コーチ物語 クライアント22「悪魔の囁き」その8
今がチャンス。今度は私の中の天使がそう囁いた。一体何のチャンスなのか? それは斉木に悪魔の囁きの話をすること。それに今なら三村くんもいるし。ここは思い切って話をしよう。
「だけどなぁ」
一瞬、私の中の悪魔が囁いた。その囁きはこうだった。
「だけどなぁ、こんなことで時間を費やしたら、また社員から文句が出てくるぞ。別に今じゃなくていいだろう」
「今よ、今しかないんだから」
今度は天使が私に囁きはじめた。よし、ここは思い切って……
「なぁ、もう少し話したいことがあるんだが、時間をもらってもいいかな?」
「うぅん、ちょっと遅れている看板製作が終わってからじゃダメっすか?」
斉木はそう言うと思っていた。あいつは制作作業になるとピカイチの腕を持っているから、それを優先しようとするからな。
「そんなに時間は取らせないよ。できれば今話しておきたいことなんだが」
「まぁ、社長がそう言うなら……」
そう言って斉木は浮かしかけた腰を再びソファに座らせた。
「ありがとう。実はな、今回のPTA会長を引き受けるときにすごく悩んだんだ。そうやって声をかけられたことは嬉しいのだけれど、それによって会社の仕事が滞ってしまうんじゃないかって。そのとき、自分の中の悪魔が誘惑の言葉をすごく囁いていたんだよ」
「悪魔、ですか?」
突然悪魔なんて言ったものだから、きょとんとする二人。だが私は構わずに話を続けた。
「だけどなぁ、それを引き受けたら忙しくなるだろうって。でもこれは自分に対しての言い訳でしかないんだよな」
「あ、それわかります。自分も何かやろうと思った時に、でもなぁって思ってついやめてしまうことありますから」
三村くんが私の言葉に賛同してくれた。斉木は黙って聞いている。
「以前、ある人の講演でこの悪魔の囁きの話を聴いて。悪魔は私達にたった一語だけ囁く。それは『だけどなぁ』という言葉だって。それで私たちの行動を邪魔するらしいんだよ」
「なるほど、だから悪魔なのか」
三村くんは私の言葉がよく理解できているようだ。だが斉木は無反応。とにかく話を続けた。
「そのことを実は今日、羽賀さんに相談してきたんだ。その悪魔をどうやったら追い払えるかって。で、羽賀さんと話していて気づいたんだよ」
「どんなことにですか?」
「自分の中の悪魔、それは自分が創り出しているものだって。だったらそれを追い払えるのも自分しかいない。だから、思ったことを言い訳せずにとにかくやってみよう。そう思ったんだ」
「だからPTA会長も引き受けてみる、ということなんですね」
「それだけじゃない。実はたった今もその葛藤があったんだよ。この話を今するべきか、それとも後にするべきか。でも、自分の思いは今するべきだと。悪魔の囁きにとにかく勝とう。そう思って今時間を作ってもらったんだ」
このとき、斉木がパッと顔をあげた。
「わかってるんです。わかっているんです。オレがいつも自分の言い訳ばかりをして、物事を人のせいにして。わかっているんです」
その声は震えいていた。
「斉木、別にお前のせいにしようとか、そういう話じゃないんだから……」
「いえ、そうじゃないんです。今までオレもその悪魔の囁きをいつも耳にしていました。気になりながらも、オレはその囁きに負けていたんです。それはなんとなくわかっていたんっすけど、今社長の話ではっきりわかりました」
「わかったって……?」
「もっと自分の仕事に責任をもって取り組まないといけない。いつまでも社長や三村くんにおんぶにだっこじゃダメだって。今の言葉であらためてわかりました。社長、ありがとうございます」
「斉木……こっちこそありがとう。そう言ってもらえると私ももっとがんばらないといけない、そう思えるよ」
「社長、オレも斉木さんと同じ思いです。もっといろんなことを覚えて、社長がいなくてもこの会社を回せるようにして行きたいと思います。これからもご指導をお願いします」
気持がひとつになった。そう思えた瞬間だった。そのとき、三人の気持ちの中から悪魔が消えていくのを感じ取れた。そして代わりに降りてきたもの、それは満面の微笑みに満ちた天使の姿であった。
「よし、これからはお互いにお互いの中の悪魔を消し合いながら仕事を進めていこう。さぁ、遅れている看板製作の仕事、みんなで取り組むぞ!」
「はいっ」
たった十分間くらいのことだった。しかしこの十分間は今までの仕事人生の中で一番大事で、一番充実した時間であったことは間違いない。
この先、私達の中には様々な悪魔が降ってくるに違いない。しかし、もう一人じゃない。みんなで力を合わせれば、その悪魔はすぐに追い出すことはできるはずだ。そのことを力強く感じることができた。
その後、私達がどうなったのか。
まず私はPTA会長を引き受け、PTA役員にもこの悪魔の囁きの話をして、みんなで力を合わせていこうという意志を固めた。おかげで役員のみんなもやる気十分だ。
会社は今まで私がやっていた仕事の段取りやお客さんとの交渉を三村くんにお願いすることになり。さらに現場は斉木を中心に回すように体制を整え、さらに新人を一人入れることになった。斉木にはその指導もお願いすることにした。
新人指導の方法は羽賀さんに仕事として依頼をした。斉木は今まで人を使って仕事をしたという経験がないので、羽賀さんの指導は大いに役立った。今では新人にこんなことを言うように。
「まずはな、自分の中の悪魔。これを追い出さなやいけねぇんだよ。だけどなぁって思ったらそいつは悪魔の囁きだからな」
斉木も言うようになったなぁ。新人の若者は素直にハイっと言いながら斉木の言葉に耳を傾ける。どうやらいいコンビになりそうだ。
「羽賀さん、おかげでいい体制をつくることができました。ありがとうございます」
「いえいえ、これも吉武さんが自分の中の悪魔に打ち勝った成果ですよ。人は何かを始めるときには不安を感じます。しかしその不安って、行動してみればなんてことはないものばかりですからね」
確かに羽賀さんの言われるとおりだ。まずは自分がやることを意識してみる。そして一歩を踏み出してみる。
「だけどなぁ」
もうその声には乗らないぞ。これからは「今やろう」を合言葉に気持ちを引き締めて仕事を進めていくことにしよう。
悪魔よさらば、天使よいらっしゃい。それを強く感じる春の日の出来事だった。
<クライアント22 完>
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