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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第七章 日本を動かすもの その6

『リンケージ・セキュリティ新社長、飯島夏樹氏就任』
 あの出来事からわずか一ヶ月後。私はリンケージ・セキュリティの新社長として株主総会の同意を得て就任に至った。さらに佐伯孝蔵は引退という形を取った。すでに死亡していることはごくわずかの関係者しか知らない。その関係者も、人工知能の佐伯孝蔵を作成したスタッフのみで、経営幹部は誰一人その事実を知らない。
 慌てたのは政界のお偉方。特に相志党の幹部は大急ぎで私のところに挨拶に来る始末だ。まだ三十代という若い私に対して、ペコペコとおじぎをする姿は見ていて滑稽でもある。
 だが私は政界のお偉方に君臨したという存在になろうとは思わない。私は私なりに日本をもっとよりよい方向へと導いていく。それを裏で支える人間になる。そのことを心に誓った。
 私の心をそう変えたのは、羽賀コーチのおかげである。あの日、あのあと私と羽賀コーチはこんな会話をしていた。
「私は間違ったことをしていなかったのか?」
「それは飯島さん、あなた自身が決めてください。そしてこれからどのように生きていくのか、それもあなた自身が決めてください。もうあなたを縛るものは何一つないのですから」
 私を縛るものは何一つない。裏を返せば私は今まで縛られて生きてきたのか。この人工知能の佐伯孝蔵という存在に。
 これは人間ではない。ただの機械だ。いくら高性能にできた、人格に近いものを持っていた存在だとしても、結局はただのコンピュータにすぎない。私は今までどうしてこんなものの存在に縛られていたのだろう。
 まるで魔法から覚めたような感覚だ。そして、これからは自分の意志で生きていく。そのことが心の奥から実感できはじめた。
 と同時に、また新たに一つの感情が湧いてきた。
「羽賀さん、私はこの先リンケージ・セキュリティという会社を背負わなければいけないのでしょうか?」
 私に湧いてきた感情。それは「不安」である。今までは佐伯孝蔵という後ろ盾があったからこそ、容赦ない判断もできていたのだが。それがなくなるとなると、私の判断が本当に正しいのか、そこに不安が生じてきた。
「飯島さん、あなたは今までいろいろな判断を下してきましたよね。そしてその答え合わせとして、人工知能の佐伯孝蔵の出した答えと照らしあわせてきた。そしてそれは今まで一回も間違ったことはなかった。そうですよね?」
「はい、その通りです。でも………」
「でも?」
「今後、私の判断が必ずしも正解とは限らない。むしろ間違っていることが多くなるかもしれない。そう考えると不安になって………」
「ではお聞きします。今まで下した判断。これは本当に正解だったのでしょうか?」
 羽賀コーチにそう言われて、今までの判断を振り返ってみた。そして羽賀コーチが言わんとしていることの意味もすぐにわかった。あの航空機事故の判断。そして坂口、石塚、大磯の処分を決定したこと。これが正解なのかと問われているのだ。
「あのときはそれが正解だと思っていました。そうしなければ、リンケージ・セキュリティを、そして日本という国を………」
 本当にそうなのだろうか。もっと他の方法はなかったのだろうか。全ては自分の身を守るためのものでしかなかったのではないだろうか。考えれば考えるほど、今までの判断に対しての不安が襲ってくる。
「飯島さん、何が正解なのかは誰が決めるんでしょうね?」
「誰が?」
「そう、誰が、です」
 今までは佐伯孝蔵が決める。そう考えていた。しかし世の中のすべてのことを佐伯孝蔵が決めるわけではない。それを決めるのは民衆の意見。しかし民衆の意見がすべて正しい訳でもないし、そもそも考え方はみんなバラバラ。
 考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「正解を誰が決めるか、なんてそれこそ誰にも決められないんじゃないですか」
 思わず口にした言葉がこれである。さらにこんな言葉を思いついた。
「それがわかっているのは神様くらいでしょう。でも神様って本当にいるんでしょうかね?」
 何を馬鹿げたことを。そんな思いを持ちながらそんな言葉を吐いた。だが羽賀コーチは意外な反応を示した。
「神様か。神ってどこにいるか知っていますか?」
「えっ、どこにいるかって? そんなの、私たちの想像の産物でしかありませんよ」
「実はそうではありません。飯島さん、神社にある神様の御神体ってなんだか知っていますか?」
 神社なんかお参りしないから、そんなのを気にしたことはない。だがこの問いには蒼樹が答えた。
「鏡、ですよね」
「そう、かがみです」
 そう言って羽賀コーチは紙にひらがなで「かがみ」と書いた。
「この真中の『が』とはどういう意味だかわかりますか?」
「『が』の意味、ですか………いえ、わかりません」
 すると羽賀コーチは「我」という字を書いた。
「かがみから『我』、『が』を抜くと………」
「かみ………」
「そうです。神とは鏡に写った自分から自我というものを抜いたところにある。自我とは私たちの顕在意識のことです。その顕在意識の奥にあるものはなんだかご存知ですか?」
「顕在意識と対象的に使われるのは潜在意識じゃないか。心理学ではそう言われているはずだが」
「その通りです。つまり神と呼んでいるものの正体。これは私たちの中にある潜在意識であるとも言えます。つまり、神は私達が気づかない、私達の中にいるんですよ」
 そんな非論理的なことを。とも思ったが妙に納得してしまった。神は自分の中にいる。ということは、全ての正解を知っているのは自分である、ということなのか。
 そのことを羽賀コーチに伝えてみた。
「飯島さん、ボクもそう思います。自分に起こるすべての出来事の正解は自分しか知らない。そして自分がその正解を創りだす。他の誰かに委ねるものではありません。答えはすべて自分の中にあるのですよ」
「答えはすべて自分の中にある………じゃぁ、今まで私がやってきたことは間違いだというのか?」
「いえ、そうではありません。今までの飯島さんは、正解を佐伯孝蔵の答えと同じにするという正解の出し方をしていただけです。そのやり方も飯島さんにとっては正解。今度はこれからの自分の正解の出し方を変えてみればいい。たったそれだけのことですよ」
「たったそれだけ………」
 神は自分の中にいる。そしてものごとの正解は自分が判断を行う。たったそれだけのことなのに、それが自分にスゥーッと落とし込めた感じがした。
「じゃぁ、これからは私が判断したことに対しては自信を持って行動に起こせばいい、ということなのか?」
「もちろん、ボクはそう思います。飯島さんはどう思いますか?」
 少し考えた。が、結論は同じ。
「あぁ、私もそう思う」
「ではこれから先、どのような行動を起こすのですか?」
「そうだな。実質リンケージ・セキュリティは私の判断で動かしていたようなものだからな。今後は佐伯孝蔵の後継者として私がすべてを取り仕切る」
「つまり社長になる、ということですね」
「あぁ、そうだ。ただし株主総会で同意を得られなければそれは無理なんだが」
「そうですね。佐伯孝蔵はどうしたってことになりますからね」
「だったら、佐伯様にそう言ってもらえばいいんだ。佐伯様の言葉は絶対という風潮がこの会社にはあるからな。株主といっても、その大半は佐伯様が握っているわけだし」
「でも、その人工知能の佐伯孝蔵はあんな姿に………」
 蒼樹が指さしたのは、私が先ほど蹴り上げて破壊された人工知能端末の佐伯孝蔵である。
「ははは、大丈夫ですよ。本体は私たちの会社のサーバーにありますから。あれは単なる端末でしかありません。あんなのはすぐにでも修復できる」
 なんだか気持ちが軽くなった。今まで私は何に縛り付けられていたのだろう。これからはすべて自分の意志で生きていく。そう、これからが本当の飯島夏樹の生きる道である。
 そのことが心の奥から実感できた。

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