【彼の記録、彼方から。】2018/05/01

いつものバーに行くと、一足先にエヌが一番奥のカウンター席に座っていた。

その日、エヌは山手線大塚駅近くのバッティングセンターに行ったらしい。
人もまばらな閑散とした真昼間のバッティングセンターで、黙々とバットを振り続けたと言っていた。
その日、エヌは有給休暇を取ってのんびりとしていたらしい。
有給を取ってまでして、なぜバッティングセンターに足を運んだかは謎だ。
きっとエヌのことだから、理由なんてないのだろう。
ただ、なんとなくそういう気分だったからそうした。
そういう男だ。

「先週の土曜日もバッティングセンターに行ったんだ。そしたらたまたまホームランが出てね。一打席無料券をもらったから、それを使うためにバッティングセンターに行ったんだ」
エヌにしては以外にもしっかりとした理由だった。
そういえば、高校までずっと野球をしていたと言っていた気がする。
補欠とレギュラーの間を行ったり来たりしていたとか。
「それで、どうだった。いい当たりは出たのかい。」
「ああ、自分でも驚くほどいいスイングができたよ。この調子なら、来週の試合は猛打賞だな」
「試合? どこかの野球チームに所属しているのかい?」
「ああ。会社の細々としたチームだけどね。みんな美味かないけど、やる気だけはあるチームなんだ」
社会人になっても、運動をする習慣があるのは、すばらしい。
エヌに見習うところが少しでもあるとは、意外だった。
「そうかい。頑張ってくれよ。いい結果報告を待っているよ」
「ああ。任せてくれ」

その後、特に会話するでもなく、黙々と酒を飲んだ。
無理に会話しなくてもいい関係というのは、楽しく会話ができる関係より尊いように思う。
元来私は沈黙が苦手で、無理にでも話題を探して喋り続ける性格なのだが、不思議なことにエヌといる時だけは、無理に話題を探すことがない。
そもそもエヌとの会話は、会話と呼べるほど立派なものではない。
誰に言うでもなく、互いに独り言を言っているようなものだ。
そして、たまたまその独り言が噛み合うときがある。
そういう表現の方が正しい気がする。

しばらくするとエヌが口を開いた。
「なあ、君は生きる意味について考えたことがあるかい?」
エヌらしい質問とも思えるしエヌらしからぬ質問にも思える。
今思えばこの時すでにエヌは思い悩んでいたのかもしれない。
この時、私がもう少しましな回答ができていれば、今とは違った現在があったのかもしれない。
「そうだね。私は普通に仕事して、普通に生活できればそれで満足だからね。あとは寿命が来るまで人生を楽しむだけさ。そこに意味なんて必要ないさ」
「なるほど、そうかもしれないね」
そう一言呟いて、エヌはまた黙ってしまった。
脈絡のない会話ばかりするから、「いつものことだろう」とその時は考えていた。
しかし、この時はいつもとは明らかに違っていたのだ。
もし、この時に戻れるのなら、私は何度そう思ったことだろう。

#エッセイ #小説




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