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コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その3

 どのくらい泣いただろうか。今まで毎日のように泣いていたが、こんな涙は久しぶり。いや、初めてかもしれない。
 泣いている間、私の頭の中ではいろいろな事が浮かんできた。高校生の頃、私は暗い性格で親友と呼べる人はいなかった。友達という人はいたが、何かを気軽に話せる人ではなかった。
 その友達から陰で「誠子ってなんかいまいちなのよね」と言われていたことを知ったとき、私は初めてカミソリを手首にあてた。そのときは死にたいと思っていた。死にたいと思ったはずなのに、手首にあてたカミソリはそれ以上深く押しつけることなく、横にスッと動かしただけ。
 手首にはじんわりと血がにじんだ。死にたくても死ぬ勇気もないんだ。私はそんな自分に愕然とした。
 さらに、大学進学の件で母親と大げんかしたことも頭に浮かんできた。私は大学に行きたかった。が、文学部に行って何をしたいのかなんてまるっきり考えていなかった。そのことで母と口論になった。
 そのあと、何日もふさぎ込む日々が続いた。高校も一週間ほど休んだ。そのときも、ふと思い立ってカミソリを手首にあてたことがあった。それを知った母は、泣き、叫び、そして苦しんだ。
 結局、父の助言もありとりあえず大学には行かせてもらえることとなった。だが、今でもなんのために大学に行っているのか、私にはわからない。
 でも、今はそんな苦しみからなんとなく開放された気分。ふと気がつくと、過去に何度もカミソリをあてた手首の傷が目に入った。私はまだ軽い方だろう。ひどい人になると、無数の縞のような傷があるという。
「羽賀さん…わたし…わたし…」
「誠子さん、今はまだいいんだよ。そのままでいいんだよ」
 私は羽賀さんに、頭に浮かんだこととそこから湧き出た後悔の思いを口にしようとした。今ここで言わなければ、そんな思いが頭に浮かんだ。
 が、羽賀さんのその言葉でその必要がないことを悟った。今はあふれ出る感情を抑えずに、そのままの気持ちでいればいい。羽賀さんはそう言いたかったのだろう。
 だから、私はふたたび自分の涙の感情に、正直な気持ちで自分を受け止めた。
「…じゃろうが。だからおまえさんは食いしん坊じゃといっとるんじゃ」
「だって、あんなパフェがあるなんて知らなかったもん。でもさすがにあれは一人では食べきれなかったなぁ」
「まったく、この年になってパフェなんぞ若い娘と食べるなんて思いもせんかったわい」
 ドアの外からにぎやかな声が。どうやらミクさんと桜島さんが帰ってきたようだ。私はハンカチで涙を拭いて、気を取り直して羽賀さんを見つめた。
 羽賀さんは無言でうなずき、「大丈夫だよ」というメッセージを目で送ってくれた。
「ふぅ、ただいま。あ〜お腹いっぱい!」
「ミク、お帰り。桜島さんにごちそうになったかい?」
「えぇ、ちょっとすごいお店見つけちゃった。ジャンボパフェっていって、おそらくあれは四人分くらいあるわね。それがたったの千五百円!これはお得よ」
「まったく、おかげでワシもパフェを食べることになってしもうたわい」
 桜島さんがただでさえ大きなお腹をさすりながら、さらにぱんぱんになったことをアピールしていた。
「あ、私そのお店知っていますよ。まだ食べたことはないけれど、友達がすごいって言っていましたから」
「だったらさ、今度私と一緒に行かない?ほら、由衣さんも誘ってさ。羽賀さんも一緒にどう?」
「いや、ボクは遠慮しておくよ」
 ミクさんと桜島さんが事務所に帰ってきてから、この部屋は急に明るくにぎやかになった。
 今までこんな雰囲気、苦手だと思っていた。けれど今はなんとなく悪くはないなって気になった。そんな自分の心境の変化に、私自身が一番驚いていた。
「ところで話は終わったかな?」
「えぇ、だいたいのところは。ところで桜島さん、そもそも今回は何をしに来たんですか?」
「何をしにじゃないだろう。たまにはこうやって弟子の顔を見にこんといかんと思ってな」
 へぇ、桜島さんって弟子思いなんだ。私は一瞬そう思ったが、次の羽賀さんの言葉でそうではないことがわかった。
「ってことはまた奥さんとケンカしましたね。それで家に居づらくなって、こうやってボクのところに来たんでしょ」
「うぅっ、ばれてしもうたか」
「ばれるもなにも、桜島さんはいつも奥さんとケンカするとふらっとハーレーでどこかに出かけて、一週間くらいしたら帰ってくるんだから。おかげでボクがあなたのところにいたときに、どれだけてんてこ舞いしたこ
とか。で、今は尻ぬぐいしてくれる弟子はいるんですか?」
「おぉ、若いのが二人ほどな。ま、若いといってもおまえさんと同じくらいの歳じゃが。そもそもおまえもこうやってワシから鍛えられたじゃろうが」
「鍛えられたも何も、突然いなくなるから研修の仕事を代理でこなしたり、クライアントとの話しを合わせたりと、そういったことばっかりでしたからね。まったく、とんでもないじじいですよ、この人は」
 私は羽賀さんが本心ではなく、尊敬の意味を込めてそう言っているのがわかって、思わずくすっと笑った。
 私が笑ったのを見て、羽賀さんもにっこり。その笑顔が桜島さん、そしてミクさんにも伝染。
 部屋の中が一掃明るくなったような気がした。
「ところで桜島さん、どうせ一週間くらいは奥さんのほとぼりが冷めるまでここにいるんでしょう?」
「よくわかっとるな。さすがワシの弟子じゃ」
「だったら、タダメシ喰わすわけにはいかないから一つお願いがあるんですけど」
「なんじゃ、どんなことかな?」
「簡単なことです。誠子さん、学校が終わったら毎日ここに来れるかな?」
「えぇ、今学校も期末に入って私はほとんど単位を取ってしまったので、実は時間がたくさんあるんです」
「だったら都合がいい。ここに来られる時間ができたら、ぜひこの桜島さんのお相手をして欲しいんだけど。なにしろ時間だけもてあましている金持ち老人だからね。ぜひこの老人の話し相手になってくれないかな。ということで、桜島さん。ぜひ誠子さんにいろいろとお世話になってもらって下さい。それが桜島さんの役目です」
「なんじゃと!?」
「え、そんな。桜島さんのご迷惑じゃ…」
 私と桜島さんは同時に声をあげた。羽賀さんが一体何を考えているのか、私にはまだつかめなかった。
「誠子さん、桜島のじいさんはこう見えても心理学の専門家だからね。
 きっとなにかつかむことができるよ。
 ボクとは毎日夕方に三十分ほど時間を取って話をすることにしよう」
 羽賀さんの薦めもあり、私はその提案にのることにした。羽賀さんの師匠である桜島さんだから、きっと羽賀さんよりもすごいんだろうな。
 そんな期待があったからだ。
 桜島さんも最初は羽賀さんの提案に驚いたが、すぐに何かを悟ったようで私と毎日話をすることを楽しみにしているとの言葉をいただいた。
「じゃぁ、明日から暇な時間にここに来てね。ボクがいないときもあるかもしれないけれど、桜島さんは間違いなくいるから」
「はい、わかりました。では明日からよろしくお願いします」
 私はお礼を言って、羽賀さんの事務所をあとにした。
 このとき、帰りの階段を下りる足取りがなんとなく軽くなっていたことに気付いた。
「桜島さん、ありがとうござました」
「まったく、人使いのあらいヤツじゃ」
「ねぇ、どうして誠子さんに桜島さんのお世話を頼んだの? それにさっき私に桜島さんを案内してくれって言っていたの、どうして?」
「羽賀よ、おまえさんはミクにまだちゃんと教育しておらんようじゃな」
「ま、この辺はこれからだと思って」
「え、教育って、どういうこと?」
「さっきワシの案内をしてくれといったのは、コーチとクライアントの守秘義務を守るためじゃ。ワシがここにおったら、クライアントは安心して話ができんじゃろ。特に今回のように、何か思い詰めたところがあるようなクライアントは、コーチを信頼してもらわんと何も話してはくれんからな」
「あ、なるほど。で、誠子さんに桜島さんの相手をしてくれっていうのは?」
「桜島さん、誠子さんはうつです。それも結構重度の。正直なところ私の手には負えません。ぜひともよろしくお願いします」
「うむ、そう言うことだと思っとったわい。了解した。ここはワシの専門分野のようじゃからな」
「よろしくお願いします」
 ミクはこのとき、誠子の相談が思ったよりも根深いものであることを感じた。

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