【彼の記録、彼方から。】2018/05/05

その日もいつものように、私より一足先にエヌがバーにいた。
私が店に入ったのに気づくと軽く右手を上げる。
そして何事もなかったかのように、ウイスキーの入ったロックグラスを暗い顔で眺める。
「自分がどうしようもない人間だって気づいたんだ」
私がエヌの隣に座ると、にわかにそう呟いた。
「そんなこと知っているよ。なにを今更」
「君は真面目な男だけど、デリカシーってものがないね」
「人を選んで、言葉を選んでいるだけだよ。それとも、気を使って優しい言葉をかけた方がよかったかい?」
「いや、気を使わないでくれて助かるよ。気を使われるのは気を使うより疲れるからね」
「それで、どうしたっていうんだい。君が立派な人間じゃないことなんて、自明なことじゃないか」
「わかってはいたんだ。自分がだらしない人間で、どうしようもない人間だということはね」
「じゃあ、どうして改まってそんなことを言ったんだい?」
「僕はね、気づいたんだ。人の気持ちがわからない人間だって。いや、違うな。人の気持ちはわかるんだ。だけど、わかった上でその人が嫌がるようなことをしてしまうことがあるんだ。そんなどうしようもない人間だって気づいてしまったんだ」
予想外のことを聞いてしまって、私はたじろいだ。
私の知っているエヌは、褒めるべきところのないどうしようもない人間だが、人を傷つけるような卑しい人間ではなかったからだ。
「君が人を傷つけるなんて、驚きだな。どうしようもない人間だが、そんなことをする性格ではないと思っていんだが」
「いや、それは君が僕を買いかぶっていただけだよ。醜く人を罵るクソみたいな人間だよ、僕は」
抑揚もなく淡々とそう語っているのに、私にはエヌが怒っているようにしか見えなかった。
「少なくとも、私は君に罵られたことはないよ。バカにされることをしょっちゅうだがね。どうしたんだい? なにかあったんだろう」
「……鏡を見たんだ。そしたら涼しげな表情の男が立っていたんだ、もちろんそれは僕なんだけど。鏡に映る涼しげ表情の自分を見て、怖いって思ったんだ。」
「すまないが、順を追って説明してもらってもいいか。それだけじゃさっぱりわからない」
「最近知り合った女の子とデートに行ったんだ。丸顔で愛嬌のある子なんだ。二人で水族館に行って、楽しいデートだった。だけど、ちょっとしたことで口論になってしまったんだ。気づいたら僕は、彼女の悪口を言っていた。お前は鼻がブサイクだとか、目が小さくてヒラメみたいだとかね。彼女が明らかにコンプレックスに思っていることを言ってしまったんだ。彼女が傷つくとわかって言ったんだ。彼女の鼻の形も小さな目も僕は大好きなんだ。それなのに彼女を傷つけるために彼女のコンプレックスをバカにしたんだ。そんな自分が許せなくなって、一旦冷静になろうと思って、トイレに行ったんだ。そのとき、鏡に映った自分の表情がこれ以上ないくらい涼しげで、満足げな表情だったんだ。たった今、女の子を罵った男がするような表情には見えなかった。そんな自分の表情が怖いって思った」
エヌは淡々と語ってはいたが、かすかに声が震えていた。
怒りなのか、恐怖なのかはわからなかったが、いつものエヌではないことは確かだった。
「彼女と君の関係だとか、詳しい口論の内容だとかは詮索しない。だから1つだけ言わせてくれ。人を傷つけて快感を得るのは決しておかしなことではないということじゃないんだ。誰でもそういった感情を持っているんだ。相手がぼろぼろに崩れていくのを見て快感に思ってしまう卑しい感情は誰もが持っているんだ。ただ、すぐに罪悪感が追ってくるから、その感情に気づかない人もたくさんいる。決して君だけじゃない。みんなそうなんだ。そしてみんな後悔する」
私は一息にそう言った。
「……君もそうなのかい」
少しの沈黙の後、エヌがそう尋ねた。
「もちろんだとも。頭に血がのぼっていると、大事なものを見失ってしまうんだ。何よりもまして、自分の怒りを昇華させることを優先してしまう。それが人間って生き物だよ。私もそれで何度も失敗した。恋愛、仕事、友人関係。色々とね」
「……ありがとう。少し救われた」
「少しでも気が楽になったなら、良かったよ。で、その女の子とはどうなったんだい」
「それっきり連絡が取れなくてね。謝りたくても謝れないんだ。謝りたくても謝れないってのは、……苦しいものだね」
エヌはそう言って、飲み干したロックグラスの氷を所在なげに指先でくるくると弄んだ。

#エッセイ #小説




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