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コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その4

「おはようござます…」
 私はおそるおそる羽賀さんの事務所のドアを開けた。
「おぉ、まっとったぞ。こっちこっち」
 事務所には昨日であった桜島さんの姿。そして奥には羽賀さん。
「あ、誠子さん、おはよう。結構早かったね」
「ごめんなさい。早すぎましたか…」
 私は反射的に謝ってしまった。いつもそうだ。何をしても二言目には「ごめんなさい」と言ってしまう。このクセは精神科のお医者さんにも指摘された。
「青田さん、いつもそんな性格だからダメなんですよ。まずそのすぐに謝ってしまうクセを直しなさい。いつも自分を卑下してしまうから、あなたの心はいつまでたっても上を向かないのです」
 医者からはいつもそう言われていた。言われたそばからすぐに「ごめんなさい」とつい口から出てしまう。その繰り返しで医者からもいい加減見放されてしまったのだ。
 そんな考えが頭のなかを通り過ぎた。ほんの一瞬の出来事。でも自己嫌悪に陥るには十分すぎる時間だった。
「お、羽賀よ。おまえさん謝られちまったぞ。まったく、ふがいない弟子じゃな。人を謝らせるようなことをやってしまうんじゃ、おまえさんもまだまだ未熟じゃな」
「桜島さん、それはないでしょう」
 そう言いながらも、二人はずっと笑顔。そして大きく笑い出したのだ。その笑い声につられて、私は自己嫌悪に陥る一歩手前で気持ちを引き上げられた気になった。そして気がつくと、訳もわからず私も笑い出していた。
「ははは…、誠子さんよ、さっきも言ったとおりな、人が自分に謝ってくるということは、自分が相手を謝らせるようなことをやってしまったということじゃ。すなわち、相手を不幸な気持ちにさせてしまったんじゃ。じゃから、謝るよりも謝らせた方が悪い。常に相手を幸せにしたいのであれば、まずは相手に『ごめんなさい』を言わせるよりも『ありがとう』を言わせるように気をつけること。これが毎日を楽しく生きるコツの一つじゃよ」
「はいはい、もう耳にタコができるくらいそのセリフは聞き飽きましたよ。今日もありがたい言葉をいただき、ありがとうございます」
 羽賀さんは嫌みを言っているような口調ではあったが、実のところ桜島さんを尊敬して、親しみを込めてそう言っているのが私にも伝わってきた。
 そうか、ありがとうを言わせるように、か。
「ところで誠子さん、ボクはこれからちょっと研修の打ち合わせに出かけなきゃいけないんだ。このあとのことは桜島さんにお願いしているから。夕方には戻ってくるから、そのときにまたいろいろとお話ししましょう。時間は大丈夫かな?」
「あ、はい。今日はなにも予定が入っていませんから」
「じゃ、桜島さん。よろしく頼みましたよ」
「うむ、安心して行ってこい!」
「桜島さんにそう言われると、余計に心配だなぁ〜。じゃ、行ってきます」
 羽賀さんはジャケットにパンツ、そして自転車用のヘルメットにリュックという一見するとアンバランスの格好。だが、なぜか羽賀さんがそんな格好をすると妙に決まっているから不思議。
 自転車で颯爽と走り去る羽賀さんを私は二階の窓から見送った。
「さて、誠子さん」
「あ、はい」
「おいしいお茶の入れ方って知っておるか?」
「おいしいお茶の入れ方、ですか? いえ、そう言われると自信がないのですが…」
「うむ。おいしいお茶というのは、人の心を和ませるものじゃ。よし、ワシがひとつ入れてあげるからそばで見ておくとよい」
 そう言うと、桜島さんは立ち上がって奥のカーテンが掛かっている方へ移動した。カーテンを開けると、小さな流しと一口しかないコンロ。その上にはやかんが。
「まずはお茶っ葉を確認すること。高級茶ほど低温で入れねばいかんからな。さてとこいつのところは…」
 桜島さんは戸棚を開けてお茶の葉を確認。
「なんじゃ、羽賀のヤツけちっとるな。どう見てもスーパーの特売品じゃ。まぁよい、この方が入れ方でお茶の味が変わることを証明できるからな。次は水じゃ」
 そう言うと、桜島さんは冷蔵庫を開けて確認。
「うむ、さすがに水には気を遣っておるようじゃな」
 確かに、冷蔵庫を覗くとミネラルウォーターのボトルがたくさん並んでいた。
「じゃぁ、これを使えばいいのですね」
 私はその中の一本を取り出そうとした。が、桜島さんはそれを制止してこう言った。
「残念じゃが、ここの水ではおいしいお茶を入れることはできん」
「え、ミネラルウォーターじゃダメなんですか?」
「ミネラルウォーターなら何でもよいというわけではないのじゃよ。よし、買い物に出かけるか。誠子さん、つきあってくれるよな」
 断る理由もないし、羽賀さんから桜島さんをよろしくと言われているので、私は近くのスーパーまで桜島さんを案内することになった。歩きながら桜島さんは私にこんな話しをしてくれた。
「誠子さん、お茶で命を救われたという話しを聞きたくはないか?」
「え、お茶で、ですか?」
 一体どんな話しなのだろうか?とても興味がある。そのことを桜島さんに伝えたところ
「うむ、じゃぁ話しをしよう。これはワシが若い頃、独立してまもなくの話しじゃ。独立、といってもワシはどこかの会社で働いたことはないからな。まだ世の中がようやく復興して、高度経済成長期に入る頃の話しじゃ。ワシは小さな事業を興した。何のことはない、ちょっとした販売業じゃ。じゃがそれで結構儲けてな。二十代にして他の誰よりも裕福な生活をしておったわ。じゃが、それもつかの間。あまりにも羽振りがよくて目立ちすぎたのがあだになってな。周りからやっかみの声も聞こえてきたわい。そうしていくうちに、ワシの事業と同じことを、大資本をもった企業が参入してきてな。それであっという間にワシの事業はつぶされたわい」
 このとき、私たちはスーパーの前まで来ていた。ここで話しを中断してしまうのはもったいない。そう思って私はこんな提案をした。
「桜島さん、その話しをもっとゆっくり聞きたいのですけど」
「おぉ、そうじゃな。立ち話も何だからそこの喫茶店に入ろう」
 ちょうどスーパーの目の前に喫茶店。私は桜島さんの提案にのり、喫茶店へ入ることにした。
「コーヒーをもらおう。誠子さんは?」
「私もコーヒーで」
 水を持ってきたウエイトレスにすぐに注文すると、桜島さんは話しの続きを始めてくれた。
「さて、続きじゃな。結局ワシの事業は大手につぶされてな。あっという間に無一文になってしまったわ。そのとき信頼していた友人も、お金がなくなるとワシの元から去っていきおってな。何を信頼すればよいのか、ワシは訳がわからなくなったのじゃ。そして気がついたら、ワシは死ぬことしか考えられんようになった。もう生きていてもつまらない、それどころか借金取りまでワシのところへ来て、毎日が地獄じゃったからな。気がついたら、どんな死に方が一番楽なのか、それしか考えられんようになったわ。どうせ死ぬならワシらしく死にたいと思ってな」
 そう言っていた桜島さんの目は、ちょっと遠いところを見つめていた。
「それからどうしたのですか?」
「おぉ、ワシの死に場所を探して少し放浪してな。金はなかったから、無賃乗車もさんざんやったわ。今でこそ時効じゃから言える話しではあるがの。
 そしてたどり着いたのが、ある海岸。そこでワシは飛び降り自殺をしようかと考えたんじゃ。汽車の窓から見えた景色でそれをひらめいてな。じゃが、そのひらめきがワシの命を救ってくれたのかもしれん」
 私はこの時点で、桜島さんの話にのめり込んでいた。私も何度も自殺をしようとして、結局その勇気もなくて今に至っている。
 桜島さんがどうやってその渕から戻ってきたのか、そこに私が生きるヒントがあるような気がしていた。
「汽車を降りて、ワシは窓から見たあの海岸の崖を目指して歩き始めた。ちなみにその時もうまく隠れて無賃乗車に成功したがな。
 そして崖に向かう途中、一人のばあさんと出会った。そのばあさんがなぜかワシに声をかけてきてな。『そこのお若いの、よかったらウチで茶でも飲んでいかんかな』そう言うんじゃよ」
 あ、ここでおばあさんに説得されて自殺をするのをやめたんだ。そう思ったが、その後に続く桜島さんの言葉は私の予想を裏切った。
「じゃが、ワシはそんな気は全くなくばあさんの言葉を無視して先を急いだんじゃ。そう、ばあさんの言葉を無視してな」

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