【彼の記憶、彼方から】2018/05/03

「そういえば、昨晩、絵描きになると言っていたけど、まだ気は変わらないのかい」
皮肉交じりにエヌに尋ねてみた。
彼は余熱で生きているような人間なので、どうせあの情熱だってすぐに冷めているに違いないと思ったのだ。
しかし、エヌからの回答は意外なものだった。
「もちろんだとも。今日だって絵を描いていたんだ。幸い僕には友達が少ないから、邪魔が入らず集中して描くことができたよ」
他の誰かが言っていたなら「かわいそうに」と思ったに違いない。
しかし、エヌに対して「かわいそう」という感情は一切湧かなかった。
あまりにも嬉々と話すものだから、むしろ友達が少ない方が幸せなのではないかと思ったほどだ。
まわりの目を気にして生きてきた私からすれば、堂々と友達が少ないと言えるエヌが少し羨ましかった。
「君にしては珍しい。いつも情熱なんぞ3時間も持たないのに」
「相変わらず、口が悪いねえ。まあいいや、僕の絵を見てくれよ」

そう言ってエヌが見せてくれた絵は、これ以上ないくらいコメントに窮する絵だった。
決して上手くないことは、素人の私でもわかった。
しかし、ところどころに努力の痕跡が見える。
「味がある絵だね。なかなか」
あからさまに下手だとは言えなかった。そもそも、私はこれ以下の絵しか描けないので、下手と言える筋合いではない。
「はははっ。こんなの誰がどう見たって下手くそな絵じゃないか。君は僕の絵と同じくらい嘘が下手くそだね」
なぜかエヌは笑っていた。
「ひどいことをするなあ。下手な絵を下手と言えるほどコミュニケーション能力に長けていないんだよ、私は」
「ほう、その表現はなんだか上手だな。下手な絵を下手と言えるほどコミュニケーションに長けていないか。君には文才があるかもしれないね」
皮肉なのか、褒めているのか、その時はわからなかった。
今振り返ってみれば、褒めてくれていたのだろうと思う。
人をむやみに傷つけるような男ではなかったのだ、エヌは。
そして、エヌは続ける。
「面白い未来が頭に浮かんできたぞ。僕は絵描きになって、君は物書きになるんだ。それで、いつものようにこのバーで、くだらないことを話しているんだ。一重のぼてっとした女の子と寝た話とか、野良猫が喧嘩していた話とかね」
どうしてこうも話があっちこっちへ行くのか。
エヌとの会話には、跳ね馬を乗りこなすような面白さがある。
「どうだかね。君は絵描きになるかもしれないが、私は物書きなんかにはならないよ。文才があるとも思わないしね」
「大丈夫、僕の予想はよく当たるんだ」
エヌはそう言って満足げに笑っていた。

ある意味ではエヌの予想は的中した。そして、ある意味では全くのハズレだった。
この文章を書いていることからわかるように、私は確かに物書きになった。
しかし、私が物書きになった理由を考えれば、エヌの予想が的中することなんてありえなかった。
エヌの予想が外れたからこそ、私は物書きになったのだから。
いつかこのことを書ける日がくるだろうか。
いまはまだ、その気にはなれない。

#エッセイ #小説

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