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コーチ物語 〜幸せの歩き方〜 第五章 バランスとは

「いよいよ明日は久しぶりに海斗と明日香に会う日だな」
 カレンダーに付けた丸印。その下には「海斗・明日香」と書いてある。子ども達と離れて、そして由梨恵と離れて暮らすようになって一年。子ども達に会うのは約十ヶ月ぶりだ。
 この日のために、私はアルバイト先で一生懸命働いた。本来ならば私の休日は月曜日と木曜日。土・日は人手不足のため夜中に出なければならない。
 が、海斗と明日香に会えるのは日曜日。ここから東京へ夜行の高速バスで向かわなければならないため、土曜の夜と日曜の夜は移動でつぶれてしまう。
「なんだ、そんなことなら遠慮なく言ってくれればいいのに。じゃぁ、今度の土曜と日曜は別の人にお願いするから。気持ちよくお子さんと遊んできなさい」
 事情を話したときのオーナーの言葉はこうであった。うれしさと感謝のあまり、その場で思わず涙ぐんでしまった。
 オーナーの厚意をムダにしないためにも、明日は二人の子どもとしっかり遊んでこよう。離れているとはいえ、離婚しているとはいえ、父親らしいことをしてあげよう。そう思いながら、昔家族で撮った写真を手帳にはさみ、夜中のバスに乗る支度をした。
 このとき、旅行用の歯ブラシのセットがないことに気づいた。
「そうか、泊まりがけになる外出なんて久しぶりだからなぁ。仕方ない、買いに出るか」
 そう思い、早速自転車をバイト先のコンビニに走らせた。
「こんにちは。あ、奥さん」
「あらぁ、笠井さん。どうしたの?」
 レジで私を迎えてくれたのはここの奥さん。とても愛想がよく、おしゃべりな方だ。
「旅行用の歯ブラシのセットがなくて買いに来たんですよ」
「そうか、明日は海斗くんと明日香ちゃんに会う日だったわね。あ、ところで子ども達におみやげとか買ったの?」
「え、おみやげですか」
 しまった、そんなこと考えもしなかった。迷っている様子を見て、奥さんはこう言ってくれた。
「まったく、男ってのは気が利かないんだから。そうそう、ウチにいいのがあるわ。それあげるわよ。ついでだから奥でお茶でも飲んでいって」
「ありがとうございます」
 奥さんの思わぬご厚意に私は甘えることにした。
 奥に入るとオーナーが机の前で何やらうなっている。どうやらパソコンと格闘している真っ最中のようだ。
「こんにちは」
「おぉ、笠井さんか。明日はいよいよ子ども達に会う日なんだよな。で、今日はどうしたんだい?」
「えぇ、旅行用の歯ブラシを買いに来まして。そしたら奥さんが『子ども達のおみやげは買ったのか?』って。そんなのうっかり忘れてたら、奥さんがいいのがあるからと言ってくれて」
「あぁ、それでウチのがバタバタと走ってたのか。まぁゆっくりしていきなさい」
 オーナーはそういって再びパソコンと格闘を始めた。
 私は自分でお茶を入れ、ついでにオーナーの分も用意した。お茶を運んだときにオーナーが格闘しているパソコンの画面を見てみた。どうやら売上計算の表と戦っているようだ。
「なんだか苦戦しているようですが、どうしたんですか?」
 見た感じそれほど難しいものではなさそうだ。だがオーナーが渋い顔をしていたのは意外な理由であった。
「いやな、パソコンがとにかくスピードが遅いんだよ。ちょっと漢字を入れても変換するのにやたらと時間がかかるし。おかげでさっきから仕事が進まなくてねぇ」
 確かに、マウスを動かしても、キーボードを叩いても、パソコンの中では時が止まったのではないかと思うくらい何の変化も見られない。
 ん、ひょっとして。私はひとつのことが頭に思い浮かんだ。
「オーナー、この画面一旦保存して、パソコンを再起動してみてもいいですか?」
「え、あぁ。それはかまわないが」
 私はあることが頭に浮かんで、それを確認するためにパソコンを再起動。そして原因を探っていくうちにあることがわかった。それを確認するために、私はオーナーにこんな質問をしてみた。
「オーナー、このパソコンって購入したのはどのくらい前ですか?」
「ん、あぁ。確かもう六、七年前になるかな」
「どうりでOSが古いと思った。オーナー、このパソコンはだれかが設定してくれたのですか?」
「あぁ。コンビニのスーパーバイザーがね。最初は調子よかったんだけど、今じゃ動きが鈍くなってねぇ」
 なるほど、やはりそうか。まったく、素人がやるとスペックアップもアンバランスになるからな。
 私はオーナーに説明を始めた。
「オーナー、このパソコンのスペックじゃ非力で、作業がなかなか進まないはずですよ。このパソコンはメモリが足りないんです。そしてハードディスクの残りも少なくなってる。そのくせ、アプリケーションだけは重たくなっているし、使わないのに常駐しているソフトもいくつかあります。こいつらをスッキリさせないと」
「スマン、私はパソコン音痴で言っている意味がよくわからないんだが」
 あ、しまった。つい自分のわかる言葉で話を進めてしまった。
「ごめんなさい。そうですね、わかりやすく言うとこのパソコンは小学生に参考書を与えて高校生の数学の問題を解かせようとしている状態なんです。だからひとつの答えを出すのにやたらと時間がかかるってわけです」
「なるほどね。何しろこのパソコンも古いからなぁ。やはり買い換えないとだめなのかな。でも、今買い換えてもこの仕事だけは今日中には終わらせないといけないからなぁ」
 オーナーがやっている仕事は、本日締めでコンビニのFC本部に出さなければならない仕事ということ。他のパソコンでやろうにも、今使っているソフトはこのパソコンにしか入っていない。
 私は少し考えて、ひとつの案を思いついた。
「オーナー、今このパソコンのために使えるお金っていくらかありますか?」
「え、お金か。まぁ二、三万円くらいならなんとかなるが」
「じゃぁそのお金、私に預けてくれませんか。今すぐこのパソコンをスペックアップするための資材を買ってきますから」
「笠井さん、パソコン詳しいの?」
「えぇ。このくらいだったら二時間もあればなんとかなります」
 オーナーは少し考えたが、背に腹は代えられないということで、ポンと膝を叩いてこう言ってくれた。
「よし、わかった。笠井さんにおまかせしよう。でも笠井さんは大丈夫なのかい? 今夜から東京に向かうんだろう?」
「まだ午後二時過ぎですから。時間はたっぷりありますよ。じゃぁちょっと資材の買い出しに言ってきますので」
 オーナーから三万円のお金を預かり、自転車をパソコンショップへ走らせた。
「メモリーはこのタイプでいいはずだ。そしてハードディスクもSSDに変えて容量アップしないと。それと念のためデータバックアップ用のUSBメモリーも買っておくか」
 私はスペックアップのための資材と、さらに使い勝手をよくするためのツールをいくつか購入。全て合わせても二万円ちょっとという価格で納まった。
 そしてすぐに戻ってパソコンのスペックアップに取りかかる。セッティング作業は十分もかからない。あとはハードディスクの中身を入れ替える作業。これも目を付けていたフリーのソフトがあるので、それをダウンロードして作業に取りかかった。
 そうして全ての作業は二時間弱で終了。
「オーナー、終わりましたよ。とりあえず先ほど作業の続きをやってもらってみてもいいですか?」
「おぉ、ありがとう。どれどれ……」
 オーナーは私がここに来る前の作業の続きを始めた。そしてすぐにその違いを体感したようだ。
「なんと、すごくサクサク作業が進むじゃないか。さっきまでのが嘘のようだ!」
 オーナーの喜ぶ顔を見て、一緒になって喜ぶことができた。そして一言。
「いくらソフトを良くしても、それに釣り合うだけのマシンの実力が伴わないと、逆に遅くなっちゃうんですよね」
「なるほどなぁ。やはり何事もバランスを取りながら実力を付けていかないといけないものなんだなぁ」
「じゃあ私はそろそろこの辺で」
「おぉ、今日はありがとうな。おかげで作業をサクサク進めることができたよ。またパソコンでなにかあったらよろしくお願いするよ」
 オーナーのパソコンのメンテナンスを終えて私は帰ろうと思ったのだが、奥さんの「晩ごはんも食べて行ってよ」という言葉に誘われて、ついつい長居をしてしまった。
 今夜の夜行バスで東京に向かう予定の私。帰り際に奥さんから子どもへのおみやげとして、子ども用のお菓子の詰め合わせをもらった。何から何までお世話になりっぱなしだ。
 夜行バスの発着所へ向かう間、私は昼間の出来事をいろいろと考えた。
 コンビニのオーナーのところでやった作業、私から言わせればあの程度の作業は造作ないこと。だが、世の中の多くの人はあのようなパソコンのことで困っているのか。だったら十分仕事になるんじゃないのか。
 気がついたら頭の中はビジネスプランのことでいっぱいになっていた。夜行バスに乗っても頭から離れない。どうやったらビジネスとして成立するのか、どうやったらお客を確保できるのか。
 目をつぶって眠ろうとしてみても、頭に浮かぶのはそんなことばかり。気がついたら窓の外は少しずつ明るくなってきていた。
「まだ七時か、待ち合わせまであと三時間はあるな」
 眠たい目をこすりながら、とりあえず近くのコーヒーショップへ足を運ぶ。さすがは東京。早朝から開店しているところがある。
「ホッとひとつ」
 コーヒーを受け取ると、奥のテーブルへ。そしてコーヒーをひとすすりすると急に眠気が襲ってきた。
 上のまぶたが重たい。いかん、このままでは……ね、眠って……。
 今度は気がついたら夢の世界へと引きずり込まれていた。
「えっ、今何時だ!」
 突然思い出したようにパッと飛び起きた。完全に熟睡していた。
 コーヒーショップの奥に掲げている時計を見つけたときはちょっと青ざめた。なんともう九時半をまわっている。ここから待ち合わせ場所まで電車で二十分ちょっと。ギリギリじゃないか。大あわてで店を出て、私は駅のホームへ駆け足で向かった。
「いかんいかん。寝過ごすところだった。睡眠はちゃんと取らないと」
 私は電車の中でつぶやくように自分に言い聞かせた。
 ここでふと昔のことを思い出した。そう、今はコーチとなっている羽賀さんと一緒に仕事をしていた頃のことだ。
 あのころは仕事が楽しくて仕方なかった。そのため、午前様なんていうのはあたりまえ。眠るのが惜しいくらいに仕事に没頭したものだ。だがそのしわ寄せは自分の体の方にきた。
 休日になると、家でむさぼるように眠った。また食事も不規則だったため、体重も少しずつ増加。食事内容もコンビニ食や外食ばかりで、どうも体の疲れが抜けきれない。そのため、休日は一日中ゴロゴロとする生活。
 さらにしわ寄せは家族の方へ。
 あのころはまだ小さかった海斗と明日香。本来ならば父親が遊びに関わらなければいけない時期。だが、私は疲れのため休日に子どもと遊ぶ、なんていう気持ちがまったく起こらなかった。
 最初の頃は妻の由梨恵も私の体のことを気遣って、そっとしておいてくれた。
 だが次第に「ゆうちゃんのお父さんは公園に連れて行ってくれるんだって」「みっちゃんのところは家族でお出かけだって」とよその家のことを私に言うようになり、とうとう最後は「疲れているのはわかるけど、たまには家族サービスもしてよ」と要求するようになってきた。
 私も一、二度は重たい体を振り絞って出かけたことはあったが、やはり疲れが抜けきれず、由梨恵も最後はあきらめて子どもと三人で勝手に出かけるようになってしまった。
 仕事が順調なときというのは、体や家庭にそのしわ寄せがくるものだ。これは仕方のないこと。あの頃はそう思っていたものだ。
 だが、今このことを思い出して冷静に考えてみたら、本当にそうなんだろうかと思うようになった。
 仕事を伸ばしたいと思ったら、自分の体や家庭のことは放っておいてもいいんだろうか? 逆に、自分の体や家庭のことを大事にしたかったら、仕事を犠牲にしなければならないのだろうか? 仕事、自分、家庭。この三つってどこかを伸ばせばどこかが引っ込むというものなんだろうか?
 そんなことを考えていたら、降りる駅を危うく乗り過ごすところだった。いかんいかん。タダでさえギリギリなんだから。
 私は電車を飛び降りて、待ち合わせ場所の駅前のモニュメントまで駆け足で向かった。
「パパぁ!」
 そう言って駆け寄ってくれたのは、幼稚園児の明日香。私は明日香を両手で抱え、高い高いのポーズ。その向こうで少し照れながら私を見ているのが小学三年生の海斗。二人とは十ヶ月ぶりの再会。
「あれ、ママは?」
 二人を送ってきているはずの由梨恵の姿が見えない。
「お母さんがここで待っていればすぐにお父さんが来るからって」
 海斗がそう答えてくれた。
 おいおい、そんなに私に会いたくないのかよ。いくらすぐに来るからって、今は物騒な世の中なんだ。子ども二人をほったらかしにしていいわけないだろう。
 とはいっても、目の前にいない相手に腹を立ててもしょうがない。今は目の前の二人と楽しむことにしよう。
「よっし、じゃぁ今日はどこに行こうか?」
「あのね、あのね、あすかね、おさかな見に行きたい!」
「おさかなかぁ。じゃぁ品川の水族館に行くか」
「うん。水族館にいくっ!」
 あすかがおさかなを見に行きたいといっていたことを、由梨恵からのメールで事前に情報をもらっていた。そのため、どこに行くのかはすでに決めていた。
 水族館では大はしゃぎする明日香。海斗も喜ぶかと思ったのだが、思ったほどの反応はない。どうやら少しお兄ちゃんぶっているのだろう。このときはそう思った。
 水族館を一通り見て、少し遅めのお昼ご飯としてハンバーガーを食べることに。食べながら海斗にこう尋ねてみた。
「ママは元気にしているかな?」
「うん。毎日仕事に出てる。でもいつも忙しそう」
 海斗のその言葉にはどこか寂しさを感じるものがあった。
「そうか。じゃぁおまえ達も寂しいだろう」
「でもね、おばあちゃんが来てくれるから」
 そう答えたのは明日香。どうやら由梨恵の母が二人の面倒を見に来てくれているようだ。
「ねぇ、お父さん」
 ふいに海斗が私を呼ぶ。その目は何かを言いたそうな感じであった。
「お父さんはずっと僕たちのお父さんだよね」
「あ、あぁ」
 その問いに明確に答えることはできない。なぜなら離婚した今はもう二人の父親ではないのだから。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
 海斗は何か言いたそうにしている。だがなかなか意を決して言葉にすることができないようだ。だが、次の明日香の言葉で海斗が何を言いたいのかがわかった。
「あのね、ママね、あたらしいパパができるかもしれないっていってた」
 その言葉は私にとってはかなりショックな言葉。つまり由梨恵はどこかの男性と結婚を前提としたつきあいをしているということか。しかしそれを止める権利は私にはない。むしろ、由梨恵自身が幸せになるのならばそれでもいい。
 そうか。由梨恵が別の男と結婚してしまえば私は二人と会うことは難しくなる。だから今回は条件を大幅にゆずって、私を二人の子どもと会わせてくれたのか。
 だが海斗が悩んでいるのはそれだけではなかった。
「お母さんね、今僕たちの話を聞いてくれないんだ」
「えっ?」
「朝は忙しい、忙しいって僕たちを学校と保育園に送って、夜は疲れた疲れたっていって。お母さんが仕事で忙しいのはわかるけど、前みたいにおやつを作ってくれたり本を読んでくれたりって全然してくれないんだ」
 海斗が寂しそうにぽつりと本音を漏らした。
 このとき、私の頭の中では数年前の自分の姿と由梨恵がだぶって見えていた。
 その後、三人で浅草の浅草寺へ足を向けた。歩きながらも、由梨恵のことが気になっていた。結婚するかもしれない相手のこと、子どもたちに目を向けられていない状況など。気になることが山程頭に浮かんでくる。
「ねぇ、パパ。どうしたの?」
 遠い目をして考え事をしているのを見て、明日香は私の手を握ってそう聞いてきた。
「あ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしていたからね。それよりも疲れてないか? ちょっと休んでソフトクリームでも食べよう」
「うん!」
 目の前の明日香は目をらんらんと輝かせて、自作のソフトクリームの唄をうたいながらスキップしていった。
 そんな二人の子どもとの楽しい時間も終わりを告げようとしていた。
「本当に大丈夫なのか? ママが来るまで待ってなくていいか?」
「うん、大丈夫だよ。お母さんからはここでお父さんとお別れしなさいって言われているし」
 海斗はしっかりとした言葉で私にそう告げた。どうやら由梨恵は私と顔も会わせたくないようだ。
「そうか、わかった。じゃぁパパはここでバイバイだ。また来月会えるといいな」
「うん。パパ、またね!」
 明日香は笑顔いっぱいで手を振って見送ってくれた。私は後ろ髪を引かれる思いで駅の切符売り場へと足を運んだ。
 だがやはり二人が気になる。改札に入っても、ぎりぎり二人が見えるところに身を隠してその様子をうかがった。するといつの間にか由梨恵が二人のところへ。
 おそらく、今の私のようにどこかで私たちが別れるのを見ていたのだろう。それを見計らって二人の前に登場したようだ。だがここで衝撃的な光景を見てしまった。
 由梨恵と海斗、明日香の三人の元へ近づく一人の男。しかも由梨恵に親しげに話しかけてくる。そしてその男の顔を見た瞬間、私は激しい嫉妬の気持ちが沸き上がった。
「やつだったのか、由梨恵の新しい男は」
 その男は元同僚の柏原。私より一年先輩として、営業として入っていた男。先輩といいながらも、ほとんど同じ年齢なので親友としてずっとつきあってきた。
 あいつは基本的にはいいヤツなのだが、ずっと独身だった。そんなヤツが由梨恵の相手とは。
 この想い、どこにぶつければいいのかわからない。ちくしょう、こんなことならさっさと電車にのっちまえばよかった。
 その日の深夜、バスの中で悶々とした気持ちを抑えられず、とうとう眠ることができなかった。
 翌朝、バスを降りて家に帰る前にバイト先のコンビニへ足を運んだ。今日の夜、バイトに入ることにはなっているが、それだとオーナーと顔を合わせることがないかもしれない。ちゃんとお礼の報告をしなければ。そう思ってまだ早い時間ではあるが訪問することにした。
「いらっしゃいませ。おぉ、笠井さん。おかえりなさい」
 案の定、オーナーは早朝からレジに入っていた。
「ただいま戻りました。その節はお世話になりました。奥さんにいただいたおみやげ、子ども達はとても喜んでくれましたよ」
「おぉ、そうか。ウチにヤツは今朝ご飯の準備をしているからな。あ、そうだ。よかったら朝飯一緒に食べていかんか。まだなんだろう?」
「え、えぇ。まぁおにぎりでも買って帰ろうかと思っていたのですが」
「そんなこったろうと思った。まぁたまにはまともな朝飯でも食っていけよ。ちょっと待ってろ、ウチのに話してくるから」
 そういってオーナーは奥へ消えていった。ほどなくして店の奥から奥さん登場。
「あらぁ、笠井さん。おかえりなさい。ささっ、ご飯一緒に食べましょうよ」
 薦められるままに私は朝食をごちそうになった。目の前には白くて温かいご飯とおみそ汁。煮物に納豆。それとお漬け物。シンプルで素朴で、それでいて温かみを感じる。
「ごめんね、こんな物しか用意できなくて」
「いえいえ。こちらこそこんなたくさん用意して頂いて。ではいただきます」
「笠井さん、ちゃんと朝ご飯とってないでしょ。まったく独り身の男ってのは食生活のバランスがとれてないからねぇ。だから病気になっちゃうのよ。そうそう、ウチのも笠井さんが来てくれる前はバランスのとれた食事ってのができなくてね。ウチのってわりとせっかちな性格でしょ。だからまともに座って食事できなかったのよ。いつも余り物の弁当とかでお腹を満たしてね。まぁここの弁当ってわりとバランスのとれた物が多いからよかったけど、一時期なんか体をこわしそうになってね。やっぱりバランスのとれた食生活って大事よねぇ〜」
 奥さんは私の顔を見ながら一気にしゃべり出した。奥さんの話に耳を傾けながらも、目の前の食事をほおばるのに一生懸命だった。
「そうそう。羽賀さんが言ってたんだけど、人生にもバランスってのが重要なんだってよ。ほら、ウチのも仕事、仕事で全然私の相手をしてくれなかった時期があったのよ。一時期は本気で離婚も考えたわ。でもね、羽賀さんがウチのにこう言ってくれたのよ。『仕事』と『家庭』と『自分』の三角形を思い描いたときに、今どうなってますかって。そしたらウチのは『仕事』が飛び出た三角形を描いたわ。そしたら羽賀さんが『この三角形のままだとどうなると思いますか』って聞いてくれたの。ウチのは冗談交じりに『家庭が低いままだと離婚されるかもな』だって。まさか私が本気でそう考えているのも知らなくてね」
 奥さんも自分のご飯をよそって、一口パクリ。そして話は続いた。
「そしたら羽賀さんが次に『自分が低いままだとどうなると思いますか』って聞いたのよ。そしたらウチのは『病気になるかもな』だって。もう体はボロボロなのにね」
 この時点で昔のことを思い出した。仕事、仕事で明け暮れていたあのころだ。きっと由梨恵も今の奥さんと同じ思いをしていたに違いない。奥さんの話はまだまだ続く。
「羽賀さんね、ウチのに次はこう質問してきたの。『じゃぁ、どうなるのが理想的ですか』って。やっぱり三角形は正三角形になって欲しいわよね。ウチのもそう答えたわ。そしたら羽賀さん『じゃぁそうしましょうよ』だって。おかげであれ以来ウチのも家庭と自分の健康には気を付けるようになったわ。だから思い切って夜のアルバイトを募集したのよ。おかげで今はバランスのとれた生活を送らせてもらっているわ」
 奥さんは最後の言葉に笑みを浮かべていた。どうやら今のオーナーの生活スタイルに満足しているようだ。
 ほどなくしてオーナーも食卓に登場。ここで話は私のことに切り替わった。子どもと会ってどうだったとか、どんなところに行ったのかとか。
 私は笑いながら話を進めたが、心の中では自分のバランス、そして由梨恵のバランスが崩れていることがずっと気になっていた。
 そしてひとつの結論を出した。ここは羽賀さんの力を借りてみるか。
「……ということなんですけど、羽賀さんは今日はお時間はありますか?」
 バイト先のコンビニで朝食をごちそうになったあと、私は帰り道で早速羽賀さんに電話をかけた。
 私は携帯電話を持っていないため、電話は公衆電話から。まだ朝早い時間にもかかわらず、羽賀さんはさわやかな声で対応してくれた。だが残念なことに、今日は仕事の都合で時間がとれないとのこと。
「そうですね。じゃぁ明日の午後一時からなら時間はとれますが。事務所の方に来て頂けますか?」
 羽賀さんはなんとか時間をやりくりしてくれて、明日の午後一時に約束がとれた。それと羽賀さんからひとつリクエストが。
「こちらに来て頂く前に笠井さんに三つほど整理して欲しいことがあるのですが。一つ目は仕事でどうなりたいのか。二つ目は笠井さんが描く理想の家族の姿。そして三つ目が笠井さん自身が周りからどのように見られたいのか。これを紙に書いて持ってきて頂けますか。よろしくお願いします」
 私はあわててメモを取り、羽賀さんが言うこの三つについて考えることにした。あらためてメモを見た時、この三つが「仕事」「家庭」「自分」の三つを指していることに気づいた。
「なるほど、奥さんの言うとおりだ。どうやら羽賀さんは私にこの三つのバランスを取れと言っているんだな」
 早速このことを考えようと思ったのだが、夜行バスで眠れなかったこともあり、気がつくとまぶたが閉じていた。
 次に目を開けたのは日もだいぶ落ちかけた夕暮れ時であった。
 結局この日はそのまま夜のバイトへ。仕事中も羽賀さんの言っていた三つのことが頭から離れない。自分は仕事と家庭、そして自分自身をどのようにしたいのだろうか? 考えれば考えるほど深みにはまっていく。
 仕事は明確だ。自分で会社を興し、それなりに従業員も雇って地域にパソコンを普及させるための事業を行う。そしてゆくゆくはこの事業をチェーン展開して、多くの従業員をかかえて全国へ。夢はふくらむだけふくらむ。
 家庭はどうだろうか?
 海斗と明日香、そして由梨恵と一緒に郊外の一戸建てで笑顔に包まれながら暮らす。それを思い浮かべた途端、邪魔をするのは元同僚の柏原の顔。
 海斗と明日香と別れたときに、あの光景を見なければこの夢もふくらんでいくはずだった。が、由梨恵と柏原が一緒にいる光景がどうしても私の考えを邪魔する。これ以上ふくらまないように、いや、それ以上に私の夢をしぼませているのだ。
 えぇい。家庭についてはとりあえず考えないことにしよう。
 次は自分自身について。周りからどう見られたいか、ということだったな。ここで出てくるのは、社長として尊敬され、多くの人から信頼を得ている姿。革張りの椅子に座り、大きな机のある部屋で仕事をしている。そんな姿だ。
 このイメージを眠る前に紙に書き落とした。だが、やはり家庭のところで筆が止まってしまう。結局、家庭の部分を空白にしたまま、この日は眠りについた。
 翌日、目が覚めたのは十一時過ぎ。身支度をして食事を取り、書いた紙を眺める。家庭の欄が空白なのは気になる。しかし、書こうとすると柏原の顔が邪魔をして書けない。
 えぇい。とりあえずこのままにしておくか。
 気がついたらもう出かけなければいけない時間。自転車に飛び乗り、羽賀さんの事務所へとペダルをこぎ始めた。
 予想以上に早い時間に到着。羽賀さんの事務所をノックしたが反応がない。ドアを開けようとしたがカギがかかっている。どうやらまだ外出から帰っていないようだ。
 仕方がないので、一度一階へ下りることに。すると階段でばったり舞衣さんに出会った。
「あ、笠井さんもう来てたんですね。さっき羽賀さんから電話があって、ちょっと遅れるから笠井さんに待っててもらうようにドアに貼り紙をしておいてって頼まれたのよ」
 あ、そうなのか。まぁ私の方は時間はたっぷりある。今回も無理を言って羽賀さんに時間を取ってもらったから文句は言えない。
「よかったら下でお茶を飲んでいきませんか?」
 私は舞衣さんの提案に快く承諾。なにしろあの舞衣さんのお茶が飲めるのだから。あの味は一度飲んだら忘れられない。
 お花屋さん、今の時間は少し暇があるようだ。店員の吉田さんも一緒にテーブルを囲んでお茶をすることに。
 三人で話をしているうちに、お互いの家族の話にうつった。
 吉田さんは旦那さんと二人暮らし。子どもはいない。吉田さんの旦那さんはセミナーで一緒だったのでよく覚えている。私はあのときのことを吉田さんに話すと、ちょっと照れた顔で私にこう言ってくれた。
「ウチの旦那ね、どうしても私をヨーロッパに連れて行きたいみたいなの。そこで本格的なフラワーアレンジメントを見せたいんだって。もちろん自分の仕事のことも考えているし、自分の将来も考えているみたい。でも、これも羽賀さんに出会ってからかな。今までは仕事、仕事で毎日ストレスを抱えて大変だったんだから」
 ここでも「仕事」「家庭」「自分」の話が出てきた。吉田さんが言うように、セミナーで出会った吉田さんの旦那さんは、今ではストレスなんて関係ないって感じで元気いっぱいだったからな。
「私のところは母がいないから。父は一回飛び出したらなかなか帰ってこない性格だしね。人助けが趣味のような人で、それが回り回ってお金になるんだって言い続けてんのよ。ま、自分が満足していることをやってそれが周りから見れば仕事になってんだから、私としてはそれでいいって思ってる。あんな父でもわりと家庭的なところもあるのよね」
 なるほど、舞衣さんのお父さんは自分と仕事がうまく一致しているんだな。そして家庭に目を向けるときはしっかりと向ける。これもバランスがとれているといっていいだろう。
「笠井さんのところはどうだったの?」
 吉田さんからの質問。他の二人が答えたのに私が答えないわけにはいかないだろう。ここで離婚する前のことを伝えた。
 仕事ばかりで家庭をかえりみなかったこと。離婚直前は自分のことしか考えていなかったこと。今は仕事をどうやって展開していくか、それしか考えられないこと。どこをとってもアンバランスな人生を送ってきたこと。
「じゃぁ、笠井さんはどんな家庭を作りたいって思ったんですか?」
 舞衣さんが質問をしてきた。
 話すのを一瞬ためらったが、羽賀さんのセミナーでも口にしたことだからあらためてもう一度自分の理想の家庭像を二人に語った。
 このとき、舞衣さんの口から出た言葉が私に鋭く突き刺さった。
「そうか、笠井さんって奥さんのこと愛してらっしゃるんですね」
 由梨恵を愛している。
 自分の口からは恥ずかしくて出したことのない言葉。だが、私の話から舞衣さんはそれを感じ取ってくれた。気恥ずかしい気もしたが、逆に自分の本当の気持ちを理解してくれたようで、とてもうれしかった。
「そうか。まだ私は由梨恵を愛しているんだな。そうなんだよな」
 思わずつぶやいた言葉。目の前の二人はそれを茶化すこともなく、逆にこう伝えてくれた。
「笠井さん、もう一度奥さんにそのことを伝えてみましょうよ」
「そうですよ。舞衣さんの言うとおり、奥さんだってそれを望んでいるかもしれませんよ」
「いや、それはちょっと……」
 ここで先日見たことを素直に話した。元同僚の柏原が由梨恵の横に立って、笑って話をしていたことを。
 吉田さんはそれを聞いて申し訳なさそうな顔。だが舞衣さんは違った。
「笠井さん、それはどこまでが事実でどこからが推測なんですか? 元の同僚の方が奥さんの横で笑って話をしていたのは事実。でも、その方が今の奥さんの恋人であるかは推測ですよね」
「でも、それが事実だったら……」
「じゃぁ、事実じゃなかったら?」
 舞衣さんの鋭い突っ込みに、答える言葉がない。
「私、こう思うの。恋をするって自由なこと。愛しているって、誰かに制限されることじゃない。たとえ事実がそうであっても、笠井さんが奥さんを愛していることに変わりはない。だから自信を持って奥さんのことを愛していいんじゃないかな。もしそれが事実であったときに、愛することをあきらめればいいんだし。それが決まってもいないのにあきらめちゃうなんて、私だったらイヤだわ」
 舞衣さんは力強く私にそう伝えてくれた。
「だから舞衣さんはミクが近くにいても、羽賀さんのところに行っちゃうのよね」
 吉田さんがぼそっとつぶやいた。その途端、舞衣さんの顔が真っ赤に。どうやら図星のようだ。フラワーショップ・フルールは大きな笑いに包まれた。
「そうですか。舞衣さんにそんなことを言われましたか」
 羽賀さんはコーヒーを入れながら私に話しかける。先ほどまで舞衣さんと吉田さんと家庭について話をしていたことを羽賀さんに伝えた。
「えぇ、愛することをあきらめちゃいけないって。それはわかるのですが……やはりいざとなると、どんな行動をとればいいかわからなくて」
 羽賀さんから差し出されたコーヒーをひとすすり。
「ちょっと質問してもいいですか?」
「えぇ。なんでしょうか?」
「奥さんのこと、愛していますか?」
 羽賀さんは真剣な目で私にそう質問してきた。私も真剣に答えなければという意識が強くなった。
「はい、愛しています。そして二人の子どものことも。もう一度家族を取り戻したい。そう思っています」
「家族を取り戻したら、笠井さんにはどのような生活が待っているのですか?」
「温かい家庭。自分が帰るところができる。そう、私の居場所ができる」
「それから?」
「落ち着くところができるということは、安心して外で仕事もできる。事業も発展していく」
「他には?」
「心も体も充実している。食事もしっかりととれて、健康な体も維持できる」
「今話をしていて、自分で何か思ったことありますか?」
「はい。離婚する前は気づかなかったけれど、今までも本当はそうだったんだなって。そう思ったら、由梨恵に感謝しないと。どうしてこんなことに気づかなかったんだろう。本当に申し訳ないと思っています」
「その思い、このままにしておきますか?」
「このままに?」
「そう、このままに」
 私は考えた。いや、考えたというのは正しくない。すでに私の中ではひとつの答えが出ている。それを口にするかどうか、躊躇しているのだ。
 以前の私だったら、その答えを飲み込んでしまうだろう。だが、今の私はそうではない。いや、そうではないと信じたい。
 だから思い切ってその答えを口にすることにした。
「まずは……まずは由梨恵に謝ります。そして感謝していることを伝えてみます」
「それから?」
「そして、もう一度家庭を取り戻したいことを伝えます」
「そして?」
「そして……」
 私は言葉に詰まった。考えていたのはここまでだったから。しかし、羽賀さんの「そして」の言葉で私の頭の中ではある光景が浮かんだ。
「そして……そして幸せな家庭をもう一度作り上げます。もちろん仕事もしっかりとやっていきます。家族を幸せにする。家族と一緒に笑顔で暮らす。それが私の希望です」
 羽賀さんは包み込むような笑顔で、にっこりと私の話を聞いてくれている。とても安心できる笑顔だ。
「じゃぁ、何をするかはもう決まりましたね」
「はい。しかしそのために自分にひとつ条件を出したいと思います」
 なぜかそんな言葉が口から出てきた。私の口は、思考回路とは別に勝手にしゃべり始めた。
「まず由梨恵を安心させるために、今やろうとしている仕事をきちんと立ち上げます。そしてこれなら大丈夫と思えるところで、あらためて由梨恵に伝えたいと思います」
「思うだけですか?」
 羽賀さんから鋭いところで突っ込みが入った。
「いえ、由梨恵に伝えます。そのために、今考えている事業を早急に軌道に乗せなければ。それが今の私の使命です」
「笠井さん。ようやく本当の心が表に出てきましたね。それでいいんですよ。仕事のために家庭を犠牲にする必要はない。家庭のために仕事を犠牲にする必要はない。ましてや自分の健康ややりたいことを犠牲にするなんてことも必要ない。必要なのは、全てをバランスよく手に入れること。じゃあ、今日はもう一つ先へ進みましょう。笠井さんが今考えている事業。これをさらに具体化して何を行動するのかを決めてみませんか?」
「え、そんなことまでやっていただいて……でも羽賀さんはこれでお金をいただいているんでしょう。私、いままで羽賀さんにお金を払ったことないんですけど」
「気にしないで。先行投資ですよ。それよりボクも笠井さんの計画を立てるお手伝いしたくてウズウズしているんです。話を進めましょうよ」
 羽賀さんに促され、私は事業の計画を話し始めた。
 その日の夜。私はコンビニのバイトに早めに入り、オーナーにちょっとした相談を持ちかけた。
「オーナー、ちょっと相談があるのですが」
「おぉ、なんだね? 私でできることなら何でも言ってくれ。ただし金ならないぞ」
 オーナーは冗談交じりに笑いながらそう答えてくれた。
「いえ、オーナーのお知り合いでパソコンの操作とかメンテナンスでお困りの方がいないかと思いまして。もしいればぜひこの前のようにお役に立ちたいと思ったもので」
「そうか。この前は本当に助かったからなぁ。そういや電気工事屋のゲンちゃんがパソコンで困ってるってこと言ってたなぁ。あいつんところもどこかの会計システムを高い金出して買ったみたいだけど、なかなか使いこなせなくて困ってるって言ってたぞ」
「じゃぁ、明日その方を紹介してくれますか? 明日の昼にこちらに顔を出しますので、その時にでもゲンさんのところにお電話して頂けるとありがたいのですが」
「そんなめんどくさいことしないで、今電話してやるよ」
 オーナーは私の申し出に快く引き受けてくれた。さらにすぐに行動。さすが周りから信頼されている人だけある。
「……ということでな。いやぁこの人が結構役立つ人でね。え、お金? ちょっと待ってろ」
 オーナーは私の方に向かって「費用はいくらか?」という質問をしてきた。
 きた。ここで私は羽賀さんとのコーチングで練った戦略を実行することにした。
「ちょっと代わってくれますか?」
 私はオーナーと電話を代わり、ゲンさんにこう伝えた。
「あ、初めまして。笠井と申します。費用の件でのご質問ですね。本来ならば内容を聞いてからお答えするところなのですが、概算として一時間五千円はいただくところです」
「え、五千円もかかるの?」
 電話の向こうでゲンさんが渋い顔をしているのが手に取るようにわかった。これも計算済み。ここですかさず次の言葉を伝えた。
「なのですが、今回はそれを無料でやらせて頂きます。ただしひとつだけお願いがあるのですが」
「なんだよ。オレにできることなら何でもしてやるよ」
「ありがとうございます。大したことじゃありません。それについては明日お伺いしたときにお話しさせて頂きます。とりあえず明日伺ってもよろしいですか?」
 これに対してはOKの返事。結局明日の午後一時に伺うこととなった。よし、第一段階終了。
「オーナー、ありがとうございます」
「いやぁ、お安いご用だよ。でも無料でやっちゃってもいいのかい? それじゃぁ仕事にならねぇだろう」
「いえ、大丈夫ですよ。じゃ、私はそろそろレジに入りますね」
 そう言って、コンビニの制服に着替えていつもより早くバイトに入った。
 よし、これからが勝負だ。家庭を取り戻すためにも、そして仕事を伸ばしていくためにも、これからの行動が重要だぞ。
 翌日、電話で約束した電気工事をやっているゲンさんのところでパソコンのメンテナンスを行った。
「ほぉ、なるほどねぇ。こいつがパソコンの動きを悪くしていた原因とはねぇ」
 ゲンさんのところもパソコンで顧客管理をやったり電気の点検報告書を作成したりということをやっていた。が、このところパソコンの動きが鈍くて困っていたそうだ。
「はい。ハードディスクという装置の中がバラバラになっていたのと、インターネットで余計なソフトウェアを勝手にダウンロードしてしまって、それが動きを鈍くしていたみたいです。あとメモリもちょっと少ないですしね」
 ゲンさんのパソコンは買ったときから一切メンテナンスを行っていないようだ。デフラグは一度もやった形跡はないし、余計なアプリケーションは勝手に動いているし、おまけにあまり大きな声では言えないが、エッチ系のサイトから妙なソフトをダウンロードしているのが勝手に動いているので、これが全体の動きを圧迫しているようだ。
「メンテナンスにはもう少しかかりそうですね」
「どのくらい時間がかかるんだい?」
「そうですね、今がもう二時ですから、四時くらいまでかな」
「じゃぁよ、オレも仕事が入ってるからここはおめぇに任せるわ。帰りは四時過ぎになると思うから」
「ちなみに今からどちらへ?」
 私がこう切り出したのには理由がある。
「スーパータカラの本店にね。電気設備の点検日なんだよ」
 ナイスっ! これは早速実行に移さねば。
 スーパータカラとは地元のスーパーで、この市内に六店舗を抱える。品揃えがいいのと、最近本店を改装してきれいになったのとで評判が高いところだ。
「じゃぁ、今回のメンテナンス費用をサービスさせていただく代わりに、ひとつお願いがあるんですけど」
「おぉ、そうだったな。で、なんだい?」
「スーパータカラの社員の方に『パソコンのメンテナンスで笠井って腕のいいのがいて、とても助かった』という話をしてくれませんか? あ、ついでにこれも渡してくれるとありがたいんですけど」
 私はそういって、急いで作った手作り名刺を手渡した。
「なんでぇ、お安いご用だぜ。でもたったそれだけでいいんでぇ?」
「えぇ、たったそれだけで十分です。よろしくお願いします」
「よし、わかった。そのかわりこっちの方はよろしく頼むぜ」
 そういってゲンさんは仕事に飛び出していった。私もゲンさんのパソコンの余計なソフトの削除作業に入った。
 午後四時過ぎ。
「おう、終わったか?」
「あ、ゲンさん。お帰りなさい。今はまだデフラグって作業が続いてまして。あと三十分くらいかかりそうですが」
「まぁ、そのくらいならいいだろう」
 私はゲンさんが入れてくれたお茶をごちそうになりながら、作業の大まかな説明を行った。ここでゲンさんからアドバイスが。
「笠井さん、これを仕事にしたかったらウチみたいにきちんとした報告書を相手に渡さなきゃ。お客さんはね、口で説明したってなかなか理解してくれねぇんだよ。どんな点検をして、どんな作業をして、結果どうなったのか。これを目で確認しないと納得してくれねぇものだ」
 そういってゲンさんは自分が使っている点検報告書を一枚手渡してくれた。これには、何をチェックしてどんな作業を行ったのか。さらにはアドバイスを書き込むところも。
「例えばな、今日あったことなんだが看板の電球が切れていたんだよ。ウチは点検が仕事だから『電球が切れています』としか報告できないんだ。一般家庭だったら電球なんか簡単に取り替えられるだろう。でもよ、看板の電球っていったら高所作業になっちまうんだ。だからアドバイス欄に『電球の取り替え』って書いておくんだよ。そう書かれると、どうなると思う?」
「どうなるって、そりゃ電球が切れているんだから取り替えてもらわなきゃ」
「だろう。そこで取り替え作業という仕事が発生するんだよ。で、電球代と取り替え賃が発生するってわけだ」
「でも、それって電球が切れているんだから、勝手にやっちゃいけないんですか?」
「ウチが頼まれているのは、あくまでも点検作業だ。異常がなければよし。異常があれば報告。それだけなんだよ」
「ってことは、電球を自分で取り替えますって言われればそれまでってこと?」
「その通り。でもそんな会社は一件もねぇけどな」
「どうしてですか? 私だったらそのくらい自分でやりそうな気がするんですけど」
「だから報告書なんだよ。口で報告しただけじゃ『あ、そうですか』で終わっちまうだろう。けどな、人ってのはこうやって紙に書かれて説明されると『じゃぁ取り替えなきゃ』って気になるものなんだ。それに目に見える形で報告すりゃ、担当さんも上司に伝えやすくなるってもんだろう」
「あ、それですぐに取り替え作業をゲンさんにお願いってことになるのか」
「その通り!」
 これはいいことを聞いた。帰ったら早速このフォーマットを参考に作業報告書を作成することにしよう。
 そうこうしているうちにデフラグも終了。再起動してゲンさんにいつもやっている作業を確認してもらった。
「おぉ、なんだかむちゃくちゃ早いじゃねぇかよ」
 ゲンさんは大喜び。ここでさらにアドバイスを。
「今メモリーが足りないので、これを倍にすればもっとスムーズに動きますよ」
「それっていくらくらいかかるんでぇ?」
 だいたいこのくらいと、相場の費用にちょっとだけ手間賃を上乗せした価格を伝えたところ
「じゃぁよ、それもお願いするわ」
 というお言葉。早速明日その作業にうかがう約束をして、私の初仕事は終了となった。
「よっし!」
 ゲンさんのところから帰る途中、私は自転車をこぎながら大きな声で叫んだ。手応え有り。ゲンさんの喜ぶ顔を見て私はそれを確信した。
 翌日、ゲンさんのところに行くと、とんでもないことになっていた。
「おぉ、笠井さん。いやぁ、昨日パソコンをメンテナンスしてくれたおかげで作業が進んだよ。でな、今日の午前中も橋本記念病院の点検があったから笠井さんのこと話したんだよ。そしたら『ウチの病院もちょっと見てもらえないかしら』だってよ。事務長さんに話をしておいたから、ここ終わったら行ってみるといいよ」
 きたキタ来た! これだ、これを狙っていたんだ。羽賀さんと私が立てたプラン、その通りにことが進んでいった。
 羽賀さんとのコーチングで考えたのは、最初のお客さんを無料にする代わりに、私の宣伝をお願いするというものだった。
 私は営業らしい営業をやった経験がない。だが羽賀さんは元営業マン。その時の営業ノウハウをいただいて、今回のプランを立てたのだ。
 私はゲンさんのパソコンのメモリー増設作業を行い、昨日アドバイスをもらった作業報告書を作成。報告書はカーボン紙で同じものをもう一枚作成し、印鑑を押してコピーを手渡した。原紙は私の方で保管し、顧客管理用として保存しておくことにした。
「笠井さん、早速やってるねぇ。さすが、行動がはえぇわ」
 ゲンさんからお褒めの言葉をいただき、私は貴重な最初の仕事のお金をいただくことができた。感無量。
 ゲンさんのところを出るときに、またまたアドバイスが。
「笠井さん、名刺に携帯の番号を書いておいた方がいいぜ。緊急に連絡を取りたいときもあるしな。それにまたお客さんを紹介してぇときにすぐに連絡できるだろう」
 そっか、携帯電話か。やはり今の社会ではこいつは必需品だな。私は携帯電話を持っていない。今からでも契約をしに行くか。
 ゲンさんにお礼を言って、自転車を大型の電器店に走らせた。こうして私は必然的に携帯電話を手にすることとなった。
 このとき、ふと由梨恵の顔が浮かんだ。これで由梨恵にはいつでも連絡することができるのか。しかし、あいつはそれを望んでいるのだろうか?
 携帯電話を手にしてじっと見つめた。指がボタンを押す。私の意志とは別に。
 最後のボタンを押して、そして通話ボタンに手がかかる……が、その瞬間、すぐに「切」のボタンを押す。
「意気地なし」
 そう聞こえた気がした。
 電話をかけようとした先は、由梨恵の家。すなわち私が元住んでいたところの自宅の番号だ。
 私は再び携帯電話をじっと見つめたが、その気持ちを振り切って自転車を橋本記念病院へと走らせた。悶々とした気持ちを抱えたまま。
 橋本記念病院で待っていたのは事務長さん。どうやら個人で使用しているパソコンの調子が悪いらしい。ここでもゲンさんのときと同じように調子を見て、やるべき作業やメモリの増量、さらにはハードディスクをSSDに交換することまで報告書に記載し、アドバイスを行った。
「パソコンもハードとソフトのバランスを取ることが大事なんです。だから、これだけのことをやって上げる必要があります」
「じゃぁ、そいつもお願いしようかな」
 こんな感じで、次の仕事も依頼をされた。
 家に帰る途中、私の頭の中はこれからの仕事のことでいっぱいになった。パソコンだけではない、もっと働く人のバランスを取り戻す。そのために、自分ができることは何かないのか?
 しかし、自分自身のバランスも保てていないのに、そんなことができるのか? それに、そんなことが一人でできるのか?
 さっきからその繰り返し。どうしても思考回路がここから抜け出せない。どうすればいい、どうすれば。
 こうやって繰り返し自問自答していくうちに、ひとつの結論に落ち着いた。それは、まず自分自身のバランスを取り戻すこと。そして、そのためにはやはり由梨恵に連絡をすること。とにかく行動しないと何も始まらない。
 私は買ったばかりの携帯電話を取り出し、思い切ってダイヤルすることにした。この時間だと夕食も終わって一息ついている頃のはず。
 ドキドキしながら呼び出し音を待つ。が、なかなか出ない。結局は留守番電話になった。
 残念な気持ちと、少しホッとした気持ちの二つが複雑に絡んだまま「切」のボタンを押す。
「おい、何ホッとしてんだよ。いずれはやってくることを先延ばしにしただけだろう?」
 心の中のもう一人の自分がそう叫ぶ。
 部屋で大の字になって寝そべる。さらにさまざまな思いが渦を巻く。自分のバランスのために、由梨恵の気持ちを考えなくてもいいのか? それ以前に由梨恵は何を考えているのか?
 考え込んでいたら、いつの間にか寝てしまったようだ。起きたのは十時少し前。
 やばいっ! バイトに行く時間じゃないか。私は慌てて家を飛び出し、猛スピードで自転車をバイト先のコンビニへと走らせた。
 結局私は何も行動を起こしていない。しかもバイトにまで遅れてしまって。
 そんな自己嫌悪の中、その日はバイトの中でも失敗の連続。おつりをミスしたり、お弁当の温めのスイッチを間違えたり。一体何やってんだろう……。
「羽賀さん、私どうしたらいいんでしょうか…」
 翌日、私は羽賀さんの事務所にいた。前日のバイトではミスを連発。気持ちも落ち込んだまま。こんな状態では、次に何をやらかすかわからない。結局頼るところはここしかない。そう思って、思い切って羽賀さんに連絡を取った。
 すると、羽賀さんは
「じゃぁ、事務所で待ってますからこちらに来て下さいよ」
と、気楽に返事をしてくれた。
 いつまでも羽賀さんに甘えてはいけない。そう思いつつも今回ばかりは早くこの状態から抜け出す方を優先させた。
 私は羽賀さんに一通り状況を説明。そして先ほどの言葉。羽賀さんはじっと何かを考えていた。そして、
「笠井さん。ちょっと感じたことをお伝えしてもいいですか?」
 羽賀さんのこの言葉だ。
「えぇ。どうぞ」
「いやぁ、ちょっと疑問に思ったことがあったもので。笠井さんって何に対して悩んでいるんだろうって。話を聞いていてそこがわからなかったんですよ」
「何に対してって……」
 一瞬ムッとした。が、とても不思議な感覚に襲われた。あれ、私は何に悩んでいたんだ?
 コンビニでミスしたこと。これは悩みの原因ではない。悩んでしまったがために引き起こしてしまったこと。じゃぁ、元々は何が悩みなのか?
 そうだった、由梨恵に電話をかけられなかったこと。いや、電話はかけたじゃないか。残念ながら留守番電話だっただけ。
 そうか、そのあともう一度電話をかけなかったこと。これを悔やんでいるのか。だったら電話をかければいいじゃないか。
 あのときは気がついたら寝てしまっていた。そしてバイトの時間になり慌てていた。だから電話をもう一度かけられなかった。それだけのことじゃないか。
「あ、そうですよね。コンビニでミスしたことは済んでしまった事実なんだから、何も悩む必要はないです。由梨恵に電話をかけられなかったことも、今考えたら今夜もう一度電話すればいいこと。まだ由梨恵から断られたわけでもないのだから、何も悩む必要は無いんですよね」
 そう答えると、羽賀さんはにっこりとして私に微笑んでくれた。
 この微笑みは「いいところに気づきましたね」と無言で私に訴えてくれたように感じた。
 しかし、まだ不安はある。私はその不安をあえて口にした。
「羽賀さん、由梨恵に電話をかけてもいいものでしょうか?」
「電話をかけると何がいけないのですか?」
「何がいけないって……別れた元夫から電話なんですよ。あまりいい気はしないんじゃないですか。それに新しい交際だってやっているようですし」
「新しい交際って確認はとれたんですか?」
「いえ、そうではないですが。もしそうならば、由梨恵にとって私からの電話は迷惑じゃないですか?」
「迷惑だって、誰がそう思っているんです?」
「あ、これはひょっとしたらそうじゃないかって……」
「ってことは、それは笠井さんがそう思っているだけなんですよね」
「えぇ、まぁ」
 確かに羽賀さんの言われたとおり、すべて私が勝手に思っているに過ぎない。じゃぁ、そう思わなければいい。けれどそんな単純には割り切れるものではない。
 そう思っていると、羽賀さんが突然こんなことを言いだした。
「笠井さん、奥さんにプロポーズした時って覚えていますか?」
「え、プロポーズですか?」
「はい。プロポーズです」
「まぁ、それなりには覚えていますが」
「なんて言ったんです? 今後の参考にぜひ教えて下さいよ」
 今後の参考って、誰か結婚したい人がいるのか? ひょっとして花屋の舞衣さんか?
「えっと、確か『これからの人生、一緒に歩いていきたい』そう言って指輪をポケットから差し出したんです」
「うわぁ〜、なかなかナイスですね。で、どんな場所でプロポーズしたんですか?」
「あれは由梨恵とドライブに行って、夜景のきれいな展望台に登ったんですよ。ちょうどクリスマスイブでした。普段はあまり人が来ないところなんですが、この日ばかりはカップルが多かったのを覚えていますよ」
「なるほど。やはりロケーションはロマンチックにいかないとね。で、そのプロポーズの言葉を出すときってどんな気持ちでした?」
「はい。やはり緊張しましたよ。それとなく結婚をにおわせていた頃だし。お互いそろそろかなって思っていましたから。でも、もし相手が断ってきたらどうしようって。そんなふうにも考えました」
「なるほどね。やはりある程度確信を持っても、もし断られたらって不安を持つものなんですね。もしそのときプロポーズしなかったら、どうなったと思います?」
「う〜ん、あのときにしなくても、いずれはプロポーズしたでしょう。でも、こちらはクリスマスイブで夜景のきれいな、これ以上ないロマンチックなシチュエーションを演出したんですから。あのときにプロポーズしなかったら男じゃないですよ」
「なるほど。そこでいかなきゃ男じゃないですね。何事もタイミングって必要なんだな」
 頭の中でそのときの情景を思い描きながら、懐かしい思い出に浸っていた。しかし、プロポーズの話と今の話と何の関係があるのだろう?
「じゃぁ、奥さんに今電話しなかったら、どうなるんですか?」
「どうなるって……」
 ここで言葉が詰まってしまった。
 もし他の男とつき合っていたとしても、結局は自分にはこの先元妻と一緒になる権利はない。ここで電話をしなければ、この先電話をかけることもなく、結果的には元妻と一緒になることもない。
 じゃぁ、もしかして元妻にまだ他の男がいなかったら。それは自分にとってはまだチャンスがあるということ。だったら、今電話しないと私にはこの先が無いということじゃないか。
 今置かれている状況は、あのときのプロポーズと同じ。ダメならダメ、そうでなければ可能性がある。ここをはっきりさせないと。
「羽賀さん、わかりましたよ。やはり電話をかけるべきですよね。思い切って」
 羽賀さんは大きく首を縦に振った。
「あ、これはちょっとした情報なのですが」
 羽賀さんは私が帰ろうとしたときに、思い出したように一つの情報をくれた。
「笠井さんの奥さん、今生命保険のお仕事をやられているようですね。そして今は五日間の研修を受けているようですよ」
「え、どうしてそれを?」
「たまたま私の知り合いが同じ研修を受けてまして。そこからの情報ですよ。ですから今は家に電話しても誰も出ません。海斗くんと明日香ちゃんはおばあちゃんのところにいるようですよ」
 そうか、そうだったのか。私は貴重な情報をもらったことに感謝した。
「明後日の夜には帰ってくるそうですから。電話はそのときがいいでしょうね」
 私は羽賀さんの言葉を信じて、あさってまで電話をかける思いをとどめることにした。
 今は自分を信じよう。自分が理想とする生活を取り戻すために、自分の思いを信じて行動してみよう。羽賀さんの事務所からの帰り道、固くそう誓った。

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