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コーチ物語 〜幸せの歩き方〜 第四章 幸せを感じることとは

 セミナーの翌日。この日は世の中では週の始まり「月曜日」と呼ばれている。
 私にとっても本当なら週の始まり、といいたいところだが、私の勤める「KAWASAKI・WEB工房」では日曜日も出勤。テレビも見ない私にとって、曜日の感覚はすでに麻痺していた。
 ここに努めて半月ほど経っているが、昨日までの通勤の足取りはとても軽いとはいえなかった。それは一ヶ月間は試用期間として、給料は時給でもらうことになっているから。正社員扱いでないため、由梨恵への連絡は先延ばしにしている。
 しかし今日は違う。足取り軽く職場へ向かうことができた。
「おはよーございます!」
 元気にあいさつをして、職場の扉を開いた。そこには今日も徹夜だったのか、寝ぼけ眼の徹ちゃんが
「ん、あ、笠井さんか…」
とそっけない返事。徹ちゃんは再び机にうつぶして寝てしまった。
 しかしそんなのは関係ない。いつもの通り自分にあてがわれたパソコンのスイッチを入れ、立ち上がるまでに今日の打ち込み原稿のチェック。
 パソコンの準備ができたのを確認して、指をポキポキ鳴らして
「さぁ〜っ、今日もバリバリやるぞ!」
と気合いを入れて、更新用の原稿の入力を始めた。
 これは昨日受けたセミナーの影響。自分の未来をしっかりと見て、その方向に進んでいく自信がついた。おかげで何か行動を起こしたくて仕方ないのだ。
 予定された仕事がいつもより早く終了。余った時間は本を片手に簡単なプログラムを考えて勉強。そのとき、社長が厳つい顔で扉を乱暴に開けて登場した。そして険しい顔で上から私をにらみつける。
「あ、あの……な、何か?」
 社長のその姿からは、怒りの感情が感じられる。一体何があったのだ?
「おい、笠井!」
「は、はいっ」
「笠井っ、おまえ昨日何してたんだ!」
 昨日は羽賀コーチのセミナーに出席してたけど。それが何か悪いことでもあるのだろうか?
「笠井っ、おまえはここの社員だろうが。そしてここの仕事は午後一時まで。違うかっ」
ドンッ。
 社長は激しく机を叩き、私をにらみつける。そうか、無断で早引きしたのがばれてしまったのか。
「笠井っ、おまえ昨日自分の仕事が終わったら、さっさと帰ったそうじゃないか。それで働いたことにしようなんて、ふてぇ野郎だっ!」
 確かに社長や奥さんに黙って帰ったのは悪いけれど、それを報告しようにも社長は朝からいなかったし。
 このことについて弁解しようと思ったが、私よりも先に社長の言葉の方が先に飛び出した。
「いいか、おまえのようないい加減なヤツは、どんな仕事についてもいい加減なんだよ。ウチはそんなヤツに今の仕事を任せておくわけにはいかねぇんだよ」
 こっちの言い分くらい聞いてくれよ。何はともあれこの場は謝っておくか。
「すいませんでした」
 私は立ち上がり、気をつけの姿勢から深々と頭を下げて謝罪をした。だがこの態度が逆効果。
「てめぇ、謝れば済むって問題じゃねぇんだよ。いいか、おまえみたいなヤツが給料泥棒って呼ばれるんだよ。わずかの金額かもしれねぇが、その金額を稼ぎ出すのに、こちとらどれだけ取引先に頭を下げて回ってんのか、わかってんのか!」
 社長はよほど機嫌が悪いらしい。しかし、徹ちゃんは黙っておいてくれるって言ったのに、どうしてこれがばれてしまったんだ?
 徹ちゃんの方をちらっと見ると、バツがわるそうな顔をしてこちらの様子を見ている。どうやら徹ちゃんがばらしたのは間違いなさそうだ。
 ふと入り口に目をやると、奥さんがドアの隙間からのぞき込んでいる。そうか、徹ちゃんは社長じゃなく奥さんに昨日のことを告げ口したのか。そして奥さんが取引先回りから帰ってきた社長にこのことを伝えた。そうして社長が血相を変えてこの部屋に飛び込んできたのだろう。
「まったく、どいつもこいつもなんでオレに逆らいやがるんだ」
 逆らうって、別に逆らった覚えはない。この言葉から察するに、どうやら取引先とうまくいかなかった事態が発生したのだろう。その怒りのはけ口として怒鳴られているようだ。
「おまえのようなヤツはここには置いておけんっ。明日から来なくてもいいっ。クビだ、クビっ!」
 な、なぜ……クビはないだろうが。それに今私がここを辞めてしまったら、誰が今の仕事をやるんだ?
 徹ちゃんに目をやると、何も言わずに黙々と仕事を続けているだけ。入り口を見ると、奥さんの姿も消えている。
 こんなことでクビになるなんて、ちょっとおかしいんじゃないか? そう思ったものの、今は反論できない。社長に黙って早引きしたのは事実だ。また、私はまだ試用期間の身。つまり、この会社では使えないと判断されたわけだ。それを考えると、どうしても強気に出ることができない。
 私は下を向いて、両の手はグッと握った拳を震わせ、このセリフを言うのがやっとだった。
「わ……わかりました……」
 本意ではないが、そう言うしか今は思いつかなかった。そのセリフを聞いた社長は、まだ怒りがおさまらないのかドアを叩きつけるようにして部屋を飛び出した。
 私の顔の下にある床には、二つの水たまりができていた。
「じゃぁ、お世話になりました」
 社長からクビを宣告されて、私は暗い顔で帰り支度。そして玄関で最後の言葉を発したところ。目の前には徹ちゃんと社長の奥さんがいる。
「あんたの分の給料はちゃんと口座に振り込んでおくから」
 奥さんが事務的に私にそう伝える。徹ちゃんは何も言わずに立っているだけ。
「じゃぁ、皆さん。お体には気をつけて」
 私はそう言って、わずか半月しかいなかったこの会社を後にした。
 いきなりのクビ宣言はショックなことではあった。明るい顔をすることもできない。だが、怒りとか悲しみという感情ではない。ちょっとぽっかりと心に穴が空いた。そんな感じだ。
 自転車を駅に走らせる途中で、このことばかりを考えていた。これは虚無感? 確かにそれもある。でも、よく自分の心の中を覗いてみると、ほんのわずかではあるが何か光るものがあるような気がする。
 希望? そうかもしれない。でも何の? だって、今会社をクビになったばかりなのに。どこに希望なんてあるの?
 そんな自問自答を繰り返していたら、駅の自転車置き場に着いてしまった。
「そうか、もう自転車をここに置いておく必要なんてないんだよな」
 そう思って、自転車を再び道路へと運び出した。
「えっと、確かこっちの方でよかったよな」
 頭の中に描いた地図を確認しつつ、自分の家の方向へと自転車を走らせ始めた。
 車でも三十分はかかる距離。自転車だと単純に考えて三倍くらいの時間はかかるだろう。ま、帰ったところで何かしなきゃいけないことがあるというわけでもない。それに今は自分の心の中にある何かをもっと見つけてみたい。
 そのためには、さっきのように自転車をこいでいた方が考えがまとまりそうな気がする。私は心の奥にある、わずかな光がなんなのかを考えながらペダルを踏み出した。
 動き出してすぐに、羽賀さんの顔が浮かんだ。ひょっとしたらこの答えを導き出してくれるかもしれない。
 でも羽賀さんだって暇じゃない。それに普通はプロとして有料で相談業務を行っているし。今の私に相談料を払うほどの余裕はない。
 どうしよう……でも羽賀さんに話をしてみたい。話すことで何かが見えるはずだ。これがスッキリしない限りは、なんだか前に進めそうにない。
 まるで足に鎖で鉄球をくっつけて歩いているような感じ。この鉄球をはずさないと私は自由に前に向かうこともできない。
 悩んでもしょうがない。正面からぶつかってみるか。そう思ったら、足は自然と羽賀さんの事務所の方へ。
「しかしのどが渇いたなぁ」
 思えば自転車をこぎ出してから水分をまったく取っていないことに気づいた。脱水症状にならないように、どこかで水分補給しないと。
 ここで目に入ったのが、羽賀さんと始めて出会ったコンビニ。思えばここからスタートしたんだな。まだひと月も経っていないのにずいぶん昔のことのように思える。足はふらふらっとコンビニへ。
「いらっしゃいませ」
 店に入ると元気なあいさつ。アルバイトだろう。若い女性がこちらを向いてにっこり。私もそれに合わせて頭をペコリ。なかなか従業員の教育が行き届いているお店だな。
 奥のドリンク棚からペットボトルの水を一本取り出しレジに水でお金を払う。
「ありがとうございます。またお越し下さい」
 レジの女の子はさわやかな笑顔で一礼。なかなか気持ちのいいものだ。
 店の外に出てペットボトルのキャップを開け、グイッと水を流し込む。水分は一気に体に行き渡る。
ゴクリ、ごくり。
 一気に水を体に流し込んだ。
 このとき、ふとコンビニの入り口に張ってある文字に目がいった。
「アルバイト募集中」
 確か羽賀さんと最初に出会ったときにもこれが貼ってあったな。あのとき私は「コンビニのバイトなんて」という気持ちでしかこの貼り紙を見ることはできなかった。
 しかし、今は違う目線でその貼り紙を見ていた。とにかく何か仕事をしないと。私は貼り紙に書かれている時給の項目や条件に目を通していた。
「あら、あなた確か前に羽賀さんと」
 そう呼びかけてくる声が。声の主の方に目をやると、コンビニの奥さんであった。
「あ、どうも」
 私はペコリと頭を下げてあいさつ。
「あらぁ、元気にしてた?」
 奥さんは愛嬌のある笑顔で私に話しかけてきた。
「羽賀さんとあれから会った? 昨日羽賀さんのセミナーがあったでしょう。あれホントは行きたかったのよぉ。でもこの商売でしょ。おまけに今人手が足りなくてねぇ。アルバイトがなかなか来なくて困っているのよ。私も、もうちょっと楽させてもらいたいものだけどねぇ。ウチの人が頑固でさぁ……」
 奥さんは一方的に私にしゃべっている。どうやらこのコンビニの人手不足はかなり深刻のようだ。特に夜中が足りないため、ここのダンナさんは夜中のシフトに入り、昼間は休んでいるとのこと。
 しかし、昼間は昼間でFC本部の会議とか、外のつきあいとかがあるため、休もうにも休めないとか。奥さんも昼間はこうやってフルに働き、特に従業員の教育を徹底してやっているそうだ。
 この話を聞いて、気持ちが少しずつ何かに流されている事に気づいた。目線がコンビニのアルバイト募集の貼り紙へと移っていた。
「あ、あの……」
 私はアルバイト募集の件で詳しいことを聞こうと思ったそのとき、私の名前を呼ぶ声が。
「笠井さ〜ん!」
 声のする方を見ると、自転車に乗った羽賀さんの姿。今日はトレーニングの途中のようで、ヘルメットにサングラス、そして自転車用のウェアに身を包んでいる。
 羽賀さんは私とコンビニの奥さんの前でスタッと止まり、サングラスを上げてにっこり微笑んだ。
「羽賀さん、今日はトレーニングですか?」
「えぇ。昨日がセミナーだったでしょ。だから今日は自主的にお休みにしたんです。この商売、自分で休みが取れるのがいいところですよ」
「あら、この前は『仕事が入らない日が休みだ』って言ってなかったっけ? ってことは今日は仕事が入らなかったんだ」
「奥さ〜ん、それは言わないでよぉ。ちょっとくらいカッコつけてもいいじゃないですかぁ」
 なるほど。羽賀さんの仕事ってクライアントがいて成り立つものだからな。相手がいなければ休みになるのは当然か。
「ところで二人で何を話してたんですか?」
 羽賀さんが唐突に話しを振ってきた。私はちょっと答えにとまどった。昨日セミナーで堂々と未来に向かって行動することを宣言した手前、ここのアルバイトに募集しようかと考えていた、なんて言えない。
 私が答えに詰まってモゴモゴしていたら、奥さんの方がしゃべり出した。
「いやね、ウチも人手不足で困ってるのよ。バイト募集のポスター出したけど、なかなかいい人が来なくてね。せめて夜の間だけでもなんとかならないかな。じゃないとウチの人、体壊しそうでねぇ。羽賀さん、誰かいい人知らない?」
 奥さんのその言葉を聞いて、私はさらに迷いが生じた。それだけ困っているのならなんとかしてあげたい。私だって職がなくて困っている。ここに勤めれば、双方の悩みが解決するのだ。
 私はここで言い出そうかどうしようか迷っていると、羽賀さんからこんな言葉が。
「そうですね。その件だったら何とかなるかもしれません。ちょっとボクに任せてもらえますか?」
「え、誰かあてがあるの?」
「まぁ、あるようなないような。ともかくもうちょっと待ってて。ところで笠井さん」
「あ、はい」
 またもや急に話を振られてビックリして返事をしてしまった。
「今からちょっと時間ありますか?」
「あ、え、えぇ。大丈夫ですけど」
「よし、じゃぁウチの事務所に行きましょう。場所はわかりますよね。ボクは一足先に戻って着替えてますから。じゃ、ゆっくり来て下さいね」
「はい、わかりました」
 羽賀さんはコンビニの奥さんにペコリと頭を下げて、颯爽と去っていった。
 私も奥さんに「じゃぁ」と声をかけて、羽賀さんの事務所へと自転車を走らせた。
「ごめんください……」
 羽賀さんの事務所のドアをそっと開ける。先に羽賀さんが戻っているはずだ。
「あ、笠井さん。もうちょっと待ってて。すぐに着替えるから」
 部屋の奥、カーテンの仕切の方から羽賀さんの声。この事務所はワンフロアだが、奥がカーテンで仕切られている。カーテンの奥は羽賀さんのプライベートスペースのようだ。
「お待たせ」
 私はソファに座って羽賀さんの登場を待っていた。羽賀さんはいつものようにえり付きのシャツにチノパン、ジャケットを羽織っている。
「さてと、単刀直入に質問しましょう」
 羽賀さんは私とL字になるように座り、前かがみの姿勢になって私にそう語りかけてきた。
「あのコンビニ、救ってくれませんか? 笠井さんにしかできないことだと思うんですよ」
「え、私がですか?」
「はい。それに笠井さん、今困ってらっしゃるでしょう?」
 あまりにも図星だったので驚いてしまった。ひょっとして解雇されたことをどこかで聞いたのではないか?
「ど、どこでそれを……?」
「あ、やっぱり。いや、さっきのコンビニでの笠井さんの目線がですね……」
 羽賀さんの説明はこうだった。羽賀さんは私と奥さんに話しかけているにもかかわらず、目線がコンビニの入り口に向いていたということ。何だろうと思ったらアルバイト募集の話しをしていたということだったので、これだと直感したようだ。そこで私が早急にお金が必要な状況にあったのではないかと思ったらしい。
「羽賀さんの観察力と洞察力ってすごいですね。どうせだから恥を忍んでお話しします」
 「恥を忍んで」という言葉は私の見栄だ。こちらから解雇されたことを相談したのでは、いつまでも羽賀さんを頼りにしているように思われる。だが今の状況だとこちらも話しがしやすい。
 昨日のセミナーに参加するために、勤務時間を三十分だけごまかしたこと、それが原因で社長がカンカンに怒り解雇されたことを伝えた。
 羽賀さんは私の話をじっと聞いてくれた。そして一通り話し終えてたとき、予想外の言葉を羽賀さんの口から聞くことになった。
「笠井さん」
「あ、はい。何でしょうか?」
「笠井さん、おめでとうございます」
 何のことかわからず、キョトンとしてしまった。しかし羽賀さんはお祝いの握手を両手で求めてきた。
 羽賀さんの握手に応えながらも、意味がわからずに呆然としていた。
「羽賀さん、説明して下さい。何がおめでとうなんですか? 私は今日職場を解雇されたばかりですよ」
「あれ、気づきませんか? 今日、この瞬間、笠井さんは自分の思ったとおりの道を歩む権利を天からいただいたんですよ」
「羽賀さん、もうちょっとわかるように説明して下さい。それってどういう事なんでしょうか?」
「じゃぁ一つ質問します。もし昨日までの仕事をしていたら、この先笠井さんはどんな未来をつかむことができますか?」
 そうか、昨日羽賀さんのセミナーで宣言した自分の未来。高齢者や初心者に向けてのパソコンの在宅支援の事業を行い、家族を再び取り戻すこと。
 あの職場であの仕事を続けていても、そんな状況はやってこない。どこかで奮起して、自分で事業を立ち上げない限りは。あのままだと、いつまでたっても雇われ意識から抜け出すことができずにいるはず。
 だから私がやるべき事はあの仕事じゃない。新しく仕事を始めることだ。
 だが、ここで一つ疑問が湧いてきた。
「羽賀さん、言っている意味がようやくわかりました。でもどうしてもわからないのが、なんで今なんですか? 昨日宣言したばかりなのに、まだ何の準備もできていないし。どうして突然こんな状況に放り出されたのでしょうか?」
「まだ何も準備ができていない、か。そうかもしれませんね。ではもう一つ質問。笠井さんはどこまで準備をすれば、未来に行うであろう事業を立ち上げられるのでしょうか?」
「どこまでって……そりゃまず自分に技術をつけて、身近なところでお客さんをつかんで、いけるって思ったとき、ですかね」
「その『いける』ってのは何で判断するんですか?」
「何でって……そうですね、お客さんの数とか収入とか」
「ということは、その事業のスタートはいつですか?」
「スタートは……スタートは……」
 私の中では羽賀さんの問いに対して一つの答えが見えていた。だがこれを言ってしまうと言い訳ができなくなる自分がいる。そのためどうしてもその言葉を口にすることができない。
 そこから沈黙の時間が流れていった。
 長い沈黙を破ったのは私。
「スタートは……そう、スタートは今から。そうですよね、羽賀さん」
 ようやく心の中に見えていた答えを口にすることができた。
 その言葉を口にしたのが良かったのだろう。ここから私は堰を切ったように言葉が口から飛び出してきた。
「お客さんが何人できたから、収入がいくらになったから。これを言っていたら、私はいつまで経っても自分が思い描いた未来をつかむことなんかできはしませんよね。何も行動せずに、お客さんや収入を得ることなんてできないのですから。お客さんを得るためには、今からそのための行動を始めないと。事業のスタートって、開業届を出したところからじゃない。その準備段階もすでにスタートなんです。そうでしょう?」
 羽賀さんはにっこりと微笑み、大きく、そしてしっかりとうなずいてくれた。それを見て私も思わず微笑むことができた。
「ようやく答を出してくれましたね。ボクも笠井さんの意見と同じです。自分のやりたいことって、いつからスタートって事はないんですよ。思いついたら、そのときがスタート。ボクはそう思っています」
 羽賀さんの言葉で安心することができた。
「ところで笠井さん、ちょっとクイズです。先ほど答えを出すまで、とても長い時間がかかりましたよね。どのくらい時間が経ったと思いますか?」
「え、答えを出すまでの時間、ですか? 結構長かったですよね。五分か、いや十分くらいですか?」
「なるほど、そのくらいに感じましたか。正解はですね、わずか一分程度なんですよ」
「えぇっ、そんなに短かったんですか?」
 その答に驚いてしまった。まさか一分があんなに長く感じるなんて。
「笠井さん、人って感じる時間が自分の気持ち次第でこんなにも変わるもなんですよ。笠井さんはどんなときに時間を長いと感じますか?」
「そうですね。新入社員で工場実習をやっていた頃、単調な作業でとても時間が長く感じました。いつになったら一日が終わるんだろうって、そう思ったことがありましたね」
「へぇ、工場実習の時ですか。でも、それってどうして長く感じたんだと思いますか?」
「そうですねぇ。やはりつらいこととか面倒なこと、ガマンできない嫌なことをやっている時って時間が長く感じますね」
「では逆に時間が短く感じた時は?」
「それなら羽賀さんと一緒に仕事をやっていたとき。あのときは一日が短くて、もう少し時間が欲しいって思いましたね。夜中まで議論してたときなんかが特にそうですよ。気がついたら夜中の一時、二時なんてザラでしたからね」
「ではそのときの気持ちって?」
「やはり楽しいって、そう感じました」
「では、今日クビになったあのお仕事はどちらに入りますか?」
 そう言われてドキッとした。ホームページの更新作業。あれはどちらかというと工場実習の時の単調な作業とイメージがだぶっている。
「言われてみると、時間が長く感じる部類に入りますね。あ、でもそうじゃないときもありましたよ」
「へぇ、どんなときですか?」
「ホームページの更新作業は時間が長く感じてたんですけど、それが終わってからプログラムの勉強をする時間。これはあっという間に過ぎましたね」
「へぇ。プログラムの勉強なんてやっていたんですか。さすが元技術屋さんだなぁ」
 早くあの会社で仕事を覚えて、正社員としてバリバリ働こうと思ってプログラムの勉強を自主的に始めた。早く役に立ちたい。その一心で勉強していたので、時間もあっという間に過ぎていった。
「では、時間が過ぎるのが長いときと短いとき、つらい、楽しいの気持ちの違い以外に何があると思いますか?」
「気持ちの違い以外に、ですか?」
 そこで考え込んでしまった。気持ち以外にどんな違いがあるのだろうか? 先ほどの沈黙の時と違い、今度は考えがまったく思い浮かばなかった。
「羽賀さん、降参です。思い浮かびませんよ」
「ではちょっと質問を変えてみましょう。長く感じる時間のときって、その行動は誰に言われてやっていましたか?」
「誰に言われてって、工場実習のときは会社の命令だし、ホームページの更新作業も社長からの命令」
「では短く感じるときは?」
「短く感じるときは、自分でやろうって思ったときですね。プログラムの勉強は自分からやり出したことですし。それに羽賀さんと一緒に仕事をしていたとき。仕事自体は会社からの命令でしょうが、それを推進していたときは自分からやりたくてウズウズしていましたからね」
「では、これから先はどちらの時間で過ごしたいですか?」
「そりゃ、楽しくて自分で行動を起こした方がいいに決まっています」
「ではちょっと意地悪な質問です。この先、ずっとあの単調でつまらない工場実習の仕事を続けなければいけないとしましょう。その仕事はこの先避けられないものだとします。さて、笠井さんはどうしますか?」
「え、あの仕事をずっと続けるんですか? 辞めるってのはダメですよね」
「はい。絶対に辞められないものとしましょう。さて、どうします?」
 本当に意地悪な質問だなぁ。嫌なこと、やりたくないことから避けられない人生を送るなんて。
「そうですね。避けられないのであればガマンしてその仕事をするしかないでしょう」
「笠井さん、それで幸せになれますか?」
「幸せに?」
 言葉に詰まってしまった。そんな人生を送るのでは決して幸せにはなれない。
 ここで先ほど頭の中で生まれた何かが、さらに成長し始めた。なんだろう、ちょっとモヤモヤした感じ。しかし、不快なものではない。むしろこれが明らかになれば、スッキリとした快感を得ることができるような気がする。
「どうやったら幸せになれるか、難しい質問ですね」
「そんなに難しくはありませんよ。すでに笠井さんはその答を口にしているのですから」
「え! 答えを口に、ですか?」
 そう言われても思い出せない。どんな発言をしたのだろうか? と、そのときドアから元気な声が。
「おっはよ〜ございま〜す!」
 声の主に目を移すと、そこにはミクさんの姿が。相変わらず元気で楽しそうな人だ。
「あ、笠井さん、来てたんだ」
「ミクさん、こんにちは」
「さんづけはやめてよ。ミクでいいよ。あ、羽賀さん、お客さんが来たときくらいお茶を入れてあげなきゃ。まったく気が利かないんだから」
「あはは、すっかり忘れてた。笠井さん、すいませんね」
「いえ、そんなお構いなく」
 私は元気なミクさんを見てふと思った。ひょっとして今の答えのヒントが、このミクさんに隠されているんじゃないだろうか。
 お茶を入れる準備をしているミクさんに向かって、こんな質問をしてみた。
「あのぉ、ミクさん」
「ん、なに?」
「ミクさんって今幸せを感じていますか?」
 いきなりそんな質問を投げかけたので、キョトンとしているミクさん。しばらく私の方を向いていたが、目線を羽賀さんに移した。そのとき、羽賀さんが小さくうなずいた。そしてミクさんはにっこりと笑って私の質問に答えてくれた。
「うん。今とても幸せだよ。ここの仕事も楽しいし、専門学校の勉強も今はとっても楽しいの。でもちょっと前は学校の勉強ってつまらなかったんだよね」
「え、それはどうしてですか?」
「ふふふ、知りたい? それはね、私が学校の勉強はつまらないって思いこんでいたから」
「えっ、それってどういう意味ですか?」
 私はミクさんの答えがあまりにもあたりまえだったので、拍子抜けしてしまった。ミクさんはお茶を運びながら言葉を続けた。
「変なこと言うなぁって思っているでしょ。でも、これに気づいたから今は学校の勉強も楽しいのよね。だって、学校の勉強を面白いって思えば、それは楽しくて面白いものになるんだから。そう考えたらいろんな事が楽しくて面白くなってきちゃったの。だから幸せ」
 まだその意味がつかめず、助けを求める気持ちで羽賀さんの方を見た。羽賀さんはミクさんが運んできたお茶を堪能している。
「ミク、まだ腕を上げたな」
「へへっ。これで舞衣さんに勝てるかな?」
 羽賀さんは私が助けを求めていることに気づいていないのだろうか? それとも気づいてわざと私を無視しているのだろうか?
「ミクさん、教えて下さい。どうやったらつまらないと思っていたものを面白いって思えるようになるのですか?」
「羽賀さん、言っちゃっていいの?」
 ミクさんのその問いに、羽賀さんはこっくりと首を縦に振った。
「じゃぁその秘技を教えちゃうね。って、大したことじゃないんだけど。笠井さん、泣きたい時ってどんな気持ちになる?」
「そりゃ、悲しい気持ち、ですよね」
「じゃぁ、怒りたいときは?」
「う〜ん、やっぱり怒りの感情かな」
「じゃぁ、笑いたいときは?」
「そりゃ、楽しい気持ちですよね」
「そうなの。身体で表現することと感情って、こうやってつながっているでしょ。だったらどっちが先だと思う?」
「そりゃ、感情がそうなったから体が反応するんじゃないんですか?」
「普通はそう思うわよね。でも、これってどっちが先って事ないんだよ。ほら、周りが笑っているとそれにつられてなんとなく笑いたくなるって時ない? これは体の反応から感情が動いたことになるの」
「あ、それはわかります。そんなことありますから」
「だったらさ、どんなときでも笑っていればいいのよ。そうしたら次第にどんなことでも楽しく感じてきちゃうの。たとえ道で転んでも、『あぁ、大ケガしなくてよかった。私ってついてるな』って思えちゃうわよ。そう思うと人生が面白くなってきちゃって」
 ミクさんの言葉でなんとなく見えてきた。言われてみればここ数ヶ月「笑う」なんてことをやった記憶がない。家族と一緒だった頃はよく笑っていたものだ。だからとても幸せを感じることができていた。
「つまり、笑いを意識すればいいってことですね」
 羽賀さんに確認を取った。羽賀さんはにっこりと微笑みながら
「はい。その通りです。ではもう一度お聞きします。自分が今まで嫌だと思っていた仕事を一生続けなければならないとしたら、笠井さんはどうやって過ごしていきますか?」
「はい、笑いを意識します。つまり、自分が笑えるようなことを見つけ出していきます」
「では具体的にどんなことをして笑いを見つけますか?」
「そうですね。例えばつまらない仕事の中にも改善点とかはあるはずです。そういったものを見つけて、業務の効率を上げてコストダウンをすることに喜びを見つけ出すかな」
「さすが元メーカー勤務の技術屋さんだ。他に思いつくことはありませんか?」
「仕事といっても一人でやるわけじゃない。だから周りの人達と楽しいコミュニケーションを取るように心がけますね」
「それもいいですね。あと思いつくことはありませんか?」
「どうせなら上から言われた仕事をこなすだけじゃなく、気づいたことをどんどん提案してこちらが会社を操作するくらいの気持ちでやっていくと楽しくなれそうですね。そうすればいつかは上に認められて、この仕事からさらに上の仕事へつくことができるかもしれない」
「そう、その調子です。実は世の中の成功者というのは、その気持ちを持って目の前の仕事に取り組んだから成功したんですよ。あの鉄鋼王のカーネギーも、与えられた仕事をこなすだけではなく、自分ができる最大限の仕事を付加したことで周りに認められたらしいです。そうやって周りの信頼を得て、一代でアメリカの鉄鋼王にまで上がっていったらしいですよ」
「へぇ〜。それはすごい」
「こういったエピソードは、たくさんの成功者が持っているものです。自分ができることを与えられた仕事にプラスすることで、どんなことも楽しいものに変えていくことができるんですよ」
 言われて気づいた。私が羽賀さんと一緒に仕事をしていた絶頂期の頃、会社から言われて仕事をこなすのではなく、自らが進んで仕事をつくっていった。あのころは笑いもあって楽しかったものだ。
「まずは今与えられている状況から、自分が笑うことができるようなことを見つけることですね。そして笑えば幸せを感じることができる。そうですよね?」
「そう、だから今私も楽しいの。こうやってお茶を美味しく入れるコツを自分で研究して、人に美味しいお茶を飲んでもらう。たったそれだけで人生が楽しく感じてきちゃうの。はい、どうぞ」
 ミクさんはそういって、私に二杯目のお茶を入れてくれた。私はそのお茶をゆっくりと口に含んで、その味を楽しんだ。
「ところで笠井さん。これからどう進んでいきますか?」
「そうですね。今の状況を楽しんで進むためにも、そして自分が思い描いた未来をつかむためにも、何か行動を起こさないと。それに資金だって必要だし。それ以前に生活をするためにも働かないと」
「あれ、笠井さんお仕事はどうしたの?」
 ミクさんに仕事をクビになったこと告げたら、こんな言葉が返ってきた。
「わぁ、それはおめでとうございます!」
 羽賀さんと同じ言葉だ。ミクさんにその理由を尋ねたら、こんな答えが返ってきた。
「だって、それは笠井さんがこれから思った通りの未来に進みやすくするために神様が与えてくれたチャンスじゃない。あのまま仕事を続けてたって、笠井さんは欲しい未来をつかむことを忘れちゃうんじゃない? 昨日、セミナーの後羽賀さんとそんな話ししてたんだ」
 そうか、それで羽賀さんもすんなり「おめでとう」なんて言葉が出てきたんだ。でも、それだけ私のことを気にしてくれていたなんて、とてもうれしい。
「そうですね。私が幸せに向かうために神様が与えてくれたチャンスだって思えば、気が楽になるし。よし、やってやるぞって気にもなりますね。だったらあのコンビニを救う意味でも、あそこでバイトをやってみます。時間帯は夜なので、それなら昼間に自分のやりたいこともできそうだし」
「よかった。これで奥さんも喜びますよ。あのコンビニのオーナーは人がいいし顔も広いから、笠井さんにとってはプラスになると思いますよ」
 こうして私の進む道が決まった。当面はコンビニのバイトを続けながら、自分がやりたい未来への行動を決めていくことにしよう。
 そんなことを考えていたら、なんとなく笑いが出てきた。未来に向かってのドキドキ感、ワクワク感、そんなものが次から次へとわき出てきた。
「まぁ、ありがとう! これでうちの人も楽になるわぁ」
 羽賀さんの事務所を出てすぐに、先ほどのコンビニへ足を運び、アルバイトの申込みを行った。
「ちょうどうちの人も戻ってきているから早速紹介するね。こっちこっち」
 私は奥さんの手招きに誘導され、バックヤードへと進んでいった。そこにはやせ形で少しくたびれた顔をしたこのコンビニのオーナーが事務机に座って電卓を叩いている姿があった。
「ね、あんた。この人が夜のバイトに入ってくれるんだって。羽賀さんのお知り合いだし、愛想も良さそうだから早速入ってもらいましょうよ」
 奥さんのはずんだ口調とは逆に、オーナーは私を少しうさんくさそうにジロリとにらんだ。だが、先ほど羽賀さんと話しをしたときに出たキーワード「笑顔」を意識してオーナーを見つめていた。
 すると、オーナーは先ほどまでの表情から一転。
「うん。あなたならお願いできそうだ。よろしく頼むよ。早速だけど一応履歴書を出してもらえるかな」
 どうやら面接合格らしい。これも笑顔のおかげか。
 実は後で聞いた話しだが、これはオーナー流の面接の方法らしい。相手を強面で見つめたときにどのような反応が返ってくるか。ここで笑顔を返してくれば、相手の経歴などにかかわらず採用するということ。だからこのコンビニは活気があるんだな。
 これでコンビニでのアルバイトが決定。よし、明日からは自分の未来に向けて、笑いながら進んでいくぞ。そう決意して私は家路についた。
 コンビニのバイトが決まった夜、私は久しぶりに由梨恵へメールを送った。
 本当ならKAWASAKI・WEB工房で正社員になってから送ろうと思ったこのメール。由梨恵との約束で、ちゃんとした職に就いたら子ども達に逢わせてくれることになっていた。
 しかし、今日その会社をクビになったばかり。この状況で由梨恵へ報告のメールを送ってもあきれられるはず。だが、私は今の気持ちを抑えられずにいた。

 由梨恵さま
 あきれるかもしれないが、報告したいことがあってメールしました
 今までいろいろと仕事を探して、二週間前にようやくWEB作成会社に就職することができました。
 といっても一ヶ月間は試用期間で、本当ならば正社員になってから報告する予定にしていました。
 しかし、この会社も今日辞めることに。
 だったらどうしてメールを送ったのか、きっと君はそう思うでしょう。
 実はこれは自分にとってとても意味のあることだったのです。
 今、羽賀さんにいろいろとお世話になっています。
 四星商事の営業だったあの羽賀さんです。
 羽賀さんはコーチングという仕事をしており、ご厚意でいろいろとアドバイスをもらっています。
 今日、仕事を辞めることになって落ち込んでいた私を救ってくれたのが羽賀さんでした。
 羽賀さんのおかげで、今自分が何をしたいのか、この先どのように生きていくのかがわかってきました。
 その道を進むためには、今朝まで就いていた仕事は邪魔な存在だったのです。
 といっても無職でいるわけにはいきません。
 羽賀さんからの薦めもあり、明日から夜にコンビニでアルバイトをすることにしました。
 けれど、アルバイトのままでいるわけではありません。
 昼間は自分が目指している、パソコンのサポートの仕事を始めることにしました。
 まだお客さんがいるわけではないけれど、とにかく今できることから始める予定です。
 安定した収入になるにはまだまだ時間がかかるでしょう。
 でも、これからは自分が決めた道を進んでいきます。
 海斗と明日香に会えるのはまだ先になるでしょう。
 会えるような身分になったら、堂々と二人の、そして君の前に姿を見せるつもりです。
 そのときはまた連絡させて下さい。
 それでは。

 まだまだ伝えたいことはあったが、今回はこの程度にとどめた。
 本音を言えば、今すぐにでも海斗と明日香に会いたい。そして由梨恵にも。だがその部分は抑えて、今は自分の進む道が決まったことの報告を優先した。
 明日の夜からコンビニのバイトが始まる。それと共に、自分も新しい道を踏み出す。その期待を胸に、今日はゆっくりとした夜を過ごすことにした。
「おはようございます」
「おっ、元気がいいね。今日からよろしく頼みますよ」
 翌日の夜。私は元気にコンビニの扉を開いた。夜なのに「おはようございます」。これは業界のあいさつ。
 迎えてくれたのはコンビニのオーナー。私がアルバイトに入ったとはいえ、すぐに仕事をこなせるわけではない。最初は今まで通りオーナーも夜の時間に入り仕事をすることに。私はオーナーから仕事を教えてもらい、ゆくゆくは私が夜の時間を仕切ることになった。
「じゃぁ、早速奥で制服に着替えて。それからスタートだ」
 店にいるときのオーナーの表情。それは昨日見た、ちょっと疲れた表情とは全く異なり、終始にこやか。その表情につられて、私もついついにこやかになってしまった。
 夜十時ともなるとコンビニに来る客は少ないだろう。そう思っていたのだが、これは予想を大きく外された。
 ここのコンビニは駅からも大通りからもはずれたところにあるのだが、なぜかこの時間はお客さんが多い。客層はバラバラ。若者もいればサラリーマンの姿もあるし、少し年配の女性もいる。
 店はオーナーともう一人のアルバイトの二人でなんとかやっているが、二人ともレジから動くことができない。私は制服に着替えはしたが、何も手伝うことができない。しばらくは後ろから二人の様子をうかがうしかなかった。
 十時半くらいになると客足もようやく落ち着いてきた。オーナーはレジを一つ封鎖し、もう一人のアルバイトの男性にレジを任せて、私を呼び寄せた。
「いやいや、待たせて済まなかったな。平日のこの時間は毎日こうなんだよ」
「なかなか繁盛しているんですね。でもどうしてこの時間はお客さんが多いのですか?」
「その秘密を知りたいかな? といっても、秘密なんてほどのものじゃないがね。この店も最初はこの時間は結構暇だったんだよ。でもここ半年くらいでこんな状態になっちまってね」
 私はこのコンビニがどうしてそんなに変化したのか。その謎に興味が湧いてきた。
「オーナー、どうしてこんなに繁盛しだしたのですか?」
「実はな、これも羽賀さんのおかげなんだよ」
「えっ、羽賀さんの!?」
 まさかここで羽賀さんの名前を聞くことになるとは。
「その話しはまた今度ゆっくりしよう。まずは仕事を覚えてもらわないといけないからな。じゃぁ笠井さん、まずは店内の陳列からいこうか」
 私はコンビニの変化の謎に後ろ髪を引かれつつも、オーナーからここでの仕事を教えてもらうことに意識を変えた。
 気がつくと、一日目はあっという間に過ぎていく。夜中というのに客足が途絶えることはなかった。
 そして朝六時、初日終了。オーナーは夜中の三時の時点で休憩に入り、朝六時前にオーナーの奥さんが登場。二言三言世間話をしながら交替となった。
「初日のお仕事、おつかれさま。今日はゆっくりお休みなさい」
 元気な笑顔の奥さんに送り出され、私は自転車のペダルをゆっくりとこぎ始めた。
 こうしてコンビニのアルバイト初日終了。まだまだ覚えなければならないことがたくさんあるが、それなりに充実した時間を過ごすことができた。
 しかし、羽賀さんのおかげでコンビニが変化したというのはどういう事なのだろうか? 気になりつつも家路を急いだ。
 家に帰り着くと布団にバタンと倒れ込み、そのまま眠りにつく。そして次に目が覚めたのは、昼の十二時過ぎ。
「ふわぁぁ。よく寝たな。っと、とりあえずニュースでも見るか」
 私はパソコンを立ち上げ、インターネットを接続。毎日チェックしているニュースサイトを一通り眺める。これが私のスタイル。テレビも見ないし新聞も読まない代わりに、全ての情報はこのインターネットから収集している。
 そしてメールチェック。といっても、そのほとんどが広告のDMなど。タイトルだけ見て、必要のないメールはどんどん消していった。だが、ある一つのメールを見つけたときに私の指は止まった。
「yurie kasai」。由梨恵だ。なんと、由梨恵からのメールが届いているではないか。送信者の名前がローマ字になっているが、まだ「kasai」のままであることが私を驚かせた。
 そのメールをおそるおそるクリック。画面には由梨恵から送られてきたメールの文字が並んでいた。

 笠井慎一郎 様。
 報告のメールありがとうございます。
 とても久しぶりにあなたの状況を伺うことができました。
 あなたからのメールを読んで、最初はちょっとあきれました。
 まだ定職についていないのかって。
 でも、何度か読み返すうちに、あなたがあなたの思った人生を歩き始めたのだということに気づきました。
 それは喜ばしいことだと思います。
 あの羽賀さんにお世話になっているのですね。
 しかし、羽賀さんがコーチングをやっているなんて驚きました。
 私もコーチングについては、今勤めている会社の研修で最近知りました。
 きっとそのおかげで、あなたが自分の思った人生を歩き始めることができたのでしょうね。
 こちらからも応援しています。

 ここまで読んで、私は少し涙ぐんできた。
 メールを送ったときには、気の強い由梨恵のことだから、会社を辞めたことに対して良くは思わないだろうと考えていた。だが自分の思った人生を歩き始めたことに対して、応援してくれるなんて。
 私はメールの先を読むことにした。

 そんなあなたに、応援の意味を込めてひとつご褒美をさしあげます。
 海斗と明日香に、月に一度ならば会うことを許可します。
 本当ならば離婚調停の時に約束した、ちゃんとした仕事について収入を安定させた時点で会わせるつもりでした。
 でないと、海斗と明日香にお父さんのだらしない姿を見せることになるから。
 しかしあのメールから、あなたが前とは変わってきたことを伺うことができました。

 やった、やったよ!
 これで海斗と明日香に会うことができる。私の胸は高鳴った。
 だがメールの文章はまだまだ続く。

 ただし、条件があります。
 まず、会うのは毎月第四日曜日にしてください。
 海斗と明日香も習い事があるので、この日ならば都合がつきます。
 それと海斗と明日香には会っても、私には会わないでください。
 会うのは二人だけです。
 また、二人にはお小遣いなどを渡さないように。
 今、お金についていろいろと躾をしているところだから。
 それと、私について二人からいろいろと詮索をしないこと。
 これらの条件を守ってくれるのならば、早速今月から会うことを許可します。
 それではまたご連絡をお待ちしています。

 いくつか条件は出されたが、これはなんとかなる。残念なのが由梨恵に会えないこと。しかし自分のことを詮索するな、というのはどういうことだろうか。
 このあたりが気になりつつも、私はOKの返事を由梨恵に送ることにした。
 コンビニのアルバイトも一週間もすればすっかり仕事に慣れてきた。いちいち指示されることなく自分から進んで仕事を見つけてこなせるようになっていた。
 一緒にアルバイトに入っている大学生の佐藤君は、オーナーがしっかりと面接しただけあって頼りになる。このコンビニももうすぐ一年と長い経歴を持つ。彼は今時には珍しく、しっかりとしたマジメな青年だ。
 この一週間、頭の中で一つの疑問がぬぐえなかった。それはこのコンビニがどうして夜の十時前後にこんなに繁盛しているのか? 羽賀さんがその秘密に関わっていることは聞いたが、その内容が知りたくてたまらなかった。
 初日以来、オーナーとはあいさつ程度にしか顔を合わせていない。仕事のほとんどはこの佐藤君から教えてもらっている。
 オーナーもようやく夜自分の時間ができたと、この一週間はゆっくりと休養をとっているようだ。それだけ今までは根を詰めてやっていたのだろう。結局は繁盛の秘密がわからないまま今日に至っている。
 今日も夜十時前に仕事に入ると、いつものように佐藤君ともう一人アルバイトで生計を立てている飯干君の二人が、ごったがえしているレジで忙しく客をさばいていた。
 私も急いでその手伝いに入り、三十分ほどしてようやく客足も落ち着いた。
「いやぁ、平日のこの時間はいつも客が多いね」
 レジ横で商品の補充を行う準備をしながら、飯干君に声をかけた。
「そうっすね。自分もここに来てまだ一ヶ月くらいですけど、帰る直前のこの時間が一番客が多く感じますよ」
 どうやら飯干君は、どうしてこの時間に客が多いのか、その謎を知ってはいないようだ。その会話を聞いていたのか、佐藤君が私に声をかけてきた。
「そうなんですよ。オーナーがちょっと方針を変えただけで、今じゃこの時間に来るお客さんが増えちゃって」
「え、方針を変えたって、どういうふうに?」
 チャンス到来。謎と思っていたことがこれで明らかになりそうだ。
「あれは確か半年くらい前でした。それまではこのコンビニはこの時間にこんなにお客さんが多いってことはなかったんです。どちらかというと、ニートの若者がコンビニの外でたむろして、そいつらのおかげで客足は今ひとつでしたよ。オーナーも困った様子でしたが、客だから無理に追い返すわけにもいかなくて困ってたんです」
「へぇ。そうだったんだ」
「あ、すんません。あのころボクもそのたむろしていた人間の一人でした」
 横から飯干君が申し訳なさそうに口を挟んだ。佐藤君は「ははは」と軽く笑い、飯干君の肩をポンポンっと叩いた。
「でも、あれっすよね。あんときここのオーナーがオレらの話しを聞いてくれたから、今があるんっすよ」
「飯干君、どういうことなんだ?」
「あんとき、ここのオーナーがオレらにこんなこと言い出したんっすよ。『君たち、何してるときが幸せかい?』ってね。最初は奇妙なおっさんだと思って無視してたんっすけど、やたらとしつこく聞いてくるもんだから、こっちもつい『そりゃ仲間といるときだ』って答えたんですよ」
「で、それからどうなったんだい?」
 その先が聞きたくてたまらなかった。飯干君は思い出しながらこう答えてくれた。
「確かあんときオーナーは『それじゃぁ今が一番幸せなんだね』って答えてくれたな。あんとき、オーナーがすんげぇニコニコしてたの覚えてますよ。それからなんだかオーナーに心を開くようになってですね。いろいろ話せるおっちゃんって感じで、オレらもいろんなこと相談したよなぁ」
 飯干君は話しながら、昔の光景を思い出して懐かしさに浸っていたようだ。
「実はこれがオーナーの方針の変化なんですよ。今まではどうやったらこいつらを排除できるか、そればっかり考えて愚痴をこぼしてたんです。でもある日突然、『どうやったらあいつらと仲良くなれるかなぁ』なんて言い出したんですよ。そのときよく来るお客さんにアドバイスをもらったとか言ってましたね」
 羽賀さんのことだ。そうか、佐藤君は羽賀さんのことを知らないのか。
「それからが面白い展開になったんですよ。オーナー、こいつらと仲良くなったと思ったら、今度はこちらからこいつらに相談を持ちかけ始めたんですよ。このコンビニ、このままじゃなくなるかもしれないから、どうやったらもっと繁盛するようになるかって」
「そうそう、あんときオレらのたまり場がなくなるかもって思ったら、こっちもあせっちまって。それにオレらも気づいてたんっすよ。オレらがこの時間にここでたむろってるから、客が寄りつかないんだって。それでオレらもこのコンビニをどうやって盛り上げるか、それを考え始めて」
「へぇ、すごいね。で、どうやったらこんなに客が増えたんだい?」
 私は飯干君に尋ねた。だが飯干君の答えはこうだった。
「いやぁ。実はちょうどそのころオレは単車でこけちゃって。骨折しちゃってそこには参加してないんすよ。だから久々に仲間達に復帰したときにはもうこの状態になってましたからね」
 核心部分が聞けなかったじゃないか。だがこれについては佐藤君が答えてくれた。
「こいつらの一人がちょっと面白いアイデアを考えてくれたんですよ。このあたりは駅からちょっと離れたところですが、アパートとかマンションが多くて。で、そこに住んでいる人って単身赴任とか独り身の人が多いんですよ。この人達って、どうしても外食が多いでしょ。でもこの近くって食べるところはあまりないんですよね。そこに目をつけて、こういった人達用の弁当とかおかずをアピールすればいいんじゃないかって」
 なるほど。ここに来ている客のほとんどは独り身の人なのか。言われてみれば単身赴任っぽいサラリーマンとか、女性でもまだ結婚していないような感じの客がいたわけだ。
「こいつらの仲間達が、自分からチラシを作ってきてくれて。で、手分けしてポスティングしてくれたんですよ。こんなお弁当とかをご用意してますって。コンビニ弁当ってあまりいいイメージを持ってない人が多いですけど、実はこれでも栄養のバランスとかがとれているものもあるんですよ」
 なるほど。単にお腹をふくらませるだけじゃなく、独り身の人が気になっている栄養のバランスなんかも宣伝したのか。
「それだけじゃないんです。宣伝効果が高まるに連れて客が多くなってきたでしょう。そしたらこいつらの仲間がアルバイトに入ってくれて。最初は自分も不安だったけど、ちょっと教えたらどんどん働くようになって」
 佐藤君の言葉がウソでなければ、これはすごいことだ。オーナーは今まで目の前のものを排除することしか考えなかったのが、それを仲間に引き入れることで大逆転を成功させたのだ。
「オーナーはよく言ってました。今まで自分は一つの視点しか持つことができなかったって。でも別の視点から見れば、目の前は宝の山だって。この件も目の前にある宝物を発掘した結果でこうなったんです。オーナーを見習って、自分もあれから人を見る目が変わりましたよ」
 視点の変化、やはり羽賀さんのコーチングが効いているんだ。オーナーは羽賀さんから新たな視点に気づかされ、そこに対して新たなアプローチを行ってみたんだ。
 そして今回、私も同じような経験をさせてもらっている。あの会社をクビになったのは、これから自分がやりたいことへスタートするためのきっかけを作ってくれた。今は素直にそう思っている。だが、羽賀さんと話しをしなければ、今私はそう思うことはできなかっただろう。
 そして今回もう一つ学んだことがある。
 佐藤君が言ったオーナーの言葉、「目の前は宝の山」。これと羽賀さんやミクさんが言っていた「幸せを感じる」という言葉が私の中で一致した。
 そうか、幸せって常に目の前にあるものなんだ。でもほとんどの人はそれを幸せって感じないから、自分は幸せでない、不幸だって思ってしまう。そうじゃない。目の前にある宝の山、その幸せに気づいた人は常に幸せを感じることができるんだ。だからいつも笑顔でいられるのか。
 複雑だったパズルが一気に組み上がった。そんな感じがした。
「そうか、そうだったのか。佐藤君、飯干君、ありがとう」
 頭の中のパズルが一致した瞬間、いてもたってもいられずに、目の前にいる二人に感謝の言葉を述べた。
「あ、え、なんだかわからないけど、よかったっすね」
「笠井さん、なんだかとてもうれしそうなんですけど。まぁいいか」
 私の喜びに二人はキョトンとしていたが、そんなのはお構いなし。これでまた一歩前に進むことができた。幸せを感じると言うことはそういうことだったのか。この日、私は終始にこやかな顔で朝まで仕事を続けることができた。
 コンビニが繁盛している謎が解けた翌日。客足が落ち着いて日付が変わろうかという時間に、元クラスメートの田崎が私の目の前に現れた。
「あ、笠井……」
 田崎はレジに立っている私の姿を見て、バツの悪そうな顔つきで奥の飲み物棚へと移動した。
「これ、よろしく」
 田崎は伏し目がちな態度で缶コーヒーをレジに差し出した。
「160円になります」
 田崎は黙ってちょうどの小銭を私に差し出した。そしてそのまま缶コーヒーを手に取り、レシートは受け取らずにそのままコンビニを出ようとした。その態度は妙によそよそしかった。
「ありがとうございます。またお越し下さい」
 田崎の態度に疑問を持ちながらも、お決まりのセリフを吐く。だが田崎は動きをぴたりと止めて、しばらくそのままに。
 どうしたのか? 疑問に思って田崎を見つめていた。すると彼はくるりと方向を転換。私の顔を見つめたと思ったら、こんなことを言いだした。
「笠井、スマン。オレがあんな職場を紹介して、半ば無理矢理押しこんじまって。おまえには不愉快な思いをさせたみたいだな。ホントにスマン」
「お、おい、田崎。何もそんなに」
「いや、謝らせてくれ。まったく、あの会社はとんでもなかったよ」
 レジの前で話し込むと他のお客様に迷惑になる。そう思ったのだろう。佐藤君が「お知り合いなら奥でゆっくりと」と促してくれた。佐藤君の行為に甘えて、田崎をバックヤードへ連れて行く。
「ちょっと待ってろ。お茶入れるから」
「あ、いや。今買ったコーヒーがあるからいいよ」
「そうか」
 田崎はまだ申し訳なさそうな態度で私を見ていた。私は自分のお茶を入れて、田崎と向かい合って座った。
「あのさ、あの会社の件。本当に申し訳なかった」
 田崎は私に深々と頭を下げた。
「おいおい。一体どうしたんだよ。まぁ確かにあの会社をクビになったのは間違いないけどよ。でもそれでおまえを恨んだりはしてないよ。何かあったのか?」
 それから田崎の説明が始まった。
 どうやら社長の奥さんと徹ちゃんが計画して共同で私を陥れたようなのだ。あの後、人手が不足するからと社長はすぐに求人を出した。が、その書類がハローワークに渡るよりも早く、次の社員が決まったとか。それが社長の奥さんの親戚筋に当たる女の子らしい。
 その女の子、ホームページ作成の経験は全くなく、一から仕事を教え込まなければならないほどの素人。どうやら社長の奥さんが親戚にいい顔をするためにねじ込んだらしいのだ。
 そして問題は徹ちゃん。どうやらその女の子のことは奥さんから聞いており、写真を見て一目惚れしたとか。そこで、私が自然な形で社長からクビを宣告されるようにうまく促したというわけだ。
「なるほどね。まったくあきれた連中だな。でもその情報ってどうやって仕入れたんだよ?」
「いやぁ、オレもおまえに職場を斡旋した手前、様子を見に行かないとと思ってね。で、今日KAWASAKI・WEB工房に行ったんだよ。でもおまえの姿が見えないだろう。で、そこにいたその女の子にいろいろと聞いたら、『ここだけの話ですけどね』ってしゃべってくれたよ」
「まったく、こんな秘密のこともペラペラしゃべるとはね。そんな社員がいたら、あの会社も先はないだろうな」
「まったくだ。でもホントにスマン。おまえには不愉快な思いをさせたろう」
 田崎の申し訳なさそうな態度を見て、私は今の考えを口にすることにした。
「いやいや、あの経験のおかげで自分は自分の道を歩き始めるきっかけがつかめたよ。むしろあんな経験ができてありがたいくらいだ。それに、この先自分が社長になって従業員を抱えたときには、あんなマネをしないようにすればいいってことで、学習することができたよ」
「社長って、おまえ、独立したのか?」
「いや、まだまだ。でもそのうち自分で事業を始めようと思っているよ。今はそのための勉強段階だ。ここのコンビニ、結構いろんなことが学べるんだぞ。オーナーがいい人でね。それに奥さんも。あの会社とは正反対だ」
 私の笑った顔に、田崎も安心したようだ。
「笠井、おまえ今とっても幸せそうだな。こんないい職場に恵まれて」
「あぁ。自分は今幸せだよ」
 私のその言葉に偽りはない。どうすれば幸せになれるのか。それが今わかり始めたところなのだ。
「じゃぁよ、おまえが独立したらすぐに連絡してくれよ。今回のお詫びにいつでもおまえに協力するよ。な、必ず連絡してくれよ」
 田崎は私の手を取って、やたらと念を入れてそう伝えてきた。私は「じゃぁそうさせてもらうよ」と伝え、田崎を送り出した。
 翌日、私は羽賀さんの事務所を訪問。ここ数日起きたことを報告したくてたまらない気持ちになっていた。だが、アポ無しで訪問したため、残念ながら事務所には誰もいなかった。仕方なく階段を下りていくと、舞衣さんが私を見つけて声をかけてくれた。
「あら、笠井さん。今日は羽賀さんにご用ですか?」
「あ、えぇ。でも約束もなしに来たから。残念ながら羽賀さんはお留守でしたよ」
「そうなんだ。でもせっかくここまで来たんだから、奥でお茶でも飲んでいきませんか?」
「え、いいんですか?」
 私は一瞬躊躇したが、せっかくここまで足を運んだのだからその行為に甘えることにした。
 舞衣さんのお店にはいると、店内は花の香りでいっぱい。ふだんは嗅ぐことのないこの香りに、私はしばらく浸っていた。
「あ、こちらでどうぞ」
 お茶を差し出してくれたのはこの店で働く店員の吉田さん。フラワーアレンジメントの腕ならピカ一と、先日のセミナーで旦那さんから聞いている。
「あ、ありがとうございます」
 私はすすめられるままにお茶をすすった。
「う、うまい!」
 こんな美味しいお茶は今まで飲んだことがない。
「このお茶、あなたが入れてくれたのですか?」
「あ、このお茶は舞衣さんが今入れてくれたんですよ。お茶を入れることに関しては、舞衣さんの右に出る人はいませんよ。羽賀さんもこのお茶が大好物で。でも最近はミクちゃんが必死になってこの味に追いつこうとしているみたいですよ」
 吉田さんは笑いながらそう答えてくれた。なるほど、だからミクさんはお茶を入れるのにあれだけこだわっていたのか。そう思ったら私は笑顔になっていた。
「あ、舞衣さん」
 私は忙しく動き回っている舞衣さんにどうしてもお茶のお礼が言いたくて声をかけてしまった。
「あ、はい」
 舞衣さんは忙しい中、わざわざ手を止めて私のところまで来てくれた。
「あ、忙しいのにこんなに美味しいお茶を入れてくれてありがとうございます。感激しましたよ。おかげで気分一新、はりきっていけそうです」
「それはよかったわ。私ね、自分の入れたお茶で人が元気になる姿を見るのが好きなのよ。それが私の幸せなんだ」
 幸せ。そうか、そうなんだ。幸せってどこにでもあるものなんだ。そして、自分が幸せって感じることができれば、それで十分なんだ。
 今の舞衣さんの笑顔を見ていると、それがより実感できた。
「ところで笠井さん。ひとつ質問していい?」
「あ、はい。なんでしょうか?」
「笠井さん、今幸せ?」
 舞衣さんのその質問。きっと一ヶ月前ならば素直には受け止めることができないものだっただろう。
 だが今の私にはこの質問に自信を持って答えられる。このように。
「はい。皆さんのおかげで、私は今とても幸せです」
 そう言って、舞衣さんの入れてくれたお茶をまた口にして、さらにその幸せを五感すべてで感じ取ることにした。

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