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日清戦争への助走

イシ: さて、そろそろ明治政府が大暴走を始める最大のきっかけとなった日清戦争のことを学ぶわけなんだけれど、日清戦争に至るまでの明治政府の外交について、すでに取り上げた台湾出兵江華島事件なども含めて振り返っておこう。

 明治政府が国外に対して強硬な政策を採ろうとした最初は征韓論かな。

凡太: 岩倉使節団が明治4(1871)年12月に出発する前から、政府内で起きていた論争でしたね。朝鮮に兵を送って日本の言うことを聞かせようという意見の人たちが、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣といった人たちでしたっけ。
 それを抑え込んだのが岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、大隈重信、大木喬任たかとうといった人たち。最後は岩倉さんが粘り腰で天皇勅裁という形で退けたんで、征韓論の人たちは一斉に政府を出てしまった。

イシ: そう。明治六年の政変と呼ばれる政府内のゴタゴタだね。
 あの頃から西欧列強のように大陸に武力進出して利権を得ようという考えの者たちはいっぱいいた。
 だけど、佐賀の乱西南戦争など、国内での武力闘争が起きて、まずはそっちに対応するしかなくなったわけだ。
 不平士族のエネルギーを国外に向けるという意図もあって、明治7(1874)年には台湾出兵。翌明治8(1875)年に江華島事件と、清を刺激するような武力行使は小出しにやって、しかもどちらもうまくいってしまう。
 江華島事件の後に朝鮮に結ばせた日朝修好条規は、釜山、仁川、元山の3港を開港させただけでなく、日本の領事裁判権や関税免除を認めさせるという、日本にとって有利な、朝鮮にとっては不利な不平等条約だった。かつて欧米列強にやられた手口をそっくりそのまま朝鮮にしてやった形だね。
 これが日清戦争への「助走」といえるかな。

凡太: 日本もその頃は政府内でゴタゴタ続きだったのに、朝鮮への圧力はうまくいってしまったんですね。なぜですか?

イシ: 日本の思うままに事が進んだ要因はいくつかあるけれど、まずは、朝鮮を属国としている清国が日本との直接の争いを避けたからだね。朝鮮に、ここは日本の要求を受け入れておけと言った。
 イギリスをはじめとする欧米列強も、朝鮮が開国することで商売ができるようになるから好都合だった。
 さらには、朝鮮国内の政情が不安定で、それまで徹底的な鎖国政策をしていた大院君が政権の座から下りたタイミングだった。

凡太: 大院君? ああ、なんか名前だけは覚えてるんですが、どんなことをした人でしたっけ?

イシ: 名前というか……大院君というのはそもそも名前じゃなくて称号で、正確には興宣大院君こうせんたいいんくん、本名は李 昰応というんだけれど、彼が飛び抜けて有名なんで、大院君といえばこの人のことなんだよね。
 当時の朝鮮の状況を知ることで、日本と朝鮮、清国との関係が見えてくるから、ここでいろいろ確認しておこうかな。

興宣大院君(1821-1898)

興宣大院君(1821-1898)
李氏朝鮮末期の王族として生まれるが、王座からはほど遠い傍系で、青年期はみすぼらしい格好で放蕩生活をしながら、宮中の宦官や女官らの人脈を築く。1864年1月に国王・哲宗が後継ぎのないまま死去すると、幼少の息子を王につかせることに成功し、自らは摂政役として大院君となる。 官僚の専横政治を一掃し、広く人材を起用するなどの改革を進める一方で、フランス人宣教師を含む8000人近いキリスト教信者を処刑するなど、キリスト教の徹底弾圧(1866年、丙寅教獄)したことでフランスと戦闘(丙寅洋擾へいいんようじょう)、開港を求めたアメリカの武装商船を焼き討ち(シャーマン号事件)にしてアメリカと戦闘(辛未洋擾しんみようじょう)など、強硬な鎖国政策を貫く。 1873年11月、息子の高宗の妻・閔妃ミンピの主導により失脚。閔妃の下で日朝修好条規が結ばれる。 その後は清国、ロシア、日本との関係に翻弄、利用され、失脚、幽閉、政権復帰、爆殺未遂などを経て、最後は隠居所で満77歳で死去。

凡太: 朝鮮もこの頃は相当グチャグチャだったんですね。

イシ: まあ、日本も似たようなもんだけどね。官僚の汚職や特権階級による権力闘争、体外強硬政策とか、似ているんじゃないかな。
 大院君が実権を握っていた時期の朝鮮は、民衆が大院君の改革を支持し、意気軒昂だった。それゆえに、近代兵器を装備したフランスとアメリカという欧米列強を撥ねつけることもできたんだろう。しかし、そのために開国が遅れ、軍備などの近代化ができなかったともいえるね。
 先に欧米列強の強さを学んでいた日本は、大院君失脚後の朝鮮に対しては力で簡単に押し切れた。
 しかし、こうした成功体験が覚醒剤のように働いていって、明治政府がどんどん戦争依存症のようになっていったんだと思うよ。

 話を朝鮮の国内事情に戻すと、1873(明治6)年に大院君が失脚すると、息子の高宗の親政のもとで、后である閔妃とその一族が力を持つようになった。

高宗(1852-1919)

高宗(1852-1919)
李昰応の次男・命福として生まれる。1863年、国王・哲宗が32歳で死去。男系の跡取りがいなかったために、傍系だったが、父親の李昰応(後の興宣大院君)が王位継承の決定権を持っていた神貞王后と謀り、神貞王后と亡夫・孝明世子の養子にすることで、形式上、哲宗の叔父ということにして王位に就かせた。このとき命福は11歳。
1866年、閔妃(明成皇后)を王妃として迎え、その後は閔氏一族が実質政権を握った。

閔妃(1851-1895)
15歳のとき、5人の候補の中から王妃に選ばれたが、国王・高宗が他の宮女や妓生らを相手にして政治に熱意がないのを見て、自分の一族(閔氏)と結託して大院君を追放し、政治の実権を握った。閔氏一族による政権下で日朝修好条規が結ばれ、朝鮮国内でも親日派勢力が台頭してくるが、排除された大院君派との政権争いは続き、互いに政敵・要人の暗殺合戦を繰り広げるなど、政治が混乱した。(なお、長い間閔妃の写真とされていた肖像はまったくの別物だと近年明らかになり、現在は肖像写真がない)

凡太: 大院君派と閔妃派で暗殺合戦……ですか……。

イシ: 血なまぐさいというか、やることが極端なんだよね。
 閔妃は当初は日本から軍事顧問を呼び寄せて「別技軍」という近代化した軍隊を創設するなどしたんだが、その一方で旧来の軍隊を蔑視して給料未払いなどを起こした。
 ここには日本の米買い占めも関係している。
 というのは、日米修好通商条約で朝鮮に関税権を認めなかったことで、日本に朝鮮の安い米が大量に流出し、朝鮮国内では米が高騰し、庶民が貧窮した。兵士たちの給料も米で支払われていたのが、何か月も未払いになった。
 さらにはそこに役人の不正や汚職が絡んで、ようやく支給された米に腐敗米や砂が混じっていたり、量がごまかされたりしていた。そんなこんなで、ついに我慢の限界を超えた兵士たちが、困窮庶民たちと一緒に1882(明治15)年に反乱を起こした(壬午軍乱)。
 反乱軍は閔氏一派の実力者や日本の軍事顧問、日本公使館員らを殺害。日本公使館も焼き討ちした。これにより、大院君は再び政権に復帰した。
 閔妃はこのときは忠州(忠清北道)付近の僻村へと逃亡し、しばらく同地に隠れ住んだ。

 壬午軍乱が起きた1882年のことを時系列で簡単にまとめると、

  • 7月19日 漢城(現在のソウル市)で旧軍兵士を中心に民衆も加わる大暴動が起き、閔政権が崩壊

  • 7月23日 日本公使館が襲撃され焼き払われ、別技軍の軍事教官であった堀本礼造陸軍工兵少尉らが殺害される。反乱軍は王宮を占拠し、大院君を迎え入れ、政権に復帰させる。閔妃は夫の高宗を置いて王宮から脱出。

  • 辛うじて脱出した公使・花房義質はなふさよしもと一行は小舟で漂流中イギリス船に助けられ、7月29日に長崎へ帰還


 この後は、クーデター後の朝鮮をめぐって日本と清のせめぎ合いが続く。
 日本では政府内外で「朝鮮討つべし」の声が上がり、義勇兵志願者が集まったり、派兵嘆願署名運動も起きたが、まずは花房公使が朝鮮に戻り、大院君側に賠償と謝罪を要求を求めた。
 しかし、大院君側は回答を先延ばしにして応じなかった。

 一方、清国はこの動乱を機に日本が朝鮮に兵を送り込んで朝鮮を占領するのではないかと警戒し、馬建忠という学者を交渉役として派遣し、さらには、3000名の兵を送り込んだ。
 馬建忠は日本と朝鮮双方に根回しをして、事態収拾を図る一方、この混乱を収めるには大院君を排除するしかないと考え、8月26日、清の派遣軍に大院君を捕縛させ、天津に拉致し、幽閉した。
 返り咲いた高宗・閔氏政権は、馬建忠の指導もあって、8月30日には日本と条約を調印し、反乱を指導した者たちの処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族、負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本人の内地旅行権・内地通商権の承認、公使館警備のための日本軍一個大隊の駐留などを認めさせた(|済物浦《さいもっぽ》条約)。

馬建忠(1845-1900)

馬建忠(1845-1900)
思想家・外交官・言語学者。カトリックの家に生まれ、イエズス会が設立した学校で外国語を学ぶ。清国末期の政治家・李鴻章の幕僚となり、国際法を学ぶために渡仏。その後、イギリス領インドや朝鮮において、欧米列強や日本との調停役として活動。日清戦争においても、講和条約を結ぶために日本に赴いた李鴻章を補佐した。

 こうしてクーデターは失敗し、高宗・閔氏の政権が復活した。
 反乱に関与した官吏や儒学者たちは、凌遅刑りょうちけいという、肉体を少しずつ切り落として長時間苦痛を与えながら殺すという残虐な処刑をされ、その一族らも斬首刑に処せられた。

凡太: 凌遅刑……目眩がします。そんなことがまだ行われていたんですね。

イシ: 為政者たちの権力闘争が残虐なのは日本でも同じだったけれど、さらに凄まじいね。

甲申政変

 その後、閔妃は壬午軍乱で清に助けられたことで、次第に日本とは距離をおき、清に頼るようになる。
 で、この頃の閔妃は呪術儀式に傾倒して、国庫の6倍の金額を儀式に注ぎ込み、真霊君というシャーマンを厚遇するなどしたため、親日的な開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り朝鮮の近代化は実現しないとして、1884年12月に、日本公使館の援助を得てクーデターを起こした(甲申政変)。
 それにより閔氏は一時期政権を奪われるが、袁世凱率いる清軍の力によって政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した。

金玉均(1851-1894)

金玉均(1851-1894)
李氏朝鮮時代の思想家、朝鮮独立党の指導者。1882年、高宗の命を受けて壬午事変の事後処理のため日本に渡り、福沢諭吉の支援のもと、慶應義塾や興亜会と交流。井上馨を通じて横浜正金銀行から資金を借款し、朝鮮初の留学生の派遣や新聞創刊などに尽力。1884年、日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こすが、清の介入で失敗した。
その後、日本に亡命。1894年、李鴻章に会うため上海に渡ったところを、閔妃が派遣した刺客・洪鐘宇に射殺された。死体は清国政府によって朝鮮に運ばれた後に改めて死刑宣告され、凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、晒された。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られたが、後に日本軍に発見され保護された。
金玉均の遺髪と衣服の一部が秘密裏に日本に運ばれ、浅草本願寺で葬儀が行われ、青山の外人墓地と真浄寺に墓が建てられた。

凡太: 金さんは日本と関係が深い人だったんですね。それにしても、生きているまま捕らえられて凌遅刑にされなくてよかったです。

イシ: まったくだねえ。閔氏政権の残虐な処刑方法にショックを受けた福沢諭吉は、甲申事変後の1885年に新聞社説で無記名の「脱亜論」を書いたともいわれている。
 それまでは、日本は隣国の清や朝鮮と提携して東アジア全体の近代化を進めるべきだという考え方だったのが、甲申事変を見て、すっかり嫌気がさしたんだろう。
 清や朝鮮のように近代化を拒否し、古い専制政治を続けていると、たちまち欧米列強によって分割され、植民地化されてしまう。日本はそれに巻き込まれぬよう、隣国だからといって特別視するのではなく、欧米諸国に対するのと同じように淡々とつき合いつつ、独自に近代化を進めていくことが大切だ、というような論に転換したんだね。
 
凡太: 福沢さんがそう主張しているわけですね。

イシ: 無記名の社説だから、福沢が一人で書いたのかどうかはいまひとつはっきりしていない。でも、世話をした親日派の金玉均の仲間たちが無残に殺されたことで、朝鮮と、その宗主国である清とは距離をおかないと危ない、という思いを抱いたことは確かだろう。
 金玉均という人物の評価は難しい。あの状況で朝鮮を諸外国の侵略から守り、うまく近代化させることは至難の業だったけれど、武力で突破しようと焦ったのがまずかったね。その性急さゆえに、日本政府にうまく利用されてしまったところがある。

漢城条約と天津条約

 で、話を甲申政変に戻すと、このクーデターには日本も関与したことから、朝鮮に駐留していた日本軍と清国軍とが衝突して戦闘も発生したんだけれど、このときは日本も清国も本格的な戦争になることを避けたかった。
 日本は井上馨を全権大使として派遣し、朝鮮側は金弘集が全権大臣として対峙した。金は、1882年の壬午軍乱後の済物浦条約でも、朝鮮側の副官として花房義質と交渉している。
 朝鮮側は、日本公使の竹添進一郎が独立党の金玉均らと結託してクーデターを起こし、事前通告なく勝手に王宮に入ったことを強く非難した。
 これに対して竹添公使は、朝鮮国王が日本に保護を求めたから応じたのであって、至極正当な行動だったと主張。ましてやクーデターに無関係な日本人一般居留民までも斬殺されたことは許されないと訴え、両者の言い分はまったくかみ合わなかった。
 協議は全権大使として派遣された井上馨・外務卿に委ねられ、井上は、日本がクーデターに関与したかどうかは棚上げし、とりあえず、日本公使館が焼き討ちされ、日本人居留民が巻き込まれて斬殺されたことへの謝罪と補償金、日本公使館再建費用の負担を求めた。
 対応した金弘集はこれを呑んで、1885年(明治18)年1月、漢城条約を締結した。

凡太: 日本がクーデターに関与したことはうやむやにしてしまったんですね。

イシ: そういうことだね。朝鮮側が完全に折れた形だ。
 日本がこのクーデターに関与したことは、日本国内でも伏せられた。新聞は清国軍がやってきて日本人居留民が殺されたということだけを大々的に報じたため、朝鮮、清国許すべからず、ただちに派兵して懲らしめるべし、という世論が形成された。
 自由党の機関紙である『自由新聞』、福澤諭吉が創刊した『時事新報』、改進党嚶鳴社系の『東京横浜毎日新聞』、大隈重信の改進党系『郵便報知新聞』も、揃って清国を非難した。特に自由新聞は「中国全土を武力で蹂躙せよ」とまで主張し、自由党の本拠地・高知では、片岡健吉が対清国の戦争に備えて義勇兵団を組織した。
 陸軍の主流派や薩摩閥も清国への派兵に向けて動いていた。

凡太: このときすでに、日本国中が「清国は敵だ」という世論で固まってしまったんですね。

イシ: そうみたいだねえ。
 しかし、日本も清も、この時点ではまだ戦争をしたくなかった。清はベトナムの領有権を巡ってフランスと戦争中だったし、日本もまだまだ大国・清を相手に戦争をするだけの兵力には自信が持てなかった。
 そこで、日本は伊藤博文を全権として派遣し、清国側は李鴻章が交渉に臨んだ。
 伊藤は、清国が兵を送り込んだせいで、多くの日本の民間人が殺された。今も漢城には日清両国の兵が駐留して緊張を増しているから、まずはどちらも一旦兵を引き上げよう、と持ちかける。
 しかし、「両国とも」といっても、実際には駐留している兵の数は清のほうが圧倒的に多かったから、李鴻章がこれを受け入れるわけがない。李はさらに、そもそもこの騒乱は日本が裏で仕掛けたクーデターであり、そのせいで清は出兵するしかなかった。日本の民間人を殺したのは清国軍の兵ではなく、日本の米買い占めなどで貧窮に追い込まれ、常々日本に恨みを抱いていた朝鮮の民衆によるものだ、と反論した。
 このままでは話し合いが進まないと見た当時の駐清公使・榎本武揚は、伊藤に「両軍撤退するだけでは清国側が受け入れないから、両軍撤退するが、朝鮮で有事が起こった際には兵を送り込んでよい、ただし、その際には事前通告すること、ということで交渉すればうまくいくのではないか」と進言した。

凡太: 榎本さん! 幕府の軍艦を率いて北海道で戦ったあの榎本さんですね!

イシ: そう。あの榎本だね。五稜郭で死んでいたら、ここに登場することはなかった。
 伊藤は榎本の助言をうけてさらに交渉を詰めていき、1885年4月、日本も清国も朝鮮に軍を常駐させない。出兵するときは事前に通告するという約束を含んだ天津条約を結んで、一応は決着させた。

甲午農民戦争(東学党の乱)

凡太: それで、再び閔氏政権になった朝鮮は、もう日本とは絶縁状態ですよね?

イシ: そうだね。清国軍に助けられ、親日派の金玉均グループを壊滅させた後だから、今さら日本と協力して近代化を進めるなんてことはできるわけがないね。
 さらに閔妃は、イギリスがロシアの南下を警戒し始めると、イギリスを牽制するためにロシアにも近づく。
 朝鮮をめぐる日本、清国、ロシア、そして英仏などの列強の利権争いはどんどん混迷を深めていく。こういう時期に、朝鮮の政権が極めて不安定で、汚職も横行していたのは朝鮮の民衆にとっては大きな悲劇だね。

池に釣り糸を垂らして朝鮮という獲物を得ようとする日本と清。それを横からかすめ取ろうと狙っているロシア……という戯画。作者はフランス人画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(1860–1927)で、ビゴーが横浜居留地で発行した風刺雑誌「トバエ」に1887年に掲載された

凡太: 甲申政変後の閔氏政権は、それまでの悪政を少しは改めたんでしょうか?

イシ: いやぁ、全然反省していなかったみたいだね。農民に重税を課す政策は相変わらず。しかも、役人による税の横領があたりまえのように続いていた。
 そしてついに1894年、閔氏政権のでたらめぶりに怒った民衆が蜂起する。甲午農民戦争とか東学党の乱と呼ばれる争乱で、これがきっかけで一気に日本と清が宣戦布告して日清戦争に突入するわけだけど、長くなってきたので、その詳しい経緯と結末は回を改めようかな。

凡太: はい。


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