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コーチ物語 〜明日は晴れ〜 クライアント4 愛する人へ

 ふぅ、ったくわかりづれぇところに事務所を出したもんだな。それにしてもこんなチンケなビルの二階とはな。昔のあいつだったら、高層ビルのおしゃれなところか、街の真ん中に出すところだろうけど。あいつも変わったなぁ。
 なるほど、一階が花屋か。薄汚れたビルでもちっとは華やかに見えるな。
「えっと、ここに二階、二階……あ、ここか」
 二階の扉には何の看板も掲げられていない。ホントにあいつ、仕事やってるのかな?
「おい、羽賀ぁ、いるか。おーい」
 ドンドンと扉を叩いてみるが、何の反応もない。まぁ仕方ないか。何のアポも取らずに来ちまったんだからな。
「しゃぁないな」
 諦めて階段を降りる。するとさっきの花屋の店前にかわいい女の子が。その女の子がオレに向かってペコリとお辞儀をした。さらに彼女は話しかけてくるじゃないか。
「あの、羽賀さんに御用ですか?」
「あぁ、羽賀の昔の知り合いでな。ちょいと寄ってみたんだが。羽賀は今日はいないのかな?」
「羽賀さん、今日は研修の仕事があるからって隣の市まで行っているんですよ。夕方まで帰ってこないかな」
「そっか、じゃぁまた出なおすかな。とはいっても、今日は暇だからどっかで時間を潰さないとなぁ」
 言いながらチラッとその女性の方を見る。実はここで裏心満載。ここから彼女をお茶にでも誘おうか、という魂胆だ。だがそれを表に出しすぎてはいけない。向こうからそう思わせるのがコツだ。
「せっかくおいでになったのに。あ、もう少ししたらミクが来るはずだから」
「ミク?」
「えぇ、羽賀さんのところでアルバイトをしている女の子なんです。それまでよかったらこちらでお茶でもいかがですか?」
 なんと、むこうからお茶を誘ってくるとは。しかもそのセリフ。夜に聞いたらオレはオオカミに変わっちまうぞ。
「じゃぁ、奥のテーブルに座っていてください」
 オレは花屋の奥のテーブルに座って待つことにした。さて、この娘にどんなアプローチをしようか、と考えていたところで、急に表が騒がしくなった。
「あーあつい暑い。舞衣さ〜ん、いる?」
「あ、ミク。ちょうどよかった。羽賀さんのところのお客様がいらしているの。よかったらこっちに来てくれる?」
 奥の部屋でお茶の準備をしている舞衣さんと呼ばれた女性がそう返事をする。そしてお店の奥に入ってきたのは、ショートパンツでタンクトップの活発そうな少女。これが羽賀のところでアルバイトをしているミクか。なんか羽賀の趣味、変わったかな?
「あ、こんにちはー。私ミクっていいます。羽賀さんのところでアルバイトをさせてもらっています。よろしくー」
 なんか軽そうなヤツだな。
「あ、オレは羽賀の元同僚で今はコンサルタントをやっている唐沢三郎ってんだ。よろしくな」
「羽賀さんの元同僚って、もしかしたら四星商事時代の?」
 舞衣さんがお茶を運びながらそう尋ねてきた。
「あぁ、あいつとは四星商事の営業で一緒だったんだ。あいつは優秀なセールスマンでね。それが今じゃこんなビルの二階で事務所を構えているなんて。人って変われば変わるもんだなぁ」
「こんなビルですいません」
 舞衣さん、ちょっとムッとした表情でお茶を置きながらそう言った。
「このビル、舞衣さんのお父さんのビルなんですよ」
 ミクってのがオレに小声でそっとそう教えてくれた。あちゃ、やべっ!
「いやいや、こんなってのは褒め言葉ですよ。こんなにステキなって言うところをちょっと省略しただけですから。あ、お茶をいただきますね」
「まったく、調子のいい人なんですねっ」
 舞衣さん、ちょっと拗ねた感じ。オレも慌てて出た言葉が自分でもフォローになっていないなと思いながらもお茶をすする。
「んっ、うまっ! こ、こいつは……」
 そのお茶に口をつけた瞬間、オレは意識を奪われた。少しは贅沢をしてきたこともあるから、お茶の味はわかる。このお茶、今まで飲んだ中では最高クラス味だ。
「これって玉露か何か?」
「いえ、スーパーで買ってきたお茶ですけど」
 舞衣さん、まんざらではないといった表情を見せている。
「舞衣さんの入れたお茶って、どうしてこんなに美味しいかな。私も頑張って修行しているけれど、どうしても追いつかないのよねー」
 ミクも感心しながらお茶をすすりはじめた。いやいや、このお茶が飲めるなら、このビルに引っ越してきたいくらいだ。
「ところで唐沢さん、羽賀さんと元同僚ってことだけど、羽賀さんは昔はどんなお仕事していたんですか?」
「えっ、羽賀からは何も聞いていないの?」
 舞衣さんもミクも首を縦に振る。あいつ、自分の昔のことはしゃべらないんだな。
「ってことは、あいつがバツイチだって話も聞いていないのかな?」
 この言葉には二人とも目を丸くして驚いた。
「えっ、羽賀さんって結婚してたことあるの?」
「うそっ、信じられない……あ、でも吉田さんから不思議な話を聞いたのよね。この前娘さんのお墓参り用のお花を買ってきた紳士が羽賀さんと店先で顔を合わせた時、羽賀さんの口から『おとうさん』っていう言葉が出たらしいのよ」
「その紳士って、ちょっとガタイのいいどこかの会社の重役って感じじゃなかったか?」
「私は直接見てないの。でも運転手付きの車に乗っていたらしいから、多分どこかの会社のエライ人じゃないかって言っていたけど」
「じゃぁ間違いねぇな。そういやこの前命日だったからな」
「命日?」
 ミクはオレの顔をのぞき込みながらそう言ってきた。
「あぁ、この話はちょいと複雑なんだが……」
 ちょっとじらしを入れてみた。口説きたい女の子の興味を引くときのテクニックだ。
「ねぇ、もったいぶらないで早く教えてよっ」
 ミクが少しイライラしている。オレはあわてずに、ゆっくりとした態度を取りこう言った。
「まぁあわてるなよ。ところで、なんかお腹がすいたなぁ」
 こう言うと、素直に茶菓子でも出してくれるのがセオリー、なのだが。
「別にいいわよ。羽賀さんの過去を知ったところで羽賀さんは羽賀さんだから」
 そう冷たく言い放ったのは、舞衣さんの方だった。おいおい、このシナリオにはそんなのはなかったぞ。
「ちょちょ、ちょっと待って。羽賀の事をもう少し知りたいとは思わないのかよ?」
「そうよ舞衣さん。私はもっと羽賀さんのことを知りたいわ」
 ミクは大いに反応。だが舞衣さんの答えは
「だって、知っていても知らなくても羽賀さんは羽賀さんでしょ。私は今の羽賀さんがいいんだから。まぁ、唐沢さんが話したいのであれば別ですけど」
 な、なんちゅー反応。あっけにとられてしまった。さらに舞衣さんの追い打ちの言葉が続く。
「で、唐沢さん。話すの、話さないの?」
「わかった、わかったよ。羽賀の事話すよ。ったく、舞衣さんはオレよりも上手だなぁ」
 後でわかったことだが、舞衣さんのこのテクニックは羽賀から習ったものらしい。もったいぶっている相手にいかにしてしゃべらせるか、というものだそうだ。
「じゃあ話すぞ。ただし、ちょっとショッキングな事もあるから心して聞いてくれよ。この話をするには、まずは羽賀が四星商事でトップセールスマンだった頃のことから話さないといけないから、ちょっと長くなるぞ」
 二人は首を縦に振った。
「あ、ちょと待って」
 舞衣さん、奥に一旦引っ込んで、次には手にお菓子を持っていた。
「さっきは意地悪してごめんなさい。これ、食べながらでいいから」
「ありがとよ。じゃぁ早速話をはじめるぞ。あれは七年前のことだったな……」
 
「よし、今日からあこがれの営業部だ。幹部候補生として徹底的に経営理論から営業スキル、果ては行動心理学まで勉強させられたからな」
 当時、オレは大学院を出て四星商事に入社してから二年間、幹部候補生としての教育を受けてきた。その同期の中にいたのが羽賀である。
 ヤツは幹部候補生の中でもダントツの成績で、誰もがあこがれ、そして誰もがライバル視していた人間だった。その羽賀がオレと同じ営業部へ配属になったのだ。
「よぉ、唐沢。これからもずっと一緒だな。よろしく頼むよ」
 あのころの羽賀は、とてもスマートですでにエリート営業マンの風格を持っていた。顔もキリッと締まって、どこかのモデルを匂わせるものを持っていた。
 聞けば、ヤツはT大学の大学院を優秀な成績で卒業したとか。オレもW大学の大学院卒だが、遊びも多かったので単位ぎりぎりだったな。
 そんな羽賀には負けたくなくて、二年間は必死でやってきたつもりだ。だが、あいつにはどうしても追いつけなくて、最後は逆に羽賀にくっついて、あいつをうまく利用した方が利口だということに気づいた。
「で、羽賀よぉ。おまえはどんな営業を目指しているんだ?」
 当時のオレは、羽賀の考え方をいち早く理解しようとして羽賀のことをいろいろと知ろうとしていた時期だった。
「あぁ、ボクが目指しているのは畑田部長だよ。あの部長の功績はすごいものがあるからな。ボクも早くいろいろと企画を立てて、自分の実力で多くの数字をはじき出したいと思っているよ」
 今は専務の畑田、当時はまだ担当役員であり、営業部長を任されていた。しかし、その畑田部長も常務昇格は目の前と言われていた。
 その言葉通り、ヤツは一年もしないウチにどんどんと功績を残していた。
 ヤツの立てた営業企画、これはすべて用意周到な手段を用い、相手がそう動かざるを得ないようじゃ状況をつくる。そして契約書に判を押させてしまう。一部にはちょっと強引だとか、だましているとかいう批判も聞かれたが、その実績には上司であっても反論することはできなかった。
 そんな上り調子の羽賀と、そのおこぼれで成績を保っているオレの前に突然現れたのが、畑田部長の娘の由美であった。そして、由美の出現が羽賀の人生を大きく変化させることになった。
「皆さんこんにちは。はじめまして。今日からこの営業部にお世話になります畑田由美と申します」
 初めて見る由美の容貌は、この営業部の全ての男性の目を釘付けにした。その清楚なイメージ、そしてスタイル。さらには洋服のセンスまでが完璧といっていいくらいだった。
 もちろん、羽賀も男である。由美に気を惹かれないわけがない、と思っていたのだが。
「唐沢、畑田部長の娘さんだからといって使えない人はいらないからな。今はボクの仕事のじゃまにならないことを願っているよ」
とドライな発言。いくら仕事の鬼だからといって、その発言はないだろう。
 由美は、最初は営業部のバックアップとして、主に見積書や文書、営業資料の作成といった仕事を請け負っていた。が、由美がその才能を営業部全体に知らしめたのは、あの羽賀のバックアップの仕事からだった。
「羽賀さん、この前頼まれたあの資料の件なのですが」
 オレと羽賀が飲食店の新規開拓事業の打ち合わせを進めているときに、由美からこの言葉。
「なんだい。この前の資料の件なら細かなところまで指示をしていたはずだが。君だったらあの程度の資料、すぐに完成させられるだろう?」
 羽賀は打ち合わせの資料の方に目をやり、由美には視線を合わせずにそう言い放した。
「はい、一通りは完成したのですが、あれでは不十分かと。そこで、私なりに修正と資料の補充、そしてさらに枠を広げた市場調査の結果を掲載してみたのですが」
 羽賀のそのときの顔。それは「自分の言うとおりにやっていればいいんだ!」とでも言いたげな顔つきだった。
「へぇ、由美ちゃんってそんなところまでできるんだ。どれ、見せてくれよ」
 羽賀の不機嫌そうな態度をよそに、由美が持ってきた資料に目を通そうとした。が、羽賀のこのときの言葉は
「そんな余計なことはしなくていい。ボクの言うとおりに資料をつくってくれるのが君の仕事だろう」
 明らかに由美に対しての不満の現れだ。自分の領域を勝手に侵された、そんな気分だったのだろう。しかし、由美も負けてはいない。
「いえ、私の仕事はこの営業部のバックアップです。そのためには、言われた仕事だけをこなすのではなく、私なりに分析してよりよい方向へとつなげていく。それが私の本当の仕事だと自覚しております。羽賀さんがどう思おうと、これは私なりに自信を持って、自分の仕事をやり遂げた結果です」
 あまりにも堂々とした態度でそう言い放す由美。その凛とした態度と声。営業フロアにいた全ての視線を一瞬にして集めてしまった。
 羽賀もそこまで言われたら資料に目を通さないわけにはいかなかった。黙って由美から資料を受け取り、ぱらぱらとめくる。が、めくるたびに羽賀の顔つきが変わっていくのがわかった。反感を持って眉間にしわを寄せた険しい表情から、徐々に真剣な、そして希望を持ったまなざしへと変わっていったのだ。
 一通り読み終わった後、羽賀はオレに黙って資料を渡してくれた。オレもその資料を読んで、羽賀の表情が変わっていった理由がはっきりとしたのだ。
「こ、これは……これで相手を落とせなかったらウソだな」
 オレだってバカじゃない。羽賀の陰に隠れてはいるが、そんじょそこらのセールスマンとはわけが違う。本物とそうでないものの区別くらいはつく。そのオレにそう言わせるほど、由美のつくった資料は完璧なものであった。
「畑田さん、君を誤解していた。すまなかった。これだけの資料が作れ、しかもここまで市場についての考察ができているとは。この資料、ありがたく使わせてもらうよ」
 羽賀のその言葉に、由美はドライにこう答えた。
「いえ、どういたしまして。私は私の仕事をやり遂げただけですから」
 おそらく、心の中では「してやったり!」と小躍りしていたに違いない。が、このドライな態度は羽賀に対してのちょっとした抵抗なのだろう。
 そのとき由美が作った資料が功を奏して、オレと羽賀の飲食店新規開拓事業は短期間で怖ろしいほどの成果を上げた。このときから、「羽賀は四星商事でトップセールス」という称号をどこからともなく聞かれるようになった。しかし、その陰には由美の力があったことは否めない。
 この後、羽賀とオレ、そして由美の三人が組んで仕事をすることが多くなった。誰が決定したわけでもないのだが、この三人のチームは四星商事の中でも自然認知されたものであった。
 羽賀とオレが企画を立て、由美が資料作成や調査を行い、羽賀が中心となって客先へ足を運ぶ。オレは客先へ直接足を運ぶことよりも、いかにして次のマーケットを広げていくか、そのための実地調査などを担当することが多くなった。
 そんな三人だが、羽賀と由美の距離が接近していくのにはさほど時間がかからなかった。気がつくと、羽賀の横には由美がいる。そんな光景があたりまえになってきたのだ。
 うらやましい反面、どうせならこの二人をくっつけてしまおうという気になっていた。どう考えてもオレにとって由美は高嶺の花だ。それならば、高嶺の花にもっと幸せになってもらおう。これがオレ流のカッコつけ方なのだ。
 そのたくらみを知ってか知らずか、羽賀と由美の間には仕事を超えた愛情が芽生え始めたのは明らかだった。そしてとうとう、この日を迎えた。
「ねぇ、私今の仕事をしていて、一つ疑問が湧いたのだけど。二人の意見を聞いていい?」
 順調に仕事をこなしている羽賀とオレ、そして由美の三人。あるレストランチェーンの買収の仕事をしていたときに、由美が突然こんな事を聞いてきた。
「なんだよ、あらたまって」
 由美の言葉にそう答えた。羽賀は黙って由美を見ていた。
「今まで、この三人でいろんな仕事を成功させてきたわよね。そのおかげで、この四星商事もけっこうな利益を得ているのは間違いないわ。この前のミノル光学の企業買収。あれも大成功だったわよね」
「あぁ、あの仕事についてはかなり大がかりな手を回したけれど、結果的にはすべて四星商事へお金が回るようにしたからな」
 羽賀がそう答えた。
「でも、それでよかったのかしら。ミノル光学の先進技術が安い値段で買えたことには評価が高いでしょう。でも、ミノル光学の社員や社長はこれでよかったのかしら」
 由美は納得いかない顔つきをしていた。確かにミノル光学の仕事に対しては、正直後味はよくなかった。
 ミノル光学は独自の技術で特許を取り、これを持ってすれば業界にセンセーションを引き起こすほどのものを持っていた。だがいかんせん資金が足りない。そこに目をつけた羽賀は、最初は商品取引をもちかけ、工場拡大を促した。だが取引先のはまな銀行に手を回して融資をストップさせた。資金繰りに困ったミノル工学はなんとかならないかと泣きついてきた。そこで会社の株を担保に四星ファイナスからお金を借りることを提案。しかしそれだけでは足りず、結果的に四星商事がミノル工学を傘下に収める形で株を引き取ることに。
 会社を買い取る金額はかかったが、実はこの技術を持ってすれば安いもの。おかげで四星商事は大儲け。だたし、傘下に入ったミノル工学は経営権を四星商事の関連会社、四星オプティカルに握られ、事実上社員の入れ替えを余儀なくされた。
「由美はなにを心配しているんだ。ボクはボクなりに四星商事の利益になる仕事を果たしただけだよ。四星商事が潤うことに、何の疑問があるんだい?」
 羽賀は冷静にそう言う。しかし、由美はまだ不満そうな顔でこう答えた。
「そこなのよ、私が納得いかないのは。私達って四星商事だけの利益になる仕事をしていいのかな? 私はもっとたくさんの人が幸せになれる仕事をしたいわ」
「でも、そんな博愛主義じゃこの企業競争を乗り切ることはできない。現代社会は資本主義社会なんだ。お金を持っている方が勝ち組。そうじゃないのか」
 羽賀の言葉を聞いて、由美はそれ以上言葉を続けることはなかった。
 由美の考えもわかるが羽賀の考えも理解できる。二人の間に立ってただおろおろするだけの自分が、なんだか情けなくなった。
「ま、まぁまぁ。とりあえずさ、今度のレストランチェーンの買収についての計画を進めようじゃないか。今度はさ、買収といっても名前はそのまま残して、経営権だけをこちらに移すってことだろ。これだったらこの前のミノル光学のようにはならないだろうし」
 由美と羽賀を納得させるように、そうやって言葉をかけた。だが、二人の間には急に溝ができたようだった。
 とはいえ、由美も羽賀も個人感情で仕事を乱す人間ではない。翌日には何事もなかったかのように今まで通り打ち合わせを行い、資料作成へと移ることになった。
 しかし、羽賀の心を動かす事件が起きてしまった。
「み、ミノル光学の元社長が自殺したってよ!」
 このニュースが飛び込んできたのは、羽賀と由美の口論がおきてから三日後のことであった。
「うそっ……」
 由美はこの話を聞くなり、固まってしまった。その両目にはじわっとにじんだ涙。羽賀は冷静にこう言葉を発した。
「唐沢、葬儀はいつ、どこで行われるんだ? わかったら連絡をくれ。一応参列するから。課長と畑田常務にもそう伝えておいてくれ」
 由美の父親であり、営業部の部長で平の取締役だった畑田は、先のミノル光学の買収成功のおかげで、先日の株主総会で常務取締役へ昇進していた。
 話を聞きつけた畑田常務は、すぐにオレ達三人を呼び出してこう聞いてきた。
「私は何とか都合をつけて葬儀に参列するが、君たちはどうするかね?」
「はい、私は参列させて頂きます。結果はどうあれ、一度は仕事上で関わった方ですから」
 羽賀のその言葉からは、あくまでも仕事で必要だから葬儀に参列する、としか聞こえなかった。オレも由美も葬儀に参列することにはしたが、羽賀のその態度には少し疑問を持ち始めた。
 ミノル光学の社長の告別式会場。途中までは必死になってこらえていたが、最後は泣き崩れてしまった社長夫人の姿に、多くの人が涙した。オレもその光景にはさすがに目頭が熱くなり、あわててハンカチを取り出した。由美も下を向いて、涙をぬぐっている。
 ふと羽賀を見ると、あいつは凛とした姿勢で正面を向き、無表情に事の次第を見つめていた。あいつには血も涙もないのか。そう思ってしまった。
 そんなとき、ミノル光学の取締役で、社長の長男が羽賀を見つけた。羽賀は背が高い上に、泣いている周りとは違った雰囲気をかもし出していたため、すぐに目についたのだろう。長男はつかつかっと羽賀のところに行き、いきなり胸ぐらをつかんでこう叫び始めた。
「あんたが、あんたがうまいことばかりいってオヤジをだました結果がこうなったんだろうがっ!」
 長男のその言葉は、客観的に見れば事実無根であることは間違いない。しかし心情的に見れば、ミノル光学側としては「だまされた」としかとらえられないのも事実。長男は周りの人からなだめられながら、羽賀から引き離された。
 そんな中、羽賀の態度は全く変わらず、ただ正面を向いてじっとしているだけだった。そんなとき、後ろから一人の初老の男性が羽賀に声をかけてきた。
「若いの、つらかったら涙を流してもいいんじゃぞ」
 その男性は羽賀の肩をポンと叩いて去っていった。
 ミノル光学の社長の葬儀後、オレ達三人は気分転換に港に来ていた。潮風を受けながら、ぼーっと海を見つめている。このとき、今やっている仕事について疑問を持ち始めていた。
「私はもっとたくさんの人が幸せになる仕事がしたいわ」
 由美が言ったこの言葉が頭の中でグルグル回っていたのだ。オレ達がやってきた仕事、これは四星商事の社員にとっては幸せになる仕事だろう。
 しかし、それでいいのか? そう思ったとき、羽賀が突然しゃがみ込んだ。
 心配になった由美が羽賀の元へ。由美は羽賀の体を抱えるようにして、そっと肩と背中に手を回した。
 そのとき、オレは信じられないものを見た。
 さっきまでクールに構えていた羽賀の目から、大粒の涙が。そして、声を出して羽賀が泣き始めた。
「ボクの……ボクのせいで……ボクが……ボクが殺した……ボクが……」
 同じ言葉を、言葉にならない声で何度も繰り返す羽賀。由美はそんな羽賀を慰めるようにそっと抱きしめる。
「いいのよ、羽賀さん。もっともっと泣いていいのよ。あなただって、人間なのだから……」
 羽賀が人間らしさを取り戻した。オレはそのときそう思った。
 どのくらいたっただろうか。ひとしきり泣いた羽賀の目には、先ほどとは違う人間らしい温かさを覚えた。
「よし、わかった」
 羽賀は涙の中から何かを悟ったようだ。
「いったい何がわかったんだ?」
 羽賀にそう尋ねた。羽賀は海を見つめてこう言い放った。
「ボクは何のために仕事をしているのか。それを今まで考えたことがなかった。会社の利益になればいい。そう思っていた。それが正義だと信じていた。でも、それじゃダメなんだよ。ようやく由美の言葉の意味、これがわかったんだ。だから決断した。これからの仕事のやり方を」
 羽賀の言葉に微笑む由美。オレも同じ気持ちになっていた。が、羽賀のその決断がこの先の悲劇を生むことになるとは。
「なに、レストランチェーンの買収計画を大幅に変更するだと?」
「えぇ、確かにこのまま行えば、四星商事には過大な利益になり得るでしょう。しかし、その裏では泣きを見る人も大勢出てしまいます」
「おい、羽賀くんらしくない発言だな。今までは君の繊細、かつ強引な手法で数々の実績を上げてきたじゃないか。今回も私たちはそれを期待して、このプロジェクトを君に預けたのに」
「しかし畑田常務、本当にこのままでいいのですか? この前のミノル光学の件、あのままでは我が社は悪者扱いになりますよ」
「あの件について我が社にどうこう言う方が間違っとる。自殺したのは、ミノル光学の社長の意志だ。我が社はミノル光学の幹部へそれなりのお金を支払っているんだ。あの件で被害者になったのは、むしろ我が社の方だ」
「しかし、常務……」
「えぇい、これ以上話しても無意味だ。レストランチェーンの買収については、当初の計画通り進行する。このままだと由美をおまえに預けることはできん」
「それとこれとは話が別です」
 羽賀と畑田常務の口論は続く。オレはこの二人をただ見守るしかなかった。
 ミノル光学の社長の葬儀から三日後、レストランチェーンの買収計画の報告会での出来事だった。このときに羽賀の言うことが突然180度変わってしまうとは。あんなにドライな性格だったヤツが、急に人のことを考え出した。もちろん、こうなったのにはミノル光学の社長の件が深く関わっているのは間違いない。が、もっと深く関わったのは由美であろう。
 港での一件以来、羽賀は由美と二人で会うことが多くなった。おそらく、羽賀の中で何かが生まれ、そのことを由美に話すにつれて生まれたものがだんだんと大きく育っていったのだろう。そして今回の計画変更発言へと移ったのだ。
 この時点で、羽賀と由美の交際は親も認める公然の事実となっていた。ゴールインは目の前というのは、誰の目から見ても明らかだった。
「ともかく、計画変更は認めん。どうしてもというのであれば、今回の件は別のものにやらせる。むろん、おまえが最初に立てた計画通りにな」
 畑田常務はそう言うと、新たに羽賀が持ってきた計画書を破り捨てて、会議室を出て行った。後に残された羽賀とオレ。羽賀にどう言葉をかければいいのか、その言葉を探すのに頭がいっぱいになっていた。ほどなくして、由美が会議室に入ってきた。
「羽賀さん、どうしたの? お父さん、すごい顔をしていたけれど」
「由美か……残念ながら新しい計画は認められなかったよ。やはり、この会社ではこういった考えは認められないのかな」
 羽賀は弱気になって由美にそう伝えた。ちょっと前の羽賀だったら、絶対に言わないセリフだ。しかし、由美はにっこりと笑って羽賀にこう言った。
「大丈夫よ。この数日間二人でいろいろと話したじゃない。私たち、もっと人を見て生きていこうって。お父さんは立場上、会社の利益を優先して考えなければいけないから。そのうち、私たちの考え方をきっと理解してくれるわよ」
「だといいんだが」
 どうやら羽賀と由美の間にオレの入る隙間はないようだ。とんだおじゃま虫のようだな。というよりも、二人にはオレの姿が目に入っていないんじゃないかな? ちょっと寂しい気もするが。
 それ以降、羽賀にはろくな仕事が回ってこなくなった。大がかりなプロジェクトからはずされるのはもちろん、ほとんど個人売買に近い小さな仕事すら与えられなくなった。
 だが、転んでもただでは起きないのが羽賀の性格。あいつは自ら仕事をつくり出そうと計画を打ち出していた。それが「人財育成プロジェクト」だ。
 四星商事もかつては社員教育事業に手を出したことがあった。流行の手法などを手がけたのだが、思ったほど利益を出すことが出来なかったためにわずか二年で手を引いた。その分野にまたあらためて羽賀がチャレンジしようとしていた。
「そうか、そんな先生がいるのか。だったら一度お会いしたいな」
 ある日、羽賀が電話口でやけに明るい声でそう対応していた。どうやら人財育成について、羽賀と由美の理想とする先生が見つかったようだ。羽賀は、今までとは違う角度から人財育成をにらんでいたらしい。どうも「コミュニケーション」を主とした方向で何かを見つけようとしていたということを小耳に挟んだことがある。
「よし、その先生をぜひお呼びしてくれないか」
 そして数日後、一人の初老の男性が羽賀を訪ねてやってきた。
「先生、お待ちしておりました」
 どうやらこの人が羽賀が電話口で話していた先生らしい。しかし、どこかで見たような気がするのだが。気のせいか?
 羽賀が出迎えると、その初老の男性は羽賀に向かってこう言った。
「ほほう、どうやら人並みに涙を流したようだな」
 その言葉で思い出した。ミノル光学の社長の葬儀の時に「若いの、つらかったら涙を流してもいいんじゃぞ」そう言って羽賀の肩をポンッと叩いて去っていった男だ。羽賀も、その言葉で思い出したようだった。
「あ、あのときの……その節はお世話になりました」
「いやいや、ワシは何もおまえに世話なんぞしとらん。ただ、おまえさんの感情が素直でないのは明らかだったからな。感情は、素直に表に出してこそ人間というもんだ」
 この男の一言一言がオレの胸にも突き刺さる。
 その後、羽賀のテンションの高さは異常なくらいだった。
「よぉし、これでいけるぞ。これを多くの企業で導入してもらえれば、今までの企業が悩んでいた部分が一気に解決できるはずだ。ボクがやらねば誰がやる!」
 おいおい、なんだこの羽賀の勢いは。まぁ、羽賀が言うようにうまくいけば、畑田常務だってきっと見直してくれるだろう。それに、由美も前にも増して活き活きと仕事をしている。きっと、羽賀と二人で仕事をすることに生き甲斐を感じているんだろうな。
 そんな二人を象徴するような連絡がオレの元に舞い込んだのは、それからすぐのことであった。
「唐沢、ちょっと相談があるんだが……」
 珍しく羽賀の方から相談とは。一体何なんだ?
「なんだよ、改まって。オレでよけりゃ、いくらでも相談に乗ってやるぞ」
 いつもは羽賀に対して劣等感を抱いていた。しかしその羽賀からこうやって相談されるってのもいい気分だな。
「いやな……実は……ゆ、由美とのことなんだが……」
「なんだよ、ケンカでもしたのか?」
「いや……そ、そうじゃなくて……なんというかな……」
「なにをぐずぐずいってんだよ。おまえと由美との間は、営業部どころかこの社内ではほぼ公認の仲だろ。さっさと結婚しちまえよ」
「あ、そ、それなんだ。実は由美とそろそろ身を固めようかと思って……」
「おいおい、おめでたいじゃないかよ。というか、やっとそこまで来たかって感じもするけどよ。でも、相談ってなんなんだよ。まさか結婚式のスピーチをやってくれとか?」
「いや、結婚式はあげない。畑田常務とはちょっとやりあっているからな」
 羽賀はちょっと前にレストランチェーンの買収の件で、急に方向転換したことが由美の父親でもある畑田専務のカンに障って以来、社内でもちょっと浮いた存在となっている。そんな羽賀に寄り添うように、パートナーとして仕事を進めているのが由美なのだ。
「でもよ、常務がよく許してくれたな」
「いや、畑田常務は許してくれないんだ。それどころか、オレを転勤させて由美から引き離そうということも考えているらしい」
 なるほど。しかし今までの羽賀の実績を考えたら本社がなかなか手放さないだろう。どうやらぎりぎりの線で羽賀と由美はつながっているようだ。
「だから、由美とにかく一緒に住もうと思っている。できることなら、籍だけでも入れておきたいと思ってね」
「おいおい、仕事となると慎重に事を運ぶおまえが、えらく大胆な行動に出たな。最近、おまえ変わったよな」
 確かに羽賀は最近変わった。ちょっと前まではやたらとクールな印象を持っていたが、今は逆。妙に笑顔が板について、しかもやたらと人なつっこい。その人なつっこさもいやらしくなく、さっぱりしている。だから、本社のお偉いさんのウケも以前に増して良くなっているのだ。反対しているのは畑田常務だけ、ということか。
「羽賀よ、おまえっていつからそんな風に変わったんだよ?」
「これがな、今ボクが進めようとしている事業に深く関わっているんだ」
「おまえが進めようとしている事業って、あの『コーチング』とかいうやつのことか?」
「あぁ、今おつきあいしている桜島先生、あの方から今直接コーチングを受けているんだ。そこで由美とのことを話したら、出た回答がこれに至ったんだよ」
「なんだ、あのおっさん、結婚のアドバイスなんてのもやるのか?」
「いやいや、アドバイスはしてもらっていないよ。これはボクが出した回答なんだよ。コーチングはこうやって、コーチングを受ける側、これをクライアントって言うんだけれど、そのクライアントが自分で答えを出すようにいろいろと質問をしてくれたりするんだ」
 羽賀は妙に明るい笑顔でそう言ってきた。あいつがこの明るさを得た理由は、その桜島とかいうおっさんにあるんだな。
「でもよ、オレに由美とのことを相談して、どうしようっていうんだ? さすがにオレは畑田常務を説得するなんて事はできねぇぞ」
「いや、そんな必要はないよ。相談って言ったけれど、どうしてもこの件については知っておいて欲しいと思ったからさ。相談、というよりも報告だな」
「ま、それならいいがよ。で、由美とはいつから一緒に住むんだ?」
「実は、もう半分一緒に住んでいるようなものなんだ。由美はボクのマンションから通っているんだ。休みの日だけは家に帰っているけどね」
「えぇっ、でもそんな状況を常務がよく許してくれているな」
「いや、畑田常務は知らないだろう。ほら、今海外へ出張中だろ。視察中で三週間は帰ってこないから。そこをにらんでの計画的な犯行だよ」
「でも、母親はどうなんだよ?」
「由美のお母さんには筋を通しているよ。お母さんはボクとの結婚を賛成してくれている」
 なるほどね。羽賀も賢くなったもんだ。しかし、そんな羽賀と由美の幸せな日々は長くは続かなかった。そう、とうとう畑田常務が出張から帰って来る日になったのだ。オレと羽賀、そして由美は久々に三人で食事。会話の内容は、言わずとしれた畑田常務対策である。
「さて、どうするんだ? このまま黙ってるわけにはいかないだろう」
 オレは二人にそう言った。
「私は……私はこのままでもいいって思っているの。だって、純一と一緒にいることの方が私にとっては貴重なんだから」
「いや、このままじゃだめだ。やっぱりけじめはつけないと」
 羽賀は男としてけじめをつけたい、そう願っているようだ。
「だったら、どうするんだよ? 許してもらえなかったら、下手するとおまえは転勤だぞ」
「そうなったら、私は会社を辞めて純一についていくわ。そのくらいの覚悟はできているもの」
 由美は羽賀にベタ惚れだな。まったく、羽賀も男冥利に尽きるわ。
「ともかく、常務が帰ってきてから正式にあいさつに行くよ。帰ってきた週の土曜日の夜、この日がねらい目だ。由美、お父さんを家に引き留めておいてくれ」
「わかったわ」
「でもよ、これがうまくいかなかったらどうするんだよ?」
 二人にそう聞いてみた。
「うまくいかなかったら、私は駆け落ちでもする覚悟でいるわよ」
「おいおい、駆け落ちなんて今時の言葉じゃないな。まぁいい、オレも及ばずながら協力できることがあったらやらせてもらうからな。遠慮無く言ってくれ」
 結局、オレもこの二人の片棒を担がされることになりそうだ。
 そして迎えた土曜日の夜。さすがにこの日はオレの出る幕はなさそうだ。それに、レストランチェーンの買収の仕事に遅れが生じ、羽賀と由美にかまっているどころじゃなくなった。しかし、このとき羽賀と由美のそばについてやれなかったのが、今になって後悔することになるとは。
 ちらっと時計を見ては、今ごろ常務と羽賀がどんな話しをしているのかを想像していた。おそらくもめているだろうな。畑田常務は一筋縄じゃ行かないから。由美は逆上して、出て行く! なんて叫んでいないだろうな。本気で駆け落ちまで覚悟しているみたいだし。そんな不安が当たらないことを心の中で祈りつつ、オレは企画会議を続けていた。
 そして夜十一時を回ったときに、オレの電話が鳴った。てっきり羽賀からの電話かと思ったが、電話番号は見慣れない数字。
「はい……えぇ、私が唐沢ですが。おたくは……? え、警察? 羽賀が……ま、まさか……」
 警察からの電話の声で、顔が一瞬にして真っ青になった。
「こちらです」
 警察からの電話を受けて、市民病院に駆け込んだ。そして受付から案内された病室に入って、ベッドに横たわっている羽賀の姿を見て少し安心した。足は骨折しているが、その他は擦り傷程度で大したことはなさそうだ。
「唐沢さんですね。私は警察の者です。失礼ですが、羽賀さんとはお知り合いでしょうか?」
 オレが会社で企画会議を続けていたときに、ふいになった携帯。そこからは今のようなセリフが聞こえてきた。
「はい、羽賀は私の同僚ですが……何か?」
「実は、羽賀さんが事故に遭いまして。所持品の携帯電話の履歴を拝見したところ、唐沢さんが一番最後に残っていたもので。とりあえずご連絡をと思いまして」
「は、羽賀がっ! そ、それで羽賀はどうなったのですか?」
「えぇ、今市民病院に救急車で運ばれたところです」
「わかりました。今すぐ向かいます」
「あ、それと同乗者……」
 あわてて、警察が何かをしゃべっている途中で携帯を切り、事情をメンバーに話して市民病院へと向かった。そして今、羽賀がいるベッドの前にいる。羽賀は麻酔が効いているのか、それとも事故の疲労のせいか、今はぐっすりと眠っているようだ。
 ほどなくして、警官が病室にやってきた。一人は制服を着ているのですぐに警官とわかったが、もうひとりはブルドッグのような顔をして、どう見ても警官に連行されたやくざのような顔つきだった。
「君が唐沢さんか?」
 そのブルドッグがオレにそう言ってきた。
「えぇ、そうですが……」
「こちらの羽賀さん、そして同乗者の畑田さんの両方のお知り合いかね?」
「え、畑田って……由美も一緒だったんですか?」
「そうか……両方ともお知り合いか……」
 ブルドッグはそう言うと、急に伏し目がちになった。横にいた警官も、同じような態度を取っている。
「唐沢さん、ちょっとこっちに来てくれないか」
 オレはブルドッグの言うとおりに、病室を出た。俺の前にはブルドッグ顔の刑事、後ろに制服の警官。二人の間に挟まれた形で病室を出て行きエレベーターへ。
「あのぉ……一体どこへ……?」
 その質問に二人からの返事はなかった。ただ、二人とも同じように下を向いてしまったことが、やけに印象深かった。
 エレベーターは一階を通り過ぎ、地下へ。ドアが開くと、そこは薄暗い場所。
そして目の前には大きな扉が一つ。
「こっちだ……」
 ブルドッグが静かにその扉を開けた。そしてオレが見たもの、それは……
「な、ど、どうして……」
 そこには、白い布で顔を覆われた、由美の姿があった。
 果たしてどのくらい経っただろうか。オレは言葉を無くして、その場に呆然と立ちすくんでいた。その時間は、今思えばほんの十数秒だったと思う。しかし、オレの中ではとてつもなく長い時間に感じられた。そして、気がつくと頬にはとめどなく冷たいものが流れていた。
「こちらの畑田由美さんが羽賀さんの車を運転していたときに、対向車がぶつかってきて、よけきれずにそのまま運転席側に衝突してね。幸い羽賀さんは助手席にいたため、足を骨折しただけで済んだのだが、由美さんは内臓破裂で……」
 ブルドッグがそうオレに言ってきた。だが、その言葉の半分も聞いちゃいない。どうしてこんな事態になったのか、どうして由美が羽賀の車を運転して、どうして対向車がぶつかってきたのか……どうして、どうして……。
 ほどなくして、由美の父親である畑田常務が霊安室に駆け込んできた。駆け込むやいなや、あの厳格な人とは思えない表情で、大きな声で泣き始めたのが印象的だった。その横には、由美の母親。こちらは由美の死を受け入れられないと言った表情で、呆然と立ちすくんでいた。
 この二人と入れ替わりに、また羽賀の部屋へと戻った。そして、羽賀が目を覚ましたときにどんな言葉をかければいいのか、その言葉を探していた。
 気がつくと夜が明け、あたりがゆっくりと白くなる。病室にも太陽の光が差し込み、それとともに羽賀の目もゆっくりと開いた。
「羽賀……わかるか、オレだ。唐沢だ」
「ん……あ……あぁ、唐沢か。あれ、一体ボクはどうして……?」
「羽賀、ここは病院だ。おまえは昨日、由美が運転していた車で事故にあって、そして今病室にいるんだ」
「そうか……そういえばそうだったな……ゆ、由美は、由美はどうなったんだ? おい、唐沢、由美は無事なのか?」
「落ち着け、羽賀。今は安静にしていろ!」
 由美のことを急に思い出した羽賀。そして真実をどうやって羽賀に伝えればいいのかわからずに、羽賀の興奮を抑えることだけしかできなかった。
 ほどなくして、畑田夫妻も羽賀の病室にやってきた。このときの常務の顔は、さっき見たものとは違い、怒りにあふれていた。
「おまえは何をやったのかわかっているのか! 由美を……由美を返せっ!」
 専務はそう言うと、その場に泣き崩れた。奥さんもわっと泣き出した。
「ゆ、由美は……由美は……まさか……」
「羽賀、よく聞け」
 オレは意を決して羽賀に語り始めた。
「由美は、由美はもうこの世にはいないんだ。わかるか、羽賀」
 羽賀はそれ以上、何も言わずに再び枕に頭を沈めた。病室には畑田常務と奥さんの泣き声だけが響き渡っていた。
 ここからは警察と羽賀から聞いた話になる。
 事故の夜は羽賀と由美の二人が畑田常務に結婚についての話をしたそうだが、当然の事ながら常務は猛反対。しかし、由美には結婚しなければならない理由ができてしまったとか。
 そう、お腹に羽賀の子どもができたそうだ。
 それがわかったのが前日の夜。そして、羽賀と由美、そして由美の母親と相談して婚姻届を畑田常務に話す日の昼間に提出していたそうだ。
 すべてが事後報告になってしまったため、常務の怒りも頂点に達し、由美に暴言を吐いたそうだ。そして最後に
「おまえのようなヤツは娘ではない、出て行け!」
と怒鳴りつけたとか。
 その言葉で由美は出て行き、羽賀の車の運転席に乗り込んだ。当然羽賀は由美の後を追い、助手席へ。由美も実の父親からの言葉で頭にきていたせいか、運転が荒くなり、峠のカーブでセンターラインオーバー。
 そのとき、ちょうど峠にはローリング族が車を走らせており、お互いが危ない運転をしていたためにほぼ正面衝突の形で事故がおきたそうだ。
 羽賀と由美、時間にしてたった半日ほどの正式な夫婦生活は、新しく芽生え始めた命と一緒に、こうやって幕を閉じたというわけだ。

「……これが、羽賀がバツイチだってことの話しだ」
 ここまで話し終えたオレが、ふと顔を上げて目に入ったものは、目を真っ赤にしているミクと、ハンカチで目頭を押さえていた舞衣さんの姿だった。
「は、羽賀さんって……羽賀さんって……」
 ミクは声にならない声を出しながら、泣きべそをかいている。舞衣さんの方は、少し落ち着いたのかこんなことを言ってきた。
「羽賀さん……正確にはバツイチとは言えないわよね。結婚していたっていう事実は変わらないけれど、それは離婚じゃないんだから。でも、そのあと羽賀さんはどうなったの?」
「あぁ、足の骨折が治ったとたん、あいつは退職届を会社に出してね。受け取ったのは畑田常務だから、当然何も言わずに受理されたよ。そしてその後……」
「その後?」
「オレの前からも姿を消しちまった。気がついたら、マンションももぬけの殻だったよ。あいつがよく行っていた自転車屋にも聞いたんだが、そのときにはすでに愛車のMTBだけ預けて、行き先も告げずに去っていった後だった。骨折が原因で、満足にレースに出られないからって、置いていったらしい」
「あ、それで……」
 ミクはようやく正気に戻ったのか、自転車の話しに反応した。
「でもさ、唐沢さんはどうして羽賀さんがここにいるってわかったの?」
 ミクがオレにそう尋ねてきた。
「これが不思議な縁でな。オレもあの後すぐに羽賀の後を追うようにして会社を辞めたんだ。由美が死んだことで、オレにも羽賀と同じように会社に対しての疑問が湧いてきてね。その後、営業のコンサルティングを始めて。そこで、羽賀が会社を辞める前に携わっていた桜島さんっていうコーチと出会ったんだよ」
「あ、羽賀さんがコーチングと出会ったときの」
「その桜島さんから羽賀の居場所を聞いたんだ。そしてあの後の羽賀のこともね。実はあの後、羽賀は東京にいる桜島さんのところでコーチングを勉強していたらしい。ま、桜島コーチの直弟子ってことだな」
「へぇ、そこで今の羽賀さんができあがったってわけね」
「ま、そういうことみたいだな」
 この後、しばらくの沈黙。三人とも、空白の期間に羽賀がどのような生活をしていたのか、頭の中で想像していたようだ。オレもその部分は知らない。だが、由美の死と共に、あいつの中で何かが芽生え、そして大きく成長したであろうことは想像がつく。
「お茶、もう一杯飲む?」
 舞衣さんがそう言ってくれた。
「あぁ、お願いします」
 舞衣さんがお茶を入れるために立った、ちょうどそのときであった。
「ミク、上にいないと思ったらこっちに来てたんだ」
 汗を拭きながら羽賀が花屋に飛び込んできた。
「よぉ」
 軽く羽賀にあいさつ。
「おぉっ、唐沢じゃないか。お前、なんでここに?」
 羽賀はオレの顔を確認すると、最大の笑顔で握手を求めてきた。この顔、四星商事時代には絶対に出すことのなかった表情だ。この顔を見て、羽賀が今とても充実した日々を送っていることが容易に想像できた。
「羽賀さん、やけに遅かったけれどどうしたの?」
「いや、帰り道で自転車がパンクしちゃってね。替えのチューブを持っていなかったから、修理にちょっと手間取っちゃって」
「相変わらず自転車野郎だな、おまえは」
「唐沢も、全く変わっていないじゃないか。で、今日は何の用なんだ?」
「おまえ、確か今コーチングの仕事をしていたよな。それにからんで、ファシリテーターの仕事は請け負っていないか?」
「ファシリテーターか。専門ではやっていないが」
「そうか。おまえの四星商事時代の会議運営の腕を見込んで、ちょいと仕事をお願いしようと思っていたんだが」
「ねぇ、ファシリテーターって何?」
「なんだ、ファシリテーターも知らねぇのか。ファシリテーターっていうのは、会議の推進役のこと。単なる議長や司会者とは違って、会議の参加者から意見を引き出したりまとめたりして、効率よく効果的な会議を運営する人のことなんだ」
「へぇ、そんな仕事もあるんだ。でも、それがコーチングとどう関係するのよ」
「ファシリテーターの使う技術とコーチングっていうのは共通しているところが多くてね。それに、こいつは四星商事時代から会議運営が得意でさ。ファシリテーターの仕事もできるんじゃないかって思ったんだよ」
 オレはミクにそう答えてあげた。
「羽賀、今度できた駅前の大型のホテルは知っているだろう?」
「あぁ、あのセントラル・アクトのことだろう」
「あそこの会議運営の改善をやるために、ファシリテーターを捜しているんだ。オレができりゃいいんだが、ウチはあいにくと営業専門のコンサルでね。そこでおまえの顔を思い出したんで、こうやってお願いに来たんだよ」
「セントラル・アクトでファシリテーターか……ま、やってみるか」
「よし、決まりだ。あとのセッティングはオレにまかせておけ」
 オレはうれしかった。またこうやって羽賀と一緒に仕事が出来るってことが。羽賀もこうやって新しい仲間と囲まれて楽しくやっているみたいだし。これからこの仲間に加えてもらうとするか。
 しかしこの仕事が、羽賀と四星商事を対決させることになるとは。この時点では予想も出来なかった。

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