見出し画像

サンクトペテルブルクの夜を知らない5


要塞からの帰りの船着場で夫が突然、この先の街に行ってみよう、と言った。

私たちは初めに来た船着場には戻らず、街へと向かった。
船が着いたシュリッセリブルクは本当にのんびりとした小さな町で、私たちは小さなショッピングセンターに入っているファストフード店(大盛況だった)でピザを頼み、お昼にした。
なにやら思案顔で携帯を見ていた夫が「近くに戦車の博物館があるって地図に出てるから行ってもいい?」と言い、私たちは戦車だか戦艦だかの砲塔がごろごろしている公園を抜け、バス停へと歩いて行った。


バスに30分ほど揺られ、降り立った場所には「Прорыв(突破)」と名付けられた新旧2つの博物館があった。
ネフスキー・ピャタチョークと呼ばれるこの場所は、レニングラードを包囲していたドイツ軍を破るきっかけとなったと言われる小さな橋頭堡であり、推定5万から20万人ものソ連軍がここで傷ついたり命を落としたという激戦地である。
プーチン大統領の父もここで戦って生き延びた一人であり、大統領の発案で出来たとされる新しいパノラマ博物館はこんな郊外にあるとは思われぬほど手の込んだ大掛かりな展示が作られていた。

画像1

画像2


博物館の前庭には、何台か戦車が展示されている。
夏の日差しには眩しいくらい真っ白に塗り直された巨大な重戦車を前に、熱心に携帯を眺めていた夫が言った。
「この戦車はこの目の前の川の底から引き上げられたって」
白は雪氷に紛れるための色だ。凍てついた冬、厚く張ったネヴァ川の氷の上をこの巨大な戦車が走ったはずだ。そして幾台もの戦車たちが川底の泥濘に飲まれ、2000年代になるまでずっとそこで眠っていた。戦車たちは1942年から川の底にいた。


わたしたちの今いるネフスキー・ピャタチョークからネヴァ川を少し北に遡れば、すぐにラドガ湖に至る。

レニングラードの包囲が始まった1941年、冬になると厚く張った氷の上に、本土のソ連軍とレニングラードを繋ぐ唯一の補給路が作られた。初めに馬橇とトラックが走り、氷が厚く張ると氷上の鉄道が引かれた。
「命の道」と呼ばれたその道を使って、ソ連はレニングラードから市民51万4000人、負傷した兵士3万5000人と重要な産業設備を逃し、またレニングラードに残った人々と戦線に食料や燃料、それから重戦車さえも湖面を渡って行った。道の途中には燃料補給拠点、暖房拠点が作られ、一番多い時には2万人近い人々が氷の上で働いていた。また空から襲い来るドイツ軍に対抗するべく対空砲が置かれた。
しかし命の道は戦闘の最前線を通過しなければならず、「死の道」とも呼ばれた。

命の道は春になって氷が薄くなっても動き続けた。冬から春へ、氷の上を毎日往復して走った全てのトラック、馬橇、汽車が無事に味方の待つ対岸にたどり着けたわけではない。春、氷が緩むと共に氷上に遺されたあらゆるものが、深い水と泥濘に飲まれていった。


あの柔らかい風が吹いていた穏やかでどこまでも広いラドガ湖には、1000台ものトラックが沈んでいるそうだ*。
幾人とも知れない市民たち、ソ連兵、ドイツ兵もまた。


夕暮れの博物館の前からペテルブルクまではバスが走っていて、いろんな想像に飲み込まれた私はすっかり疲れて眠った。
ペテルブルクもラドガ湖もきらきらと美しいのは確かなのに、少しでも歴史を覗けばそこには大量の苛烈な記憶が忘れられるものかと燃え盛っている。

画像3

画像4

画像5

(オレンジの部分がソ連軍が支配していた部分。シュリッセリブルクはドイツの支配下にあった。ネフスキーピャタチョークは、シュリッセリブルクからネヴァ川沿いに少し南下した独ソの境界にある。地図の著作権はMemnon335bc / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)


・「突破」博物館について「3D博物館がレニングラード包囲戦を再現:突破口を開いた戦いをパノラマで」 

https://jp.rbth.com/history/79616-leningrad-hoisen-3d-hakubutsukan


・「命の道」のトラック輸送について(ちょっと日本語が怪しい) 

https://globusks.ru/ja/doroga-zhizni-cherez-ladozhskoe-ozero-istoricheskie-fakty-ledovaya-doroga/


・ネヴァ川に沈んでいる戦車と修復について 「Гусеницы и колеса: Второе рождение танка」 

https://www.kolesa.ru/article/119-weekend-tank-2007-09-12


・戦車がいかにラドガ湖を渡ったかについて「Танковая "Дорога жизни»」 

https://www.diary.ru/~tankodrom/p179864419.htm?oam