚色している。
ましてや、大久保は明治政府で大蔵卿などの要職に就き、西南戦争では西郷を討つ政府軍の側だから、明治史観からすると、まずいことは記録に残せない。
凡太: え? 西郷さんや大久保さんはそんなにひどいことをやっていたんですか?
イシ: 印象操作というのは怖ろしいものでね。上野の西郷像なんかもふっくらした人間味のあるおっさんのように作られているけれど、あれはまったくの嘘。あの顔も全然違う。写真が残っていないのが幸いして、勝手に懐の深い豪傑みたいに印象づけられているけれど、実際には狡猾で、非情な人間だったと思うよ。
なぜそう言えるのか。まずは薩長同盟が結ばれた慶応2(1866)年初めから順に史実を追っていこうか。
慶応2(1866)年の出来事
1月21日(1866年3月7日) 薩摩の西郷隆盛、小松帯刀と長州の桂小五郎(木戸孝允)の間で薩長同盟の密約が結ばれる
1月30日(西暦=3/16 以下同) アーネスト・サトウ、ジャパン・タイムスに匿名で論文を寄稿。後に翻訳され『英国策論』として出版される。
3月1日(4/15) 長州藩主毛利敬親父子に蟄居の幕命下るも長州は無視。
5月13日(6/25) 英米仏蘭に迫られ、幕府は輸入関税の引き下げを呑む。その後、ベルギーやイタリアとも修好通商条約を締結。
6月7日(7/18) 幕府艦隊による第二次長州征伐開始。薩摩藩は西郷の指示で出兵を拒否。
7月20日(8/29) 将軍・徳川家茂死去(満20歳)
8月20日(9/28) 幕臣・小栗忠順がロッシュの仲介によりフランスからの600万ドルの借款契約に成功。幕府の近代化と軍事力の強化が進む。
凡太: わあ、ここでも超優秀な幕臣が殺されてしまっているんですね。
イシ: 本当に残念だね。小栗が慶喜に提案した薩長軍迎撃作戦の内容を後になって知った大村益次郎は「その作戦で迎え撃たれていたら我が軍は壊滅していただろう」と震え上がっている。実際、それだけの兵力が幕府にはあった。榎本武揚率いる艦隊は実際に強かったし、陸軍も小栗らの強化策が実って力をつけていたからね。
まあ、この話は後で改めてしよう。
慶応2(1866)年の出来事を続けるよ。
8月30日(10/8) 岩倉具視が親幕派の関白二条斉敬や朝彦親王の追放を策謀し、同調する22名で朝廷に相乗するも、孝明天皇は拒絶し、22名に対して謹慎等の処分を下す(廷臣二十二卿列参事件)。
9月2日(10/10) 第二次長州征討が失敗し、幕府は長州と講和。
10月12日(11/18) 樺太問題協議のため箱館奉行・小出秀実をロシアに派遣。
11月15日(12/21) フランス公使レオン・ロッシュ、慶喜の依頼により幕政改革を提言。
12月5日(1867/1/10) 徳川慶喜、第15代将軍に就任。ロッシュの意見を入れ老中の総裁制度(職務明文化)を採用する。
12月8日(1/13) フランス軍事顧問団、横浜に到着。翌日から幕府陸軍の訓練を開始。
凡太: 内政の混乱で手一杯なときにも、幕府は各国との交渉を続けていたんですね。
イシ: それだけ優秀な人材が揃っていたということだね。フランスとの関係では、小栗忠順と共に横須賀製鉄所の創業に関わり、徳川昭武のパリ万博派遣にも随行した栗本鋤雲も忘れてはいけない。
凡太: 栗本さんも凄い人ですね。幕府には本当に優秀な人たちがいたんですね。
イシ: 実力もさることながら、生き様も素晴らしいよね。
パリ万博訪問派遣には渋沢栄一も加わっていたんだけれど、渋沢はもともとは過激な攘夷思想に染まっていて、高崎城を乗っ取り、そこを拠点に横浜外国人居留地を襲撃しようなどというテロ計画を練っていた人物だ。
それがバレそうになって逃亡中、一橋家への士官の話に飛びついて、コロッと幕政批判をやめたかと思うと、パリ万国博覧会を見学する徳川昭武に随行しろと言われるとそれに従い、ヨーロッパの先進文化に圧倒されて、これまたコロッと断髪して攘夷思想を捨てる。帰国した後は明治政府のデタラメぶりに呆れながらも、大隈重信に説得されて制度取調御用掛、枢密権大使となって経済改革で大成功……。
歴史の教科書に名を残し、一万円札の肖像画にもなる人生だけど、私は、渋沢よりも栗本や小栗忠順らのほうがはるかに国際通、経済通としての才覚を持っていただろうし、薩長閥の明治政府を拒否した生き様に共感するよ。
……と、なかなか先に進まないけれど、続けよう。
孝明天皇は暗殺されたのか?
12月12日(1/17) 孝明天皇、突然高熱を発して病床に伏す。その後、身体中発疹し、疱瘡と診断される。
12月23日(1/28) 孝明天皇の病状が回復。
12月25日(1/30) 孝明天皇の容態が劇変し、夜に崩御(満35歳)。
凡太: 孝明天皇がこのタイミングで亡くなるんですね。将軍・家茂が亡くなって5か月後……京都は大混乱だったでしょうね。
イシ: どちらも暗殺説があるね。特に孝明天皇の死については、当時から毒殺説が囁かれていて、アーネスト・サトウも「事情に通じた日本人が、天皇は毒殺されたと明言していた」と書き残している。
毒殺の首謀者が岩倉具視だという噂は当時からあったようだね。でも、もちろん真相は分からない。
はっきりしているのは、このタイミングで孝明天皇が急逝したのは、幕府を倒そうとする過激派にとっては願ってもないことだったということだね。
孝明天皇は最後まで幕府を頼りにしていたし、慶喜も孝明天皇をうまく利用して公武合体連合政権を作り、その中で幕府の政治能力を生かし続けようとしていた。薩摩の西郷、大久保、小松らや、長州の木戸、三条実美ら過激派公卿たちにとって、一番の障害が孝明天皇だったことは確かだ。
ともかく、孝明天皇が急逝したことで、慶喜の新政権構想も大きな打撃を受け、薩長+過激派公家連合による統幕勢力は一気に勢いづいた。
慶応3(1867)年の出来事
では、孝明天皇崩御後の出来事を追っていこう。
1月9日(2/13) 明治天皇(1852-1912)、満14歳で即位。
1月11日(2/15) 慶喜の異母弟にあたる徳川昭武の一行がパリ万博に招かれ出発(遣欧使節団)。栗本鋤雲、渋沢栄一らが随行。
1月23日(2/27) 幕府、長州征伐を事実上停戦に。
2月6日(3/11) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと初会見。その後、各国公使と順次会見し、兵庫開港を確約。
4月14日(5/17) 長州藩の倒幕急先鋒・高杉晋作、病死。満27歳。
4月15日(5/18) フランスが日本の600万ドル借款を拒否。日本に滞在したことのあるシャルル・ド・モンブラン公爵が、イギリスで薩摩藩留学団に接触。五代友厚に貿易商社設立の話を持ちかける一方、パリを訪れている幕府遣欧使節団と対立。パリの有力紙に「日本は各地の大名が林立する領邦国家で、徳川家もその中の一大名にすぎない」という論説を書かせるなど、薩摩寄りのプロパガンダを張ったことが影響した。栗本はその論を打ち消すために現地で奮闘し、日本ではロッシが抵抗したが覆せず。
5月4日(6/6) 四侯会議(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)発足。
5月17日(6/19) 赤松小三郎、松平春嶽に日本最初の議会制民主主義体制の建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。同内容の建白書を幕府や島津久光にも提出。
凡太: この赤松小三郎さんはどんな人なんですか?
イシ: 身分制度撤廃や言論の自由、普通選挙による議会政治といった提言をする先進性を持った素晴らしい人物だよね。幕府に「長州征討は無意味だからやるべきではない」という意見もはっきり述べている。ただ思うだけでなく、相手が誰でもはっきりとものを言い、理想の実現に向けて努力し、実行した。
あの時代、オランダ語や英語を学んで兵学書を翻訳するなんて、並みの努力ではできないよ。その知識を、他藩に呼ばれて行って教授したら、その生徒に殺される。薩摩は恩を仇で返すどころか、招いて教えを受けた師を殺したんだ。
凡太: なんなんですか。ここでもまた超優秀な人がテロで殺されているじゃないですか。しかも教えを受けていた生徒たちに。なんかもう、おかしくなりそうです。
イシ: 赤松は、公武合体から一転して倒幕を目指すようになった薩摩藩をなんとか元に戻そうと奔走した。薩摩の倒幕派である西郷、小松らと幕臣の永井尚志の間で何度も話をして、無用な内戦を回避させようとしていたんだが、そのために命をねらわれることになる。
見かねた上田藩が、これ以上動くと殺されるから藩に戻ってこいと言うのも聞かず、最後まで説得を続けたようだね。
しかし、西郷は長州藩と結んで倒幕の挙兵計画を立てる。それを知った赤松は、ついに諦めて上田藩からの帰藩命令に従って戻ろうと準備していたところ、京都を出る前に殺されてしまうんだ。
京都三条大橋には「この者は西洋かぶれで、皇国の意図に背き、世間をたぶらかそうとした不届きものにつき、天誅を下した」という内容の紙が結びつけられていたそうだ。
赤松を斬った中村半次郎は「人斬り半次郎」と呼ばれるテロリストだけれど、彼らに暗殺を命じた上の者がいるはずで、まあ、間違いなく薩摩藩の武力討幕派による組織的犯行だね。
特に大久保利通(当時は一蔵)は真っ黒だ。
赤松は殺された日、大久保が主催する送別会に出ていたんだけれど、その席で中村が「(赤松)先生がいると、我々は敵と本気で戦うことができない」と告げ、師弟の縁を切っている。その帰りに殺されてしまうんだから……。
もともと大久保は赤松をイギリス式の兵学教師として呼ぶことに乗り気ではなかった。赤松も最初は断ったようだけれど、幕府からの招聘を上田藩が断ってしまったことで行き場がなくなり、他藩の者も学べるようにするなら薩摩藩邸を教室としてもいいかもしれない、と思ったようだね。会津藩の砲術指南・山本覚馬も会津洋学校へ赤松を招いている。
何藩だろうが関係ない。日本が欧米列強と並ぶには、藩の垣根を越えて西洋の知識を学ばなければいけないという赤松の先進的な考えゆえなんだろうけれど、偏狭な倒幕過激派の大久保らには、そんな度量はない。赤松はスパイじゃないかとか、そういう目でしか見られないんだね。大久保は村田新八らに命じて、以前から赤松の身辺を偵察させていたほどだ。
人斬り半次郎こと中村半次郎は、明治に入ってから赤松がいかに凄い人物だったかを知り、斬ってしまったことを後悔してうなされる日々だったという。長州の山県有朋に、もっと早く明治政府が成立していれば赤松を斬ることはなかったのにと愚痴っている。
凡太: え? もしかして長州も赤松さんの暗殺に関与していたんですか?
イシ: それはありえるね。長州の品川弥二郎の日記にも赤松の暗殺の件が書かれている。品川弥二郎は佐久間象山暗殺にも関わっていた長州の過激派だ。
赤松小三郎の暗殺後、薩摩藩は赤松が残した書類や赤松に関するものをすべて焼却処分している。証拠隠滅をはかっている時点で、組織的犯行であったことは濃厚だね。
とにかく、赤松は飛び抜けて優れた人物だった。
赤松が幕府、久光、春嶽に提出した「建白書七箇条」は、今ではあたりまえの「三権分立」や「選挙による議員で構成される二院制議会」といった具体的な政治改革案で、これは書き写されて諸藩にも渡るほど注目を集めた。
このとき、慶喜に加えて、島津久光(薩摩藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)の4人を加えたいわゆる「四侯会議」が、慶喜の「俺以外はみんなバカだ」パフォーマンスによって壊れてしまった時期で、特に馬鹿にされた久光は、慶喜を将軍職から諸侯と同じ列に引き下げ、朝廷のもとで開く諸侯会議による新政権を目指した。そのためには武力に訴えることもやむなしと。
一方、土佐の山内容堂は、武力による将軍職剥奪ではなく、慶喜が自ら大政を朝廷に奉還して将軍職を辞する「大政奉還」による新体制を目指していた。この大政奉還論は後藤象二郎も主導していて、そこに龍馬も同調していた。
一旦は長州との連合で倒幕を進めようとした薩摩も、土佐藩の大政奉還論に乗ることに決めた。久光としては、あくまでも慶喜が一人で牛耳ろうとする形でなくなればよかったので、内戦が避けられるならそのほうがよかったからだ。
凡太: その大政奉還論を推し進めたのが坂本龍馬なんですよね?
イシ: そういうことになっているけれど、龍馬の案というわけじゃない。
大政奉還論はそれ以前からあったし、このときに薩摩藩はじめ、諸藩に影響を与えたのはやはり赤松が幕府に提出した「建白書七箇条」だった。
凡太: でも、坂本さんも「船中八策」で、議会制民主主義の基本のような提案をしていましたよね。
イシ: ああ、あれねえ……。
実は「船中八策」というのは、後世、龍馬を持ち上げるために作られたフィクションなんじゃないかという説があるんだよ。
凡太: ええ~? 船中八策はなかったんですか?
イシ: 通説では、慶応3(1867)年6月、龍馬が長崎から京都に向かう「夕顔丸」という船の中で後藤象二郎と話し合った内容を長岡謙吉に書き取らせた文書が「船中八策」だとされているんだけど、その原文は残っていない。そもそも「船中八策」という名称も大正時代につけられたものだ。
でも、龍馬が慶応3(1867)年11月に書いたとされる「新政府綱領八策」と呼ばれるものが残っている。
凡太: とても分かりやすいですね。
イシ: そうだね。龍馬直筆の書が2枚残っているとされているから、龍馬は確かにこうした理想を持って動いていたんだろう。
ただ、赤松小三郎が幕府、久光、春嶽に建白書を出したのは慶応3(1867)年5月、龍馬が新政府綱領八策を書いたのは11月だから、龍馬もまた、赤松の建白書の内容に強く影響を受けたという可能性は高いね。
赤松は「もう一人の龍馬」なんて言われることもあるけれど、それは赤松に失礼だよ。
歴史学者たちも、坂本龍馬については後世どんどん英雄的な話が付け加えられていって、実像とはだいぶかけ離れたものになっていると理解してきて、教科書から坂本の名前は消えるかもしれないという予想もあるようだね。
ちなみに山川出版社の「新日本史B」でも龍馬の記述は一か所だけだ。
凡太: それにしても、赤松さんも坂本さんも殺されてしまいました。悔しかったでしょうね。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。