コーチ物語 クライアント22「悪魔の囁き」その3
自分に言い訳をせず、いかに行動的になれるか。今の私の課題そのものじゃないか。
悪魔のささやき「だけどなぁ」。これを自覚していながらもついその囁きに乗ってしまう自分がいる。ここを早く脱却しないと、今の事業も発展は難しい。それはわかっていながら、どうしても今を抜け切れない。
「吉武さん」
「あ、はい」
突然羽賀さんから名前を呼ばれてちょっとびっくり。
「せっかくこうやって知り合えたんですから。何か困ったこととかあったら遠慮無く相談してくださいね。うちのバイトのミクからは、そういう相談はちゃんと有料にしないとダメだって言われているんですけど。ボクってつい人のおせっかい妬いちゃうほうで。でも、人とこうやって話しているのって好きなんですよね」
羽賀さんのそのにこやかな笑顔になんだか心が救われた気がした。この人にだったら、今の自分の気持ちを打ち明けられる。そんな感じがしたのだ。
「羽賀さん、実は……」
そう小声で言いかけた途端。
「社長、帰る段取りできました。そろそろ戻りましょう」
斉木の言葉につい「おう」と返事をしてしまう私。
「じゃぁ、また。よろしくお願いします」
心に未練を残しながらも、車に乗り込む私。羽賀さんはその場で私たちを見送ってくれた。やはりさっき、ちょっとでも相談しておくべきだったかな。そのことだけが悔やまれた。
会社に戻ったら次の段取りを始める。が、ここがまた悪い癖で。ひと仕事終わると少し長めの休憩を入れてしまう。お茶やコーヒーを飲み、お菓子をつまんでさっきの仕事に対して雑談を交えて軽く振り返る。これは私としては社内のコミュニケーションの一環だと思っているのだが。これがつい長くなってしまって。この時間を詰めれば、講演会に間に合うくらいに仕事の準備は終わると思うのだが。
だけどなぁ、今までやってきたことだから。その悪魔の囁きについ負けてしまう。そして今日もダラダラと時間を過ごし、夕方から明日の仕事の段取りに入る。
どうしてこれをやめようと言い出せないのか。経営者としてまだ心が弱い証拠だな。こういったところをなんとか解決しないと。もっと社員に対して強い意志表示をしないと。
何度も何度も自分の心の中ではそう言い聞かせている。しかし、その一歩がなかなか踏み出せない。やはり今夜の羽賀さんの講演を聴いておくべきだったか。そこから何かヒントが見いだせるかもしれなかったのに。
時計を見ると、夜の七時。講演会、始まっている頃だな。こちらの段取りは八分ほど終わっている状況。遅れてでもまだ参加しようと思えばできなくはない。すごく迷いが生じている。
「社長、どうしたんですか?」
三村くんから突然そんな指摘を受けた。
「えっ、どうしたって?」
「いや、さっきから時計を見てばかりいるから。何か用事でもあるんっすか? それなら残りは俺らでやっときますから」
「そ、そうか。じゃぁお願いしていいかな?」
「大丈夫、まかせといてください」
「よ、よし、わかった。じゃぁ任せた」
私はそう言ってすぐに自分の車に乗り込み、羽賀さんの講演会場に向かった。さすが三村くんだ。私のことをしっかりと見ていてくれたんだな。斉木にはこういうところはないからなぁ。やはり羽賀さんが分析した通り、三村くんにリーダーを任せて斉木は技術者としてやってもらうべきか。そんなことが頭に浮かびながら、十五分ほど遅れて講演会に入ることができた。
羽賀さんの講演はちょっとした前段が終わって、今から本題に移ろうというう場面らしい。この人の喋りはなかなか引き込まれるな。間のとり方も絶妙だし。声の大きさもうまく強弱をつけて、良い感じで飽きずに話が聞ける。さらに重要な言葉などはホワイトボードに大きく書いてくれるから。その言葉をヒントに私はメモを取っていく。
そこで学んだこと、それは次のようなことである。
自分に言い訳をせずに一歩を踏み出すには
1.やるべきことを人にどんどん宣言する
それによって自分を追い込んでみるとともに自覚を促す
2.それができたときの世界をイメージする
楽しいイメージが作れれば人はそれを追い求める
3.逆にできなかった時の最悪の世界をイメージする
人は不快を避けようとする
「そして四番目、これが結構大切なことです。なのに多くの人ができていないことです。それは、人に任せてみる、ということです」
私は早速そのポイントをメモする。羽賀さんは続けてその意味を説明する。
「自分に言い訳する多くの理由が、それをやると自分にとても負荷がかかってめんどくさい、そう思うでしょ」
今、そう言われた時に一瞬私と目が合ったような気がした。まるで自分に言われているようでドキッとした。
「周りの人を信じて、やると宣言したことを手伝ってもらってください。そしてその仕事を人に任せるんです。世の中の成功者と呼ばれている人は、全てを自分でやった訳じゃありませんからね」
ここで羽賀さんはヘンリー・フォードのエピソードを披露してくれた。フォードは自動車王として大成功を収めたが、彼の周りには優秀なブレーンがいたからこそそうなったのである、と。フォードはあるとき、彼は無能であるという裁判を起こされた。裁判の席で相手の弁護士はフォードが無能であることを証明するために、一般常識の問題を出して答えさせようとした。だがフォードはこう反論したのだ。
「私の机の上のボタンを押せば、そんな馬鹿げた質問に応えてくれる専門知識を持った人間がすぐにやってきて答えてくれる。私はどうしてそんなよけいな知識を持つ必用があるのか」
これによりフォードは裁判で勝利を収めた。つまり、自分の信念に向かって突き進む人であれば、それを手伝ってくれるブレーンは自ずと集まってくる。その人達にそれぞれの仕事を任せるべきである、ということだ。
私は思わず納得。そのとき脳裏に浮かんだこと。それは小学校のPTA会長のこと。あの話がきたとき、私は一人でなんでもやらなければならないという気持が強く、それを仕事が忙しいことを言い訳にしようとしていた。その仕事も現実には私がほとんど取り仕切ってやっている。が、これも部下を育てる意味で三村くんに任せるべきではないか。
羽賀さんの言うような人事でやってみるのもいいかもしれない。私はもっと経営者としての仕事に専念するべきなのかも。そんな図式が頭のなかで駆け巡った。
気がつけば羽賀さんの講演は終了。大きな拍手の中、私は今メモをした項目をあらためて読みなおした。
よし、頭のなかの悪魔をこれで消してやるぞ。そして思ったような経営に乗り出してみよう。そう心に誓った。
だが、翌日その誓いを大きく揺るがす事件が起きてしまった。
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