【NSW】2018/04/26

世の中には意味のある文章が溢れている。
役にたつ文章が溢れている。
「すぐ使える〇〇テク10選」のようなタイトルの記事が山ほどある。
実際に役に立つものもあれば、少しの役にも立たないものもある。
そんな役に立つ記事で溢れかえっている世の中だからこそ、まったく役に立たないことをポリシーに文章を書くのもありなんじゃなかろうか。
役に立たない文章。すなわちそれは、純粋に文章として楽しまれる文章である。
文章の究極系とも言える。
僕は役に立つ文章よりも、そんな役立たずな文章の方が好きだ。
それはもちろん文章としての話。
単純に情報を求めているのなら、面白さは求めない。
玉ねぎの切り方を知りたいのに、無駄に芸術的な文章なんかナンセンスだ。
玉ねぎを切った瞬間に、目頭が熱くなった。
それは、玉ねぎの成分に由来するものかもしれないし、あるいは、昔付き合っていた恋人のことを思い出してしまったからかもしれない。
なんて、文章があってもクソほどにも役に立たない。
今、知りたいのは玉ねぎの切り方であって、玉ねぎを通して見える世界観ではない。
情報と芸術は相容れない存在なのかもしれない。
情報を求めるものに芸術を提示するのは無意味だし、芸術を求めるものに単純な情報を与えることもまた無意味だ。
その人が欲しがっているものがなんなのか、あるいは、自分の思いをどんな人に届けたいのか。
そこを徹底的に考えることは重要である。
もし仮に、文章を書いて生活したいのなら。
そして、自分の書きたいことと人から求められるものが必ずしも一致しないということも頭に容れておく必要がある。
独りよがりの文章ほど、痛いものはない。
と、書いているこの文章がまさに独りよがりの文章なのだけれど、そもそもこの文章はノンストップライティングで、誰かのために書いている訳ではないし、読者を意識して書く必要もない。
ただ、書きたいように書く。
それだけ。
書きたいように書くのって、とても贅沢な行為なのではないだろうか。
そして、贅沢は、無駄や無意味と近い存在なのではないだろうか。
贅沢な文章。
素晴らしい。自分のわずかばかりのエネルギーを消費するだけで、贅沢ができるなんて素晴らしい。
だれのためでもなく、自分のためでもない。
ただ、文書をひたすら書く。
これは良い。
なかなか、他では味わえない、不思議な幸福感がある。
意味なんかまったくない文章をだらだらと書き続ける。
無意味だ。
役立たずだ。
生産性なんてありゃしない。
ただ、書くだけ。
それだけ。
なんのために書いているのかなんて考える必要がない。
自分の頭の中にある言葉をだらだらと紡いでいく。
それだけ。
それだけ、なのに必ずしも論理が破綻しないのは不思議だ。
もちろん、話全体を見ると明らかに破綻した文章だけど、部分的にはまともな文章になっている。
どうしてだろう。
人間は意外と頭が良いのかもしれない。
何も考えていないように思えて実はしっかりと考えているんだ。
でなければ、こうして何も考えずに文章を書き続けられるはずがないじゃない。
なんでこんな風に止まらずにかけるんだろうか。
きっと、脳のスピードに手が追いついていないからだ。
15分経ったからおしまい。

1298文字/15分

#NSW #ノンストップライティング #メモ




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