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コーチ物語・クライアントファイル5 オレのやり方 その4

 ひと騒動が明けた翌日、オレはいつものように起きていつものように店に出た。しかし、いつもと一つだけ違うことがある。それは、今日からしばらくの間、羽賀さんのコーチングを一日三十分ほど受けることになったのだ。
 といっても、まだコーチングというものがよくわかっていないオレ。まずはそのあたりから教えてもらわねぇとな。
 店内の掃除を終え、店の前の掃除に取りかかっていたときにあの羽賀さんが自転車に乗ってやってきた。
「蜂谷さん、こんにちは! いやいや、昨日はお騒がせしました。今日からしばらくの間、よろしくお願いしますね」
 この羽賀さんっての、なんだか憎めねぇ顔してんだよな。一見するとへらへらしているようにも見えるんだけど、その笑顔に嫌みがないんだよ。なんなんだろうな、この笑顔は。
「おう、こっちこそよろしく頼むわぁ。ま、とりあえず中に入っとくれ」
オレは掃除をさっさと済まして、後を追うように店の中へと入った。
「でよ、昨日から気になってたんだが、コーチングって一体何なんでぇ?」
 オレは羽賀さんにお茶を勧めながらこの質問をした。
「コーチングですね。ま、これをお答えする前に蜂谷さんにちょっと聴きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ん、なんだよ?」
「えぇ、実はボクは今一人暮らしで食事はどうしても外食が多くなっちゃうんですよ。もしくはインスタント食品とかカップ麺とか」
「そいつはよくねぇな。そんな食生活ばかりやってたら、腹はふくれても体にガタがきちまうぞ。おめぇさんだって、見たところ体一つの商売のようじゃねぇか」
「蜂谷さんも聞くところによると一人暮らしなんですよね。お食事とかどのようなところに気をつけているんですか?」
「オレか、オレの場合はよ、朝はどうしても遅くなっちまうから昼飯が朝飯のようなもんなんだよ。その代わり、ここをしっかりと取るようにしてるんでぇ」
「へぇ、具体的にはどんなメニューで?」
「そうさなぁ、まず白いご飯に納豆、これは欠かせねぇな」
「白いご飯に納豆か。それから?」
「あとは日によって違うけどよ、野菜は店の残りの煮物があるからこれでとっているだろ。それから…」
「それから?」
「う〜ん、あとは店の残りものが多いからな。よく考えてみたらこれといったことはやってねぇな」
「なるほど。ではもう一つ質問していいですか?」
「なんだよ?」
「今よりもさらに健康に気をつかった食事にするとしたら、あとはどのようなものをメニューに加えますか?」
「そうだねぇ、野菜はしっかりと取れていると思うから…とはいえ、よく考えたら芋の煮っ転がしとか肉じゃがみたいなものが多いな。ってことは炭水化物が多いって事か。もうちっと繊維質をとらねぇとな」
「なるほど、繊維質ね。その他には?」
「う〜ん、こうやって考えたらタンパク質が足りねぇかな。オレは魚ってのはあまり食わねぇんだ。どちらかというと肉が好きだね」
「だったら、どうしますか?」
「魚ももうちっと食うようにするか。そう考えると、店のメニューも考えなきゃな。やはり日本食はヘルシーが売り物だからよ。魚中心のメニューなんてのも女性や年寄り受けするかもな」
「へぇ、魚中心のメニューか。おもしろそうですね、それ」
「おぉ、こりゃ早速アイデアを一ひねりしたくなっちまったな」
「ここまで話して、なにか思ったことや感じたこと、ありますか?」
「いやいや、なんか久々に創作料理をこしらえたくなっちまったよ。それに、オレの食事メニューも見直しできたし。健康的だと思っていたけど、もうちっとバランスを取らなきゃいけねーんだよな」
 オレは腕組みをして、もう一度自分の食生活を振り返ってみた。
「ところでよ、なかなかいいアドバイスじゃねぇか。羽賀さんよ、おまえさんどこかで栄養学なんての勉強したのかい?」
 オレはふと今までの会話を振り返って、羽賀さんにそう伝えた。ところが、羽賀さんから返ってきた答えは意外なものだった。
「いやいや、私は先ほど言ったとおりインスタントものばかりとっている不精者ですよ。そんな勉強なんかしたことありませんよ」
「でもよ、やけに的確なアドバイスじゃねぇか?」
「蜂谷さん、良く思い出してみて下さいね。ボクは蜂谷さんにどんなアドバイスしましたか?」
「え、だってよ、もうちょっとバランスのいいメニューをって…」
「ボクはそんなこと、一言も言っていませんよ。それ、蜂谷さんが自分でそう答えたんじゃなかったでしたっけ?」
「そうだっけ? そう言われりゃそうだが…」
「はい、実はこれがコーチングなんですよ」
「え、ど、どういうこってぇ?」
「ちょっと解説しますね。ボクは今まで蜂谷さんに質問をしただけなんですよ。『どんなところに気をつけて食事しているか』とか『具体的にはどんなメニューか』とか。さらには『健康に気をつけるならどんなメニューを追加するか』ってこと。あとは蜂谷さんが勝手にしゃべってくれただけですよ」
「するってぇと、魚中心の創作料理をつくるっていうのも…」
「はい、蜂谷さんが自分自身で出した答えなんです。自分で出した答えだから、『よし、やってみよう』って気になるでしょ」
「ま、確かにそうだな。で、これがコーチングってのかい?」
「そうなんです。ボクは料理については素人です。専門知識は持ち合わせていないんです。けれど、こうやって料理の専門家から答えを引き出すことはできます。これがボクの仕事、コーチングなんですよ」
「へぇ〜、世の中にはおもしれぇ仕事があるもんだ。だったらよ、昨日言っていた店の売り上げをアップさせるってのも、オレが答えを出すってことかい?」
「はい、答えは全て蜂谷さん、あなたの中に眠っていますからね。ボクはそれを引き出すサポートをするだけですよ」
「う〜ん…よし、気に入った!さっきまではよ、おまえさんが口うるさく『ああしろ、こうしろ』と指図するんじゃねぇかと思ってよ。オレはオレのやり方でいきてぇんだ。ここはオレの店だからよ。でも、それじゃいけねぇってのも昨日わかったからな。そうか、オレがこの店を良くするための答えを持っているのか…」
 オレはあらためて自分の店をゆっくりと眺めてみた。そうか、オレがオレ自身の手で店を変えていくのか。
 オレの頭の中には、開店当時のにぎわいを見せていた店の風景が描かれていた。そして胸の奥から、なんとなくワクワクするものがこみ上げてきたことに気づいたのだ。

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