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コーチ物語 クライアント22「悪魔の囁き」その1

 悪魔は一語しか知らない。けれどその悪魔の囁きが私のこころを揺るがす。今まで何度、その言葉に私は翻弄されてきただろう。そして今、この時も私の心を揺るがす。
「だけどなぁ」
 ついこの言葉が口から出てきてしまった。まただ、悪魔が私の心をそうやって揺さぶり、ついにはその囁きに気持が傾いてしまう。
「いや、この前もそうやって逃げてたでしょ。こんどこそ引き受けてくださいよ。お願いします」
「だけどなぁ、私も忙しいんですよ。自営業だからって自由に時間が作れるって身分じゃないですから」
「でも、吉武さんにぜひってお声がかかっているんですから。なんとか会長を引き受けてくれませんか? よろしくお願いします」
 やってきたのは息子が通う小学校の現PTA会長の長谷川さん。私は奉仕の精神と息子を始めとした子どもたちの育成のために、今までPTAの役員をこなしてきた。その息子も長男が今度六年生、そして次男が三年生。昨年はPTAの副会長に推薦され、その仕事もこなしてきた。
 私はPTA会長なんてガラじゃない。どちらかというと下働きで作業するほうが好きなのだ。今までも、会長の命令でいろいろな仕事をこなしてきた。それが今度は命令する側になれ、というのだから。さすがに二つ返事で「うん」とは言えない。
 そういえば今年の事業で有名な講演者を呼んだことがあったな。そこで話されていた言葉に「頼まれごとは試されごと」というのがあった。それを聴いたときはなるほどと思ったものだが。いざこういう大役を頼まれると、さすがに尻込みしてしまう。
「だけどなぁ、もっと私より適任者がいるでしょう。ほら、加藤さんとか」
 私が推挙したのは文具屋の加藤さん。奥さんの連れ子ではあるが、息子さんが小学二年生にいる。彼ならてきぱきといろんなことをやってくれそうなのだが。
「いや、加藤さんは吉武さんの後ならば引き受けるって言ってくれているんですよ。だからその次のPTA会長はほぼ決まりということで。それにみんな吉武さんだったらついていけるって、そうおっしゃっていますから」
 みんなって一体だれだよ。思わずそう言いたくなってしまったが。
「だけどなぁ、会長になったらいろいろな行事に参加しないといけないでしょう。私、自営業だからいざというときは仕事を優先しないと」
 私の仕事は看板屋。いろいろなイベントなどの看板の制作と設置を主な仕事としている。社員は二人ほどいるが、忙しい時は三人でとりかからないととてもじゃないが仕事が回らない。今までも何度かPTA役員の会合で仕事で二人には迷惑をかけてきたからなぁ。
「いやいや、そんなには迷惑はかけませんって。私も同じでしたから。そんなときこそ、みんながフォローしてくれるものですって。むしろうちのところなんかそのおかげで結束力が強くなりましたから」
「長谷川さんのところはそうかもしれませんが……だけどなぁ」
 私は言いながら気づいていた。この悪魔の言葉「だけどなぁ」を口にするたびに自分の心を楽な方、楽な方へと引っ張っていっていることを。
「まぁ、一回じゃうんと言ってくれないのはわかっていましたから。なんとか考えていただけるように、前向きなご検討をお願いします」
「あまり期待しないで待っていてください」
 そう言って長谷川さんは去っていった。私は一人、仕事場で腕組みをして考え込んでいた。
「だけどなぁ、ここでPTA会長を引き受けても、うちの仕事にとっては大したメリットはないんだよなぁ。むしろ時間ばかり食われちゃって……」
「社長、今度の講演会の看板、こんな感じで仕上がりました」
 社員の三村くんが工房から声をかけてきた。
「どれどれ……ん、いいんじゃない」
 そこにはこんなタイトルが。
”さぁ、これから始めよう!一歩を踏み出す勇気を持とう”
 タイトル的には自己啓発系の講演会のようだ。とはいっても、主催は市の教育委員会。後援に商工会議所や青年会議所など名だたるところが名前を連ねている。つまり、怪しい内容ではないということだ。
 そして講演者の名前が。そこには「コーチ 羽賀純一」と書かれてある。
「この人、結構有名らしいですよ。コーチングっていうやつで」
「コーチングか。確か一冊本があったな」
 私も経営者のはしくれ。そういう自己啓発的な勉強も一応は行なっている。といっても本を読む程度ではあるが。
「これ、入場無料だったよな」
「はい、そこにチラシがありますよ」
 市が主催する講演会なので、入場は無料。この日は当日に横断幕と看板を搬入うして、終わったら撤去作業。だから講演会は聴けるか。
「お前らもこの講演会聞いておけよ。きっとためになるぞ」
 これはどちらかといえば自分に言い聞かせた言葉。だがもう一人のスタッフである斉木がこう応える。
「だけど、その時間使って次の仕掛りもやっておかないと。次の日が大きな仕事があるでしょう」
 うぅん、斉木の言うとおりだ。次の日はちょっと遠方に行って、大きなイベントの飾り付けの作業を依頼されている。その段取りも組まないと。
「行ってみたい気はする。だけどなぁ」
 この悪魔のささやき、「だけどなぁ」を今日何度口にしただろう。この囁きがいけないのは頭ではわかっている。わかっているのだが、この言葉を使うことで気持が安らいでいるのは確かだ。言えば責任を負わずにすむのだから。
 結局いろいろなことの気持がうやむやのまま、今日の仕事を終えた。
 それから二日後、例の講演会の日。いつものように仕事の段取りを組んでいたところ来客が。
「こんにちはー」
「はい」
 他の二人は荷物の積み込み作業をしているので、私が来客対応をすることに。そこには背の高いメガネをかけた人物が立っていた。あれ、この人どこかで見たことがあるような気が……。
「あ、こちら今夜の講演会の看板を作っていただいているところとお聞きしたのですが」
 その言葉でわかった。あのチラシに載っていた今夜の講演会の講演者、羽賀さんだ。
「はい、そうです。どんなご用件で?」
「いえ、ちょっと近くまで来たものですから。先にお礼をお伝えしようかと思いまして」
 そんな客、初めてだな。発注があったのは市の担当さんだから、そこからお礼を言われることはあるが。直接のお客さんじゃないのに、わざわざお礼を言いに来るなんて変わった人だな。
「まぁ、どうぞよかったらお茶でも飲んでいってください」
 ちょうど一手間空いたところだったから、自分も休憩がてらお茶を差し出すことにした。まぁ男所帯だから、大したお茶は入れられないが。

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