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タヌキの親子見聞録 ~東北旅編①~ 山形(出羽三山神社)


第1章 タヌキの親子 県外に出る

 新型コロナウィルス感染症が、令和5年5月8日以降は5類感染症に移行したこともあり、ひっそりと県内で活動していたタヌキの親子たちも、そろそろ穴倉から出てみたくて、様々な旅行先の資料を読み漁っていた。
 タヌキ一家の県外旅行は2018年の10月に島根へ温泉に出かけたのが最後で、それ以降はコロナ禍のため県内にキャンプをしに行ったぐらいだった。それまでの家族旅行は、沖縄やTDR、USJなど、子ダヌキたちが喜ぶ内容のものが多く、テーマパークには複数回行っている。近年は、行くたびに台風や警報級の大雨に出くわし、TDRでは台風のため帰りの飛行機を早めなければならなかったり、沖縄では警報級の大雨に出くわし、真夏なのに震えながらブルーシールアイスの店舗内で、海の向こうに龍が海に突っ込んでいくような雷を何本も見ながらアイスを食べたり、天候に恵まれない旅が続いていた。2018年の10月の島根への温泉旅も、本当は山形の出羽三山への旅を予定していたのだが、超大型台風が日本列島を襲ったため、東京の空港が閉鎖される前代未聞の事態となり、泣く泣く山形への旅行を断念し、車で行ける旅行先に大幅変更した経緯がある。コロナ禍のキャンプでさえも、天気予報は晴れだったのに、ずっと小雨でキャンプ日和とはいいがたい天候であった。そういうこともあって、特に山形に思い入れの強かった母ダヌキは、コロナ後解禁第一弾の県外への旅は、山形の出羽三山神社以外考えられなかった。旅に行けなかったタヌキの恨み(?)は相当深い。そのため、様々な困難がある度に「でわさんざんじんじゃー」と心の中で叫びながら、様々な困難を乗り越えてきた。5類感染症移行前の3月、4月あたりからは、他のタヌキたちにも聞こえるように「でわさんざんじんじゃー」と何度も叫んでいたので、父や子ダヌキたちも、沖縄やTDRとかではなく、母ダヌキ希望地の出羽三山神社のある東北地方を、この夏休みの旅先に渋々選ぶこととした。
タヌキ一家にとって久しぶりの県外への旅とともに、初東北旅である。飛行機を乗り継いでいく家族旅行なんて、子ダヌキたちは初めてである。期日は子ダヌキたちが夏休みに入ってからすぐの7月26日水曜日から29日土曜日までの3泊4日。せっかく東北地方へ行くのだから、出羽三山神社だけではもったいないので、山形県にある他の名所をめぐったり、近隣の宮城県や岩手県で名物を食べたりと、東北地方を満喫するスケジュールを立てた。飛行機や宿泊先を予約し、後は天気だけが心配の種だった。たいてい屋外で仕事の予定がある時に、天候に恵まれない母ダヌキは、家族から「雨ダヌキ」とずっと言われていた。今回の旅も「おっかあが行こうとするところは天気が悪くなる」と、母ダヌキを旅行前から責める父と子ダヌキたちであったが、「うるさい!雨が降っても行くと言ったら行く‼」と母ダヌキは、家族の非難も跳ねのけリベンジに燃えるのであった。

第2章 天気と引換えに・・・

 出発前に発生した台風5号の予想進路は、日本列島ではなく大陸に向かうようで、いつも天気に悩まされていたタヌキたちは、一家総出でほっと胸をなでおろし、荷造りしたリュックから雨がっぱを取り出した。しかし、父ダヌキは「おっかあが行くところでは何があるかわからない」と、折り畳み傘だけは持って行こうと提案した。一家4人はそれぞれのリュックに、一本ずつ折りたたみ傘を入れて旅の荷造りをした。
 7月26日水曜日、東北旅当日は、朝早くから飛行機に乗るため、午前5時に目を覚まし、朝食も車でとることとし、午前6時に出発した。朝から晴れて、今後の天気も晴れが続くようで、天気の問題は大丈夫そうであった。しかし、それ以外で問題が起こった。なんと、飛行機が整備不良でフライトが予定時刻にできなくなったのだ。朝一番に飛ぶ飛行機なので、前日から空港に待機していたはずで、前夜のうちにきちんと整備されていればこのような事態はあまり起こらないのだろうが、珍しくも起こってしまった。運のいいことに、タヌキたちの乗り継ぐ飛行機は、東京で2時間余裕があった。乗り継ぎや予定に間に合わない人は、飛行機をキャンセルしたり、飛行機以外の方法を探したり、朝から慌ただしかった。タヌキたちも「遅れる時間が1時間ぐらいなら何とかなるが、それ以上になると乗り継ぎが厳しくなる」と、空港の待合で不安で胸をいっぱいにして待った。最悪、何時間たっても飛んでくれればいいが、「今日は飛行機が飛びません」となると、山形に行くことを断念しなければいけないかもしれない。4年前の悪夢が思い出された。
「ご搭乗手続きを行います」とアナウンスが流れたときには、ホッとして胸をなでおろした。結局50分遅れで出発し、2時間の余裕が1時間に変わっただけで、スケジュール通り進みそうである。久しぶりに乗る飛行機は、水曜日という週のど真ん中であったためか、人が少なくて圧迫感が少なかった。子ダヌキたちも、以前乗った時よりはるかに大きくなっていて、ちょっとしたことでははしゃがないようであった。窓の外に見える景色よりも、イヤホンで聞く音楽に興味を持ち、親ダヌキが外を指さしてもあまり反応しなかった。「だんだんと大人になっている」と、親ダヌキたちは少し寂しい気持ちで子ダヌキたちの成長を感じた。
約1時間半のフライトで東京に着き、山形の庄内空港へ向けた便に乗るため空港内をかなり歩いた。庄内行きの飛行機に乗るためのバスに乗り、朝の飛行機より一回り小さい飛行機に乗り込んだ。小さな飛行機は、雲の中を飛ぶことが多かったため揺れが大きくて少し怖かったが、時々雲の間から見える景色は、緑が多く、碁盤のように整備された田畑が平野に延々と続いている風景が見えるようになると、「まもなく庄内空港に着陸します」というアナウンスが流れた。タヌキ一家にとって未知の土地である東北へ初上陸である。約1時間のフライトであったが、飛行機内で子どもたちだけにサービスで配られているグッズがあった。子ダヌキたちは二人とも折り紙を選び、着く直前まで窓の外も見ず、夢中になって飛行機やカエルを折っていた。「見て見て」と、カエルの口をパクパクさせてきた兄ダヌキを見て、まだまだ子どもだと感じ、うれしく思いながら「上手にできているね」と母ダヌキは褒めた。
階段を降りると山形の庄内も快晴で汗が噴き出てきた。

フライト中夢中に折り続けた折り紙

第3章 雪国は縦が基本

 空港から出ると、レンタカー屋に行くためのシャトルバス乗り場を探した。目の前に長い行列ができていたので、父ダヌキが最後尾の人に聞いてみると「レンタカー屋に行くシャトルバスに乗るための列です」と、ビジネスマン風の男性が答えてくれた。ちょうどその時、シャトルバスが入ってきたので、シャトルバスの大きさがジャンボタクシー程度であり、この列の最後尾に並ぶと、あと最低でも3~4回はシャトルバスが往復しないと乗れないことが分かった。「よし、レンタカー屋まで歩こう」と、タヌキたちは空港の駐車場を横切って、大きな道路に面したレンタカー屋へ早歩きで向かった。暑かったので、涼しい店に早く入りたかったのもあるが、この列の人がみんなレンタカー屋に行くとなると、手続きだけで1時間は優に待たされると判断し、早くレンタカーをゲットするために、庄内の焼けるような暑い太陽の下を頑張って歩いた。同じように考えた人が、後ろからタヌキ一家を追い越して走ってレンタカー屋へ入って行った。空港の出口からレンタカー屋までは歩いて10分もしない。大きな道路を渡るのに横断歩道がないが、山形の人はタヌキたちが渡りたがっているのを見ると、すぐに車を止めて通してくれた。「山口の人より親切だ!」と母ダヌキは感動して言った。「山口ではあんなに簡単に止まってもらえないよ」と、山口でなかなか止まってもらえず困ったことがあったのか、山形の人はいい人だと、母ダヌキはついて早々「山形LOVE」になってしまったようだった。
 レンタカー屋さんは一軒ではなく、何件もの店舗が寄り集まっており、店舗ごとのカウンターがあって、予約店舗のカウンターで手続して出発するようになっていた。タヌキ一家が着いた時には、まだ二人しか並んでなかったので、午後1時前には手続きが完了し車に荷物を載せることができた。借りた車のナンバーを見ると庄内ではなく、山形ナンバーであり、「多分、山形駅前店で乗り捨てするので、山形へ帰す形にしてレンタルするのだな」と父ダヌキは言った。
 午後1時、庄内から出羽三山神社に向けて出発。父ダヌキが運転し、母ダヌキがナビをする。カーナビがあるが、一応きちんとルートの勉強をしてきたので、母ダヌキがガイドブックを手に、父ダヌキにあーだこーだ言いながら車をスタートさせた。2~3分で「なんとなく慣れてきた」と父ダヌキ。道もよく、交通量もあまり多くない。「運転しやすい。大丈夫、大丈夫」と田んぼの中の道を進んで行くと、前の交差点で赤色の何かが見える。「お父さん!赤よ‼」と母ダヌキが叫んで、父ダヌキが車を急停車した。よく見ると、交差点の信号が縦に赤、黄、青と並んでいる。タヌキ一家の山口では、信号は横に並んでいるので、縦に並んでいる山形の信号を、信号と認識するのに時間がかかった。間一髪で、旅行の初っ端から事故ってしまうところであった。タヌキたちは落ち着いてくると、「雪が多いところは信号が縦なんだ」と理解し、その後、縦の信号が現れるたびに、「信号よ」と言いながら、縦の信号に慣れて行った。その日の夕方には、「信号は縦」ということで頭の中が整理され、「山口に帰ったら横に慣れんかも」と父ダヌキはぼやいた。

山形の信号は縦だった

第4章 爺スギ様こんにちは

 30分も走ると、遠くに赤い大きな鳥居が見えてきた。夢にまで見た出羽三山神社への入口である。「ここまで来るのに4年もかかった」と、母ダヌキは感無量であった。大きな鳥居を過ぎて10分ぐらいすると出羽三山神社の駐車場に到着した。午後2時前に到着したタヌキ一家は、平日のため観光客がほとんどいない出羽三山神社の随神門前の鳥居で、刺すように暑い太陽の光を避けるため首に手ぬぐいをかけた。鳥居横の神札授与所を見ると、令和5年から令和6年にかけて羽黒山五重塔の令和の大改修が行われ、その記念に「参道手ぬぐい」が6月29日から販売されていることがわかった。「羽黒山参道」と「石段の彫刻」の2種類で、「羽黒山参道」は羽黒山の境内図というのはわかるが、「石段の彫刻」は薄水色に白い線でいたずら書きのような絵があって、何のことかよくわからなかった。「羽黒山参道」のほうの手ぬぐいが気に入り、「お参りしたら買うことにしよう」と決めて、人の世界とご神域を分かつ随神門をくぐり羽黒山にいよいよ入って行く。

出羽三山の表玄関である羽黒山大鳥居
随神門前の鳥居

 大きな杉並木が石段の道を挟むように続いている。この参道は延長1.7kmで、2,446段の石段があり、石段の幅が一定ではないため、よく足元を見ないと躓いて転びそうになる。大きな杉や周りの風景も見たいので、ぎこちない感じで随神門から続く下りの階段を歩いていると、後ろから来た人に「ほら、ここに絵が彫られています」と教えてもらった。しっかりした線ではないが、カメのような模様が石段に彫ってあった。「こんな絵があるので、18個見つけたら願いが叶うと言われています」と教えてくれた。もう少し歩くと、今度は盃のような絵があった。「あっ!さっきの手ぬぐいの絵はこのことか‼」と父ダヌキはひらめいた。調べてみると、石段に彫ってある絵が全部で33個あるらしい。子ダヌキたちも願いが叶うと言われたので、がぜん張り切って石段を見ながら歩き出した。下りの階段が終わると赤い塗橋があり、その先からは徐々に上りの階段となってくる。少し行くと、樹齢1000年以上と言われている「爺スギ」があり、その近くに令和の大改修中の「国宝羽黒山五重塔」が工事用のネットのようなものに包まれて建っていた。五重塔がしっかり見えないのは残念だったが、その先の参道を急ぐことにした。

随神門から入ってすぐの継子坂
羽黒山の爺スギ
改修中の国宝羽黒山五重塔
五重塔からの参道

 五重塔からは参道が急な上り坂となる。参道の両脇の杉並木のおかげで、日差しが遮られ帽子が無くても頭が暑くないので、帽子をとって歩き出す。日差しは暑くなくても、気温は高いので、一歩一歩歩くたびに汗がしたたり落ちてくる。それにしてもこんなにも立派な杉並木を保つのは大変なことであろうと、タヌキたちは時々大きな杉を仰ぎ見るために立ち止まった。石段に彫ってある絵も下を向いて上る時にたまに探すが、明らかに時代が違う彫り物も見つけた。何やらカタカナで彫ってあるものがある。すれ違う人に「こんにちは」と挨拶されると、こちらも呼吸は荒いが何とか「こんにちは」と返しながら上っていく。外国からの観光客や、明らかに何かのスポーツをしている大学生の団体など、様々な人から挨拶してもらい頑張って頂上を目指さした。

急な坂道となっている石段
石に刻まれている彫刻

第5章 羽黒山のオアシス

 上りだして30分ぐらいすると、左手に「名物力餅 二の坂茶屋」が見えてきた。この茶屋に立ち寄ることも、出羽三山神社に来た目的の中の一つで、この茶屋で山形の景色を見ながら一服したかったのだ。この茶屋は、きつい坂の中間地点で営業しており、予定していない人も休憩したくなるようなお店である。旅の当初は力餅を食べる予定であった子ダヌキたちは、あまりの暑さに二人ともかき氷を選択した。兄は「ブルーベリー氷」600円、弟は「はちみつレモン氷(この日は百花蜜)」680円。親ダヌキは当初からの目的である力餅を食べるために、「ミックス餅 抹茶付5個(あんこ餅が3個とうぐいす色の庄内産の青きな粉餅が2個)」950円を注文した。ここは、庄内平野を一望できる場所で一服できるので、その景色もごちそうであった。先に座って休まれていたお年寄りのグループが「この席が見晴らしがいいから座りなさい」と、席を譲ってくださり、良い景色を見ながら食べることができた。ずっと向こうまで平野が続いており、天気が良くて本当に良かったとタヌキ一家は喜んだ。

羽黒山のオアシス「二の坂茶屋」
名物力餅
もう一つのごちそうである庄内平野を一望できる

食べ終わってお膳を下げに行くと、店内でお土産を売っているのが分かった。上る時に役立つ杖やクマよけにもなる鈴があったので、赤いひもの付いた行者鈴を買った。さっきから降りてくる人がちりんちりん鳴らしていたのは多分この鈴だったのだろう。お店の人が「この鈴は出羽三山神社の鐘をモデルに作っています」と教えてくれた。兄ダヌキは、早速ズボンの腰に付けてちりんちりん鳴らしながら上り始めた。「俺も欲しい~」と弟ダヌキが言ったが、一つ1650円もする鈴なので順番に付けてもらうことにした。

茶屋で買った行者鈴

 茶屋から上ること15分。俳聖松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、6日間逗留した南谷が、石段から右手の小道約500m入ったところにあるという案内板があった。「とりあえず本殿をお参りしてから、帰りに寄ってみよう」と母ダヌキが言うと、子ダヌキたちは「いやだ~」と叫んだ。とにかく三神合祭殿の御参りが先なので、上を目指して一家は歩いた。傾斜が急な石階段を、暑さでふらふらしながらも踏み外さないように気をつけながら上ることさらに15分。真ん中に「羽黒山」と書かれた赤い鳥居が見えてきた。ようやく標高414mの羽黒山山頂に到着した。時刻は午後3時20分を指していた。

南谷についての説明板
山頂入口の鳥居

第6章 生まれかわりの旅

 石段が終わると左手に、上り龍と下り龍が柱に刻んである神社があった。神社の柱の左右にこのような龍があるものは初めて見た。よく見ると中央の欄間にも精緻な龍が彫られている。この神社は「厳島神社」で、どうやら広島の厳島神社と同じ神様が祭られているのでそう呼ばれるらしい。その先を行くと朱塗りの階段の中央に工事現場などに設置されているようなスロープが置かれた茅葺の出羽三山神社三神合祭殿があった。

山頂入口付近にある厳島神社
三神合祭殿

 羽黒山開山は約1400年以上前の推古元年(593)。蘇我馬子に暗殺された崇峻(すしゅん)天皇の御子である蜂子皇子(はちこのおうじ)が、三本足の霊鳥に導かれ、羽黒山に入り、難行苦行を積んで、羽黒権現を感得し山頂に社を創建したのが始まりとされている。出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山の総称で、羽黒山は、人々の現世の幸せを祈る「現在の山」、月山は、死後の安楽と往生を祈る「過去の山」、湯殿山は、生まれかわりを祈る「未来の山」と見立てて巡ることで、修験道の行場であった出羽三山神社が、生きながら新たな魂として生まれ変わることができるという「生まれかわりの旅」として、江戸時代に庶民の間へ広がった。羽黒山の山頂にある三神合祭殿は、この三山の祭神を一緒に祀っているため、出羽三山神社をお参りするだけで「生まれかわりの旅」ができるとして人気があった。また、この時代には「西のお伊勢参り、東の奥参り」と言われたように、お伊勢参りとともに人気も博した。
 タヌキの親子も、新たな魂に生まれ変わって、様々な困難に負けずに頑張りたいと思い、この出羽三山にやってきたのだ。ご縁があるように、みんなが1つずつ5円を持って、中央階段から上り参拝させて頂く。中を覗くと、鮮やかな朱塗りの柱があり、御簾が途中まで垂れていた。中は、どこの神社でも嗅いだことのないような、独特な古い匂いがした。例えば、おばあちゃんが大切にしていた着物を、箪笥の奥から40~50年ぶりに出したような、薬草とかカビとか、吸い込み過ぎると咽喉の奥が少し苦くなるような匂い。今年は卯年であり、欽明八丁卯年(547)に月山権現が出現したことから、月山は卯年を縁年としており、卯年には月山大神様の御力が最も高まるとされ、この年にお参りを果たすと12年分のご利益が得られるということだった。

三神合祭殿の中

 しっかり参拝した後、あたりを見ると、先ほど買った鐘のモデルとなる鐘楼も改修中であるようで、工事用の鉄筋が周りに組んであった。三神合祭殿前には鏡池があったが、暑さのせいかあまりきれいに水草等が生えていなかった。山頂に羽黒山五重塔の令和の大改修記念「参道手ぬぐい」が販売されていないことを知ったタヌキ一家は、池のほとりでペットボトルのお茶を飲み、参拝終了時間の午後5時までに下りて買うことにした。とにかく、暑くて暑くて「夕飯はお寿司とかさっぱりした鶴岡のものが食べたい」と言いながら下り始めた。

改修中の鐘楼
鏡池
ひょうたんの彫刻

第7章 ぎりぎりでゲット

 石段を下り始めると、上る時より下るときのほうが怖い気がした。石段の幅がまちまちで、幅が狭いところが結構あって、足を踏みはずしそうに何度かなった。下り始めて15分、松尾芭蕉の奥の細道を忘れていた。「南谷へ少し寄り道したい」と母ダヌキが言うと、子ダヌキたちの猛反対にあった。でも、父ダヌキは「次回はもうないかもしれないから、行ってこい」と言ったので、子ダヌキにわあわあ文句を言われながら追いかけられるような形で南谷へ少し寄り道した。その横道が、先週降った大雨のせいか、ぬかるみがひどく、靴を汚さないために大きな石や、道の端を選んで歩かないとならない。併せて、やぶ蚊が草むらから襲って来るので、顔や体の周りを手で振り払いながら早歩きしたので、傍から見ると何の行列かと思われただろう。暑くて、足元が悪く、蚊にも刺さされそうになりながらも行く価値があるのかなと思い始めた頃、ごつごつした山道からいきなり緑の原っぱが現れた。多分、この広場で芭蕉が逗留し、何句か読んだに違いない。芭蕉になりきって一句でもと思ったが、蚊にまとわりつかれて、逗留時間は5秒程度で元の参道に引き返した。

羽黒山南谷入口
南谷
南谷の空
やぶ蚊に追われそそくさと参道に戻るタヌキたち

 坂道を駆け足で下ると、さっき上から降りてきた人にまた出会った。「どうされましたか?」と聞くと、「上に車で着たので、また昇るんです」と言われた。そういう手もあるのかと思ったが、やっぱり下から上って下るほうがいいなと母ダヌキは思った。午後4時半を過ぎても、暑さはいっこうにおさまらない、沸騰するような夏の暑さだった。朱塗りの神橋を渡ると、最後の上り坂が待っており、ひぐらしの鳴く中を足音をならして石段を上った。出口の随神門のほうから沈みつつある太陽の光が見えて、「神様のいるところから人の住むところに戻るのだな」と母ダヌキは感じた。最後の石段を上りきると、午後4時45分を過ぎていた。

この橋を渡ると最後の坂道を上る

随神門から出ると、「あっ!閉まってる」と父ダヌキと子ダヌキたちが叫んだ。買う予定だった「参道手ぬぐい」を売っている神札授与所が閉まっている。「神社は午後5時までだけど、ここは午後4時半までだったみたい」と父ダヌキは神札授与所の張り紙を見て言った。「せっかく山口から来たのに、記念の『参道手ぬぐい』が買えないの」と母ダヌキは残念そうに唸った。もう2度と来られないかもしれないと思った父ダヌキは、思い切って窓を叩いてみた。中にまだ電気がついていたのだ。「すみません、手ぬぐいが買いたいのですが駄目ですか?」と声をかけると、中の人が窓を開けてくれて「大丈夫ですよ」と、売ってくれた。思い切って声をかけてよかった。「羽黒山参道」のほうを購入できた。1200円であった。時刻は午後5時になろうとしていた。
神札授与所から出て無人の観光案内所で飲み物を飲み、トイレを済ませて、本日の宿のある鶴岡市へとレンタカーで向かう。もうひと踏ん張りして今夜の食事は何にしようか考えながら向かう東北の旅の空は、夕方だがまだまだ熱が冷めない暑い空だ。暑さがこたえて疲れているのだろうが、いろんなアクシデントが起きながらも、何とか目的を達成して一日を終わろうとしている。日常から少し離れて楽しい夜となりそうだ。「とにかく信号機に気を付けて泊まるところに行こう!」タヌキ一家は心を一つにして夜ご飯に何を食べるか考えながら宿泊先へと向かった。

国宝羽黒山五重塔 令和の大改修記念 参道手ぬぐい
(出羽三山神社HPより)

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