コーチ物語 クライアントファイル15「弟子入り志願」その3
「佐藤さんはさっきボクになんて尋ねましたっけ?」
さっき羽賀さんに尋ねたこと。それは……
「一万円でコーチングの勉強をするいい方法はないでしょうか、でしたよね」
「はい。その『ない』を『ある』に言い換えると?」
「一万円でコーチングの勉強をするいい方法はありますか?」
「はい、その通りです。人って『ないでしょうか?』って問われたら、否定的に物事を考えてしまうんです。だから『ない』ことからスタートしちゃいます。しかし『ありますか?』と問われたら肯定的にとらえます。その場合『何かあるはずだ』と考えるんです。佐藤さん、どっちがいいですか?」
「それはもちろん、『ある』方です。でも、一万円でちゃんとした勉強をする方法なんてあるんでしょうか?」
「佐藤さんはどんな方法があると思います?」
言われて考えた。本を毎月一万円分買っても、実践しなきゃ効果はない。ってことはどこかで実践出来ればいいんだ。じゃぁどこで? こんな自分を相手にしてくれる人なんかいるわけない。羽賀さんだって忙しい人なんだ。たかが月一万円でコーチングを教えてくれるなんて事あるわけがない。
「佐藤さん、今考えていることを当ててみましょうか」
「えっ、何ですか?」
「今、ボクにコーチングを教えて欲しいけれど、月一万円じゃ引き受けてくれるわけない。そう考えたでしょ」
「ど、どうしてそれがわかったんですか?」
「あ、やっぱり。だって考えている最中にボクの方をチラチラ見てたから」
そんなつもりはなかった。おそらく自然に視線が羽賀さんの方を向いてしまったのだろう。自分でも気づかなかった。
「その通りなのですが……やっぱり無理ですよね……」
「無理って誰が決めたんですか?」
「えっ、だって羽賀さんはお忙しい人だから。こんなボクにたかが月一万円でコーチングのレクチャーをしてくれるなんて思えないですよ」
「はい、確かにボクはいろんなところに足を運んで忙しい身ではあります。ですがボクの一番弟子。彼女からならば問題ありませんよ」
「一番弟子?」
「えぇっ、ミクにやらせるの?」
突然そう叫んだのは花屋の舞衣さん。
「ミクって、さっき確かアルバイトの子がいるって言った、あの人ですよね」
「はい。ミクはボクのところに来て結構コーチングを学んでいます。ボクの基礎講座の講師をやらせるくらいの知識は持っていますよ。まずは彼女からコーチングを学んでみて下さい。そして時間のあるときにボクがレクチャーをする。これならいかがですか?」
ちょっと悩んでしまった。羽賀さんはいい人だし正直な人だと思う。だからミクって子の能力もそれなりにあるんだろう。しかしアルバイトの子に一万円も払ってコーチングを学ぶなんて……。
そのとき、事務所のドアがけたたましく開いた。
「はーがさん、今日は学校が早く終わったからもう来ちゃった〜」
そう言ってにこやかに登場した一人の女の子。見た目はボーイッシュで、自転車のヘルメットを小脇に抱えている。
「あ、ミク、ちょうどよかった。今ミクのことを話していたんだ」
この子がミクか。実物を見ると余計に不安を感じてしまった。こんな今時の若い女の子にコーチングなんかできるんだろうか?
「あ、お客さんがいたんだ。いらっしゃいませ。あ、舞衣さんがお茶を入れてくれたんだ。ありがと」
そう言ってミクは舞衣さんが手にしたお茶を横取りしてボクたちに配り始めた。なんか横柄な感じだなぁ。
「ミク、こちらは佐藤さん。トシくんからの紹介で、コーチングを勉強したいということなんだ」
「へぇ、トシの紹介かぁ。初めまして、間中ミクです。羽賀さんのところで事務のアルバイトをしながらコーチングを勉強してます」
ちゃんとした受け答えもできるじゃないか。ちょっとは見直した。
羽賀さんは今までの流れをミクに説明。ミクはいつの間にかボクが持ってきたシュークリームを手にしてパクついていた。
「なるほど、それならまかせなさいっ! 自称羽賀さんの一番弟子の私がしっかりとコーチングをレクチャーしますからっ」
ミクは胸を張ってボクの前に自信満々に立ちはだかった。ただし、胸を張っても残念ながらそこには大した盛り上がりは見えないが……
「まだ不安があるでしょうから、今からミクのコーチングを受けてみませんか? きっと何かがつかめますよ」
「あ、はい。じゃぁお言葉に甘えて……」
するとミクは突然ボクの横に座ってきた。
「失礼っ。じゃぁ早速だけど、佐藤さんでしたよね。佐藤さんはコーチングを勉強してどうなりたいって思ったの?」
「どうなりたいって、さっきも羽賀さんに話したんですけど、羽賀さんみたいなプロになって、この技術をもっと多くの人に知ってもらいたいんです。そうすることでボクみたいに社内の人間関係、特に上司からのストレスを受ける人が減るんじゃないかと思うんですよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃぁコーチングをやろうと思ったきっかけは社内の人間関係トラブルだったんだ」
「えぇ、そうなんですよ」
そこから気づいたら自分が今まで受けてきた待遇の悪さや課長の態度などの愚痴を話していた。
「なるほどぉ、それは大変でしたよね。ところで一つ聞いてもいい?」
「はい、何でしょうか?」
「その課長って誰にでも同じような態度をとっていたの?」
「いやぁ、そうじゃないんです。ボクだけを目の敵のようにしていたように思えます。二言目にはボクのことをとろい、とろいと言って」
「ってことは、他の人は問題なかったんだ」
「まぁ、そうなりますね」
「んじゃぁ、他の人にあって佐藤さんに無いものってなにかある?」
「他の人にあってボクに無いもの、ですか……」
ここで考え込んでしまった。そして頭の中で思いついた言葉がポロリと口に出た。
「スピード、かな。でもボクは仕事は丁寧な方だったんですよ。だからこそ時間がかかってしまった。そこを課長は見てくれていなかったんです」
「なるほどぉ。じゃぁ佐藤さんが課長さんだったら、部下の丁寧さってところに注目をするってことですね」
この質問を問われてドキリとした。実は丁寧さだけではダメだと言うことはもう自分でもわかっていたから。
「やはり仕事には納期っていうのがあります。実はボクは何度か完璧なものを最初から作ろうとして納期に遅れたことがあります」
「でも、完璧なものができたんでしょ」
「はい、そう思いました。けれどプログラムを納品したときには客先から仕様変更を言われて。結局そこからまたプログラムを組み直しました。そんなの、ボクたちの業界では日常茶飯事です。だから最初から完璧なものをつくっても意味はないんです」
だから課長はボクの仕事の遅さが気に入らなかったのか。自分で言って初めて気づいた。
「だったらどうすればよかったって思います?」
「はい、必要なのは完璧なものじゃない。客先の要望を聞きながら相手の望む結果を出すこと。そのためには見せられるところまでを早く仕上げて、お客さんの話を聞いてプログラムを完成させること。これですね。よく考えたら他のメンバーはそうやっていたような気がします」
なんだ、結局ボクが悪いんじゃないか。そこに気づかずに今までいたって事は、それだけ自分の人生を損していることになる。もったいないよなぁ。そんなことで会社まで辞めてしまうなんて。
「佐藤さん、私こう思うの。今佐藤さんを見たらすごく落ち込んでいるって感じた。でもさ、これは佐藤さんの人生において必要なことだったんじゃないかって。だってそのおかげでコーチングに出会ったんだから。それにその課長も課長よね。そのことをちゃんと佐藤さんに話せばよかったのにっ」
ミクは腕を組んでちょっと怒ったポーズをした。それを見てなんか気持ちが明るくなった。
「いかがでしたか、ミクのコーチングは」
「はい、今まで胸の中につかえていたものがスーッと軽くなりました。課長への不満がどこかに行った気がします。そしてよりコーチングを勉強したくなりました」
「うん、これならOKだ。ミク、お疲れ様。なかなか上出来だったね。で、佐藤さんに一つ提案があるんですけど」
「はい、なんでしょうか?」
「佐藤さんは今無職ですよね。じゃぁウチの仕事を手伝いませんか? といっても固定給を出すことはできないので、売上げに応じた歩合給ということであれば。そして一万円はミクに払って頂く。これならボクも助かるし、ミクもおこづかいが入るし、佐藤さんもお金が入るし。どうですか?」
「えっ、い、いいんですか?」
このとき、ボクの目には羽賀さんが天使に見えた。もうこの人についていくしかない。そして多くのことを学んで、ボクもプロのコーチになるしかない。そのことが決心出来た瞬間だった。
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