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コーチ物語 クライアント22「悪魔の囁き」その2

「こうやってわざわざお礼を言いに来る人なんてめずらしいですね。あ、あらためまして、私ここで看板屋をやっている吉武といいます」
 そう言って名刺を差し出すと、羽賀さんも私に名刺を返す。
「私、コーチングをやっている羽賀と申します。よろしくお願いします」
 その時の名刺の返し方、それは一流ビジネスマンの空気を持っていた。おそらく今まで出会った人の中ではピカ一だ。しかし、その羽賀さんの風貌はジャケットにパンツという、わりとラフな格好。どこからそんな空気がでてくるのか不思議であった。
「あ、こんちわー」
 斉木があいかわらずぶっきらぼうな感じで挨拶をしてくる。斉木にはいつも礼儀正しくしろと言っているのだが。社員というのはなかなか思ったとおりに行動してくれないものだ。
「社長、そろそろ設置にいく時間っすよ」
「あぁ、わかった。せっかく訪問していただいたのに慌ただしくてすいません。これから羽賀さんの講演会の看板設置に行くものですから」
「じゃぁ、ボクもそれについて行ってもいいですか? おじゃまはしませんから。一度そういう仕事も見ておきたいと思いまして」
 私たちの仕事を見たいとは、ちょっと変わった人だな。
「えぇ、それはかまいませんが……羽賀さんはお車で?」
「いえ、自転車なんですけど」
 羽賀さんが親指で外を示すと、そこには一台の自転車が。
「ここから会場までちょっと距離ありますけど……大丈夫ですか?」
「えぇ、問題はありませんよ。じゃぁ先に出ますね」
 そう言うと羽賀さんはリュックを背負ってさっそうと自転車にまたがって飛び出していった。私たちはその後を追うように軽トラックとバンの二台で講演会場へと移動することにした。
 会場の市民会館はここからちょっと距離がある。だが、ほんの僅か先に出た羽賀さんにまったく追いつくことができない。それどころか、さっきまで見えていた羽賀さんの背中がどんどん遠くなっていっく。どれだけのスピードで走っているんだ?
 私たちがようやく市民会館に到着すると、羽賀さんはすでに会場の入口に立って私たちを待っていた。
「いやぁ、羽賀さん早いですね。ちょっとびっくりしましたよ」
「あはは、街中なら自転車のほうが移動が早いですからね」
 そうは言っても、この距離をあのスピードで走っていくとは。かなりの驚きだ。かなり鍛えていると見える。
「社長、作業始めますよ」
「あぁ、わかった。羽賀さん、これから看板設置をやりますので。失礼しますね」
「はい、じゃまにならないように見ていますから」
 なんだか奇妙な人だな。こんな作業を見ていてもおもしろいものじゃないだろうし。まぁ今回の設置作業はそんなに時間はかからないし。とにかく作業を終わらせてしまおう。
 作業もひと通り終わった所で後片付け。ふと羽賀さんを見ると、何やらメモをとっていた。
「羽賀さん、何を書いているんですか?」
 ふと興味本位で声をかけてみた。すると羽賀さんは意外な答えを返してきた。
「三人のね、行動特性を分析してみたんですよ」
「行動特性? どういうことですか?」
「まぁ仕事柄、組織の面倒を見ることも多くて。そのときに、誰がどのような行動をとっているのか、さらにはどのようにするともっと効率が良くなるのか、なんてことを考えることが多いもので。今回は自分の勉強のために、ちょっと観察をさせてもらいました」
「それ、見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、もちろん。三人の行動を見学させてもらったお礼に、吉武さんにも診てもらおうと思いまして」
 私は早速羽賀さんのメモを覗きこむ。すると、そこには私たちの行動が事細かに記録してあった。さらにはそこからどのようなことが言えるのか、その考察、そしてどうすればさらに良くなるのか、といったことも。
「社長の私が指示をするってのは当たり前だけど……意外だなぁ。年下の三村くんの方が斉木より指示を出していることが多いんだ」
「えぇ、そこから考えると、今は年齢で上下関係を決めているようですが。斉木さんは上に立つよりも職人肌で技術的なところに自信を持っているので、現場作業を中心にさせたほうがいいかと。逆に三村さんは全体を見渡して考える力があるようです。今のうちにそこを鍛えておくと、よいリーダーになるかと」
「じゃぁ私はどうすればいいんですか?」
「吉武さんは更に上の立場。他との関わりや調整を主にやられると組織は磨きがかかりますね。現場は他に任せて、もっと経営者らしい仕事をする。そうすることでこの会社はさらにうまく回っていきますよ」
 なるほど、羽賀さんはよく観察しているな。だがここで、私の中の悪魔がまた囁きを始めた。そう、あの悪魔の一言が私の脳を支配し始めたのだ。そしてついに、私の意志とは関係なくその一言が口をついて出てきた。
「だけどなぁ……」
 言ってしまった、と思った。だが悪魔の力のほうが私の意志よりも優っていた。悪魔はその一言の次にこう言ってきたのだ。
「年下の三村くんに指示されると、斉木もやりにくいんじゃないかなぁ。それに私はもっと現場作業をやっていたいし。そんな、更に上の立場なんでガラじゃありませんよ」
 私の中の悪魔が、私の中にある堕落した答えを用意し、それを次々と言葉にしていく。そうじゃない、三村くんの能力をもっと活かして、斉木の技術をさらに磨かせ、私はもっと高い位置を目指すべきだ。心の奥の私がそう叫んでいるのに。今は悪魔に心を乗っ取られてしまっている。
「いや、今のは一つの考え方ですから。決してそれが正解ってわけじゃありませんよ」
 羽賀さんはあわてて弁解の言葉を述べた。いやそうじゃない、羽賀さんは正しいんだ。間違っているのは私なんだから。そう思いつつも、悪魔は勢いを増してさらにこんな言葉を追加した。
「まぁ今のは参考にさせてもらいますが。今の状況じゃそうするのは難しいよなぁ」
 難しいも何も、私が決断すればいいだけのこと。なのに何かに言い訳を求めてそんな言葉を出す。
「ま、いろいろとやれる方法はありますから。ところで、今夜の講演会はおいでになれるんですか?」
「うぅん、残念ながら明日は大きな仕事が控えてて。その時間は段取りを組んでおかないといけないもので」
 これも悪魔の囁きだ。このあと、仕事らしい仕事は入っていない。今から段取りを組めば夜の講演会には間に合うのに。何に対して自分は言い訳をしているんだろう?
「そうですか。せっかく御知り合いになれたのに残念です。今日の話は吉武さんみたいな方にぜひ聴いて欲しいと思っていたんですけどね」
「確か、一歩を踏み出す勇気を持とう、ってタイトルでしたよね」
「はい、自分に言い訳をせず、いかに行動的になれるか。そんな話なんです」

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