【NSW】2018/04/25

なんのために仕事をしているんだろう。
なんのために生きているんだろう。
そう考えることが時々ある。
なんのために。なんのために。
この問いが僕の頭の中を埋め尽くす。
意味なんてなくても人は生きていけるに違いない。
しかし、一度、その意味を問うてしまったら、その迷宮から這い出るのは困難だ。
僕は時々、この迷宮に迷い込んでしまう。
そして、ぐるぐるとさまよい続ける。
禅問答のように答えのない問題を解いてるような感覚。
なんのために働いているか。なんのために成長するのか。
成長したところでなんの意味があるのか。
そう考えてしまう自分がいる。
なぜだろう。
人生に意味なんてないと思ってしまうのはなぜだろう。
きっと、本当に生きるのに精一杯の状態だったらこんなことを考えたりしないんだろう。
そういえば、関わっている案件が炎上していたときはそんなことを考える余裕がなかった。
意味を問いただすのは暇である証拠なのかもしれない。
暇だといちいち人間は意味を求める。
はっきりとした答え。納得のいく答えなんかありゃしないのに、その答えを探し求める。
なんのために?
きっと暇つぶしさ。
脳が暇だから、なにか刺激を求めているに違いない。
手頃な、悩ましい問いはないか。
そう考えているとき、ちょうどそこに良い問いがある。
「意味」についてだ。
なんでも「意味」を付け加えれば、良い問いになる。
食べることの意味は?
歩くことの意味は?
人生の意味は?
楽しむことの意味は?
意味なんていらないのに、持て余した脳のエネルギーを無駄に消費しようとしているだけだ。
脳は暇が好きじゃないみたいだ。
だから無理にでも「意味」なんて概念を取り出して、頭を使おうとする。
そして疲れたら、ブドウ糖が足りないと騒ぎ出す。
まるで赤ん坊だ。
脳は人体で最も頭が良いが、もっともわがままな存在だ。
まあ、そもそも全ての意思決定は脳が下しているわけだから、脳以外の部位に意思がない以上、脳がわがままであることは必然と言える。
こう考えているのも脳だと思うと不思議だ。
これを考えている「僕」という主体は脳の内側にあると思えるけど、
その脳を外側から監視しているような不思議な感覚。
人体の意思の主体としての脳と「僕」という主体の間には埋めようのない隔たりがあるような気がする。
うまくはいえないが、「僕」が僕であることと、僕の一部としての「脳」はまったく別物のような気がする。
ふわふわとして捉えどころのない感覚だけど。
だれか、この感覚をわかってくれないだろうか。
自分とそれを認識している自分は別物のような気がする、この感覚。
どうでもいいか。
どうせ、意味なんてありはしないんだ。
意味なんて概念は所詮人間が作り出した、虚像にすぎない。
意味なんてないんだ。
あるのは、物理的な現象のみであって、そこに意味を感じるのは一種の妄想さ。

#NSW #ノンストップライティング #メモ





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