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コーチ物語 〜明日は晴れ〜 クライアント6 疾走!羽賀コーチ

 はぁ、はぁ、はぁ。こ、こんなに走ることになるとは……。追っ手はとりあえず巻いたようだな。風呂敷に包まれた荷物を胸に抱え、夜の街を右に左に走っていく。普段からこんなに走ることなんかないから、もう息が上がって……とりあえず暗い路地に身を隠し、体力の回復を待つことに。
 あの人のところまでもう少し。あそこまで行けば落ち着くはずだ。あとはあの人に任せればいい。
 ネクタイをゆるめ、一番上のボタンをはずす。営業マンとしてこんなにだらしない格好はご法度なのだが。今は事態が事態だからな。このブツをあの人に託せば。
 大通りに出る。人をかき分け前に進む。運良く客を下ろしたばかりのタクシーを発見。ドアを閉めようとしたそのタクシーに飛び込んで叫ぶ。
「早く、早く出してくれ!」
「は、はい」
 タクシーの運転手、慌てて車を出す。
「お客様、どちらまで?」
「あ、ここまでお願いします」
 私はあらかじめメモしておいたあの人の住所を運転手に手渡す。そしてようやくゆっくりと座席に腰を落とし、安堵の気持になった。
「あの……失礼ですけど、もめ事はごめんですからね」
 運転手は私の様子を見て、ただごとではないことを悟ったらしい。
「大丈夫だ。ことが終わればあなたに迷惑はかかりませんから。あ、下ろすのはその場所の手前にしてください」
「はい……ホント、お願いしますよ。私、前の会社をリストラでやめさせられて、ようやくこの仕事に就けたんですから。まだ小学生の子どもと女房を食わせてやらないといけないんですからね」
 運転手の愚痴に付き合っている暇はない。今はこのブツをなんとかあの人に託すこと。これが今の私の使命だ。
「着きましたよ」
「ありがとう。おつりはとっておいて」
 表示された額面が払えるだけのお札を運転手に渡してさっさと車を降りた。
 もう少し先に行けば、目的のあの人がいるところにたどり着く。もう辺りは暗くなり、住宅街でもあるこのあたりは静けさがただよっている。前を見ると、花屋さんが店じまいをしている。私はその横をすりぬけ、階段を昇っていく。
「ここだな。こんばんは、こんばんは」
「はーい」
 中から若い女性の声。あの人はいないのかな?
「どちら様ですか?」
「あのぉ、羽賀さんに、羽賀さんに用があって来ました。羽賀さんはいらっしゃいますか?」
 ドアが開く。現れたのはショートカットの、まだ若い女の子。
「羽賀さんのお知り合い、ですか? 羽賀さん、ちょっとトレーニングに出てて。もうじき帰ってくると思うのですが……」
 不審者でも見るような目付きで私を見つめる女の子。当然だろう、こんな時間にヨレヨレのスーツ姿の男性が現れたのだから。
「とにかく、羽賀さんに会わせてください。大至急、お願いします」
「ちょ、ちょっと。会わせてくださいって。あなたは何者なんですか?」
「し、失礼しました。私はこういうもので……」
 フトコロから名刺入れを取り出して彼女に渡す。これも身についた営業マンとしての習性だな。
「四星商事……営業の軽部さん? もしかして羽賀さんと一緒に仕事してた?」
「はい、羽賀先輩は営業マン時代にお世話になりました。とにかく、中に入れていただけないでしょうか?」
 ようやく扉が開く。そしてすかさず中に入る。さらに後ろ手に鍵を閉める。
「ちょ、ちょっと。どういうつもりですか?」
「実は、今私はある組織に追われているんです。羽賀先輩になんとか助けてもらいたくてやってきたんです」
「ある組織って?」
「それは……今は言えません」
「じゃぁ、どうして追われているの?」
「それも今はちょっと」
「なんか怪しいなぁ。ホントにあなた、羽賀さんを頼りにしてきたの? 四星商事といえば、この前もホテルの買収計画を羽賀さんが邪魔したし、その前は吉田さんの旦那さんの買収計画もつぶしたし。さらにはっちゃんの居酒屋乗っ取りも潰したでしょ。今の羽賀さんにとって、四星商事って敵になるところなんだよね」
「はい、今まではそうでした。けれど今は違います。私は……私はその組織から追われているんです。なんとか逃げ切ろうとして、今ここに駆け込むことができたんです」
「四星商事から追われてるって、ますます理由がわからなくなってきちゃった。一体どういうことなのよ?」
「それは……」
「羽賀さんの一番弟子のミクさんにそれが言えないっていうの? 私もみくびられたものね。羽賀さんがいないときは、私は羽賀さんの代わりを任されているんだから。ほら、早く話して、早く」
 困ったな。こんな大事なことはあまり他の人に言いたくないのだが。そうしていると、ミクと名乗った女の子は私が抱えている風呂敷包みに目を落とした。
「それ、何なの? とても大事そうに抱えているけれど?」
「これ、ですか。これを、これを羽賀さんに託したいと思って。もう時間がないんです。これを八時までにある場所に届けてもらわないと」
 あらためて時計に目を落とす。時間は七時二十分過ぎ。やばい、こんなことをしている場合じゃない。
「ある場所って?」
「それは……隣の市の工業団地跡です」
「えぇっ、あんなところまで!? この時間ならここから車で一時間くらいかかるじゃない。いくら羽賀さんでも……」
 確かに夜の渋滞がひどい国道を通って行くと、車で一時間以上はかかる距離だ。しかし私は知っている。羽賀さんならそれが可能なことを。けれどその羽賀さんはここにいない。さて、どうする?
「羽賀さんを今すぐ呼ぶことはできないんですか?」
「羽賀さん、トレーニングの時は携帯電話持って行かないからなぁ……どうしよう。いつもならもうそろそろ帰ってくる頃なんだけど」
「はぁ〜、今日もいい汗かいたなぁ」
 そう言っていると、ドアの向こうで男の声が聞こえた。私の目は希望の光に輝いた。
「あれ、ミク。何でカギを閉めているんだ。おい、開けてくれよ」
「はいはい、今行きます」
 ドアを開くと、そこには羽賀先輩の姿が。
「あれっ、軽部くんじゃないか。どうしたんだ、その格好は?」
「羽賀先輩っ、お、お願いがあります。この荷物を、八時までに隣の市の工業団地跡地まで運んでくれませんか? そうしないと、そうしないと、私の彼女が……」
 私はそこまで言うと、急に涙が溢れて泣き崩れてしまった。
「軽部くん、この荷物を隣の市の工業団地跡地まで持っていけばいいんだね。ミク、急いで携帯をつなぐ準備を。それとドリンクを補充してくれ」
「羽賀さん、事情も聞かずに引き受けるの?」
「そんなの、走りながらでも聞ける。今出ればボクの足なら充分間に合う。急いで」
 羽賀先輩の声でてきぱきと準備をするミク。羽賀先輩は一度顔を洗い、ボディバッグを準備してボクの荷物をそれに入れる。
「準備はできた。ミク、ボクが出てから二分くらいしてから電話をかけてくれ。事情は走りながら聞くから。軽部くんはミクと一緒にここで電話で話してくれ」
 羽賀先輩はそう言うと、さっそうと事務所を出ていった。

「さてと、そろそろいいころよね」
 ミクさんはそう言うと、電話をかけ始めた。羽賀先輩の言ったとおり、ほぼ二分後に連絡をとった。
「ミクです。はい、えぇ、わかった。ちょっと待ってて」
 ミクさんは羽賀先輩から指示されたらしく、電話をスピーカーフォンに切り替えた。そして電話機のスピーカーからは羽賀先輩の声が。
「軽部くん、羽賀です。聞こえますか?」
「えぇ、はっきり聞こえます」
「よし、今ボクは指定された工業団地跡地へ向かっている。道路はかなり渋滞しているが、自転車だから問題ないだろう」
「でも、本当に自転車で間に合うんですか?」
「隣の市はこの街のベッドタウンだ。今通っている通りしか移動する道はない。この時間は帰りの車で渋滞するので有名な通りなんだよ。おそらく車だと一時間近くかかるだろうな」
「でも、自転車でそんなに早く走れるのですか?」
「今はもう昭和町の交差点を過ぎたところだよ」
 私は頭の中でこの事務所と昭和町の交差点の位置を考えてみた。え、ひょっとしたら車よりも速いんじゃないか。ここは羽賀先輩の脚力を全面的に信頼することにしよう。
「ところで軽部くん、こうなったいきさつを説明してくれないか」
「あ、はい。わかりました」
 私は事のいきさつを説明し始めた。事の起こりは畑田専務の計画した居酒屋グループの買収計画であった。前回、セントラルアクトのテイスト・ジョイタウンに居酒屋の蜂谷氏を取り入れようとして失敗。しかし店舗の穴を空けるわけにいかず、第二の小さな居酒屋グループを取り入れることに成功した。このグループは市内に三店舗ほどかかえており、四店舗目の進出を促し成功したのだが。この店の味をさらに広げるために、買収を企てた。が、社長は頑固として首を縦に振らない。そこでちょっと裏の手を使うことになった。
 裏の手とは、いわゆる裏社会。地元暴力団の紅竜会を使って居酒屋にちょっかいを出し始めた。この時点でさすがにこれはどうかと思ったのだが。業務命令であれば仕方ないと割り切っていた。
 が、事態はそれだけでは収まらなかった。紅竜会は四星商事がこの件を依頼したことをいいことに、四星商事が彼らの取引を手伝うように要求してきたのだ。取引とは白い粉。それに対してはさすがの畑田専務も首を縦には振らなかった。だが、彼らはテイスト・ジョイタウンの店を使って取引を行うようになった。私も畑田専務もその情報を知ってはいたが、今は見て見ぬふり。
 そして事は起こった。今日、私と彼女の久しぶりのデート。ランチをテイスト・ジョイタウンでとっていた時のことだ。こともあろうに、私の目の前でやつらは取引を始めた。まったくの偶然の出来事だったが、私も会ったことのある紅竜会の幹部がアタッシュケースを手に店にやってきたのだ。
 その姿に、私はさすがに激怒した。今まではただの情報だけだったから我慢できたが、目の前でそんな取引をされたのでは。だが相手は暴力団。下手なことはできない。
「どうしたの?」
 彼女は私の態度を変に思ったようだ。
「き、気にしなくていいよ」
 とにかく無視しよう。そう思ったのだが、事態は一変した。なんと、幹部の男が私に近づいてきたのだ。
「畑田さん、でしたよね。ちょいと協力してもらえませんかね。どうやらサツが張り付きそうなんですよ。ひとまずこいつを預かってもらえますか?」
 そう言って幹部の男は強引に私にアタッシュケースを差し出した。そして元の席へ。その直後、あきらかに私服警官と思われる二人組が店に登場。そしてちょっと離れた位置に座って幹部の男をチラチラと見ている。これは取引の現場を押さえようということなのか。
 ここで思った。チャンスだ。このアタッシュケースを持って警察に飛び込めば取引はなくなる。だがそうなると四星商事と紅竜会との関係が明るみに出てしまう。
 しかし、何もしないというのは私のポリシーにかかわる。食事を終えて、すぐに彼女と店を出ることにした。あのアタッシュケースを持って。それが今の事態を招くことになるとは知らずに。
「それで店を出てからどうなったの?」
「はい、幹部の男が手下に連絡をとったみたいで、私たちはすぐに追われる立場になりました。一度囲まれてしまったのですが、その前にアタッシュケースの中身だけは別のところに隠しておいたんです。そのときは空のケースでごまかしてすぐに逃げたのですが……」
「また捕まった。そしてそこで彼女を人質にとられた。彼女を返して欲しければ、八時までに中身を隣の市の工業団地跡地まで持って来い。そう言われたってことだね」
 電話の向こうで羽賀さんがそう言う。
「はい、その通りなんです。それが先ほどお渡しした風呂敷包みです。それを取りに行く途中で紅竜会の連中に見つかって、逃げ回っていたらこの時間になって」
「なるほど、そうか……ミク」
「あ、はい。羽賀さん、何?」
「悪いけど竹井さんに電話して、隣の市の工業団地跡地に来てくれるように連絡しておいてくれ」
「はい、わかりました」
 ミクさんは一旦電話を切ると、どこかにかけはじめた。
「とにかく詳しいことは後回し、急いで工業団地跡地に行ってちょうだい!」
 ミクさんはやたらと上から口調で電話の相手、おそらく竹井さんに連絡をしている。竹井さんって一体誰なんだろう?
 電話が終わると、ミクさんはまた羽賀さんに電話。
「連絡ついたよ。とにかく急いで行かせたから。でも八時には間に合いそうにないけど」
「ボクがなんとか時間をつくるよ。今隣の市に向かう幹線道路を走ってる。渋滞しているけど、うまく車を縫っているからなんとかなりそうだよ。あ、もうすぐ隣の市に入るよ」
 羽賀さんのその言葉にビックリした。まだここを出発してから十五分程度しか経っていないのに。確かあそこまでは八キロ以上あったと思ったのだが。
「羽賀さん、絶好調ね。脚の方は大丈夫なの?」
「あぁ、このところミクとトレーニングを再開したおかげで、だいぶ筋力も戻ってきたみたいだよ」
 ミクさんは羽賀さんからそう言われて、ちょっと照れているようだった。
「話を戻そう。軽部くん、もう少し詳しく聞きたいのだけど、いいかな?」
「えぇ、どんなことでしょうか?」
「軽部くん、君は彼女をどうしたいと考えているのかな?」
「どうしたいって……それは彼女を救いたいに決まっているじゃないですか」
「救いたい。救ってどうしたいのかな?」
「救ってどうしたいって……今はとにかく彼女を救ってあげたいだけです」
 私は羽賀さんの質問の真意がわからず、半分いらだってきた。だって、誰だって自分の彼女がそんなことに巻き込まれたら、救い出したいに決まっているじゃないか。
「救い出したい。だったら軽部くんは今何をしているのかな?」
「今何をしているって……追っ手を振りきって羽賀さんに助けを求めに来たのですが……それが?」
「それはさっきまでの行動だろう。ボクが聞いているのは、今何をしているかだよ」
「今……今はこうやって羽賀さんと電話で話をしています」
「それでいいのかな? 本当にそれで彼女を救うことができるのかな?」
「えっ、これで彼女が救えるか……」
 やることはやった。そういう気持ちでいた。けれど羽賀さんはまだ私にやるべきことがある。そう言っているのだ。そのやるべきこととは……。
「ミク、ミクはいるかい?」
「えぇ、何、羽賀さん」
「悪いが、今から軽部くんの中の答えを引き出してくれないか。この前教えたとおりにやれば大丈夫だ。よろしく頼むよ。ボクはもう少しペースアップするから、五分ほどしたらもう一度電話をかけてくれ。じゃ、頼んだよ」
 羽賀さんはそう言うと、携帯の通話を切ってしまった。そして目の前にはミクさんが。
「軽部さん、ということで羽賀さんから任されちゃったのでよろしくね」
「え、一体今から何を……それにボクの中の答えを引き出すって?」
「いいから。時間がないのでいくつか質問するね」
 ミクさんはそう言って手帳を取り出してなにやら探しだし、私に質問をし始めた。
「えっと、あったあった。じゃ、始めるね。彼女と将来どうなりたいと思っているのかな?」
「彼女との将来、ですか。こんなときにそんな質問に答えられませんよ。彼女が心配で心配で……」
「へぇ、そんなに彼女が心配なんだ。そしたら……そんなに心配な相手がいるときって、普通はどんなことをするのかな?」
「そりゃ、相手の元にすぐにでも駆けつけますよ」
「だったら、今軽部さんは何をしているの?」
「今、今は……」
 そう言われてようやく気づいた。羽賀さんが言いたかったこと。そして私が何をしなければいけないのか。
「でも、彼女のところへ行こうと思っても今からじゃ間に合わない!」
「間に合わなければ、何もせずにいるってこと?」
「そうじゃない、そうじゃないけれど……でもどうすればいいのか……」
 どうすればいいのかわからなくなってしまった。彼女の元に駆けつけなければ。そこまではわかった。でも、その方法が思いつかない。
「じゃ、次の質問するね。彼女が待っているのは誰?」
「彼女が待っているのは……私、ですよね……」
 少し自信をなくしてしまった。彼女は本当に待っているのだろうか。ひょっとしてあきれてしまっているのではないだろうか。
「彼女は誰の顔を見るのが一番安心するのかな?」
「それは……それは私ですよね。私に決まっている」
「だったら、軽部さんは今からどうしようか?」
「とにかく彼女のところへ行きます。でもどうやっていけば……」
「羽賀さんは自転車で行ったよ。車だとこの時間じゃ一時間はかかるかな」
「自転車でって……でも自転車なんてないですよ」
 そう言うと、ミクさんは自分のバッグからカギを取り出した。
「階段下にマウンテンバイクが置いてあるわ。タイヤはスリックにしてあるから、舗装路は楽に走れるはずよ。私の身長に合わせてあるからちょっと小さいかもしれないけれど、そんじょそこらの自転車よりは軽くて走りやすいはずだわ。携帯電話、持っているんでしょ」
「えぇ」
「電話番号を教えて。こちらから現状を説明するから。このハンズフリーのイヤホンを使ってね。彼女を思う気持ちが強ければ、あなたの足でもここから四十分もあればつくでしょう。あとは羽賀さんがなんとか時間を稼いでくれるわ」
 年下の女の子にここまで言われたら男がすたる。
「わかった。でもこの格好じゃ……」
 私はスーツ姿。するとミクはカーテンで仕切られている奥のスペースに行って、Tシャツと短パンを持ってきた。
「とりあえずこれに着替えて。足のサイズは?」
「二十六センチです」
「ちょっとまってて」
 ミクさんは大急ぎで事務所を出ていく。その間に私は着替える。着替え終わった時にミクさんはスニーカーを手にしてきた。
「これ、借り物だけど。一階の花屋の舞衣さんのお父さんのもの。革靴よりはいいでしょ。さ、急いで!」
 私は促されるように自転車にまたがり、そして夜の街を走りだした。ミクさんが言うとおり、今まで乗ったどの自転車よりも軽やかにスピードが出せる。スピードメーターを見ると、驚くことに三十キロは出ているじゃないか。魔法のような自転車だな。
「えっと、確かこの交差点は右だったな。そしてひたすらまっすぐ行けば隣の市に行く道路だ」
 そして交差点を曲がったときに私が見た光景。それは車の渋滞の列、列、列。
「うわっ、これじゃぁ前に進まない。自転車で良かった。でもどこを走れば……」
 ここで目にしたのは中央分離帯。この道路の中央分離帯は、道路にペイントがしてあり、真ん中に自動車のライトで光るやつが埋め込んでいるだけ。車が走るほどの幅はないのだが、自転車ならば余裕で走り抜けることができる。なるほど、羽賀さんもここを通ったんだな。よし、それなら私も。交差点で右折する車にさえ気をつければ何とか走り抜けられそうだ。
 そこから先はとにかく必死でペダルをこいだ。ふと見るとハンドルに取り付けられている速度計が時速三十五キロを示していた。自転車でもこんなに速いスピードで走れるんだ。
 しばらく走ると、突然携帯電話が鳴り出した。あわててハンズフリーのボタンを探し、通話をONにした。
「はい」
「軽部くん、ボクだ。羽賀だよ」
「あ、羽賀さん、今どこにいるのですか?」
「指定された工業団地跡地に着いたよ」
 このとき時間を確かめた。腕時計は七時五十五分。なんと五分前にはあの場所に到着するとは。羽賀さんの脚力のすごさを感じた。
「軽部くんは自転車をこぐことに集中して、あまりしゃべらなくていいから。今からボクがいくつか質問するから、ハイかイイエで答えてくれ」
「ハイ」
 それは助かった。正直なところ、呼吸も乱れまともに会話ができない状態だったから。
「指定された場所はあるのかな?」
「ハイ」
「それは唯一残っている元日高工業の建物かな?」
「ハイ」
「今度は彼女について聞くよ。彼女の今日の格好はスカートかな?」
「イイエ」
「じゃぁパンツ姿かな?」
「ハイ」
「彼女はわりと活発な方かな?」
「ハイ」
「彼女は軽部くんから見て頭の切れるタイプかな」
「ハイ、頭はいいと思います」
「じゃぁ最後、彼女は軽部くんのことを信頼してくれていると思うかな?」
 ここでちょっと答えに躊躇してしまった。だがここは思い切ってこう答えた。
「ハイ、そう思います」
「じゃぁこれからボクが考えている作戦を伝えるね。とにかくボクは相手と交渉して時間を稼ぐ。軽部くんは現地についたらボクの携帯を鳴らしてくれ。鳴らすだけでいいから。そしたらボクは大声で相手と交渉を行う。男の気をこちらに向かわせるから、その隙に彼女に近づいてくれ。あとはボクがなんとかするから、ボクの指示で動いてくれないか」
「ハイ、わかりました」
 そういって羽賀さんは一度携帯を切った。時計を見ると七時五十九分。あと一分ほどで羽賀さんと紅竜会の交渉が始まる。果たしてうまくいくのか?
 とにかく現地に急ぐために自転車を走らせた。だがここで思わぬジャマが入ってしまった。
「そこの自転車、止まりなさい」
 なんと、後ろから白バイが私を追いかけてくるじゃないか。これはさすがに想定外だった。しかし、素直に止まってしまうと羽賀さんに追いつけない。さて、どうする?
 いくら自転車が渋滞をすりぬけても、所詮は自転車のスピード。白バイにかなうはずがない。白バイはどんどん近づいてくる。ここで左右に目をやる。あ、ひらめいた。この手でいくか。
 フルブレーキ。減速したのを見計らって、大型トラックの後ろから左の脇に入る。それと同時に、今まで走っていた中央分離帯を白バイが駆け抜けていった。自転車の減速に対応できず、そのまま通り過ぎたようだ。
 私は二列になって並んでいる車の間を駆け抜けた。先ほどよりもスピードはダウンしてしまうが、白バイに捕まるよりはいいだろう。とっさのアイデアではあったが、我ながらいい案を思いついたものだ。
 確かもう少し進めば指定された工業団地跡地のある方向へ曲がる道だ。とにかくそこまで行けば、白バイにも捕まることはないだろう。
 さらに左に寄って、歩道と車の間を駆け抜けることにした。歩道を走ってもいいかなと思ったのだが、段差が多いのと人が結構歩いているため、とてもこのスピードでは走り抜けない。
 時計を見ると八時十分。羽賀さんはうまく交渉をしてくれているだろうか? だが、その心配をする前にもっと自分のことを心配するべきだった。
「そこの自転車、今すぐ止まりなさい!」
 なんと、目の前にはさきほどの白バイが。先回りして、ボクの行く手を阻んでいたのだ。さて、どうすればいいんだ。
 右に出ようにも、今度は車がのろのろではあるが進んでいるため、危なくて移動することができない。仕方ない、事情を話して行かせてもらうしかない。
 私は観念して、白バイの目の前で自転車を止めることにした。だが、白バイの警官からは予想外の言葉が飛び出した。
「君が軽部さんかな?」
「え、どうして私の名前を?」
「事情は後だ。君を日高工業の工場跡地まで早く連れて行くように指示されている。この先の曲がり角でパトカーが待機しているから急いで移動するように」
 何がなんだかわけがわからない。とにかく白バイの先導でパトカーが待機している交差点まで移動することができた。
「警部、軽部さんを連れてきました」
「うむ、ご苦労。おい、軽部さんとやら、早く乗りなさい」
 そう言われてパトカーのドアを開けて乗り込むボク。
「あ、ありがとうございます」
 そう言って目にした人物を見て、ボクは飛び上がるほど驚いてしまった。
「あ、あなた……」
 目の前にいる人物、それは以前だるま屋の買収のときにいた、ブルドック顔の刑事さんだった。
「まったく、羽賀のところのミクから連絡があったと思ったら。今追いかけているヤマにかんでいるとはな。まったく、あいつと関わるとろくなことありゃしねぇや。事情はミクから聞いた。ほれ、行くぞ」
「行くぞって?」
「おい、羽賀から何か指示がきてねぇのか?」
 パトカーは混んでいる道を避けて、遠回りではあるが空いている農道の方を通って工場跡地まで進む。その最中に竹井警部からの質問に答えた。
「私が到着するまで時間を稼いでおくから、着いたら携帯を鳴らしてくれと。その後羽賀さんが大きな声で交渉を行い、相手の気を逸らすからその隙に私の彼女を救い出してくれということでした」
「なるほど、わかった。じゃぁその役目はオレがやろう。あんたはおとなしくパトカーで待っているんだぞ、いいな」
「そ、それは困ります」
「困るって、何がだよ?」
「え、えっと……は、羽賀さんから指示を出されたのは私ですから。羽賀さんも警察の人が飛び出したんじゃ驚くかと……」
「なぁに、あいつなら大丈夫だ」
 いや、大丈夫じゃないのはこちらなのだが。なんとかして私も交渉の場に立たないと、この先うまくいかないじゃないか。
「お願いです。彼女が心配なので私も同行させてください」
「ちっ、しゃあねぇなぁ。そのかわり遠くから見てるだけだぞ」
 ふぅ、これでなんとかなりそうだ。そろそろまじめに計画を遂行せねば。いつまでも今までの私じゃないところを見せないと。
 頭の中では、少し狂った計画を修正するためのプログラムが動き始めた。なぁに、この程度の狂いは問題ない。あとは思ったとおりに動いてくれさえすればいいんだ。あの男、羽賀純一が。
「よし、到着したぞ。軽部さん、あんたが羽賀の携帯を鳴らしてくれないか」
 竹井警部の頼みで携帯を開く。時間は八時十五分。この十五分間、羽賀さんはどうやって話を引き伸ばしてくれたのだろうか。それ以前に、羽賀さんは今どこにいるのか。
 携帯を二度ほど鳴らしパトカーを降りると、目の前に羽賀さんの自転車が転がっているのが見えた。そう遠くへは行っていないはずだ。忍び足で工場の入口に近づく。中を覗くとがらんどうで、壊れた大型機械の跡だけが残っている。
「おい、あそこだ」
 竹井警部が目配せをする。羽賀さん、どうやら工場の中ではなく奥の渡り廊下のところにいるようだ。渡り廊下の左側に羽賀さん、右側の事務所棟へつながるところに二人の人影が。一人は男性でもう一人を羽交い絞めにしている。そのもう一人こそが私の彼女だ。
「あなたが欲しいのはこれだろう? これを持って帰らないと、あなたは組から締め出しをくらう。だから取引をしようと言っているのに」
 羽賀さんの大きな声が辺りに響く。
「うるせぇ。オレはあの軽部ってやつを組に差し出さねぇとメンツが立たねぇんだよ。さっさと軽部を出しやがれ!」
 どうやら先程から私のことで押し問答を続けているようだ。羽賀さんが相手をしている男はさらにこう言う。
「もう少ししたら、ウチの組のやつらもこちらにやってくるんだぞ。そうなる前にさっさと軽部を差し出せ!」
「さぁ、それはどうかな? この件ではもう警察も動いているみたいだからね。この場所も紅竜会の連中が来る前に警察の検問に引っかかっているんじゃないかなぁ」
「そ、そんなことあるわけねぇだろう」
 男の声が震えている。それとは対照的に羽賀さんはどんどん男との距離を縮めていく。
「おい、オレは今からあっちの男の後ろ側に回るから。お前はここで見てるんだぞ」
 竹井警部はそう言うと、事務所棟の方へと回り込んだ。羽賀さんの目線から、どうやらそれが確認できたようだ。
「とにかく穏便にことを済ませましょう。ボクが今から、あなたの取引する予定だったこいつを投げますから。それと同時に彼女を離してくれませんか?」
「同時なんてできるかっ。お、おめぇの方が先にブツをなげてよこしやがれ」
「うぅん、困りましたね。じゃぁ、ボクがこれを真ん中に置きます。そしたらあなたは彼女をそこに置いてこれを取りに来てください。これならいかがですか? いいですね、彼女をそこに置いて、ですよ」
 羽賀さん、最後の言葉はやけに強調して言った。羽賀さんの作戦がわかった。相手がある程度彼女から離れたら、彼女を救い出せということなのだろう。けれど、竹井警部にそれが伝わっているのか?
「いいですね、いきますよ」
 そう言って羽賀さんはリュックから取り出した風呂敷包みを二人の間に投げた。男は彼女から手を離し、ゆっくりとそれに近づく。そして風呂敷に手を出そうとした瞬間!
「今だっ!」
 羽賀さんのその言葉と同時に男に向かって前進する羽賀さん。と同時に今まで男がいた場所の背後からももう一つの影が男に猛突進していく。そして……。
ゴンッ
 鈍い音を立てて二つの物体がぶつかり合った。と同時に間に挟まれそうになった男は間一髪でそれを交わす。
「いたたた……な、なんで竹井警部っ!?」
「いってぇ、おい、羽賀っ、どうしておめぇがぶつかってくるんだよ」
「なんでって、彼女を救い出すのが役目だったはずでしょ」
「馬鹿言うんじゃねぇ。こいつを取り押さえるのがオレの役目だ!」
 渡り廊下の真ん中で口論する羽賀さんと竹井警部。その様子を見て、風呂敷包みを手に慌てて逃げ去ろうとする男。
「待ちやがれっ!」
 男の後を羽賀さん、そして竹井警部が追いかける。私はすかさず彼女のところへと向かった。
「大丈夫? 心配かけたね。もう少しでこの事態も終わるから。もうちょっと待ってて」
 彼女にそう言うと、最後の仕上げに取り掛かった。携帯電話をとりだし、あるところに電話をかけた。
「はい、あとは羽賀さんが例のものを手にすれば終わりです。これで羽賀さんも社会的に抹殺されることになるでしょう」
 電話の相手は私の上司である畑田専務。ここで私は彼女をパトカーまでエスコート。パトカーに同乗していた警察官は、羽賀さんと竹井警部との騒ぎであの男を一緒になって追いかけてくれた。おかげで周りには誰もいない。
「ここまでつきあってくれてありがとう。最後の仕上げをしてくるから、ちょっと待ってて」
 そう言ってポケットに隠し持っていたあるものをとりだし、羽賀さんの自転車に近づく。
「さぁ、これであなたも犯罪者ですよ」
 取り出したブツを羽賀さんの自転車のサドルバッグに入れる。ほんのちょっとした、小さなもの。けれどその中身は大きは破壊力を持つ。
 そのブツとは覚せい剤。私の描いたシナリオはこうだ。あの風呂敷包みの中には、今回羽賀さんの自転車に仕込んだものと同じように細かく分けられた覚せい剤が入っている。その中の一つを羽賀さんが盗んだ、ということにしておくのだ。
 これは結果的に冤罪になってもいい。必要なのは、羽賀というコーチングをやっている男が、一度覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されるという事実なのだから。
 彼女にはこのシナリオを伝えてある。そして今回のもう一つの相手である紅竜会にも。だがそれを知っているのは上層部の人間だけ。一度は本気で私を追いかけてもらわないと困るからな。
 だがシナリオ外だったのは竹井警部という男の存在。あの男がこの場でしゃしゃり出てくるとは。私はどうしても羽賀さんの行動を見ておかなければいけなかった。だから竹井警部単独で行かせたくなかったのだ。
 このあとのシナリオはこうだ。今回の覚せい剤は警察に押収される。しかし事前に流しておいた数と一つ足りない。その一つが羽賀さんの自転車から発見される。当然、参考人として任意同行されるはずだ。このことを新聞社に取り上げてもらおうというのが私の作戦。すでにその記者も手配している。あとはあの男が捕まるのを待つだけなのだが。
 パトカーに戻ると、彼女が待っている。乗り込むと同時にこんなことを言い出してきた。
「ねぇ軽部くん、羽賀さんって人のことを私はよく知らないけれど。本当にこんなことしてもいいのかな?」
「どういうことだい?」
「軽部くんから聞いていた羽賀さんって、四星商事の仕事のじゃまをして軽部くんのことを怪訝に思っているって感じの人だったじゃない。でもさっきまでの会話を聞いて、そんな人じゃないって思ったんだ」
 そうか、私たちが到着するまで羽賀さんはあの男と交渉をして時間を引き延ばしていたんだよな。そこでどんな会話がなされていたのかは知らないけれど。
「羽賀さん、最初は私のことをすごく気づかってくれたの。けれど相手をなるべく刺激しないように、優しい口調で語りかけてくれたし」
「騙されちゃいけない。そのせいで四星商事は仕事を潰されたのだから」
「でも……でもそうは思えないの。それよりも私の中では疑問に思っていたことがあったの。軽部くんの仕事、四星商事には利益をもたらすけれど、買収された相手はどうなんだろうって」
「どうしてそんなことを? そこはちゃんと考えているよ」
「そうは思えないわ。この前潰されたって言ってたホテルの買収。あれだって大幅な人員削減と経営幹部の大幅な交代を予定していたんでしょ?」
「そ、その情報はどこで……?」
「私だって四星商事の社員よ。ちょっと調べればそのくらいのことはわかるわよ。私、軽部くんを尊敬してつきあってきたけれど、畑田専務のやり方に少し疑問が湧いてきたの」
「畑田専務はちゃんと会社のことを考えて……」
「会社のことでしょ。そこに関わる全ての人のことを本当に考えているんだろうかって。でも羽賀さんは違う。私だけじゃなく相手のことも、あの男のことまで気遣っていたわ。おとなしく取引をすれば、あなたも面目が立つだろうからって。けれどあの男、軽部を出せって一点張りだったんだよ」
 おそらくあの男は、上層部から私を連れてこいと命令をされていたんだろう。私と上層部がつながっていることも知らずに。かわいそうなやつだ。
 だからといって今さら計画は変更できない。羽賀さんには悪いけれど、しばらく表立ったことはして欲しくないから。
 このとき、私の携帯がけたたましくなった。あまりにも慌てていたので、電話の相手の名前も見ずに携帯に出てしまった。
「軽部くんか。あの男をようやく捕まえたよ。今どこだい?」
 電話の主は羽賀さん。
「今、パトカーにいます」
「彼女は大丈夫だったかな?」
「はい、無事です。捕まえたんですね。よかった」
 さて、ここからが勝負だ。
 ほどなくして羽賀さんたちがパトカーへ戻ってきた。紅竜会の男は先ほどの勢いとは裏腹に、シュンとした表情を浮かべている。
「さて、これで一件落着。竹井警部、ボクは一旦事務所に戻ってもいいですよね?」
「あぁ、後からちょいと事情聴取しにいくけどよ。ところで……」
 竹井警部が何かを言おうとしたのを遮るように、羽賀さんは竹井警部に近づいた。そこで耳元で何かを伝えたようだ。
「わかったよ。じゃぁ後でな」
「軽部くん、今回は災難だったね。とにかく彼女が無事でよかった。じゃぁボクは先に帰るね」
 そう言ってさっそうとこの場を去っていく羽賀さん。よし、これで全てが完了。あとは警察の動きを待つだけだな。
「えっと、軽部さんとやら。ちょいとあんたから事情聴取をしないといけねぇんだけどよ。悪いがこのまま警察につきあってくれねぇか」
「えっ、私が、ですか?」
「あぁ、なにしろ今回あんたが運んでいたブツがブツだからなぁ。どういういきさつでこうなったのか、ちょいと説明してもらわねぇとな」
「は、はぁ」
 これは計算外だった。まぁこちらがつくったシナリオ通りに喋れば問題無いだろう。そのときはそう考えていた。
 警察に着いて事情聴取が始まった。私はどうして今回、覚せい剤を運ぶことになったのか、その経緯を説明した。
「なるほど、食事をしていたら紅竜会の幹部からちょいとこいつを預かれと、そう押し付けられたんだな。で、お前さんはこれを警察に持って行こうとしたけれど、追われてしまった、と」
「はい。その通りです」
「でもよ、なんでお前さんに押し付けたんだ? こう言っちゃなんだが、天下の四星商事さんと紅竜会が顔なじみってことになるよな?」
「それについてなのですが……」
 ここでどう答えるか。実はそれもすでに考えておいた。私が伝えたシナリオは、以前歓楽街の一部の店を総合レジャー施設にしようとしたときの計画があり、それをすすめるときにどうしてもそのあたりを仕切っている紅竜会にスジを通す必要があった、と。スジを通すといっても、れっきとしたビジネスである。これについては違法性はない。そのときに紅竜会幹部とは顔見知りになっていた、ということだ。
「何もやましいことはありませんよ。私たちはむしろ暴力団を街から追放しようとしたビジネスを行ったのですから」
「まぁそれは警察としてもありがてぇ話だけどよ」
 そのとき、一人の警官が部屋に入ってきて竹井警部に何かを伝えた。
「何っ、数が足りねぇだと?」
 きたっ、私のシナリオ通りだ。竹井警部は私にこんな質問をしてきた。
「軽部さん、つかぬことをうかがうが、あの風呂敷包の中をいじってはいないだろうね?」
「そんなこと、するわけありませんよ」
「わかった。念のため所持品検査をさせてもらうよ」
 後から聞いた話だが、私の彼女も別室で同様の検査を受けていたようだ。もちろん、私たちのところから何かが出てくるなんてことはない。
「となると……ちっ、念のためだ。おい、これから出かけてくるからお二人をお連れしてくれ」
 どうやら私たちはこれで解放されるらしい。このあと、私は新聞記者に連絡をして羽賀さんの事務所へ先回りさせる。私から事件を聴いて取材に来た、というシナリオだ。そのときに警察が来て羽賀さんを調査。そこで覚せい剤が見つかる。これで完璧だ。
「じゃぁ私はこれで」
「おっと、勘違いしてもらっちゃ困る。申し訳ないけど、あんたたちはもう少し別室で待機してもらうよ」
 えっ、どういうことだ? 解放されるんじゃないのか?
 別室で私は指紋をとられることに。これはどういうことなんだ? すると、ほどなくして竹井警部と一緒に羽賀さんが登場した。
「羽賀さん、なんで?」
 私がそう言うと、羽賀さんはボクの目の前に白い粉の入った包を差し出した。例の風呂敷包みから私が抜き取ったひとつだ。
「軽部くん、詰めが甘いね。この包からは君の指紋が検出されたよ。もちろん、ボクの指紋はついていないけどね」
「ど、どういうことですか……」
 体が震えだした。一体何が起きたというのだ? 私の計画がバレていたということなのか?
「彼女がね、話してくれたよ。軽部くん、君が間違っているって。彼女はそう泣きながら話してくれたよ」
「ま、まさか……」
 私は信じられなかった。けれど、彼女とは別室で事情聴取を受けていたのでありえない話ではない。でも、どうして彼女は私を裏切ったのだ?
「軽部くん、信じられないって顔をしているけれど彼女を責めちゃいけないよ。彼女も心苦しかったんだからね」
 羽賀さんがそういうと、扉が開いた。そして登場したのは彼女。
「軽部くん、ごめんなさい。でも、どうしても羽賀さんが軽部くんの言うような人とは思えなかったの。むしろ間違っているのは軽部くんだと思う……」
 泣きながらそう話す彼女に、私は何も言えなかった。
「私の……私の何が間違っているというのだ。私は会社のために、こんなに危険なことを冒してまで働いているというのに……」
「軽部くん、君のその思いは間違っていない。ただ、君は昔のボクと同じ間違いを犯しているのは確かだよ」
「間違い?」
「君はボクが四星商事で、かつてどんなことを行なっていたのかは知っているよね?」
「羽賀さんは……羽賀先輩は私のあこがれでした。数々の企業買収を成功させ、そして四星商事に大きな利益を与えてくれた。若きニューリーダーとして多くの人から注目された。かっこいい存在でした」
「君の目から見るとそうだろうが。では買収された側から見るとどんな存在だったんだろうね?」
「そ、それは……そんなこと、考えたこともありません」
「ボクもそうだったよ。けれどそれが間違いだってことに気づいたんだ。あのころは会社の利益のために。それが正義だと思っていた。けれど、ボクのせいで人が死に、そして不幸になった人がたくさんいたのだと思うと……」
 羽賀さんの目は潤んでいた。あのミノル光学の社長の自殺の件から羽賀さんは変わってしまったことはよく知っている。私が尊敬していた羽賀さんではなくなった。
 だが、私にはまだ今の羽賀さんの気持ちがよく理解できない。どうしてダメなんだ。畑田専務が間違っているというのか?
「軽部くん、目を覚ましてよ。私、みんなの幸せのために働いて欲しいの」
「みんなの幸せってなんなんだよ。私がやっている事業、それこそがみんなの幸せになるんじゃないのか? テイスト・ジョイタウンの事業も、沢山の人が安くて美味しい料理を食べられるようにする仕組みを作るからこそ、幸せになれるんじゃないか。シーザスグループの買収も、より高い品質のホテルサービスを安い料金で受けられるから、沢山の人が幸せを感じられるんじゃないのか。私のやっていることの、どこが間違っているんだ!」
「その裏で不幸になる人がいたとしても、かな? 軽部くん、君が目指している方向性、それは間違っていないと思う。だから思いは正しいんだよ。けれどその方法、やり方、それが正しいとはボクは思えない」
「じゃぁ、どんなやり方が良いっていうんですか。このやり方を考えたのは羽賀さん、あなたでしょう!」
「そう、全てはボクの責任でもある。だからこそ、ボクはみんながどうやったら幸せになれるのか。ボクなりに考えて行動をしている。まだまだ微力ではあるけれど。けれど今はそれで突っ走るしかないんだよ」
「ふん、たかが一人の力で何ができるっていうんですか」
「一人じゃ何もできないよ。だから仲間がいる。同じ志を持った仲間がね。ありがたいことに、ボクには師匠の桜島さん、同僚の唐沢、そしてファシリテーターの堀さん。さらにはアシスタントのミク、花屋の舞衣さんとお父さんのヒロシさん。ここにいる竹井警部もそうだ。こういった仲間がいる。そして軽部くん、君もね」
「私が? 何を言っているんですか。私はあなたを陥れようとした人物ですよ。むしろ敵じゃないですか」
「敵じゃないよ。志は同じだ。みんなの幸せのために仕事をしている。これで十分仲間といえるよ。その方法は異なるけれど、目的が同じなら仲間と呼んでいいとボクは思っているよ」
 このとき、心の中で何かが動いた。今までにない何かが。
 仲間。今までそんなこと考えたこともなかった。縦社会の組織の中で、私は上から言われた命令を実直にこなしていく。このことしか考えていなかった。気がつけばいつも一人で動いていた。頼るべきは畑田専務だけだった。だが畑田専務は仲間ではなくあくまでも上司。ボクには心を許せる人がいない。
「竹井警部、今回の覚せい剤の件。包はちゃんと数が揃っていた。そういうことでよろしくお願いします」
「ったく、おめぇの甘さには参るぜ。羽賀ぁ、お前を陥れようとしたこいつを許すってのか?」
「許すも何も、そういうことは起きていなかったんですから。ね、それでいいでしょ」
「まぁ、ちゃんと数が揃ってりゃ、こっちも大きな問題にはしねぇけどよ。ったく、お前から仲間扱いされたんだから、そのくらいしねぇといけねぇってことかよ」
「この御礼はまたちゃんとしますから。じゃぁ決まり! あとの処理はよろしくお願いします」
 こうして私と彼女は警察から解放された。だが心の奥には何かがくすぶっている。私はこれからどう生きていけばいいのだろうか。
「軽部くん、私思うの。一度、羽賀さんにこれからのことを相談してみれば?」
「相談って……今さらどんな顔をして会いに行けばいいんだよ」
「大丈夫よ、だって羽賀さん、軽部くんのことを仲間って言ってくれたでしょ」
 仲間、か。その響き、悪くないな。でも、その行為は畑田専務を裏切ることになる。さすがに簡単にはいかない。
「相談の件は考えておくよ。それよりお腹空いたな。かなり遅い時間だけど」
「じゃぁ、ラーメン食べに行こうか。軽部くん、いつも美味しいところに連れて行ってくれてるけど、たまにはそういう庶民的な味もいいでしょ」
「あぁ、わかった。そうしよう」
 と、突然携帯電話が鳴り響く。
「はい、もしもし……は、畑田専務!」
「軽部、お前どうやら失敗したらしいな。この責任はどう取るつもりだ。紅竜会に面目が立たないじゃないかっ!」
 この畑田専務の一言で私の心はさらに大きく変化した。いや私にあることを決意させた。その決意が今後の人生を大きく変えることになるのはわかってる。けれどそれは正しいこと。そう信じてこの言葉を発した。
「わかりました。責任をとって会社を辞めさせて頂きます」
 その言葉を発して、すがすがしい気持ちになれた。私の表情は、いつになく笑顔だったと彼女はそのあと話してくれた。

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