【彼の記録、彼方から。】2018/05/06

何もない日だった。
少なくともエヌにとっては。
大型連休の最終日、エヌはとくに予定もなく、ふらふらと街に出た。
部屋にこもっていると、考えたくもないことが頭に浮かんできてしまう。
本来、エヌはインドアな人間だが、何か辛いことがあるとどこかへ飛び出してしまいたいと思う習性がある。
その日も、堂々巡りする答えのない問いに悩まされ、居ても立っても居られなくなり、街へ出た次第である。
クラッチバックに電子書籍端末とノートとノートPCと財布を入れて部屋を出た。
勢いで部屋を出たものの特別することはない。
結局、歩いて10分ほどの所にあるカフェに入る。
ホットコーヒーのショートサイズを頼んで、店の一番奥の目立たない席に座る。
クラッチバックから電子書籍端末を取り出して、読みかけの本を読む。
ジョージ・オーウェルの『1984年』だ。
気晴らしに街に出たのに、ディストピア小説を読むのはおかしなことをしているとエヌは思った。
しかし、意外にも読み始めると熱中してしまい、いい気晴らしになった。
名作と呼ばれる本は、内容に関わらず没頭させてくれる力がある。
エヌはその発見が嬉しかった。
感情とは別のなにかが刺激されるような感覚を味わうことができたからだ。
気がつけば日が暮れ始めていた。
大型連休が終わろうとして、エヌは悲しくなったが、どこかほっとした気分でもあった。
仕事に忙殺されていれば、くよくよ悩んでいる暇がなくなるからだ。
彼が今求めているのは、心の苦しみからの解放であった。
そして、手っ取り早く解放されるには、悩む暇がないほど忙しい状況に追い込まれることだった。
仕事なんかしたくないという気持ちと、仕事に振り回されたいという両極端な感情に挟まれて、気持ち悪いとエヌは思った。
冷めきったコーヒーを胃に流し込み、マグカップを返却してエヌは店を出た。
店を出た瞬間、冷たい風がエヌの髪をかき乱した。
寒いな、とエヌは思った。

#小説 #エッセイ



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