コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その7
「うむ、さっきよりだいぶうまくなったな」
私と桜島さんは、スーパーでお茶に合う水を買い羽賀さんの事務所へ戻った。そして早速桜島さんの手ほどきでおいしいお茶を入れる練習。おかげで私も桜島さんもお腹はパンパンにふくれていた。
「これなら羽賀さんにおいしいお茶を入れられるでしょうか?」
「そうじゃな、一通りのことは大丈夫じゃろ。あとは最後の隠し味じゃな」
「最後の隠し味…あ、あれね」
「そう、あれじゃ」
最後の隠し味、それこそが相手を思って心を込めること。私に今まで足りなかったものだ。
「さて、羽賀さんはまだ帰ってこないのかな…」
私は時計をみながら、ワクワクした気分に浸っていた。こんな気分、いつ以来だろう。誰かのためを思って何かをするなんてこと、本当に今までなかったことだから。
トントントン…階段を上ってくる軽快な足音が聞こえてきた。羽賀さんが帰ってきたのかしら?
ガチャっ。
私は期待を込めてドアに向かって「おかえりなさい」と元気よく言葉をかけた。
「わ、びっくりした。誠子さん、来てたんだ」
残念ながらドアから姿を現したのはミクさんだった。
「あ、ミクさんか。おかえりなさい」
「おかえり、っていうか今出勤してきたんだけどね。でも誠子さんなんだか表情が明るくなったみたい。とってもステキに見えるわよ。とくにその笑顔」
ミクさんに言われてハッと気がついた。そうなんだ、私って今笑っていたんだ。今まで笑顔なんて気にしたこともなかったのに。
「桜島さん、誠子さんにどんなコーチングしたの?」
「え、コーチング?」
私はミクさんのコーチングという言葉に反応した。あまり聞き慣れない言葉だったからだ。
「なんだ、誠子さんちゃんと聞いていなかったの?
羽賀さんはコーチングをやるコーチなの」
「コーチングって…そういえば羽賀さんは自分のことを精神科医でもカウンセラーでもないとは言っていたけれど…」
「なんだ、桜島さんがちゃんと話をしたんじゃなかったの?」
「ワシは何も言っちゃおらんよ。じゃが、桜島流のコーチングをやったのは確かじゃがな」
さっきから何のことだかよくわからない。コーチングって一体何なの?
「ふぉっふぉっふぉっ、ほれ、ミクの言葉で誠子さんが目を白黒させとるじゃないか」
「あのぉ、そのコーチングっていうのが何なのか、私にも教えていただけないでしょうか?」
私はコーチングという言葉に興味津々。しかも桜島さんは私にそのコーチングを行ったというじゃない。
「誠子さん、さっきまでおまえさんは何をやろうと羽賀を待ちかまえておったかな?」
「えぇ、羽賀さんに心を込めておいしいお茶を入れてあげようと思って」
「うむ。ではそれはどうしてそう思ったのかな」
「はい、桜島さんの体験を聞いて、私もおいしいお茶を入れてあげたいという気になったからです」
「そんな気になったのは何がそうさせたのじゃ?」
「えっと…わたしに…今まで私に足りなかったところ。そこに気付いたからです。私は今まで人のことを考えて何かをやるなんてこと、思ったこともなかっことに気付きました。そして、それが私に足りないから周りの人は私の方を向いてくれなかったんだってことに気付きました。だから、とにかくこれを、誰かのためを思って何かをやることを始めようと思いました。だから最初に羽賀さんにおいしいお茶を入れることから始めようと思ったのです」
「そうじゃったな。ではそれは誰が決めたのかな?」
「え、それはもちろん私が決めました。私がそう思ったからわたしが決めたことですよね。それが何か?」
「ではあの喫茶店で、ワシが誠子さんに足りないものはそれじゃ、じゃから羽賀においしいお茶を入れてやれ、と言ったらどう思うかな?」
「そうですね…もちろんそうかもしれませんが、あまり人に指摘されたくないところですから。言われても羽賀さんにおいしいお茶なんか入れてあげようとは思わなかったでしょうね」
「つまり、自分で気付いたから自分からやる気を起こして行動しようと思ったわけじゃな」
「えぇ、そうです」
「そう、これがコーチングじゃ」
「え…これがって、どれがですか?」
「ふふふ、誠子さんまだ気付いていないみたいね」
ミクさんが笑いながら会話に入ってきた。
「桜島さんとどんな会話をしたのかはわからないけれど、その会話こそがコーチングなのよ」
「え、あの会話ってコーチングって言うんですか?」
私はもう一度桜島さんとの会話を思い出してみた。でもそれらしい特別な事は思い出せない。ただ単に桜島さんの思い出話を聞いただけなのに。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。ワシのコーチングはちょっと独特じゃからな。ま、コーチングとは簡単に言うと会話を通して気づきを促し、そこから自分で何を行動するか、その答えを自分で出してもらうものなんじゃ」
なるほど、桜島さんの解説に私はコーチングというものにとても興味を持った。それで羽賀さんは自分のことを精神科医でもカウンセラーでもないと言っていたんだ。
「で、誠子さん。今の気持ちはどう?」
ミクさんに言われて、私はちょっと考えた。でも答えは一つ。
「はい、なんだかすっきりした感じです。長年の重たいつき物が落ちたっていうのかな」
私はにっこりと笑ってそう答えた。
「あ、そうだ。ミクさん私の入れたお茶飲んで頂けませんか?」
「え、お茶?」
「はい、お茶です」
そう言って私はお湯を沸かし始めた。その足取りも軽く、今度はミクさんのためにという気持ちを込めて、楽しんでお茶を入れることができた。
「さ、どうぞ」
「あ、ありがと」
そう言ってミクさんはお茶をゆっくりとのどに落としていく。するとどうだろう、その表情はみるみるうちに和らいで、心の奥から味わいを楽しんでいるものへと変わっていった。
「あ〜、おいしい」
この一言が私の表情をさらに明るくしてくれた。よし、これなら自信を持って羽賀さんにお茶を入れることができるわ。
「羽賀さん、早く帰ってこないかしら」
私とミクさん、そして桜島さんの三人は羽賀さんの帰りを今か今かと待ちわびていた。
コンコン。
しばらくしてドアからノックの音が。
「羽賀さん、いるぅ?」
姿を現したのは若い女性。エプロン姿でとてもかわいらしい。確か昨日この部屋を掃除していた方だわ。
「あ、舞衣さん。どうしたの?」
「あら、ミク。羽賀さんはいないの?」
「うん、まだ仕事から帰ってきていないみたい。確か今日は研修の打ち合わせだとか言っていたけれど」
「あら、そう。さっきお客様から和菓子を頂いてさ。どうせだからみんなで食べようと思って持ってきたのよ」
「わ、ラッキー!」
ミクさんはどうやら食べ物には目がないようだ。
「あら、お客様もいらっしゃったのね。確か昨日いらっしゃった方ですよね」
「はい、青田誠子といいます」
「私は舞衣、佐木野舞衣っていいます。この下のフラワーショップをやっています。よろしくね」
舞衣さんかぁ。私もこんな女性になりたいな。そんなあこがれを持たせる、とてもステキな方だ。
なんだか急ににぎやかになってきたこの部屋。あぁ、人とふれあうって本当はこんなにも楽しいことだったんだわ。私は今まで人生でとても損をしていた事にあらためて気付かされた。たった一つ自分の視点を変化させるだけで、こんなにも楽しい気分になるなんて。
これから生きていくのがちょっと楽しくなりそう。そんな予感がしてきた。
そしてまた階段から軽やかな足音が。今度こそ羽賀さんに違いない。私はとびっきりの笑顔で羽賀さんを迎え入れることにした。
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