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『無言歌』とAI ~文芸とは何か?~

『麗しき距離~鶴の飛翔~』に続いて、やはり聖光学院の同窓生(11期)・小松洋くんが中学時代に書いた詩にあたしが曲をつけた『無言歌』を一発録りしてみた。
何年か前、Martin、アントニオ・サンチェス、Parcerの3台を売り飛ばしたとき、Conde Hermanosも一緒に売るかどうかちょっと悩んだ末に手元に残した。もう弾くことはほとんどないだろうと思いつつ、これだけの銘器を簡単に手放すのが躊躇われた。
今回もそのコンデを弾いた。なんとかまだ弾けるかな。

で、この詩を、あたしは古稀手前になってもまだ解釈できない。
『麗しき距離』のほうが意味が取れる。この詩は全然分からない。情景も思い浮かべられない。
小松くんはこの後、どんどん意味を求めず、言葉遊びだけのような詩を書くようになっていった。
いくつかの詩の中で「神父さんのシンプソンさん」というフレーズだけ妙に記憶に残っていて、これは小説『人類を養殖している生物がいる』の中で使わせてもらった。

大学に行ってもしばらくは詩集を作っていたりしたようで、何冊か送ってもらったが、言葉遊びに徹するような傾向はますます強くなっていた。人生なんてたかが遊びさ、と、腹をくくったのかもしれない。

『無言歌』は完全にそうなる前の、過渡期の作品と言えるかもしれない。
意味がありそうでいて、何度読んでも分からない。
何か意味があるのか?
アナグラムかな、しりとりかな、クロスワードかな、縦読みするとかの謎解きかな……などなど、いろいろ考えてみたのだが、やっぱり分からない。
でも、メロディをつけると不思議と妙な説得力がある。なんなんでしょね、これは。

InDeepの岡氏が、最近、問答型AIに意味不明の文章を投げかけて、どんなことを返してくるかという実験にハマっているようだ。このAIに『無言歌』を投げかけるとどうなるんだろう。

やってみたいけれど、自分が書いた詩ではないからやめておこう。

もしかすると小松くんは、文としては意味不明なのに、あたかも音としては文学的な香りを醸し出すという「言葉遊び」をしたかったのだろうか?
タモリのハナモゲラの文芸フレーバーバージョンみたいなもの?
50年後、世の中ではAIが幅を効かせていて、こんな風に意味がありそうでなさそうな詩を生成したりするぞ、という予言だった?
まぁ、それはないとしても、多感な少年期に、文芸とはなんぞや? という問いかけをしたかったという可能性はありそうだ。

彼のような才能がなかったあたしは、古稀を前にした今もなお、ジタバタとあがいている。みっともないと笑わば笑え。
ある程度才能が足りない人間のほうが、創作に対する欲が長続きするのかもしれない。

ちなみに、あたしも20代前半くらいに、日本人が英語の歌詞の歌を歌うなんてかっこわるい。かといって、日本語は母音が必ずついてまわる言語なので音楽になりにくい。いっそ、ハナモゲラで歌を書いたらどうだ?
なんて思って、こんな曲↓を作ったりしていた。

↑一応この詞は、簡単な縦読みパズルにしてあるんだけどね。わっかるかな~。

AIがこんな遊びを自らするようになったとき、文芸だけでなく、あらゆる芸術や文化活動は、単にAIが労働力としての人類に与える娯楽商品という以上の意味は持たなくなるのかもしれない。
人類は、自分たちが作ってきた最高の何かを、壊され、乗っ取られようとしているのかもしれない。

↑2011年7月 上智大学ソフィアホールでのKAMUNAコンサートでも冒頭で演奏した

↑タヌパック最初のCDアルバム『狸と五線譜』にも収録した。

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。