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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第2章 忍び寄る影 その1

「じゃぁ行ってきます」
 そう言って夫の一樹はいつものように会社に出かけた。私はやっとつかまり立ちを始めた一歳になろうかという息子の優馬を打き抱えて、玄関先で彼を見送った。それが彼を見た最後だった。
 その日の夕方、警察から電話があった。
「石塚一樹さんの奥さんでしょうか。まことに伝えにくいことなのですが……」
 それは夫の死を伝えるものだった。
 夫は営業で車の運転中に事故に巻き込まれたということ。高速道路を走っていたら、突然前の車がパンクをしたらしく、コントロールを失ったらしい。すぐ後を走っていた夫の車が、その車を避けきれずに衝突。夫は還らぬ人となった。
 それから一週間は泣いて暮らした。両親や友達は私を慰めてくれたけれど、本当に突然の出来事だったので気持ちが未だに落ち着かない。
 夫の初七日が過ぎてから、そろそろこの先をどうしようか考えなければいけないと思い始めた。結婚してからはずっと専業主婦。特に資格を持っているわけでもないし。働くにも、まだ小さな子どもがいるし。
 幸い、私の両親が近くにいるので子どもの面倒は見てもらうことができる。けれど、両親もまだ働いている身なので、フルに面倒を見てもらうわけにはいかない。まだ二十代半ばの私だけれど、どんな仕事ができるんだろう。
 そんなことを同級生で花屋をやっている舞衣にふと話した。舞衣は若いのにお店をきりもりして、とても頼りになる。そもそも、舞衣にこんな話をしに言ったわけじゃないのに。夫の仏壇に添えるお花を買いに行ったときに、たまたま長話になってついそんなことを話してしまった。
「そっか、紗織もこれからどうするか、大変だね。でも、働きに出るにしてもなかなか難しそうだね」
「そうなの。舞衣、どこかいいところないかな?」
「うぅん、私も注意をしておくけど……」
 このとき、舞衣の視線が店の外に向いたことに気づいた。お客さんかな?
「あ、羽賀さん。いいところにいた」
 舞衣が視線を向けた先にいたのは、背の高いメガネをかけた男性だった。
「ただいまー。お友達ですか?」
 羽賀さんと呼ばれたその男性。笑顔がとてもすてきで、爽やかさがある。
「うん、この前話したじゃない。高校の時の同級生で先日旦那さんを事故で亡くした」
「あ、あの人か。こんにちは、はじめまして。ここの二階に事務所を持っている羽賀といいます」
「羽賀さん、ちょっと紗織の相談にのってあげられないかな?」
「ん、どういう相談だい?」
 羽賀さんって何をしている人なんだろう? そう思いつつも、私は今の現状を羽賀さんに話してみた。
「なるほど。今はそういう状況なんですね。一つ質問してもいいですか?」
「はい」
「紗織さんは昔から何かやりたいこと、やろうとしていたこととかありましたか?」
「昔から、ですか?」
「えぇ。分かりやすく言えば、子どもの頃になりたかった職業とか」
「子どもの頃ですか……まぁ、舞衣がやっているお花屋さんとか憧れたことはありましたけど。あ、生花は師範の免許まで持っているんですよ。まぁこれは母親からさせられたってところもあるんですけど」
「生花ですか。今はそれは?」
「子どもができてからはちょっと遠ざかっていますけど。夫の実家では生けていましたよ」
「あ、だったらお願いしたいことがあるんだけど」
 舞衣が突然横から口を挟んできた。
「お願いって、何?」
「ウチはフラワーアレンジメントは得意なんだけど、ちゃんとした生花となると自己流だったんだよね。死んだお母さんは生花の師範の免許を持っていたけど、私は持っていないのよ。お母さんから教えてもらっただけだから、ちょっと自信がなくて。それ、紗織にお願いできないかな」
 なんてラッキーなことだろう。私も生花に対してはちょっと自信がある。そのくらいだったらできそうだし、それに舞衣からの仕事だったら安心もできるし。
「それ、いいですね。それが評判になればちゃんとした仕事にもなりますよ。ボクの死んだおばあちゃんも生花の仕事をしていたんですよ。それと生花教室も開いていましたよ」
 そっか、それならパートとか出るよりもなんとかできそうだし。最初は大きな稼ぎにはならないだろうけど、しばらくは夫の一樹の保険金でなんとか生活もできそうだから。
「ありがとうございます。いい仕事ができそうです。ところで、こんなことを今さら聞くのもなんなのですが。羽賀さんってどんなお仕事をされているんですか?」
「ボクですか。ボクはコーチングという技術を使って人のやる気を出したり、いろんなことを気づかせたり。またその技術の指導を行ったりという仕事をしています」
 コーチング、どこかで聞いたことがある。あ、思い出した。
「そういえば、死んだ夫がコーチングがどうのこうのと言っていた記憶があります。なんか、会社で取り入れるとかいう話でしたけど」
「へぇ、ちなみに亡くなった旦那さんってどこにお勤めだったのですか?」
「はい、信和商事というところで営業の仕事をしていました」
 このとき、羽賀さんの顔が一瞬キツイものになったのを感じた。だが羽賀さんはすぐに温和な元の顔に戻っていた。
「信和商事さんですか」
「羽賀さん、何か関わっているの?」
 舞衣も羽賀さんの顔つきに気づいたようだ。だが羽賀さんはそれについては笑うだけで何も答えてはくれなかった。
「ま、ともかく紗織に早速お願いしたいこともあるから。先方にもそれを伝えておきたいから、また明日来てくれる?」
「うん、わかった。じゃぁ今日は帰るね」
 舞衣のところに行ってよかったな。ちょっと明るい未来が見えてきた。そんな気がした。
 だがそんな明るい未来も、その日の夜にかかってきた電話で一転することとなった。
「石塚一樹さんの奥さん、ですね」
 突然家にかかってきた電話。低い男性の声。相手は名前を名乗らない。
「はい、そうですが」
 怪しいと思いながらも、ついそう返事をしてしまった。
「この度は旦那さんを亡くされて、ご愁傷さまでした」
 誰だろう、何かの勧誘かな? その男性の声はさらに続いた。
「ところで奥さん、生前に一樹さんから何かを預かったということはありませんか?」
 突然そんなことを言われても、そんな記憶はない。
「あなた、誰なんですか?」
「あ、失礼しました。私は旦那さんの生前に一緒に仕事をしていた者です。旦那さんにはいろいろとお世話になりまして。その仕事を進めるにあたって、旦那さんが持っていた情報がどうしても必要で。それを渡される前にお亡くなりになったものですから、こちらも困っているんですよ」
 困っている、と口で言っている割には淡々とした口調だと感じた。なんだか怪しいな。それに私にそんな情報になるようなものを渡された記憶もないし。
「残念ながら私はそういったものを受け取っていないんです。会社の方には問い合せていただいたでしょうか?」
 そう言いながら、私は夫が事故に遭う前にどんな仕事をしていたのかを知らなかったことに気づいた。昔は会社であったことをいろいろと話してくれていたんだけど。今はあまり話さなくなっていたな。かろうじてコーチングがってことを言ってくれただけだった気がする。
「そうですか、わかりました。もし何か見つかったら連絡をいただけないでしょうか。電話番号を申し上げます」
 その男性は携帯電話の番号を告げ、最後に自分の名前をこう名乗った。
「私はリンケージテクノロジーの坂口といいます。よろしくお願いします」
 とりあえずその会社名と名前をメモした。でも一体なんなのだろうか。夫は何に関わっていたのだろうか。
 突然、不安が襲ってきた。夫は何か妙なことに関わっていたのではないだろうか。でもそれはテレビドラマの見過ぎかも。ただ単にこの坂口さんは夫からの情報が欲しかっただけなのかも。でも……
 考え出したらキリがない。そんなとき、今度は私の携帯電話が突然鳴り出した。見知らぬ番号だ。恐る恐る電話に出てみた。
「もしもし、石塚紗織さんですか。突然すいません。昼間に舞衣さんのところでお会いした羽賀です」
 今度は知った人でちょっとホッとした。
「あ、羽賀さん。昼間はありがとうございました」
「いえ、それよりもちょっと旦那さんのことについいてお聞きしたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか?」
 また夫のことだ。今度は羽賀さんから。夫は一体何をしていたのだろう? また得も知れぬ不安が私に襲いかかってきた。

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