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【彼の記録、彼方から】2018/04/29

ある男がいた。
仮に名前を「エヌ」としておこう。
とくに意味はない、便宜上つけた名前だ。
この文章はエヌについて書かれたものだ。
あるいは、エヌのために書かれたとも言えるかもしれない。

2018年のゴールデンウィーク2日目。
エヌは最悪な気分で目覚めた。
頭の内側からハンマーで叩かれたような痛みと吐き気がする。
口の中は、昨日飲んだウイスキーの味が残っている。
ほのかなピート香と潮の香り。
ラフロイグの香りだ。
昨日の晩、エヌはラフロイグを飲んで酔いつぶれて、そのまま眠りについた。
チェイサーもなしに、しこたま胃にたらしこんだものだから、目覚めに酒を残してしまったのだ。
まず間違いなく、間違ったウイスキーの飲み方だ。
普段はエヌは舐めるように、ちびちびと嗜むが、昨晩に限ってこんな野蛮な飲み方をしたのには理由がある。
単純な話、エヌはその晩、むしゃくしゃしていたのだ。
自分でも理由がわからない怒りを静めるために、酒の力を頼るしかなかった。
どれだけ冷静さを欠いていても、ラフロイグの強烈な味わいは失われなかったらしい。
そもそも、なぜエヌは怒っていたのだろうか。
彼曰く、「自分に対して怒っていたのだ。情けない自分に。そして、怒りを静められない自分に」とのことだ。
彼の尊厳のためにも、これ以上深掘りするのはやめにする。
古くからの友人のせめてもの気遣いだ。

そんな、最悪の朝を迎えたエヌは、何を思ったか。
部屋の大掃除を始めた。
小汚い1Kの部屋をくまなく片付けた。
めんどさがりな性格のエヌはこまめに掃除することはないが、
一度手をつけると徹底的に綺麗にする極端な性格だ。

「いつもそうなんだ。こまめに掃除すれば大した負担じゃないのに。めんどくさがってほったらかしているから、あとで痛い目に会うんだ。人生もね」

彼がどういう意図を込めてそう言ったのか、今ではそれを聞くことすらできない。
仮に聞けたとしても、「そんな昔のこと、わすれちまったさ」と言われるだろうが。

とにかく言えることは、その日彼はとてもナイーブになっていて、
物理的に何かを変えることで、自分の気持ちを変えようとしていたということ。

エヌは、部屋にあるタブレット端末を見て、ふと思った。
「いらねえな。これも」
去年の夏、ボーナスで買ったタブレット端末だ。
エンジニアだったエヌにとって、タブレット端末はPCの下位互換でしかないらしかった。

新宿にある小さな携帯の修理屋でそれを売ったらしい。
「4万円でしか、売れなかった」
と言っていたが、「どうせ、いらなくなったものなんだ。言い値で売ったよ」
とも言っていた。
最近はネットサービスを使えば、もっと高く売る方法があるのにと私は言ったが、彼はそういったことには無頓着らしい。

「それよりも、僕の部屋でウイスキーを飲もう。今日は良い気分で飲めそうなんだ。」
そう言って、彼は私に自慢のラフロイグをご馳走してくれた。
正露丸のような香りがして、とても飲めたもんじゃなかったが、エヌは美味そうに、恍惚とした表情でラフロイグを味わっていた。
その時はキザな男だと思ったが、この文章をラフロイグ片手に書いていることを考えると、人のことは言えないなと思った。

#小説 #エッセイ  #『彼の記録、彼方から。』



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