【彼の記録、彼方から。】2018/05/02

「絵描きになろうと思うんだ」
唐突もなく、エヌはそう言った。
突飛なことを言うのが常だから、もはや驚きはしなかったが、
これまた、絵描きとはどういうことだろうか。
「どうしてまた、絵描きになろうなんて思い立ったんだい?」
「簡単なことさ、自分の描きたいものを自由に描けたら楽しいに決まっているじゃないか」
「それは、そうに違いないが。私が知りたいのはどうしてそう思うに至ったかということなんだ」
「バンクシーってアーティストを知っているかい?」
そうエヌは尋ねてきた。
「たしか、ロンドンを拠点に活動している覆面アーティストだろう。いわゆる落書きにすぎないが、そのメッセージ性や才能から芸術として認められているとかなんとかだったかな」
「そうそう、それだよ。まさにそれなんだよ。やっていることは落書きにすぎないし、なんなら違法行為だ。それなのにその類まれなセンスで芸術と認めさせてしまっているんだ。これ以上かっこいいことなんてないだろう」
一理ある。
実力だけで世界を納得させる力量は羨ましいし、かっこいいと思う。
「まあ、それは一理あるね。それで、バンクシーがどうしたっていうんだい?」
「ん? それだけだよ。たまたま新宿の紀伊国屋書店でバンクシーの画集を見つけてね。一目で虜になってしまったんだよ。僕もあんな絵が描けたらなあと思ったわけだ」
エヌは少年のような表情で熱く語っている。
普段は気だるそうに人生に絶望した死刑囚のような顔をしているのに、時々別人のように溌剌とした表情を見せる。
「ところで、憧れのバンクシーのようになるためには落書きをする必要があるだろ。それは違法行為じゃないか。見つかったら捕まってしまうぜ」
「まあ、捕まったら捕まったでまた考えればいいさ。渋谷なんて落書きだらけなんだ。どうせ捕まったって大した罪にはならないさ」
どうやらこの男は、罪の意識が欠如しているようだ。
罪と罰を善悪ではなく、リスクとリターンで捉えているようだ。
合理的な考え方かもしれないが、倫理的にはいかがなものか。
「捕まっちまうことも、君にとっては大した問題ではないんだな。もし捕まったら面会くらいは行ってやるよ」
「ありがたいね。その時はラフロイグを持ってきてくれよ。豚箱に詰め込まれるのは構わないが、スコッチが飲めないと僕は発狂してしまうからね」
「刑務所じゃ酒は飲めないんじゃないかな」
「……うむ。落書きはひかえようかな」
どうやら、エヌにとっては名声を得るよりも、スコッチを飲める方が魅力的らしい。

#エッセイ #小説




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?