コーチ物語 〜明日は晴れ〜 クライアント3 私の役割
いつもの朝、いつもの場所。そしていつものように仕事が始まる。今日も店頭に飾られたお花からいくつかのものを選び、それをアレンジして飾っていく。これが私の仕事。
フラワーショップ・フルール。ここが私、吉田恵子の勤め先。私よりも一回り近く年下の舞衣さんが店主のこのお花屋さん。舞衣さんのお母さんがやっていたころからここに勤めて、そしてフラワーアレンジメントを行なっている。舞衣さんのお母さんにこの仕事を教えてもらい、技術を磨いて今に至る。これが私の役割だって思って、このお店の役に立ちたくて、舞衣さんの支えになりたくて、今もその気持ちで仕事を続けている。
「おはようございまーす。舞衣さん、いるかな?」
「あら、羽賀さん。舞衣さんなら配達に出てるけど。何か用?」
ひょっこり現れたのは羽賀さん。ちょっと前にこの店の二階に住むようになった新しい住人。とても優しくて笑顔がステキな男性。まぁ私の旦那さんの次にってことにしておこう。
「いやぁ、この前蜂谷さんのお店の件で舞衣さんにもお世話になったし。で、蜂谷さんのお店も改装を済ませて、もうすぐ新規オープンになるから。お祝いとお礼を兼ねて食事でもどうかと思って。あ、もちろん吉田さんも一緒にね」
「わぁ、うれしいっ!」
「吉田さんってお酒はイケるクチですか?」
「どう思う?」
「うぅん、見かけによらず結構酒豪だったりして」
「それは見てのお楽しみ」
「じゃぁ、楽しみにしておくね。でも旦那さんは吉田さんが飲みに行くのって許してくれるの?」
「うん、うちはワリとそういうのは結構行かせてくれるし」
旦那と結婚して八年。幸か不幸かまだ子どもができないから、お互いの時間は自由にしている。
「そういえば羽賀さんってまだ結婚しないの?」
「いやぁ、まだそんなこと考える年齢じゃないし」
「えぇっ、そんな年齢じゃって、もう三十は超えているでしょ?」
「はい、三十三歳になります」
「えぇっ、羽賀さんって私より五つも年下なんだ。落ち着いているからもっと上かと思ったよ」
「えっ、吉田さんってもう三十八歳なの? うそーっ、まだ二十代かと思ってましたよ」
「またまた、お世辞がうまいんだから」
「お世辞じゃないですって。ホント吉田さん若く見えますよ」
「でも、羽賀さんなら世の中の女性が逃さないと思うんだけどなー」
羽賀さん、背は高いしスポーツマン体型してるし、笑顔がステキだし。そして頼りになりそうな感じ。私が独身なら見逃さないけどな。
「いやぁ、結婚って相手がいることですからね」
「相手って、舞衣さんがそうじゃないの?」
「えぇっ、舞衣さんは違いますよ」
羽賀さん、顔を真っ赤にして大慌て。ちょっといじめてやろうっと。
「あれーっ、だって舞衣さん、羽賀さんの晩御飯もつくってあげてるんでしょ。お客さんがきたらお茶を入れてくれるし。この前は洗濯物がどうとかって舞衣さん言ってたから、身の回りの世話もしてくれてるんだって思ったけど」
「あ、いや、別にそういうつもりで舞衣さんと……」
「羽賀さんって、女心を見抜く力には弱いのね」
まったく、羽賀さんって純粋で可愛いんだから。
「でも、舞衣さんがあんなに笑うようになったのは羽賀さんが来てからだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん、舞衣さんはお母さんを亡くしてから、とにかく一生懸命だったから。なんとかしてお母さんが残したこのお店を続けていこうって必死だったの。だから私もなんとか舞衣さんの力になりたくて」
そう、舞衣さんの力にならなきゃ。これも私の役割だもん。
「よし、決めた。なんとかして羽賀さんと舞衣さんをくっつけてあげる。よぉし、久々に燃えてきたぞぉ〜」
「あのぉ、本人同士の意志を無視してません?」
羽賀さんのそんなつぶやきも耳には入ってこなかった。おかげでこの日は、二人をどうやってくっつけるのかで頭がいっぱいになっていた。
そんな楽しい気分を根本から打ち壊す出来事が、この日の夜に起きてしまった。
「ただいま……」
「あ、弘樹さんおかえりなさい」
旦那様の弘樹さんのお帰りだ。最近、仕事のほうが何やら大変みたいで、このところ帰りが遅い。今日も十時過ぎにようやく帰宅となった。さらに今日はなんだか暗い雰囲気。一体何があったのかしら?
「どうかしたの?」
弘樹さんの大好物の肉じゃがとビールをそっと差し出してそう質問した。このとき、弘樹さんの口から笑えない事実が。
「恵子……会社が……つぶれるかもしれない」
「えっ、どういうこと?」
弘樹さんのその言葉で、目の前が真っ暗になった。頭が半分ショートした状態で弘樹さんの言葉を聞いたので詳しいところは覚えていない。どうも最近開発した特許製品を製造しようとしたところ、銀行からの融資が突然ストップして不渡りを出しそうだ、ということらしい。弘樹さんが総務関連を担当してから、会社全体の雰囲気も数字も上向きだと聞いていたのに。
この日、弘樹さんは大好物の肉じゃがに手も付けずに、頭を抱えたまま朝を迎えることになった。そして翌日、私も弘樹さんもあまり多くを語らないまま、お互いの職場へと足取り重く出勤していった。
「吉田さん、何かあったの?」
舞衣さん、私の顔を見るなり心配そうに顔を覗いてそう聞いてきた。私、よほど暗い顔をしていたみたい。
「いえ、心配かけてすいません」
「吉田さんが元気が無いと、なんだかこっちまで暗くなっちゃいそう。私で力になれるかわからないけれど、よかったら話してくれる?」
舞衣さんの気持はありがたい。けれど、こんなことを舞衣さんに話したところで解決するとは思えない。けれどこの苦しい胸のうちは誰かに話さないと、解消することはないんだろうな。
「舞衣さん、もし舞衣さんが結婚してダンナさんが悩んでいたら、妻としてどんなふうに接すればいいと思いますか?」
「え、結婚して……う〜ん、さすがにこれは私じゃ思いつかないな」
「ですよね……」
私は再び暗い顔に戻ってしまった。舞衣さんが悪いわけじゃないけれど、なんだかどうしようもない気持ちになってしまって。
「ごめんなさい、話してって言っておきながら何も役に立てなくて。あ、そうだ。こういうときこそあの人を頼ってみるといいかもしれない」
「あの人って?」
「ほらあの人よ」
そう言って舞衣さんは天井を指さした。そうか、あの人か。
「ということで、羽賀さん、吉田さんの話を聴いてくれる?」
フラワーショップ・フルールのテーブルに腰掛ける三人。どうやら羽賀さん、昨日は遅くまで起きて何かをしていたらしい。まだ寝ぼけた顔であくびをしてここに座っている。
「ふわぁ、あ、ごめん。いいよ、どうやら吉田さんにボクたちはこれからお世話になるみたいだし」
「えっ、お世話ってどういうこと?」
舞衣さん、何のことかわからずにそう尋ねてきた。
「あ、それはこっちのことっ。とりあえず今回はおいといて」
まったく、羽賀さんこんなところで逆襲してくるんだから。でもそのおかげでちょっとリラックスできた。そして昨日弘樹さんから聞いた話を羽賀さんにしてみた。
「なるほど、そういうことですか。確か吉田さんの旦那さんの勤めているのは陽光工業でしたよね」
「うん、そうだけど」
「融資を断ってきた銀行は、もしかしたらはまな銀行かな?」
「そんなことを言っていた気がするわ」
「はまな銀行か。もうひとつ、陽光工業が特許製品を売りだそうとしていたのは、四星商事系列の企業じゃなかった?」
はっきりとは覚えていないけれど、四星商事の名前が出たのは覚えている。
「なるほど、やはりそうか」
私がそのことを伝えると、羽賀さんは少し考え始めた。何かわかったのかしら?
「吉田さん、一つお尋ねしてもいいですか?」
「はい、何ですか?」
「吉田さんが今の仕事で何か失敗したとするよね。そんなとき、旦那さんにどんな顔で出迎えて欲しいかな?」
「え、私が失敗したとき……そうねぇ、一緒に暗い顔されると落ち込むよね。どうせなら笑顔ではつらつと、何事もないかのように出迎えて欲しいな」
そう言いながら、弘樹さんの笑顔を頭に思い浮かべていた。
「笑顔か。そうやって迎えてくれたら、吉田さんはどんな気持ちになるかな?」
「そうね、失敗したことは取り返しがつかないけれど、それを挽回しようという気持ちになれるかな」
と、ここまで言って気がついた。昨日の夜は二人で暗い顔で頭を抱えてしまっていた。それじゃ弘樹さんもつらいに決まっている。私が明るく弘樹さんを出迎えて、明るい気持ちにさせてあげなきゃ。
「羽賀さん、ありがとう。そうよね、旦那の仕事上の悩みって私が解決できるものじゃないのよ。だったら、私ができることはいつものように明るく振る舞って弘樹さんを元気づけてあげることだけだわ」
「だったら、今日はどうするかな?」
「そうね、昨日は弘樹さん好物の肉じゃがに手を付けなかったから。もう一度それを出してあげて、私が笑顔で話を聴いてあげるの。もちろんビールもつけてね。一日置いた肉じゃがって、結構味が染みこんでおいしいのよ」
弘樹さんの笑顔を想像して、私は気が軽くなっていたことに気づいた。
「わぁ、それ一度食べてみたいな」
「私も。ねぇ吉田さん、今度肉じゃがの作り方教えて」
「いいわよ」
羽賀さんと舞衣さん、この二人と話していると気持がすごく軽く感じてくる。うん、ここで働いてよかったな。
その日の夜、早速弘樹さんを笑顔で出迎えることにした。が、その準備も虚しく弘樹さんからは今夜は帰りが夜中になるとの連絡が。それほど会社は切羽詰まっているんだ。なにしろ会社が倒産するかって瀬戸際なんだから。
リビングで羽賀さんから借りたコーチングの本を読みながら、私はいつしかウトウトしていた。気づいたら私の肩には毛布がかけられていた。バスルームからはシャワーの音が。弘樹さん、いつの間にか帰ってたんだ。
「恵子、こんなところで寝てたら風邪引くぞ」
濡れた頭を拭きながら弘樹さんがバスルームから出てきた。
「あ、弘樹さんおかえりなさい」
ちょっと寝ぼけ顔。いけないいけない、笑顔笑顔。慌ててにこやかな顔をして弘樹さんの方を向いた。
「おっ、好物の肉じゃが用意してくれてたんだ。どうせならいただくかな」
弘樹さんの優しさが伝わってくる言葉。弘樹さんを癒そうと思っていたのに、癒されているのはどうやら私の方みたい。
「ビールあるけど、飲む?」
冷蔵庫からビールを取り出して弘樹さんを誘ってみた。これも精一杯の笑顔で。
「あぁ、どうせだからいただくとするか」
こうやって夜中の晩酌が始まった。うん、これでいいんですよね、羽賀さん。心の中でそうつぶやいて、私なりに納得していた。これが私の役割なんだから。ここであることを思い出した。
「そういえば、今度の新商品って売り込み先は四星商事系の会社とか言ってなかったっけ?」
「あぁ、四星オプティカルといって、光学精密機械を扱うところだけど。それがどうした?」
「ほら、フルールの二階にいるコーチングをやっている羽賀さん。その羽賀さんが『売り込み先は四星商事系じゃないか?』って言っていたから。そういえば、羽賀さんって昔四星商事のトップセールスだったらしいよ」
「え、そ、そうなのか。だったら四星商事に顔が利くのか? ちょっとその羽賀さんを紹介してくれないか!」
弘樹さんの目が変わった。何か焦っている様子もうかがえる。
「えぇ、いいけど」
「四星商事か、これでなんとかつながればいいんだけれど……」
弘樹さんはこんな独り言をぶつぶつと繰り返し、ビールを一気に飲み干した。
翌日、私は早速羽賀さんのところへ真っ先にうかがった。ちょっと朝早かったかしら。そう思いながらもドアをノック。
「羽賀さん、吉田ですけど。ちょっといいですか?」
何やら奥で物音がする。羽賀さん、起きてはいるみたいね。そっとドアノブに手をかけると、鍵は開いている。
「失礼しまーす」
そう言いながら部屋に入って様子をうかがう。二階にはほとんど来たことがなかったけれど、結構綺麗にしているのね。ミクや舞衣さんが片付けているのかしら?
「ふぁぁい、あ、吉田さん、おはよー」
寝ぼけ眼の羽賀さんが、奥の仕切りのカーテンから登場。
「ちょ、ちょっと羽賀さん、眠いのはわかるけど。ズボンくらい履いてくださいよ」
「えっ、あっ、いけねぇっ。ちょっと待っててください」
羽賀さん、大慌てでカーテンの奥に引っ込む。
「まったく、私が既婚者だからよかったけど。これが舞衣さんやミクだったら大変なことよ」
いつもはキリッとした羽賀さんしか見ていないから、なんだか笑えてきた。こんな一面もあるんだな。
「お待たせしました」
今度はいつもの格好の羽賀さんスタイル。うん、やっぱこっちのほうがキマってるね。ただし、ちょっと寝ぐせがついてるのがお茶目だけど。
「で、今日は朝早くからどうしたんですか?」
「昨日の話しのことなんだけど。弘樹さんが羽賀さんを紹介してくれないかっていうことなの。四星商事の元営業マンだって言ったら、眼の色が変わっちゃって。ね、なんとか弘樹さんの力になってくれないかな?」
羽賀さん、ちょっと考えてる。そして顔を上げて私にこう言った。
「わかった、力になるよ。これはボクの責任でもあるし」
羽賀さんの責任? どういうことだろう。
「とりあえず旦那さんに会いに行こう。詳しい話はこれからだ。すぐにでもアポはとれるかな?」
「えぇ、大丈夫だと思います。じゃぁ電話かけてみますね」
早速弘樹さんに電話をしてみた。すると向こうはいつでもOKとのこと。
「じゃぁ早速陽光工業に伺いましょう。それと吉田さん、舞衣さんに言って一緒に行く時間を作ってもらえるかな?」
「えっ、私も一緒に行くの?」
「はい、吉田さんの力が必要になると思いますので」
舞衣さんに断りを入れて、時間を作らせてもらった。忙しいのにごめんなさい。そして私の車で陽光工業へ。羽賀さん、普段は自転車だからね。
「あ、吉田さん。ちょっと旦那さんに電話してもらってもいいですか?」
「はい」
そう言って羽賀さんは弘樹さんと話を始めた。どうやら弘樹さんだけでなく社長や経営幹部など主だった方たちとも会いたいとのこと。これは了承をもらったようだ。
「旦那さん、良い人ですね」
「うん、ゴミの日は弘樹さんから率先してゴミ出してくれるし、掃除とか片づけとかも結構細かくやってくれるんですよ。それに園芸が好きで、庭にちょっとした花とか野菜とかを植えているんですけど、私以上に細かく世話をしてくれるんです」
それから私は、陽光工業に到着するまでずっと弘樹さんの話を羽賀さんにしていた。羽賀さんはしっかりと聴いてくれる。おかげで到着する頃には、弘樹さんがすっかり「自慢のダンナ」になっていた。
そして陽光工業に到着。玄関では弘樹さんだけでなく社長と幹部たちが羽賀さんの到着を待ち構えていた。羽賀さんは早速名刺交換。羽賀さんはチノパンにジャケット、ノーネクタイという格好なのに、いかにもビジネスマンという印象を与えてくれる。
「早速ですが本題に入らせていただきます」
羽賀さん、会議室に通されてそうそう話を始めた。私は会議室の隅の方にちょこんと座ってその成り行きを眺めている。私ってどうして連れてこられたんだろう? 私の力が必要になるって羽賀さん言っていたけれど。それってどういうことなんだろう?
「ボクが今からある占いをして、今起こっている事態を当ててみせます。もしすべて当たっているとしたら、これから起こることを予言します」
羽賀さんの言葉にうさんくささを感じている陽光工業の社長や幹部社員。ただ一人、真剣な目つきで見ているのは弘樹さん一人であった。
「事の発端ははまな銀行が突然融資を断ってきた。それは間違いないですね」
「えぇ、確かに突然でした」
羽賀さんの問いに弘樹さんが答える。羽賀さんはホワイトボードにそのことを書いて次の言葉を発した。
「そもそもこの融資は、新商品の製造で必要な設備や材料を買いそろえるために必要な資金を調達するため。さらに遡ると、この新商品の購入に目をつけたのは四星オプティカル。こちらが売り込んだわけでもなく、相手の方から先に打診があった」
これについては、社員の一部しか知らない事実みたい。社長を始め幹部の顔色がここで変わった。羽賀さんは言葉を続けた。
「そもそも今回の新商品で使われた技術は、陽光工業がずっと前から開発を続けてきた特許技術。それをいざ市場に売り出そうとしたところなので、陽光工業としては四星オプティカルの申し出に対してすぐに反応した。もちろん、購入量や価格も申し分なし。こちらとしては渡りに船で、乗らない理由はない。そうですよね」
この言葉に、陽光商事側の社員はすべて首を縦に振った。
「四星オプティカルの購入量を見込んで、製造ラインの増設や材料の早期手配を始めた。このとき、陽光工業のメインバンクであるはまな銀行は、意外にもすんなり融資を認めてくれた。そうではないですか?」
羽賀さんのその言葉に反応したのは、またもやダンナの弘樹さん。
「えぇ、すべておっしゃるとおりです。でもどうしてそんなことが?」
羽賀さんは弘樹さんの問いには答えず、話を進めた。
「さらに、今の状況を言い当てましょう。メインバンクからの融資を断られた陽光工業は、資金の調達を迫られている。なにしろ融資を見込んで材料や設備を買いそろえたんですからね。このままでは手形で不渡りを出してしまう。そうなると倒産だ」
「確かに、このままだと倒産してしまう。だからこそ、資金調達先を探し回っていたんだ」
羽賀さんの言葉に今度は社長が反応した。弘樹さんたちはこの金策でここ数日頭を悩ませていたんだな。さらに羽賀さんの言葉は続く。
「そんなとき、売り込み先の四星オプティカルからある打診があった。親会社である四星商事系列の四星ファイナンスから融資をもらってみては、とね。早速四星ファイナンスと連絡をつけ、交渉してみると融資はすんなりOK。ただし、ある条件付きで」
「な、なぜそこまでわかるのかね?」
社長のこの言葉を聞いて、羽賀さんはさらに何かを確信したようだ。そして羽賀さんが言葉を続けた。
「その条件とは、この特許技術を格安の条件で四星オプティカルへ売ること。もしくは、陽光工業の持ち株を四星ファイナンスへ担保として預けること。または陽光工業の持ち株を四星ファイナンスが買い取る。そのいずれかではないですか?」
「いずれか、ではなくどれかを選択するように言われたよ」
今度は専務がそう答えた。専務は陽光工業の社長の息子で、弘樹さんと同じ歳だと聞いている。まだ若さが残る人だ。
「その選択、どれをとってもこの陽光工業には苦渋の選択だ。へたをすると、この会社が四星に乗っ取られるわけだからね」
羽賀さんはホワイトボードに今まで語ったことを図式化して説明を繰り返した。会議室には危機感という雰囲気が漂ってきた。
「どうしてそこまで的確に言い当てられるんですか?」
専務の言葉に対して羽賀さんはこう答えた。
「その質問については後でお答えします。それよりも大事なのはこの先だ。ではこの先を予言します」
羽賀さんの言葉に、一同はごくりと生唾を飲み込んだ。
「特許技術は会社の命。特にこの技術はうまくいけば一財産できるくらいの価値がある。だからこそ、四星は目をつけたんです。おそらく陽光工業としては、四星ファイナンスに株を担保として預けることになるでしょう。その後、四星オプティカルはいろいろと難癖をつけて商品の支払いを拒むか引き延ばすはずです。そうなると、さらに資金が悪化。ここで再び四星ファイナンスが株の買い取りを打診します。おそらくこの時点では陽光工業もかなり追い込まれていますので、株を売ることになるでしょう。実はこのとき、裏では四星ファイナンスか四星グループがこの会社の株を集めているはずです。つまり……」
「か、株の過半数を握られる……」
「社長のおっしゃるとおり。つまりこの陽光工業が乗っ取られるわけです」
「で、でも陽光工業がなくなるわけじゃないですよね? それに、こんな小さな会社を乗っ取って、何のメリットが?」
専務が心配そうな顔で羽賀さんにそう尋ねてきた。
「メリットはずばり特許技術。四星のねらいは最初からこれだけです。といっても、その技術だけを買っても設備にお金がかかる。どうせお金をかけるのならば、すでにその技術を持っている会社ごと買った方が早いし安く済む、というわけです」
この羽賀さんの言葉に、一同は唖然とした。まさかそこまでやるのか、そんな顔をしているのが素人の私にもよくわかる。
「で、でも社員の生活は保障されるんですよね、そうですよね?」
社長は社員を一番に思っている人だ。だからこそ、真っ先に社員の心配をしてくれた。それに対して羽賀さんの答えはこうだった。
「四年前に四星オプティカルに吸収合併されたミノル光学。覚えていますか?」
この問いに対して答えたのは社長だった。
「えぇ、突然の合併騒ぎだったのでよく覚えていますよ。それが何か?」
「あの後、元ミノル光学の社員が今どのくらい四星オプティカルに残っているかご存じですか?」
「え、そこまではちょっと……」
「わずか三割です。残りの社員は四星関連の子会社へ出向になったり、なんだかんだと言われて会社を辞めたり。このときも四星が欲しかったのはミノル光学の技術であり、その技術を得てしまえば元社員は邪魔者扱いですよ」
「そ、そんな……ということは、今回も同じ道を……」
社長は愕然としてしまった。このままではミノル光学と同じように扱われてしまうのか、と。
「でも、羽賀さんはどうしてそんなことまで知っているんですか? そしてどうしてそんなことまで予測できるんですか? いくら元四星商事のセールスだからと言っても、そこまで深くは知るはずがないですよ」
そう言ったのは専務だった。そして羽賀さんは出席している一人ひとりの目を見て、ゆっくりとこう答えた。
「ミノル光学の乗っ取り計画。あれを立てたのはボクです。そして今回のこの陽光工業の件、これはあのときの計画をそっくりそのままマネしたに過ぎません」
羽賀さんのこの言葉に、一同はショックを隠せなかった。
「は、羽賀さんが企業の乗っ取り計画を……」
私は今の羽賀さんからは想像できない言葉に、耳を疑った。
「あ、あんたは血も涙もないのか!」
陽光工業の社長は羽賀さんにそう言い寄った。それを見た弘樹さんはあわてて社長を止めに入った。
「社長、落ち着いて。羽賀さんは四年前のミノル光学の時に計画を立てただけで、今の私たちには何の関係もありません。それに羽賀さんはもう四星商事の社員じゃないんですよ」
社長は弘樹さんの言葉にようやく落ち着きを取り戻したようだ。羽賀さんは深々とお詫びの意味を込めて頭を下げ、言葉を続けた。
「はい、あのとき私は四星商事の利益を優先に考えることしか頭にありませんでした。しかし、ある時気づいたんですよ。自分が今まで何をしてきたのか、そして四星商事が何を追い求めてきたのか。そんなときにある人と出会いました。その人との出会いが私を、私の考え方を変えてくれました。だから今こうやってコーチングをやらせて頂いています。今まで自分がやってきた事への反省とお詫びの意味も含めて、どうすればたくさんの人が笑顔で暮らせるのか、それを追い求めるために」
「でも羽賀さんは今回の件、四星商事のたくらみにどこで気づいたんですか?」
社長とは違い、若き専務は冷静に羽賀さんにそう尋ねた。まだ何か引っかかっているようだ。
「えぇ、陽光商事のメインバンクがはまな銀行であることがわかった時点でそう思いました。はまな銀行の筆頭株主は四星商事。そしてミノル光学の乗っ取りの時につかった銀行、これもはまな銀行。はまな銀行は筆頭株主の意向に逆らえず、その立場を利用されただけです。そして今回の新商品の売り先、これが四星系であることがわかった時点で乗っ取り劇を確信しました」
羽賀さんは専務の問いにそう答えた。さらに専務の質問は続いた。
「だったら、四星の乗っ取りを防ぐ方法はないんですか?」
その問いに対して、羽賀さんは立ち上がり、そしていつもの羽賀スマイルを見せた後にこう言った。
「だからボクが今ここにいるんです。決定的な方法は今のところありません。が、その方法を引き出すことはできます。そのためには皆さんの、そしてそこにいる吉田さんの奥さんの力が必要なんですよ」
羽賀さんのその言葉で、一同の目は私に向けられた。
「えぇ〜っ、私の力って一体何? 羽賀さん、私はどうすればいいのよ?」
「心配ないよ。今からは思いつくままに発言してもらえればいいから」
羽賀さんはいつもの笑顔で私にそう言ってくれた。でも何をすればいいのかしら? 心配だなぁ。
「ではまず、今回の件をもっとわかりやすく簡単に図式化してみましょう。そうだな、吉田さんの奥さんにもわかるように、ちょっとしたたとえ話をつかってみましょう」
そう言って羽賀さんはホワイトボードに絵を描き始めた。真ん中に人の絵を描き、その横には木、そしてその木には果物らしき絵が。そして左上に青色で人の絵と札束の絵。さらに右上に赤色で人の絵。そして赤色の人の後ろに、一回り大きな人の絵。
「今までの流れをわかりやすく説明しますね」
羽賀さんはこの絵を使って説明を始めた。羽賀さんの説明はこうだ。
真ん中にいる人、これが今回の主人公。この主人公は家の庭に珍しい果物がなっていることに気づいた。これが今までにない味なので世の中に売り出そうと思った。しかし、その果物を取るための道具も、出荷するための設備も持っていない。そんなとき、右に書いた赤い人、これは小さい方、この人がその果物を売って欲しいと言ってきた。しかし、売るためには道具が必要。それを買いそろえるまで待ってくれとお願いした。
そのとき、左側の青い男が「お金を貸してあげるから、道具を買いなさい」と手助けを。ただし、お金は後から貸すので、とりあえずツケで道具を買うことになった。が、いざ道具のお金を支払おうとしたら青い男がお金を貸すことを渋り始めた。しかし道具はもう買っている。支払いができない。
こんなとき、赤い男のバックにいる大男が条件付きでお金を貸してくれることになった。
実はこの赤い大男はこの地域ナンバーワンの実力者。誰も逆らうことができない。さらに、金貸しの青い男はこの赤い大男から脅されてお金を貸す振りをしていただけ。小さな大男は赤い大男の弟。赤い大男は弟であるこの男に儲けさせようと、自分の力をつかって主人公を追い込んだ、というわけだ。
「なるほど、すべてはこの赤い大男の陰謀なわけね。これなら私も話しがのみこめました」
私はこの説明になるほど、と納得した。
「事態がわかりやすくなったのはいいですけれど、この赤い大男の陰謀から逃れるにはどうすればいいんでしょうか?」
弘樹さんは羽賀さんに尋ねた。その問いに対し羽賀さんは
「皆さんだったら、この赤い大男の支配下から脱出し、道具の資金を調達するにはどうしますか?」
と逆に質問。一同はうなだれて考え込んでしまった。
そのとき一つのひらめきが。
「あ、羽賀さん。ちょっと聞いてもいいですか? どうしてこの主人公は赤い大男の支配下にいるのかな? 別にこんな男の支配下に置かれているような町で生活する必要ってないんじゃないの?」
「吉田さん、それもう少し詳しく聞かせて」
「だってさ、赤い大男の目が怖くて身動きが取れないわけでしょ。だったらこの大男の目が届かない人からお金を借りたり、この果物を売ったりすればいいんじゃないの?」
私の言葉に、一同がパッと顔を上げた。
「そうか、なんて単純なことに気づかなかったんだ。この特許技術商品、なにも売り先は四星オプティカルだけじゃないんだ」
専務がそう答えた。だが、続けて発言した社長の言葉は悲観的だった。
「そのくらいは私も考えていた。しかし手形はあと一週間で落とさなければいけない。そんなに急に売り込み先が見つかるとは思えない。それに国内では四星商事の目が怖くて、どこもこの商品を買ってくれないだろう」
まさにいじめっ子の実力者が幅を利かせている世界だ。そこで私はさらにひらめいた。
「だったら、国内じゃなくて海外はどうなの? そこならいじめっ子の実力者の目は届かないんじゃないの?」
「それこそ無理だ。買ってくれるところはあっても、残り一週間じゃ……」
社長はさらに頭を抱え込んだ。私はその社長の、そして幹部一同の様子を見て、ついムカムカッときて思わず立ち上がってしまった。
「そんなの、やらないウチから決め込んだら何もできないじゃないの! できないできないって言い訳している暇があったら、まずは行動するのが先なんじゃないの!」
一同の目が丸くなったのがわかった。ただ一人、羽賀さんだけはにっこりと笑っているのがとても印象的だった。私の声にいち早く反応したのは弘樹さん。
「そうですよ、社長。考えていたって意味はないです。とにかく当たってみましょう。それに考え方を変えれば、まだ一週間もあるんです」
弘樹さんのその声に、社長はしばらく黙って考えていた。が、おもむろに顔を上げ、そして握り拳を握って意を決したように立ち上がった。
「よし、とにかくやってみよう。まずは海外メーカーのリストアップ。時間がないので、日本内でアポイントが取れるところに絞ってみよう。そして交渉できる担当まで調べてくれ。今すぐにだ」
社長の力強い声に、幹部一同力をみなぎらせたようだ。今すぐ会議室を出ようとする一同。しかしその動きを一旦止めたのは羽賀さんであった。
「皆さん、もう少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「え、羽賀さん。どうしてですか? 今すぐ行動を起こさないと」
弘樹さんは羽賀さんの声にそう答えた。私もどうして羽賀さんがみんなの行動を止めたのか不思議だったが、その理由はすぐにわかった。
「調査するのはいいのですが、皆さんが一斉に動いても、誰が何をするのかを決めないと行動にロスが出ます。例えば、同じ会社に二度電話したり、一つの資料を廻って右往左往したり。時間を十分ほどいただければ、各自の役割を決めることはできますがどうしますか?」
なるほど、そう言われればそうだわ。この羽賀さんの意見にはみんな納得。すぐに羽賀さんを中心に、各自の役割、誰が何をいつまでにどのような形で提出するのかが決まった。さらには、次に集まるのが明日の午後一時というところまで決定。全員、すぐに決まった行動を始めるために、会議室を一目散に飛び出していった。
「あ、社長と吉田さんの旦那さんはちょっと残ってもらえますか?」
羽賀さんが二人を呼び止めた。
「羽賀さん、何でしょうか?」
社長が不思議そうに尋ねる。
「お二人にはもう一つ当たって欲しいものがあるんです。今回、一週間という時間です。また交渉先が海外メーカー。見たところ、この会社には海外メーカーとの交渉を経験した方がいないか、それほど経験が無いと感じましたが」
「えぇ、確かに我が社は国内メーカー中心に営業を進めてきました。だから海外メーカーと取引という概念がなかったのも確かです」
そう答えたのは弘樹さん。
「だったら一つご提案があります。この件を成功させるには海外メーカーとのスムーズな交渉が必要不可欠。しかも手形の関係で、前金で手付けをいただく必要がある。そうなると海外メーカーとの交渉にはプロのエージェント、代理で交渉してもらう人間が必要だと考えました。吉田さんにはそちらを当たって頂けないでしょうか?」
「エージェントといっても、そんな急には……」
社長が頭を悩ませていたら、弘樹さんがなにかひらめいたみたい。
「社長、先日のパーティーで近づいてきたエージェントと名乗る外国人がいました。確かミケーレ・カルヴィとかいうイタリア人だったのを覚えています。ちょっと素性がわからなかったので、きちんと話せていないのですが」
「しかし、そんな訳のわからない人物に社運をかけたものを任せて大丈夫なのか?」
「そんなの、当たってみないとわからないじゃない!」
私は思わず叫んでしまった。さっきもそうだったが、男っていざというときの決断が弱いのよね。
「確かに、吉田くんの奥さんの言うとおりだ。早速アプローチしてくれないか」
「はい」
弘樹さん、早速名刺を探しだして電話をかけ始めた。
「えぇ、どうしても海外メーカーと至急交渉して頂きたい案件がありまして。そこでカルヴィさんにお願いできないかと。できれば今すぐにでもお会いしたいのですが」
どうやらカルヴィさんは思ったより日本語は達者みたい。弘樹さんは通常と全く変わらず電話の受け答え。しかし、電話口で先方はぐずっているみたい。
「いや、一週間以内に決着をつけないと……ですから詳しいことは会ってからお話ししたいのです。お願いできないでしょうか?」
弘樹さんではなかなか動こうとしないカルヴィさん。もう、そんなに弘樹さんをいじめないでよ。
「じゃぁ私が直接話をしよう」
社長が電話を代わろうと思ったそのとき、羽賀さんが動いた。
「今回は特別サービスです。ボクに代わってください」
そう言うと社長よりも早く羽賀さんは電話を代わった。
「……Yes,I'm Haga。はっはっは〜、いやいや久しぶり。Yes……Oh……それは頼むよ……」
えっ、羽賀さんってカルヴィさんと知り合いなの? 電話の様子ではそんな感じだった。
「じゃ、一時間後にこちらで。よろしく。See you!」
「羽賀さん、ミケーレ・カルヴィさんとお知り合いなんですか?」
弘樹さんがそう尋ねた。
「えぇ、実はお二人に代理人の話をしたときに、誰もあてがなければミケーレを紹介しようと思っていたんです。というよりも、あいつのことだから絶対にどこかで社長か吉田さんと接触しているはずだと思いました。今回の光陽工業の技術は画期的ですからね。ミケーレは工業商品専門のプロのエージェントであり、凄腕の交渉人でもあります。だからこそ、こういった情報はいち早く反応するんですよ」
「だったら、今回の件はぴったりね」
羽賀産の言葉で、ちょっと安心した。
「羽賀さんはカルヴィさんとはどこで?」
「はい、私が以前四星商事にいた頃に、何度か組んで仕事をしたことがありまして。ミケーレの腕は信じて間違いありません。ただし、今回の件について一つの条件を出してきたんですよ」
「条件って? やはりお金か」
社長はちょっと頭を悩ませている。
「ま、確かに腕が立つのでそれなりの報酬は必要ですが、それは成功報酬なので大丈夫。それよりも、ヤツは日本文化にとても興味があってね。特に食事、しかも日本の家庭料理ってやつに凝っているんですよ。ミケーレも気分屋だからね。そういう意味で、接待が必要だな」
「接待って、どこか日本料理の料亭にでも?」
弘樹さんは仕事柄、そういった方面には強い。が、羽賀さんの答えは弘樹さんの期待を裏切り、さらに私に目が注がれる結果となった。
「いや、ヤツが求めているのは日本の家庭料理。つまり料理店のものではなく一般家庭で作られる日本料理なんだ。なぜかヤツはこれがお気に入りでね。ということで、吉田さん、出番ですよ」
羽賀さんはにっこり笑って私を見つめた。半分引きつった笑いで羽賀さんに微笑み返すしかなかった。
「コンニちは、オジャマします」
陽光工業の会議の翌日、早速カルヴィさんが私の家にやってきた。あのあとすぐに商談をして、おおよその条件を掴んだカルヴィさん。早速行動を開始してくれた。というより、どうやらすでに陽光工業の技術の売り先を見つけていたみたい。
ただし、羽賀さんが言った通り日本の家庭料理を食べたいとのこと。結局私がその役目を負うことになった。ちょっと荷が重いんだけどなー。
「あ、どうぞ。お待ちしていました」
弘樹さんはにこやかにカルヴィさんを迎え入れた。だが私の心臓はバクバクしている。こんなときに肝心のあの人はいないんだから〜。
「羽賀さ〜ん、明日ぜひ同席してくださいよぉ〜」
羽賀さんから私の手料理でもてなすようにと言われたとき、私は羽賀さんにそうお願いした。が、羽賀さんの返事は
「いや、これが明日は面談コーチングと研修の依頼が入っていてね。ちょっと時間が割けそうにないんだ。ヤツにはもう一度よろしくと言っておくから。あとは吉田さん、まかせたよ」
「羽賀さん、私自信ないよぉ。どんな手料理を出せばいいの? カルヴィさんの好物、羽賀さんなら知っているでしょ。教えてよぉ」
半分泣きそうになり羽賀さんにお願いした。が、羽賀さんの答えは
「吉田さん、ミケーレは日本の家庭料理が食べたいんだよ」
家庭料理って、だったらなおさら何を出せばいいのか。
「だったらこう考えてみよう。吉田さん、ダンナさんにつくってあげたもので一番自信作って何?」
「え、私の自信作? そうねぇ、やっぱり弘樹さんの好物の肉じゃがかしら」
肉じゃがには自信がある。自信はあるが、それはあくまでも弘樹さんを対象にした場合。一般ウケするのかしら?
「そうかぁ、肉じゃがか。それは確かに日本の家庭料理だね。それにビールなんてあると最高だなぁ」
羽賀さんのその言葉に、私もイメージが浮かんできた。うん、おいしそう。
「あ、やっと笑顔が出てきた」
羽賀さんに言われて私も気づいた。いままで眉間にしわを寄せて考えていたんだけれど、羽賀さんから肉じゃがを引き出されて、思わず微笑んでいる私がいた。
「よし、だったら思い切って肉じゃがで行くか!」
「うん、それでこそ、その勢いこそが吉田さんなんだよ」
羽賀さんのこの言葉は、私の勇気を後押ししてくれた。そして今日、カルヴィさんをこうやって迎えることができた。あとは当たって砕けろ、だ。
「さ、どうぞ。こちらに」
カルヴィさんを奥のリビングへ誘導。そこには光陽工業の社長と弘樹さんが待ちかまえていた。
私は早速料理を運ぶ準備。リビングでは社長と弘樹さんがカルヴィさんから状況の説明を聞いているようだ。
「はい、準備ができました。こちらにどうぞ」
私は三人をダイニングへと誘導。カルヴィさんは、社長の話の途中にもかかわらずストップをかけ、待ってましたとばかりにダイニングへ移動した。
「オーゥ、これニクジャガね」
さすが日本通のカルヴィさん。一目で料理の名前を言い当てるとは。ってことは相当いろんなものを食べているのよね。私の肉じゃが、口に合うのかしら?
「まずはビールで乾杯しましょうか?」
社長がそう言うと、私は早速カルヴィさんにお酌を。カルヴィさん、「どうもどうも」だって。ホント、日本人みたい。
「かんぱ〜い!」
そう発声したのはカルヴィさん。ぐっとビールを飲み干し、早速肉じゃがに手をつける。箸使いは慣れたものって感じだわ。
肉じゃがをほうばるカルヴィさんを黙ってじっと見つめていた。その視線に気がついたのか、カルヴィさんはにっこり微笑み返し、さらに肉じゃがを頬張る。ときおり思い出したようにビールを口にし、さらにジャガイモを口に。と思ったとき、カルヴィさんが箸にしたジャガイモをしげしげと眺め始めた。
「ンー、えっと、ケイコさん、でしたっけ?」
カルヴィさんからそう言われて、私はドキリとした。何かまずかったかしら?
「はい、な、何か?」
ガルヴィさんは突然、私に言葉をかけた。
「ケイコさん、イッショにビール、のみましょう。みんなでワイワイやるの、ワタシすきなんです」
「そうだな、恵子さんもいっしょにどうだい。確かいけるクチだったろう?」
社長もそう言ってくれた。弘樹さんの方を見ると、黙って首を縦に振ってくれていた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
そう言うと、カルヴィさんはビールをついでくれた。そこから先は、カルヴィさんのイタリアの話しで大盛り上がり。ビジネスの話しは一切出てこない。だからというわけではないが、私も一緒になって盛り上がることができた。
「ケイコさん、トコロでひとつしつもん、イイですか?」
「はい、なんでしょうか?」
私もすっかりできあがって、さっきまでの緊張なんかどこかへ飛んでいっていた。
「このニクジャガ、ジャガイモがほくほくしてしっかりカドがたっているのとドロッととろけているのとふたつありますね。これ、どうやってつくっているのですか?」
すごいっ。私のこの工夫に気づくなんて、カルヴィさんなかなかの通だわ。
「あ、それね。私、昔料理教室に通ってジャガイモのカドをたたせる作り方を習ったの。これ、みりんを使うのよね。でも弘樹さんの家庭はドロットした肉じゃがなの。私もドロットした方が好きなんだけど、見た目はカドが立っているほうがいいでしょ。だから、最初はジャガイモをしっかりと煮込んでドロットさせた上に、みりんで煮込んだジャガイモを後から追加しているの。これ、私のオリジナルなのよ」
カルヴィさん、この工夫に感心したみたい。肉じゃがのおかわりを要求。
確かこれで三杯目よね?
そうやって笑顔で私の家庭料理接待は終了。最後にはカルヴィさんは私にひっそりと耳打ちしてこう言ってくれた。
「こんどはニクジャガのつくりかた、オシエてください。これからながいツキアイになりそうだから、ネ」
長いつきあい……ってことは、交渉成立って事!? カルヴィさんが社長と一緒にタクシーで去った後、急に力が抜けてその場に座り込んでしまった。
「おい、恵子、どうしたんだ?」
「私、役に立ったわ。私にも役に立てることがあった。私の役割を果たすことができた。弘樹さん、私、やれたのよ。ありがとう、ありがとう」
何のことか今ひとつつかめていない弘樹さん。だって、交渉がうまくいったことをまだ知らないんだから。でも、私は弘樹さんに抱きしめられながら、しばらく涙が止まらなかった。もちろん、うれし涙なのはいうまでもない。
「へぇ、これがそのときに出した肉じゃがなんだ。どぉれ、ちょっといただきまぁ〜す」
「どうぞどうぞ、ミク。あ、舞衣さんもぜひ食べて下さいね」
カルヴィさんを接待してから一週間後。私は今や自慢料理となった肉じゃがを持って羽賀さんのオフィスに来ていた。ちょうどミクがバイトに来ていたときで、舞衣さんも休憩タイム。残念ながら羽賀さんは用事があるということで外出中。とりあえず、いるメンバーで一緒に私の肉じゃがをつまみながら、事の顛末を話すことになった。
「で、カルヴィさんを接待してからどうなったのよ?」
ミクが興味深そうにして聞いてきた。舞衣さんの目も興味津々。
「それからがすごいのよ。弘樹さんから聞いたんだけど、実は光陽工業の技術を前々から狙っていた海外メーカーがあったんだって。そのメーカー、実はカルヴィさんに光陽工業からその技術商品を購入できないかって相談に来ていたときだったらしいの。だから話しがトントンってすすんじゃって、あっという間に契約。もともと先方からラブコールを送られていたから、光陽工業の要望は全て受け入れてくれたのよ。おかげで一週間もしないうちに手形を落とすことができたんだって」
「へぇ、ちょっとできすぎた話ね。なんだか怖いくらい」
舞衣さんはそう発言した。
「そうなの、私もそう思って羽賀さんに同じ事を伝えたのよ。そしたら、羽賀さんがこう言ってくれたの。『心の奥からそう願えば、それはちゃんと叶うんだよ』ってね。羽賀さんからそう言われると、なんだかそう思えちゃうから不思議よね」
「うんうん、それってよくわかる!」
ミクが元気にそう答えた。舞衣さんもうなずいている。私の肉じゃがをつまみながら、女三人の会話。本当はビールがあると最高なんだけどな。
そう思ったときに、舞衣さんからこんな疑問が飛び出した。
「ところでさ、羽賀さんってなんだか得体の知れない人よね。この前もはっちゃんのお店を救ってくれたし。いくら元四星商事のトップセールスだっていっても、こんなところまではできないでしょ。そもそも、羽賀さんがどうしてコーチングなんて仕事をしはじめたんだろう?」
舞衣さんのこの疑問に、一同は腕を組んで考え始めた。確かに羽賀さんは奥が深すぎる。といっても、表面上は笑顔のステキな普通の人なんだけど。
「そういえば、羽賀さんが四星商事を辞めてからコーチになるまでって何をしていたんだろう? そもそも、四星商事を辞めたのはどうしてなんだろう?」
舞衣さんは羽賀さんにとても興味をもっているようだ。
「ミクは羽賀さんといろいろと話しをするんでしょ。何か知らないの?」
「う〜ん、そういわれると羽賀さんって自分の過去のことを話さないな。ま、私が一番身近な存在だから、ちゃぁんと羽賀さんの過去を探ってみせるわよ。愛する羽賀さんのことだもん。もっと知っておかなきゃね♪」
羽賀さんの謎は深まるばかり。ま、考えたって仕方がないから、とりあえず休憩タイムを終了にして仕事に戻ることに。そんなことを思っていた矢先、さらに羽賀さんの謎を深める出来事が起きた。
お店に戻るとすぐに、店の前に黒塗りの高級車が。どこかの社長か重役って感じの紳士が車から降りてきた。もちろん、その車は運転手付きである。
「花をつくってくれるかな。墓参り用の」
その男性は落ち着いた声で、私に注文してきた。
「はい、わかりました。とくにお花の種類にご希望があればお伺いしますが」
「そうだな。花のことは良くわからんが」
「どなたのお墓にお参りですか?」
「娘のな。今日が命日なんだよ。生きていれば君より少し若いくらいかな」
「そうですか……では少し若い方が好むようなお花をお入れしましょう」
「あぁ、頼むよ」
私はお墓参り用のお花を作り出した。その紳士は花を一つ一つゆっくりと眺めている。
「はい、これでいかがですか」
「おぉ、なかなかいいじゃないか。ありがとう。おい、青木、お金を払っておいてくれ」
紳士は運転手にそう伝えてた。そのとき、羽賀さんが帰宅。
「ふぅ〜、今日は暑かったな。あ、吉田さん、舞衣さん、ただいま」
羽賀さんが汗を拭きながら、自転車から降りてきたのだ。そして、店に入ってあの紳士の顔を見たときに羽賀さんの動きが止まった。そしてこのときに、信じられない言葉を私たちは聞いた。
「お、おとうさん……」
このとき、一瞬時間が凍り付いた。そして、その沈黙を破ったのはあの紳士。
「まさか、こんな日にここでおまえと会うとはな。まったく、どうしてもおまえとは縁が切れないらしい。おい、青木、行くぞ!」
その紳士、羽賀さんの顔を見るなり、先ほどの顔とは全く異なる険しい顔つきで、怒ったように運転手を呼びつけ車の中へ消えていった。羽賀さんもその場に立ちすくんだまま、その紳士の動きをただ見つめていただけだった。
私はわけもわからず、その様子を見ているだけ。
しかし、羽賀さんの口から出た言葉、「おとうさん」とは一体どういう意味なの? 今はただ、羽賀さんの複雑な顔つきを見守るしか、私たちにはできることがなかった。
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