コーチ物語・クライアントファイル7 愛する人へ その1
ふぅ、ったくわかりづれぇところに事務所を出したもんだな。それにしてもこんなチンケなビルの二階とはな。昔のあいつだったら、高層ビルのおしゃれなところか、街の真ん中に出すところだろうけど。あいつも変わったなぁ。
なるほど、一階が花屋か。薄汚れたビルでもちっとは華やかに見えるな。
「えっと、ここに二階、二階……あ、ここか」
二階の扉には何の看板も掲げられていない。ホントにあいつ、仕事やってるのかな?
「おい、羽賀ぁ、いるか。おーい」
ドンドンと扉を叩いてみるが、何の反応もない。まぁ仕方ないか。何のアポも取らずに来ちまったんだからな。
「しゃぁないな」
諦めて階段を降りる。するとさっきの花屋の店前にかわいい女の子が。その女の子がオレに向かってペコリとお辞儀をした。さらに彼女は話しかけてくるじゃないか。
「あの……羽賀さんに御用ですか?」
「あぁ、羽賀の昔の知り合いでな。ちょいと寄ってみたんだが。羽賀は今日はいないのかな?」
「羽賀さん、今日は研修の仕事があるからって隣の市まで行っているんですよ。夕方まで帰ってこないかな」
「そっか、じゃぁまた出なおすかな。とはいっても、今日は暇だからどっかで時間を潰さないとなぁ……」
言いながらチラッとその女性の方を見る。実はここで裏心満載。ここから彼女をお茶にでも誘おうか、という魂胆だ。だがそれを表に出しすぎてはいけない。向こうからそう思わせるのがコツだ。
「せっかくおいでになったのに……あ、もう少ししたらミクが来るはずだから」
「ミク?」
「えぇ、羽賀さんのところでアルバイトをしている女の子なんです。それまでよかったらこちらでお茶でもいかがですか? 私も今は一人で寂しかったところですから」
なんと、むこうからお茶を誘ってくるとは。しかもそのセリフ。夜に聞いたらオレはオオカミに変わっちまうぞ。
「じゃぁ、奥のテーブルに座っていてください」
オレは花屋の奥のテーブルに座って待つことにした。さて、この娘にどんなアプローチをしようか……と考えていたところで、急に表が騒がしくなった。
「あーあつい暑い。舞衣さ〜ん、いる??」
「あ、ミク。ちょうどよかった。羽賀さんのところのお客様がいらしているの。よかったらこっちに来てくれる?」
奥の部屋でお茶の準備をしている舞衣さんと呼ばれた女性がそう返事をする。そしてお店の奥に入ってきたのは、ショートパンツでタンクトップの活発そうな少女。これが羽賀のところでアルバイトをしているミクか。なんか羽賀の趣味、変わったかな?
「あ、こんにちはー。私ミクって言います。羽賀さんのところでアルバイトをさせてもらっています。よろしくー」
なんか軽そうなヤツだな。
「あ、オレは羽賀の元同僚で今はコンサルタントをやっている唐沢三郎ってんだ。よろしくな」
「羽賀さんの元同僚って、もしかしたら四星商事時代の?」
舞衣さんがお茶を運びながらオレにそう尋ねてきた。
「あぁ、あいつとは四星商事の営業で一緒だったんだ。あいつは優秀なセールスマンでね。それが今じゃこんなビルの二階で事務所を構えているなんて。人って変われば変わるもんだなぁ」
「こんなビルですいません」
舞衣さん、ちょっとムッとした表情でお茶を置きながらそう言った。
「このビル、舞衣さんのお父さんのビルなんですよ」
ミクってのがオレに小声でそっとそう教えてくれた。あちゃ、やべっ!
「いやいや、こんなってのはほめことばですよ。こんなにステキなって言うところをちょっと省略しただけですから。あ、お茶をいただきますね」
「まったく、調子のいい人なんですねっ」
舞衣さん、ちょっと拗ねた感じ。オレも慌てて出た言葉が自分でもフォローになっていないなと思いながらもお茶をすする。
「んっ、うまっ! こ、こいつは……」
そのお茶に口をつけた瞬間、オレは意識を奪われた。オレも少しは贅沢をしてきたこともあるから、お茶の味はわかる。このお茶、今まで飲んだ中では最高クラス味だ。
「これって玉露か何か?」
「いえ、スーパーで買ってきたお茶ですけど」
舞衣さん、まだ拗ながらもまんざらではないといった表情を見せている。
「舞衣さんの入れたお茶って、どうしてこんなに美味しいかな。私も頑張って修行しているけれど、どうしても追いつかないのよねー」
ミクも感心しながらお茶をすすりはじめた。いやいや、このお茶が飲めるなら、オレもこのビルに引っ越してきたいくらいだ。
「ところで唐沢さん、羽賀さんと元同僚ってことだけど、羽賀さんは昔はどんなお仕事していたんですか?」
「えっ、羽賀からは何も聞いていないの?」
舞衣さんもミクも首を縦に振る。あいつ、自分の昔のことはしゃべらないんだな。
「ってことは、あいつがバツイチだって話も聞いていない……のかな?」
オレのこの言葉には二人とも目を丸くして驚いた。
「えっ、羽賀さんって結婚してたことあるの?」
「うそっ、信じられない……あ、でも吉田さんから不思議な話を聞いたのよね。この前娘さんのお墓参り用のお花を買ってきた紳士が羽賀さんと店先で顔を合わせた時、羽賀さんの口からおとうさんっていう言葉が出たらしいのよ」
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